詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

浦歌無子『耳のなかの湖』

2009-10-30 00:00:00 | 詩集
浦歌無子『耳のなかの湖』(ふらんす堂、2009年09月24日発行)

 浦歌無子は私にとって今年最大の衝撃である。「水の陥穽」を読んだときはほんとうにびっくりした。『耳のなかの湖』にも収録されているが、すでに書いたので、今回は別の作品について感想を書く。

 「月の光」のなかに、次の行がある。

でもぴったりとくっつけばくっつくほど体と体の透き間に深い闇ができてしまうのはなぜかしら?

 「体と体」ということばを「存在とことば」に置き換えると、それは浦の死の世界を説明したことになるだろう。
 ことばは存在について語る。存在というのは、「もの」だけではなく、感情、感覚、精神、欲望をも含めてのことである。
 浦は何かについて書く。書くとき、「存在」と「ことば」がぴったりくっついているはずなのに、その「ぴったり」を感じれば感じるほど同時に、「存在」と「ことば」のあいだにどうしようもない「深い闇」を感じてしまう。感じるというより「直感」してしまうといった方がいいかもしれない。その「直感」に苦しみながら、それからのがれようとして、さらに「存在」と「ことば」の結合を試みる。そうして、試みれば試みるほど、瞬間瞬間に「ぴったり」と「深い闇」を同時に感じてしまうのだ。
 「月の光」の書き出し。

あの場面が美しかったのはこんな時はすぐに消え去ってしまうことをみんな知っていたから

 あらゆるものが、一種の「矛盾」、「ぴったり」と「深い闇」の同時の結びつきでできている。「美しい」ものは永遠ではなく「すぐに消え去ってしまう」。そういう関係にあるからこそ、「美しい」。そういう「矛盾」をつかみとるために「詩」がある。
 そして、「矛盾」というのは、実は「対立」ではない。辞書には、矛(ほこ)と盾(たて)というように、相反するものを「矛盾」と書いているけれど、人間が生きている時感じる「矛盾」はそんな単純なものではない。浦の書いている「矛盾」も、そういう対立するものではない。言い換えると、弁証法で「止揚」できるものではない。乗り越えられないものである。

 別の作品で「矛盾」について、もう一度見ておく。「白と赤の双子の話」。

わたしたちは寸分の隙間なくくっついているから
まったく身動きがとれないのです
わたしが少しでも動けば妹はいなくなってしまうくせに
わたしの皮膚にまとわりついてくる妹
わたしという固い檻に入った妹は
わたしの澱んだ澱となってゆく

 「矛盾」は「止揚」できない。「矛盾」にであったとき、ひとは「まったく身動きがとれない」。いや、動けば、たしかに「矛盾」は消える。この詩でいえば「妹」は消える。しかし、「妹」が消えてしまっては、「わたし」の存在する意味がない。
 「存在とことば」とおなじように、「わたしと妹」は一体なのである。結びついてはじめて「いのち」になる。

 「矛盾」は「止揚」できない。「矛盾」に対して、人間は何ができるのか。
 「あの雨降りやまず」のおわりの方。

鰐に足を食い千切られたくないのか
食い千切られたいのかわからないから
さみしくて声をあげ続ける

 「足を食い千切られたくない」と「足を食い千切られたい」はまったく逆の気持ちである。「矛盾」がここにある。その「矛盾」を浦は「止揚」の方向へは動かさない。「止揚」するのではなく、「わからない」ということばでかかえこんでしまう。ここに生きることの不思議さ、思想がある。
 人間は、いのちは、なんでもかかえこんでしまうのだ。
 理性は、とんでもなくばかげた存在だから、「足を食い千切られたくない」と「足を食い千切られたい」という気持ちを「矛盾」となづけてしまう。いったいどっちなんだ、と怒りだしてもしまう。けれども、気持ちなんて、自分にさえもわからないものである。かかえこむしかないものである。
 そして、かかえこんだとき、「深い闇」がみえるのだ。かかえこんだ「肉体」の内部で「深い闇」が生まれ、育つのだ。
 この、肉体の内部の「透き間」「深い闇」を「さみしい」と浦は呼んでいる。この定義は美しい。痛切だ。

耳のなかの湖―詩集
浦 歌無子
ふらんす堂

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