寒山(「中国詩人選集5」岩波書店)
「昔時可可貧」を読む。6行目。
入矢義高は「社 唐代の一種の村落共同体。ただし、この句の意味はよくわからぬ」と注釈したうえで「隣組の寄り合いではしょっちゅう腹いたを起こす。」と訳している。
寒山の詩行よりも私は、この「よくわからぬ」という注釈に「詩」を感じた。わからないものをわからないものと率直に書く。ここに人を突き動かす何かがある。突き動かされて、入矢とともに(あるいは入矢を離れて)、想像力を動かす。
「想像力」――このとき、それはバシュラール風にいえば、事実をゆがめる、曲解する、誤読するという意味だ。
意識的「誤読」のなかに「詩」がある。
私は、「寄り合いではしきりに腹が痛む」と読んで、その理由をかってに「空腹だから」と考える。空き腹が痛むのだ。
唐代の寄り合いがどのような風習のものか知らない。私はそれをそれぞれが食べ物(あるいは飲み物)を持ち合っておこなうものと想像する。寒山は、詩にあるように貧乏だ。食べるものが何もない。したがって寄り合いに持っていくものもない。何も持っていかないので、
「いや、ちょっと腹痛で、私は食事を遠慮する」
などといってその場を逃れる。
寄り合ったみんなはそれぞれが飲食を楽しんでいる。寒山はひとり空き腹を抱えて、その痛みに耐えている……。
「昔時可可貧」を読む。6行目。
坐社頻腹痛
入矢義高は「社 唐代の一種の村落共同体。ただし、この句の意味はよくわからぬ」と注釈したうえで「隣組の寄り合いではしょっちゅう腹いたを起こす。」と訳している。
寒山の詩行よりも私は、この「よくわからぬ」という注釈に「詩」を感じた。わからないものをわからないものと率直に書く。ここに人を突き動かす何かがある。突き動かされて、入矢とともに(あるいは入矢を離れて)、想像力を動かす。
「想像力」――このとき、それはバシュラール風にいえば、事実をゆがめる、曲解する、誤読するという意味だ。
意識的「誤読」のなかに「詩」がある。
私は、「寄り合いではしきりに腹が痛む」と読んで、その理由をかってに「空腹だから」と考える。空き腹が痛むのだ。
唐代の寄り合いがどのような風習のものか知らない。私はそれをそれぞれが食べ物(あるいは飲み物)を持ち合っておこなうものと想像する。寒山は、詩にあるように貧乏だ。食べるものが何もない。したがって寄り合いに持っていくものもない。何も持っていかないので、
「いや、ちょっと腹痛で、私は食事を遠慮する」
などといってその場を逃れる。
寄り合ったみんなはそれぞれが飲食を楽しんでいる。寒山はひとり空き腹を抱えて、その痛みに耐えている……。