詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩はどこにあるか(44)

2005-06-10 23:41:44 | 詩集
寒山(「中国詩人選集5」岩波書店)

 「昔時可可貧」を読む。6行目。

坐社頻腹痛

 入矢義高は「社 唐代の一種の村落共同体。ただし、この句の意味はよくわからぬ」と注釈したうえで「隣組の寄り合いではしょっちゅう腹いたを起こす。」と訳している。
 寒山の詩行よりも私は、この「よくわからぬ」という注釈に「詩」を感じた。わからないものをわからないものと率直に書く。ここに人を突き動かす何かがある。突き動かされて、入矢とともに(あるいは入矢を離れて)、想像力を動かす。

 「想像力」――このとき、それはバシュラール風にいえば、事実をゆがめる、曲解する、誤読するという意味だ。
 意識的「誤読」のなかに「詩」がある。

 私は、「寄り合いではしきりに腹が痛む」と読んで、その理由をかってに「空腹だから」と考える。空き腹が痛むのだ。
 唐代の寄り合いがどのような風習のものか知らない。私はそれをそれぞれが食べ物(あるいは飲み物)を持ち合っておこなうものと想像する。寒山は、詩にあるように貧乏だ。食べるものが何もない。したがって寄り合いに持っていくものもない。何も持っていかないので、
 「いや、ちょっと腹痛で、私は食事を遠慮する」
 などといってその場を逃れる。
 寄り合ったみんなはそれぞれが飲食を楽しんでいる。寒山はひとり空き腹を抱えて、その痛みに耐えている……。
コメント
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