今年最初の国立能楽堂の主催公演は、
能 高砂 (たかさご) 観世 銕之丞(観世流)
狂言 夷毘沙門(えびすびしゃもん) 善竹 富太郎(大蔵流)
新年早々で、玄関には門松、ロビー正面には、立派な鏡飾り。
奇麗に着飾った和服姿の人々も多くて、華やかな雰囲気であり、お目出度い演目なので、舞台も華やいでいた。


銕之丞師の著書「能のちから」に、「高砂」について、書かれた項がある。
「高砂」は、常緑の老松と、直ぐなる青竹を前に舞う曲で、八段之舞と言う特殊演目では、青竹の垣に相生の松を配した作り物が舞台中央に出され、視覚的には、緑の松と竹のすがすがしさが強調されるという。
能舞台の背景の松は、神の依りつく依代で、能は、影向の松に降り立った神の前で舞い、神を慰める芸能だが、次第に見せることが主題になって、前にあるはずの松が後ろの鏡に映っているのだという想定になって、背景の板を「鏡板」と呼ぶようになった。
と言うことは、長寿や御代を祝福する脇能としての「高砂」は、最も能舞台に相応しい能と言うことであろうか。

結婚式や上棟式などのお祝い事で謡われる、「高砂や…」の有名な謡は、この曲の待謡だが、後場で、ワキ/神主友成(福王和幸)たちが、月の出とともに高砂の浦を出航して、住吉へ向かう船出のシーンで謡われる。
さらりと謡われるだけなので、それほどの感慨を感じられないのが面白い。
前シテの老翁が、舞台で、熊手で松の葉を掻くのだが、実は「久」と言う字を書く呪詛的なことで、「久」が「祝言」そのものであり、大地を掃くとき動きのバランスもよくて、そう言った型と、精神性とが共存している曲で、25歳まではやるなと言われているという。
この曲は、前半は、高砂の浦で、松の緑のかわらぬ美しさや和歌の徳を謡い、殆ど動きがないのだが、後半は、住吉の浦に和歌の神である住吉明神が現れて、パワー炸裂のアップテンポの囃子の楽に乗って、春を寿ぎ勇壮かつ颯爽と神舞を舞う。
住吉明神は歌の神で、言葉ありきで、言葉は魂を持っており、声を発した時にその魂が言葉になり、言葉は歌となって耳に聞こえて具体化され、言葉に魂を入れて芸術が始まってゆく。と銕之丞師は言う。
伯父の寿夫や父親から、謡の歯切れのよさとかテンポ、調子を張ってとか、言い切りを強くとか、色々注意されたと言うのだが、パワーのある凛として歯切れのよい美しい銕之丞師の謡は格別であり、この「高砂」もそうだったが、いつも、感動して聴いている。
それに、勇壮な「石橋」もそうだったが、この颯爽たる歯切れのよい流れるようなテンポの「高砂」の舞姿も感動的で、いつも、繊細で優美でありながら、パワーの充満した力強い舞に魅せられている。
狂言「夷毘沙門」は、奇想天外な婿取ものがたりで非常に面白かった。
有徳人(善竹十郎)が、ひとり娘の婿が欲しくて、西宮の夷三郎(善竹富太郎)と鞍馬の毘沙門天(善竹大二郎)に祈願に行ったら、両方とも祈れども良い相手が見つからなかったので、美人だと聞いて、自分たち自らが、婿候補としてやって来て、鍔迫り合いを行うという話である。
善竹父子の共演で、金ぴかに正装した夷と毘沙門の井出たちが、正月公演に相応しいというか、とにかく、狂言も、神を人間世界に引き戻して、同列にハチャメチャを演じる、ギリシャ神話を観ているようで興味深かった。
能 高砂 (たかさご) 観世 銕之丞(観世流)
狂言 夷毘沙門(えびすびしゃもん) 善竹 富太郎(大蔵流)
新年早々で、玄関には門松、ロビー正面には、立派な鏡飾り。
奇麗に着飾った和服姿の人々も多くて、華やかな雰囲気であり、お目出度い演目なので、舞台も華やいでいた。


銕之丞師の著書「能のちから」に、「高砂」について、書かれた項がある。
「高砂」は、常緑の老松と、直ぐなる青竹を前に舞う曲で、八段之舞と言う特殊演目では、青竹の垣に相生の松を配した作り物が舞台中央に出され、視覚的には、緑の松と竹のすがすがしさが強調されるという。
能舞台の背景の松は、神の依りつく依代で、能は、影向の松に降り立った神の前で舞い、神を慰める芸能だが、次第に見せることが主題になって、前にあるはずの松が後ろの鏡に映っているのだという想定になって、背景の板を「鏡板」と呼ぶようになった。
と言うことは、長寿や御代を祝福する脇能としての「高砂」は、最も能舞台に相応しい能と言うことであろうか。

結婚式や上棟式などのお祝い事で謡われる、「高砂や…」の有名な謡は、この曲の待謡だが、後場で、ワキ/神主友成(福王和幸)たちが、月の出とともに高砂の浦を出航して、住吉へ向かう船出のシーンで謡われる。
さらりと謡われるだけなので、それほどの感慨を感じられないのが面白い。
前シテの老翁が、舞台で、熊手で松の葉を掻くのだが、実は「久」と言う字を書く呪詛的なことで、「久」が「祝言」そのものであり、大地を掃くとき動きのバランスもよくて、そう言った型と、精神性とが共存している曲で、25歳まではやるなと言われているという。
この曲は、前半は、高砂の浦で、松の緑のかわらぬ美しさや和歌の徳を謡い、殆ど動きがないのだが、後半は、住吉の浦に和歌の神である住吉明神が現れて、パワー炸裂のアップテンポの囃子の楽に乗って、春を寿ぎ勇壮かつ颯爽と神舞を舞う。
住吉明神は歌の神で、言葉ありきで、言葉は魂を持っており、声を発した時にその魂が言葉になり、言葉は歌となって耳に聞こえて具体化され、言葉に魂を入れて芸術が始まってゆく。と銕之丞師は言う。
伯父の寿夫や父親から、謡の歯切れのよさとかテンポ、調子を張ってとか、言い切りを強くとか、色々注意されたと言うのだが、パワーのある凛として歯切れのよい美しい銕之丞師の謡は格別であり、この「高砂」もそうだったが、いつも、感動して聴いている。
それに、勇壮な「石橋」もそうだったが、この颯爽たる歯切れのよい流れるようなテンポの「高砂」の舞姿も感動的で、いつも、繊細で優美でありながら、パワーの充満した力強い舞に魅せられている。
狂言「夷毘沙門」は、奇想天外な婿取ものがたりで非常に面白かった。
有徳人(善竹十郎)が、ひとり娘の婿が欲しくて、西宮の夷三郎(善竹富太郎)と鞍馬の毘沙門天(善竹大二郎)に祈願に行ったら、両方とも祈れども良い相手が見つからなかったので、美人だと聞いて、自分たち自らが、婿候補としてやって来て、鍔迫り合いを行うという話である。
善竹父子の共演で、金ぴかに正装した夷と毘沙門の井出たちが、正月公演に相応しいというか、とにかく、狂言も、神を人間世界に引き戻して、同列にハチャメチャを演じる、ギリシャ神話を観ているようで興味深かった。