小池昌代『通勤電車でよむ詩集』(NHK 出版、2009年09月10日発行)
古今東西の41篇の詩を小池昌代が解説(?)している。「通勤電車でよむ」とことわりがついていることからわかるように、読みやすい作品が選ばれている。そして、解説もすぐに読めるように簡潔に書かれている。私は、ああでもない、こうでもないと書きながら考えるので、どうしても長い感想になる。小池のように簡潔に書いた方が、詩の読者を誘い込むのにはいいと思う。反省した。
小池の読み方と私の読み方はずいぶん違う。その違いを、ここでは書いておきたい。私は、こう読む--と。
ガブリエラ・ミストラル、田村さと子訳「ばらあど」。1連目。
小池は、次のように書いている。
ガブリエラ・ミストラルは確かに「みじめな両眼よ!」と書いているけれど、私は、すこし違った読み方をする。
2連目以降、この作品は「両眼」で見たことではなく、こころが見たものを描いている。
眼以上のもので見る。視力検査とは関係ない視力で見る。こころで見る。つまり、肉眼で見る--と、私は、こういうときに「肉眼」をつかう。
肉眼はけっして肉体から切り離せない。こころがそうであるように。
肉眼こそが視力を育てる。こころを育てる。
ここにないもの、見えないものを見てしまう肉眼が、目に作用して、現実を切り取る。さまざまなもののなかから、肉眼は、こころが必要なものを選択して選びとっている。
そして、そういう肉眼が選びとってしまった「風景・光景」はときにはとても苦しい。こころをいじめるだけである。
けれども(あるいは、だからこそ)、それはある意味で、切り離せない。
なぜなら、詩人は、そういう苦しみ、肉眼が運んできてくれる苦しみが、こころを美しくしてくれることを知っているからだ。
失恋し、好きな男が別な男といっしょにいる幸福な風景を思い描く--そのとき、その光景が、彼女がその男といっしょにいるときの風景よりも美しいのは、そのためである。ことばのなかで、詩人は、苦しみながら美しくなる。
*
石原吉郎「フェルナンデス」。その書き出しと小池の解説。
「フェルナンデス」ということばに小池は反応している。
「フェルナンデス」が誰か、私も知らない。そして、たぶん石原吉郎も知らない、と私は思っている。
「フェルナンデス」は、たとえば暴走族(?)がきざったらしい漢字を並べてむりやりつくる名前に似ている。あるいは欧米人が肌を飾る漢字のタトゥーに似ている。
何を意味するか、正確なことは知らない。
わかっていることは、ひとつ。自分の知らなかったことばをつかい、何かを名付ける人がいる。
自分には名付けられないものを名付け、それを母国語としてつかうことができる人がいる。
そこに、ひとつの不思議がある。詩がある。
知らないもの、わからないものにも「名前」がある。
そのことを、石原の詩は教えてくれる。--石原の書いていること、それは、私の知らないこと。知らないけれど、そういうものがあり、それをことばにしている、ということ。
古今東西の41篇の詩を小池昌代が解説(?)している。「通勤電車でよむ」とことわりがついていることからわかるように、読みやすい作品が選ばれている。そして、解説もすぐに読めるように簡潔に書かれている。私は、ああでもない、こうでもないと書きながら考えるので、どうしても長い感想になる。小池のように簡潔に書いた方が、詩の読者を誘い込むのにはいいと思う。反省した。
小池の読み方と私の読み方はずいぶん違う。その違いを、ここでは書いておきたい。私は、こう読む--と。
ガブリエラ・ミストラル、田村さと子訳「ばらあど」。1連目。
あの人がほかの女(ひと)と
ゆくのを見た。
いつも 風邪はあまく
道はしずか。
あの人がゆくのを見た
このみじめな両眼(め)よ!
小池は、次のように書いている。
片恋のうた。みじめなのはこのわたし、なんて言わない。あくまでも、「このみじめな両眼よ!」。その眼を、えぐりとって、自分の身から、切り離してしまいたかったのかしら。この女性は。
ガブリエラ・ミストラルは確かに「みじめな両眼よ!」と書いているけれど、私は、すこし違った読み方をする。
2連目以降、この作品は「両眼」で見たことではなく、こころが見たものを描いている。
花ざかりの地で
あの人はその女を愛しつづける。
さんざしの花がひらいた、
うたがゆく。
花ざかりの地で
あの人はその女を愛しつづける!
眼以上のもので見る。視力検査とは関係ない視力で見る。こころで見る。つまり、肉眼で見る--と、私は、こういうときに「肉眼」をつかう。
肉眼はけっして肉体から切り離せない。こころがそうであるように。
肉眼こそが視力を育てる。こころを育てる。
ここにないもの、見えないものを見てしまう肉眼が、目に作用して、現実を切り取る。さまざまなもののなかから、肉眼は、こころが必要なものを選択して選びとっている。
そして、そういう肉眼が選びとってしまった「風景・光景」はときにはとても苦しい。こころをいじめるだけである。
けれども(あるいは、だからこそ)、それはある意味で、切り離せない。
なぜなら、詩人は、そういう苦しみ、肉眼が運んできてくれる苦しみが、こころを美しくしてくれることを知っているからだ。
失恋し、好きな男が別な男といっしょにいる幸福な風景を思い描く--そのとき、その光景が、彼女がその男といっしょにいるときの風景よりも美しいのは、そのためである。ことばのなかで、詩人は、苦しみながら美しくなる。
*
石原吉郎「フェルナンデス」。その書き出しと小池の解説。
フェルナンデスと
呼ぶのはただしい
寺院の壁の しずかな
くぼみをそう名づけた
ひとりの男が壁にもたれ
あたたかなくぼみを
のこして去った
石原吉郎の詩は、唐突な断定をもって始まることが多い。フェルナンデスとは何者か。どこから来たのか。何をしたのか。一切は謎だが、自由に読もう。私はこの詩に、無類の優しさを読む。そして戦いと流血の跡を。寺院の壁についた静かなくぼみ。永遠に不在の男。その人の名を、呼んでみたいような夕暮れがある。私もまた、叱られたこどものように。
「フェルナンデス」ということばに小池は反応している。
「フェルナンデス」が誰か、私も知らない。そして、たぶん石原吉郎も知らない、と私は思っている。
「フェルナンデス」は、たとえば暴走族(?)がきざったらしい漢字を並べてむりやりつくる名前に似ている。あるいは欧米人が肌を飾る漢字のタトゥーに似ている。
何を意味するか、正確なことは知らない。
わかっていることは、ひとつ。自分の知らなかったことばをつかい、何かを名付ける人がいる。
自分には名付けられないものを名付け、それを母国語としてつかうことができる人がいる。
そこに、ひとつの不思議がある。詩がある。
知らないもの、わからないものにも「名前」がある。
そのことを、石原の詩は教えてくれる。--石原の書いていること、それは、私の知らないこと。知らないけれど、そういうものがあり、それをことばにしている、ということ。
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