たなびく浅間の煙は見えなかったが
高原には色とりどりの花が咲いていた。
マツムシソウと浅間山
アジサイ オニユリ ?
? マツムシソウ イタドリ
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今日のメモ
広々とした牧場。機械化された牧畜作業。
あちこちに点在する牛舎。暑いのか牛は草を食む姿は見えない。
小屋の中にいるのだろう。
歌碑を見て藤山一郎・唄『丘を越えて』を口ずさむ人がいた。
牧場の丘を歌ったのだろう。
周囲の遊歩道にはたくさんの草花が咲いていた。
作家・太宰治が「富士山にはカスミソウが似合う」と言ったが、
浅間山にはマツムシソウがよく似合う。
TVにスイッチを入れた。
8・15、小泉総理・靖国神社正式参拝であわただしかった。
本日、北の丸公園・武道館にて『全国戦没者追悼式』も行われる。
8月8日に『終戦記念日を前にして』については述べた。
昨/14日関越道を一路秩父路へ
先祖、叔父さん伯母さんの墓参を済ました。
先祖の眠る山寺
山並みの奥に両神山がやや見える
平和の証・案山子コンクール
水戸黄門もお出まし この案山子大好き・・
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今日のメモ
昨日、墓参のために故郷を訪れた。
舗装道路の両脇に、力作そろいの案山子。そのおくには
百名山の両神山が見えた。
戦後の道路は、ほんの細い農道で雨が降れば裸足で学校に行った。
田圃から逃げ出した鯉や金魚がたくさんに堀に泳いだ。
田植えの頃になると、蛙の合唱が始まり田毎の月も見られた。
周囲にはビニールハウスの棟が立ち並び今はブドウ、春はイチゴと
昔と様変わりした観光農園。
完全舗装された直線道路に案山子のコンクール。
“終戦という歴史的節目”を境にして日本人の心が一変した。
現在の観光をメインとして発展する姿に当時では考えられない光景に、
この事実を先祖、向う三軒両隣、の方々が
眠る墓に報告一礼した。
故郷は有難きかな・・・・・・。
帰省客の余波が残っていたのか
関越高速道(往)が渋滞した。
山は、既に秋の気配い赤トンボ、ススキが風になびいていた。
バックは浅間山、天丸山頂より
浅間天丸山最後の階段
白糸の滝入り口 左は通路一杯に見物客
① ② ③
写真説明
① 熊出没注意の看板。右は空き缶でこの缶をたたいて熊除けにする。
② 白糸の滝見物は人で一杯。滝が人で見えなかった。
③浅間山はいつ爆発するか分からない。緊急避難用防護コンクリート枠。この中に
避難すると安全。
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今日のメモ
山行は、どちらかと言えば静かな山歩きの方が
山の味をふんだんに満喫できる。
今日のコースは低山であり一部に観光ルートが
入っていたため多くの観光客に出会った。
白糸の滝、浅間牧場駐車場は、ゴッタ返すほど混雑した。
高速道(関越)は、行きに普段の倍掛かった。
盆休みを挟んで全国的に夏休みに入っているので致し方ない。
牧場で飲んだ現地直売の牛乳、皆さん大きなコップで飲み干していた。
アイスクリームもとても美味しかった。
盆踊り2日間が終わる
天候に恵まれ盛り上がり、皆さん楽しく踊られた。
我が家は盆踊りの観覧席・・・誰も無し
健康に良し
子供たちは露天が無いと寂しい
縄文宅は左電柱後方
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今日のメモ
我が家の前は、盆踊りで賑わった。
二日続いた祭りも、戦い済んで夜が明けて、今日は櫓の片付け・・・・。
盆踊りはそもそも、宗教的色彩が強かったものであろうが、街の親睦会として一般化され旧盆前後盛んに行われる。
このようにたくさんの人たちが集い盛大に行われて、
寄付もことのほか多く集まり楽しんだ。
老若男女が一堂に会して楽しく踊りが出来るのは、
健全に街が活動をしていて、平和の証で喜ばしいことです。
平成12年6月の雄山噴火から5年。今年2月にようやく 避難解除となった三宅島で12日、実に6年ぶりの盆踊り大会が開かれた。その模様が当時NHKでながれた。
ヤットここまでこぎつけたかと感激し涙して喜んだと言う。
明日は山行
群馬・浅間天丸山(1344m) 、天候が思わしくない。
立秋とはいえ、連日の猛暑にいささか参っております、
皆様はいかがお過ごしでしょうか。
本物の秋が待ち遠しい今日この頃・・・・・・・と申したいところですが、梅雨明けが
遅く台風も来て本格的な夏がもう少し続いてもらいたいです。
どうぞ健康に留意され御自愛ください。
弁当と健康は自分持ち・・・・・・・
2006年・夏 縄文人
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今日のメモ
江戸の物売り
クーラーや冷蔵庫等どんなに文明の恩恵を
受けていても、暑いときは暑い。
江戸時代、真夏の庶民の暮らしはどんな様子だったのでしょう。
江戸の町は、朝から、晩まで「物売り」の声が絶えなかったそうです。
食料品の貯蔵が難しかった時代に、新鮮な魚や野菜は毎日売りに来ていました。季節感を感じられる「虫売り」や「金魚売り」の
「かけ声」が「江戸の風情」にもなっていたのです。
行商は「江戸」の日常生活の一部になっていたんですね。
行商で売り歩く商品は様々でした。
水売り、飴売り、ところてん売り、茶飯売り、団子売り、桃売り、
すだれ売り、ザル売り、ほうき売り、しゃぼん玉売り、
などあらゆる商品があったそうです。
出征兵士を送る
参考資料
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サルスベリの花⇒玉音放送⇒、戦争の悲惨さ=皆さんの反響が大きい。
年齢的に幼く記憶がほんの一握りしかないが綴る。
出征兵士と千人針
「役場からTさんの家にも赤紙が届いたって・・・そいつはぁ、たいしたもんだ・・・』このような話題は、あっという間にの人たちに伝わる。
千人針の道具が順番に各家庭を廻る。千人針は、数多くの人が白い布に針で赤い糸で結び、“魂”を縫いこむと言うものである。あわただしく作り上げるため庭先で一目針縫いで次家に回し、出征兵士の家に届ける。戦場に行き腹に巻きつけて折に触れこの千人針(魂)を見て元気を出し、お国のために頑張って・・・・・という祈りが込められている。そして立派に兵役を果たして「元気に還って来てください」というみんなの願いが込められていて、現代版の赤い糸で結ばれている・・・とでも言うのか。
赤紙が来て数日過ぎる( ? )と「祝・ ○○○○君 出征」と白布地に墨で書かれた垂れ幕が出来上がる。幟として青竹に結び付け出征兵士の家に建てられる。のぼりを先頭に民全員が村道を一列となり送り、役場前へと向かう。各からそれぞれの幟を立てて出征兵士全員がが集結する。
町長はじめ町の有力者の挨拶。
「このたびの○○君の名誉ある出征に際し、一言お祝いの挨拶をいたします。いまや戦局はたけなわ、わが日本帝国にとってまさに決戦のときであります。どうか○○君には粉骨砕身、・・・・・・・撃滅し、戦場で活躍される・・・・・お祝いのことばといたします」
次いで、出征兵士の挨拶
『国のために頑張ります。皆さん行って参ります』の力強い言葉に割れんばかりの拍手。つづいて一斉に万歳三唱。学校の生徒による
ブラスバンドの演奏が高らかに鳴り響く。
出生兵士の歌が流れる。
わが故郷の状況
【戸数 10世帯、出征した家4世帯・5名 戦死者2名】
一、
わが大君(おおきみ)に召されたる
生命光栄(はえ)ある朝ぼらけ
讃えて送る一億の
歓呼は高く天を衝く
いざ征(ゆ)けつわもの日本男児
二、
華(はな)と咲く身の感激を
戎衣(じゅうい)の胸に引き緊(し)めて
正義の軍(いくさ)行くところ
たれか阻まんその歩武(ほぶ)を
いざ征けつわもの日本男児
大陸内部へ戦火が広がるにつれ、2銭のはがきによる召集令状(赤紙)が
若い男のいる家庭に舞い込んだ。
キョウチクトウ
参考文
日本経済新聞(’06,8,9掲載)『 私の履歴書・小堀宗慶(茶道家)』
の文中に・・・・・昭和18年10月21.日。秋雨が、肩に担いだ三八銃を濡らし、ゲートルを巻いた足は水を含み、歩みを進めることに重みをました。明治神宮外苑競技場、今の国立競技場で催うされた『出陣学徒壮行会』で、出征する学徒の一員として行進として長い列に加わっていた。・・・・・・・東条英機首相兼陸軍大臣が激励の・・・・・・・・・・・以下続く。
日本国内で出征兵士を送る会では最大規模であった。
江戸東京博物館で(s17年当時i) 住まいを見た。
家全体に戦争に対する備えが工夫されていた。
灯火管制用カバー
鉄兜、メガホン、防空頭巾、ラジオなどがある
左の1升瓶は中に米を入れて撞いた(簡易精米機)
防火用具
防火用水糟、注水バケツ、竹竿に荒縄をくくりつけた火たたき、
濡れ莚、飛び口など消火道具
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今日のメモ
瓶の中で精米する
嘘のようなほんとの話。
玄米が配給になってもそのままでは食べられない。瓶の中に米を入れ、口に棒を差し込み上下運動によって白くするという方法だ。誰が考えどのように伝播されてきたかは分からないが、長時間搗いていると白くなったようだ。
大人より子供が遊びがてらやっていた。
今は無洗米なる洗わなくて炊き込みが出来る便利のお米があるそうですが、
こんな話を若い人に話したら信じてもらえないだろう。
あるものを利用して創意工夫が行われてきた。
広島は6日、61回目の原爆忌を迎えた。
広島市中区の平和記念公園では、平和記念式典が行われた。
61年前、この日を境にして日本は一気に終戦という
歴史的節目に進んで行く。
終戦・・・・・・。サルスベリと、キョウチュクトウを思い出す。つと敗戦敗戦、も赤い。
玉音放送があった日、母が涙声で「日本が負け」たと言った。
庭の片隅にサルスベリ咲いていた。
キョウチュクトウ
広島に原爆が投下された。焼け野原になった市街地・・・・・・・。
ガレキの中で力強くキョウチュクトウが咲いていた、・・・・記事を読んだ。
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今日のメモ
“日本は負けた”
間もなく61回目の終戦記念日がやってくる。
出征兵士を幟と万歳三唱で
送り出してからほんの数ヶ月(何も知らないまま参列・・・・)
天皇陛下のお言葉があると、朝からあわただしかった。
暑い日であった。
正午過ぎ、母がしょんぼりして涙ながら震えて燐家から帰ってきた。
『日本が負けた』、小学校2年で8歳だった。
庭の樫の木には、油蝉が鳴いて、片隅にサルスベリの花が真っ赤に咲いていた。
1週間経ち、十日が過ぎると『日本が負けた』と言う意味が徐々に分かってきた。
・ 進駐軍が来て子供や、女子供をさらって行く・・・・などの風評が、
まことしやかにささやかれた。
・ 学校では金色に輝いていた奉安殿がアッツという間に壊された。
・ 教科書のカタカナの部分が墨で塗られて,棒線の入った黒い教科書になった。
・ 校門で上級生の門番もなくなった。
・ 勤労奉仕(学徒動員)という言葉が聞かれなくなった。
こんなことが私の目に最初に入った、民主主義の始まりであった。
田舎生活者は、それほど食べもは苦労しなかったが、ジャガイモやサツマイモ類を多く食べた。都会の人がリックサックに衣類を詰め込んで来て買出し
『食べるものなら・・何でもいいですから交換して・・・』
と袋から紋付の着物や新しい洋服を差し出し、何回も頭を下げたことが蘇る。
地面にはいつくばって泥水をなめるような辛酸な生活、
忍耐と努力で何とか生き抜いてきた。
こうして今、平和と繁栄がある反面、平和ボケしていることが否めない。
日本の内外で靖国問題があわただしい。
靖国参拝、、A級戦犯と合祀問題、敗戦か終戦か、
A級戦犯と極東裁判、アジア外交の閉鎖性などについては
世論が分かれるところで議論するつもりはない。
一言だけ述べるのであれば、戦場に行き国のために死んでいった
英霊に鎮魂の礼を捧げ、二度と戦渦を起こさないという
誓いの基に参拝するのはるのは
人間として当然であろう。
爆撃され焼け野原となった都会も、空襲のなかった
私の住んでいた田舎も、形こそ違うが戦争は国民全員が被害者であった。
新聞を広げると戦争が地球のどこかで起きていてキナ臭い・・・。
『戦争』と言う二文字は、もうたくさんだ。
江戸東京博物館で昔物を見た。
原点に還ると未来が見えてくる、そんな気持ちに駆られた。
パタン式信号機
自動電話機
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今日のメモ
少々法律をかじったことがある。
条文を読んでいてボケてきたら最初の目的に還れば、ボケがはっきりする。
こんなことを教わった。
科学の進歩が目覚しい。立ち止まる、原点を見つめる。
あながち無駄でもなさそうだ。
何かが見えてきそうな気がする・・・・。