長嶋南子『猫笑う』(思潮社、2009年09月28日発行)
「冬至」という作品がある。以前にも感想を書いたことがあるかもしれない。そのときと同じことを書いてしまうのか、それともまったく違うことを書いてしまうのか、実は、私には見当がつかない。きょう感じたことが以前感じたことと同じかもしれないけれど、それでもこの作品について感想を書きたい。
長嶋南子の詩には時間がある。時間とは「名前」の変化である。人間は変わらない。「名前」が--呼ばれ方が変わる。
呼ばれるというのは、私がいて他人がいるときに成り立つ関係である。呼ばれ方が変わるというのは、人間関係が変わるということである。「わたし」は変わらないが、呼ばれ方が変わる。
「時間」は「関係」と呼び替えてもいいかもしれない。
「時間」と「関係」はもちろん違うものである。違うものであるけれど、同じものと考えてもいい。違うのだけれど、ひとつのものとして見つめることができる。
これは、考えが「幅」を獲得した結果、生じる現象である。
そして、この「幅」は私がかってにつくりだすのではなく、長嶋のことばがあってはじめて見えてくるものだから、それは、長嶋のことば、長嶋の「思想」が「幅」を獲得したということと同じである。
視点をかえて見つめなおすとわかりやすいかもしれない。
「幅」の獲得は、生きるということの領域、人間の領域の「幅」をひろげることと同じである。
この「幅」のひろがりが、長嶋のまわりのすべてを受け入れる。すべてのものが「いきる」ことを受け入れる。長嶋自身の「いのち」だけではなく、他人の「いのち」も受け入れる。
先に引用した部分には猫が出てくるが、長嶋は猫だけではなく、死んでしまった「夫」「あのひと」もその「いのち」のかたちのまま「いま」にいきいきと生かせ(?)、受け入れる。また、新しい(?)「おじいさん」も受け入れ、いっしょに「生きる」。
ひろがった「幅」を「生きる」と定義しなおすと、それは長嶋の詩そのものになる。
長嶋は「ミナコちゃん」から「ホトケさん」までを「生きる」。「ホトケさん」になるということは死ぬことだが、死んでも「ホトケさん」として生きる。この世に存在する。詩、そのことばを書いた人間として。「いのち」を超えて、長嶋は生きる。「夫」が「あのひと」となって「いま」を生きるように。
長嶋の詩を思い出すたび、長嶋の詩を読むたび、長嶋は永遠に生きる。
あ、ちょっと面倒くさくなったかな。
そういう「変化」そのものが「時間」であり、「生きる」ということであるとき、「私」というのは「わたし」であって「わたし」ではない。「おばあさん」であり「おかあさん」であり「娘さん」であり「ミナコちゃん」であり「ホトケさん」である。それは、ある瞬間瞬間の、一期一会の「いのち」なのである。
「一期一会」だから「永遠」でもあるのだ。
またまた面倒くさいことを書いてしまったかもしれない。
長嶋のことばをそのまま引用した方がいいかもしれない。「ところてん」のなかにある2行。似たような(?)2行が2回出てくる。
「わたし」はいつでも「不定型」である。「関係」は他人によってもかわるけれど、「わたし」の思いによってもかわる。いつまでも「あなた」の定義した「わたし」に閉じ込めないでね、というやわらかな思想。
にんげんは、いのちは、いつでも、自在に生きている。「一期一会」をつくりだしていきているものだ。
「自在」とは、先にかいたことばで書き直せば「幅」でもある。
「わたし」と「わたしではない」は「箸」にも楽しい形で書かれている。
いいなあ。
長嶋は猫とさえ、「関係」をつくっている。「関係」を自在に切り替えている。そして、その「わたし」を「ミナコちゃん」から「ホトケさん」までを貫く永遠という時間のなかに放り出して笑っている。
註文をひとつ。詩集のタイトルの『猫笑う』はつまらない。もし機会があるなら『あさっては化け猫』にしてね。その方が絶対おもしろい。私のめんどうくさい感想よりも、きっと、そのタイトルの方が読者をひきつけるはず。
「冬至」のなかに次の3行があります。
でも、私は猫はとても苦手なので、私と会うときは(そういう機会があったらのことだけれど)、猫だけはやめてね。
「冬至」という作品がある。以前にも感想を書いたことがあるかもしれない。そのときと同じことを書いてしまうのか、それともまったく違うことを書いてしまうのか、実は、私には見当がつかない。きょう感じたことが以前感じたことと同じかもしれないけれど、それでもこの作品について感想を書きたい。
布団から顔を出して寝ているのは
おばあさんとおばあさん猫です
おばあさんはきのうまではおかあさんと呼ばれ
もっと前には娘さんともおねえさんとも呼ばれ
もっともっと前にはミナコちゃんと呼ばれ
あさってごろにはホトケさんと呼ばれるでしょう
長嶋南子の詩には時間がある。時間とは「名前」の変化である。人間は変わらない。「名前」が--呼ばれ方が変わる。
呼ばれるというのは、私がいて他人がいるときに成り立つ関係である。呼ばれ方が変わるというのは、人間関係が変わるということである。「わたし」は変わらないが、呼ばれ方が変わる。
「時間」は「関係」と呼び替えてもいいかもしれない。
「時間」と「関係」はもちろん違うものである。違うものであるけれど、同じものと考えてもいい。違うのだけれど、ひとつのものとして見つめることができる。
これは、考えが「幅」を獲得した結果、生じる現象である。
そして、この「幅」は私がかってにつくりだすのではなく、長嶋のことばがあってはじめて見えてくるものだから、それは、長嶋のことば、長嶋の「思想」が「幅」を獲得したということと同じである。
視点をかえて見つめなおすとわかりやすいかもしれない。
「幅」の獲得は、生きるということの領域、人間の領域の「幅」をひろげることと同じである。
この「幅」のひろがりが、長嶋のまわりのすべてを受け入れる。すべてのものが「いきる」ことを受け入れる。長嶋自身の「いのち」だけではなく、他人の「いのち」も受け入れる。
先に引用した部分には猫が出てくるが、長嶋は猫だけではなく、死んでしまった「夫」「あのひと」もその「いのち」のかたちのまま「いま」にいきいきと生かせ(?)、受け入れる。また、新しい(?)「おじいさん」も受け入れ、いっしょに「生きる」。
ひろがった「幅」を「生きる」と定義しなおすと、それは長嶋の詩そのものになる。
長嶋は「ミナコちゃん」から「ホトケさん」までを「生きる」。「ホトケさん」になるということは死ぬことだが、死んでも「ホトケさん」として生きる。この世に存在する。詩、そのことばを書いた人間として。「いのち」を超えて、長嶋は生きる。「夫」が「あのひと」となって「いま」を生きるように。
長嶋の詩を思い出すたび、長嶋の詩を読むたび、長嶋は永遠に生きる。
あ、ちょっと面倒くさくなったかな。
そういう「変化」そのものが「時間」であり、「生きる」ということであるとき、「私」というのは「わたし」であって「わたし」ではない。「おばあさん」であり「おかあさん」であり「娘さん」であり「ミナコちゃん」であり「ホトケさん」である。それは、ある瞬間瞬間の、一期一会の「いのち」なのである。
「一期一会」だから「永遠」でもあるのだ。
またまた面倒くさいことを書いてしまったかもしれない。
長嶋のことばをそのまま引用した方がいいかもしれない。「ところてん」のなかにある2行。似たような(?)2行が2回出てくる。
わたしではないのですが
わたしのようでもあります
それはわたしではないのですが
わたしのようでもあります
「わたし」はいつでも「不定型」である。「関係」は他人によってもかわるけれど、「わたし」の思いによってもかわる。いつまでも「あなた」の定義した「わたし」に閉じ込めないでね、というやわらかな思想。
にんげんは、いのちは、いつでも、自在に生きている。「一期一会」をつくりだしていきているものだ。
「自在」とは、先にかいたことばで書き直せば「幅」でもある。
「わたし」と「わたしではない」は「箸」にも楽しい形で書かれている。
台所でひとり
手づかみで食べている
口をパカンとあけて
ねこが足元にすり寄ってきて
えさをねだっている
ねこ
そこで立ち食いしているのは
わたしではないのだよ
いいなあ。
長嶋は猫とさえ、「関係」をつくっている。「関係」を自在に切り替えている。そして、その「わたし」を「ミナコちゃん」から「ホトケさん」までを貫く永遠という時間のなかに放り出して笑っている。
註文をひとつ。詩集のタイトルの『猫笑う』はつまらない。もし機会があるなら『あさっては化け猫』にしてね。その方が絶対おもしろい。私のめんどうくさい感想よりも、きっと、そのタイトルの方が読者をひきつけるはず。
「冬至」のなかに次の3行があります。
むかしはにゃん子と呼ばれ
あさってごろには化け猫になって
おばあさんの布団に入ってくるのでしょうか
でも、私は猫はとても苦手なので、私と会うときは(そういう機会があったらのことだけれど)、猫だけはやめてね。
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