日経新聞の朝刊に掲載されている私の履歴書。
人生の先輩達が書いている文章は非常に重みがあるのだが、自分の時間の流れとはやや違うので、思い出が重なる部分は少ない。
そんな中で今日は私が知っている店の名前が出てきたので懐かしくなってしまった。
新宿三丁目にあった居酒屋@五十鈴。
うなぎの寝床のような店で狭い間口の割には奥に長く伸びた店内。
壁と並行して長いカウンターが店の奥まで続く。
「年配の演劇関係の人がよく来る店らしいよ」
入り口に貼ってある舞台のポスターを指差しながら職場の先輩が教えてくれたが、「明治、大正、昭和の初期のホステスがいます」という手書きの張り紙が張ってあるそのお店は、私にとって夜食のおにぎりを頼みにいくお店でもあった。
新卒で入社した小さい会社は、新宿の三丁目の雑居ビルの中にあった。
新宿の中央口から新南口に繋がる道は、いまでこそ人の流れが絶えないが、20数年前は新宿のわりには人通りがすくない裏道のような雰囲気のある通りだった。
いまならいたるところにあるコンビニも当時は殆どなかった。夜食用のちょっとした食べ物を購入出来る店が回りになく、「あそこの五十鈴でおにぎりを○○個握ってもらってきて」などというおつかいを頼まれた私はおびえながらおにぎりを頼みにいったのだ。
「居酒屋におにぎりを頼みに行くって・・・」とおびえながら訪ねた店内は年配の男性で一杯だ。
そんななか「そんなにおにぎりばっかり頼まれても、ご飯がなくなっちゃうから出来ない」と明治、大正のホステスさんに一度は断られる。
職場では昭和初期の会社員の人達がおにぎりを待っているのに、新人の私は手ぶらで帰ることなど出来ない。
「近所のよしみで握ってあげる」と昭和の初期のホステスの人に言ってもらえるまで、頑張ってお願いするしかなかったのだ。
もちろん居酒屋なので、会社帰りに立ち寄ったことも何度もある。
冷奴、冷トマト、くさやの干物などをつまみにしながら日本酒を飲んだと思う。
****
勤めていた会社は、平成の声が聞こえた頃、地上げのため、よそに移ることになった。
五十鈴も同じように地上げにあったはずだ。
「五十鈴は○○円だったけれど、おたくはいくらでした?」という地上げ屋からの電話があったのを覚えている。
2010/5の私の履歴書は演劇研究家の河竹登志夫氏
河竹氏が若かった頃通った飲み屋として、五十鈴が紹介されていた。
人生の先輩達が書いている文章は非常に重みがあるのだが、自分の時間の流れとはやや違うので、思い出が重なる部分は少ない。
そんな中で今日は私が知っている店の名前が出てきたので懐かしくなってしまった。
新宿三丁目にあった居酒屋@五十鈴。
うなぎの寝床のような店で狭い間口の割には奥に長く伸びた店内。
壁と並行して長いカウンターが店の奥まで続く。
「年配の演劇関係の人がよく来る店らしいよ」
入り口に貼ってある舞台のポスターを指差しながら職場の先輩が教えてくれたが、「明治、大正、昭和の初期のホステスがいます」という手書きの張り紙が張ってあるそのお店は、私にとって夜食のおにぎりを頼みにいくお店でもあった。
新卒で入社した小さい会社は、新宿の三丁目の雑居ビルの中にあった。
新宿の中央口から新南口に繋がる道は、いまでこそ人の流れが絶えないが、20数年前は新宿のわりには人通りがすくない裏道のような雰囲気のある通りだった。
いまならいたるところにあるコンビニも当時は殆どなかった。夜食用のちょっとした食べ物を購入出来る店が回りになく、「あそこの五十鈴でおにぎりを○○個握ってもらってきて」などというおつかいを頼まれた私はおびえながらおにぎりを頼みにいったのだ。
「居酒屋におにぎりを頼みに行くって・・・」とおびえながら訪ねた店内は年配の男性で一杯だ。
そんななか「そんなにおにぎりばっかり頼まれても、ご飯がなくなっちゃうから出来ない」と明治、大正のホステスさんに一度は断られる。
職場では昭和初期の会社員の人達がおにぎりを待っているのに、新人の私は手ぶらで帰ることなど出来ない。
「近所のよしみで握ってあげる」と昭和の初期のホステスの人に言ってもらえるまで、頑張ってお願いするしかなかったのだ。
もちろん居酒屋なので、会社帰りに立ち寄ったことも何度もある。
冷奴、冷トマト、くさやの干物などをつまみにしながら日本酒を飲んだと思う。
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勤めていた会社は、平成の声が聞こえた頃、地上げのため、よそに移ることになった。
五十鈴も同じように地上げにあったはずだ。
「五十鈴は○○円だったけれど、おたくはいくらでした?」という地上げ屋からの電話があったのを覚えている。
2010/5の私の履歴書は演劇研究家の河竹登志夫氏
河竹氏が若かった頃通った飲み屋として、五十鈴が紹介されていた。