三月の歌舞伎座公演は、真山青果の「元禄忠臣蔵」だが、平成18年秋に三回に分けて国立劇場で上演された舞台を、昼夜に分けての公演であるから、多少省略されてはいるが、重要な舞台は踏襲されているので、筋は十分に通っており、同じように骨太で重厚な忠臣蔵の世界が展開されていて面白い。
夜の部では、3舞台とも主役の大石内蔵助が登場し、團十郎、仁左衛門、幸四郎が、夫々内蔵助を演じるのだが、昼の部は、3舞台のうち、内蔵助が登場するのは、「最後の大評定」だけで、これは幸四郎が演じている。
国立劇場の舞台では、この場面の内蔵助は、吉右衛門が演じており、兄弟ながら、ニュアンスがかなり違っていたような気がした。
昼の部は、冒頭の「江戸城の刃傷」では、浅野内匠頭を、両舞台とも、梅玉が勤めており、その後、「最後の大評定」が続き、最後の「御浜御殿綱豊卿」の舞台は、2年前に、歌舞伎座で上演されており、新井勘解由だけが、歌六から、富十郎に代わっただけで、仁左衛門の綱豊卿、染五郎の富森助右衛門、芝雀のお喜世など主要な役者は同じなので、印象的には、懐かしくて素晴らしい舞台を反芻している感じであった。
先の国立劇場の舞台と、今回の舞台とで、印象が大きく違ったのは、富十郎と歌六が、夫々、役を交代していることで、先の勘解由の場合とは逆に、「最後の大評定」で登場する重要人物である内臓助の竹馬の友であった井関徳兵衛が、富十郎から歌六に代わっており、私は、国立劇場のキャスティングの方が良かったと思っている。
剛直で一本気の野武士のような浪人の凄まじさと哀れさは、内蔵助に対峙できる千両役者としての富十郎の真骨頂でもあり、学者新井白石としての品と風格は、もう少しあたりの柔らかくて芸の印象に幅のある歌六の方が向いているように思うし、仁左衛門の綱豊との相性も良いのではないであろうか。
真山青果の忠臣蔵観は、はっきりしており、「最後の大評定」の最後で、割腹して果てようとする井関徳兵衛に対して、「内臓助は、天下のご政道に反抗するのだ」と吐露させており、
「御浜御殿綱豊卿」の場で、綱豊卿が、新井白石に向かって、仇討ちを成功させて武士道が廃れた軟弱な元禄の世直しをしたいと示唆しており、
同じ舞台で、助右衛門を挑発して、仇討ちの意思ありやなしやを詰問しながら、大学の跡目相続を願うと言う失策を犯しながら、これと相矛盾する仇討ちをしようとしてする葛藤と苦悶が、内蔵助を苦しめているのだと、綱豊卿に言わしめている。
綱豊が将軍に、大学の跡目相続を言上されて許されると、仇討ちの目的が消えてしまうので、助右衛門が、御殿に来て能舞の舞台に登場する吉良上野介を闇討ちしようとするのを、綱豊卿に、「義人の復讐とは、吉良の身に迫るまでに、本分をつくし至誠を致すことだ」と一喝させている。
私は、これまでのブログでも触れたように、この浅野内匠頭の切腹事件は、当時、繁栄を極めて大きな収入源になっていた赤穂の製塩業に対して、将軍綱吉と吉良義央の幕府側が、強引に製塩技術と塩販売の利権の譲渡を要求しており、この利権争いが伏流にあると言う認識が重要だと思っている。
殿中での刃傷とは言え、内匠頭は、即刻田村家にお預け、当夕刻庭先で切腹、夜に泉岳寺に埋葬と言う幕府の理不尽極まりない暴挙が罷り通った太平天国の元禄の世が透けて見えてくるのだが、いずれにせよ、惰眠を覚醒させるような赤穂義士の快挙(?)なので、江戸市中を熱狂させたのであろう。
この事実を踏まえれば、仁左衛門が胸が空くような格好良く演じた綱豊卿の出番などなかった筈なのだが、これは、芝居の話なので、それなりに面白いとしよう。
私が、この元禄忠臣蔵を見ても、仮名手本忠臣蔵を見ても、何時も思うのは、主人公とも言うべき大石内蔵助の実像である。
この二種類の歌舞伎の舞台においても内蔵助像はかなり違っているし、実際には、どのような人物であったのだろうかと言うことである。
これも、先の製塩業利権の争い同様に、近松門左衛門の九代目近松洋男氏の「口伝解禁 近松門左衛門の真実」からの知識だが、内蔵助は、京都で、門左衛門と一緒にスペイン人牧師から西洋文学や西洋事情を習っていたかなり文明開化したインテリであったのみならず、その後も、自由の身になった有名劇作家で、謂わば、今で言う敏腕ジャーナリストでもあった友人の近松門左衛門から、逐一、吉良・浅野の世評や政治情報を報告を受けており、知性と情報収集能力は抜群であった筈である。
それに、当時も文化文明の中心であった京都や、経済の中枢であった大坂に頻繁に出入りして上流社会にも通じていたであろうし、言うならば、エクセレント・カンパニーの赤穂製塩株式会社のCEOでもあった訳であるから、並みの外様大名の城代家老とは、桁が違うのである。
米の先物取引で、デリバティブの発祥の地だと言われていた当時の世界経済の最先端を行っていた大坂経済との関わりの中で、内蔵助像を描き直してみると面白いかもしれない。
余談が長くなってしまったが、仁左衛門や梅玉の「御浜御殿綱豊卿」、そして、「江戸城の刃傷」や「最後の大評定」については、これまでに、このブログで書いたし蛇足になるので止めるが、幸四郎の内蔵助について一言。
高麗屋の伝統を受け継いだ素晴らしい内蔵助像を確立した東西随一の歌舞伎俳優だと思うのだが、先に記した私の内蔵助像との絡みから考えても、今回の内蔵助については、芸に没頭しすぎて感情移入がやや過多で、自分で感激してしまって他の家来たちと同次元で感動を表現しているのには、多少違和感を感じたのを付記しておきたい。
夜の部では、3舞台とも主役の大石内蔵助が登場し、團十郎、仁左衛門、幸四郎が、夫々内蔵助を演じるのだが、昼の部は、3舞台のうち、内蔵助が登場するのは、「最後の大評定」だけで、これは幸四郎が演じている。
国立劇場の舞台では、この場面の内蔵助は、吉右衛門が演じており、兄弟ながら、ニュアンスがかなり違っていたような気がした。
昼の部は、冒頭の「江戸城の刃傷」では、浅野内匠頭を、両舞台とも、梅玉が勤めており、その後、「最後の大評定」が続き、最後の「御浜御殿綱豊卿」の舞台は、2年前に、歌舞伎座で上演されており、新井勘解由だけが、歌六から、富十郎に代わっただけで、仁左衛門の綱豊卿、染五郎の富森助右衛門、芝雀のお喜世など主要な役者は同じなので、印象的には、懐かしくて素晴らしい舞台を反芻している感じであった。
先の国立劇場の舞台と、今回の舞台とで、印象が大きく違ったのは、富十郎と歌六が、夫々、役を交代していることで、先の勘解由の場合とは逆に、「最後の大評定」で登場する重要人物である内臓助の竹馬の友であった井関徳兵衛が、富十郎から歌六に代わっており、私は、国立劇場のキャスティングの方が良かったと思っている。
剛直で一本気の野武士のような浪人の凄まじさと哀れさは、内蔵助に対峙できる千両役者としての富十郎の真骨頂でもあり、学者新井白石としての品と風格は、もう少しあたりの柔らかくて芸の印象に幅のある歌六の方が向いているように思うし、仁左衛門の綱豊との相性も良いのではないであろうか。
真山青果の忠臣蔵観は、はっきりしており、「最後の大評定」の最後で、割腹して果てようとする井関徳兵衛に対して、「内臓助は、天下のご政道に反抗するのだ」と吐露させており、
「御浜御殿綱豊卿」の場で、綱豊卿が、新井白石に向かって、仇討ちを成功させて武士道が廃れた軟弱な元禄の世直しをしたいと示唆しており、
同じ舞台で、助右衛門を挑発して、仇討ちの意思ありやなしやを詰問しながら、大学の跡目相続を願うと言う失策を犯しながら、これと相矛盾する仇討ちをしようとしてする葛藤と苦悶が、内蔵助を苦しめているのだと、綱豊卿に言わしめている。
綱豊が将軍に、大学の跡目相続を言上されて許されると、仇討ちの目的が消えてしまうので、助右衛門が、御殿に来て能舞の舞台に登場する吉良上野介を闇討ちしようとするのを、綱豊卿に、「義人の復讐とは、吉良の身に迫るまでに、本分をつくし至誠を致すことだ」と一喝させている。
私は、これまでのブログでも触れたように、この浅野内匠頭の切腹事件は、当時、繁栄を極めて大きな収入源になっていた赤穂の製塩業に対して、将軍綱吉と吉良義央の幕府側が、強引に製塩技術と塩販売の利権の譲渡を要求しており、この利権争いが伏流にあると言う認識が重要だと思っている。
殿中での刃傷とは言え、内匠頭は、即刻田村家にお預け、当夕刻庭先で切腹、夜に泉岳寺に埋葬と言う幕府の理不尽極まりない暴挙が罷り通った太平天国の元禄の世が透けて見えてくるのだが、いずれにせよ、惰眠を覚醒させるような赤穂義士の快挙(?)なので、江戸市中を熱狂させたのであろう。
この事実を踏まえれば、仁左衛門が胸が空くような格好良く演じた綱豊卿の出番などなかった筈なのだが、これは、芝居の話なので、それなりに面白いとしよう。
私が、この元禄忠臣蔵を見ても、仮名手本忠臣蔵を見ても、何時も思うのは、主人公とも言うべき大石内蔵助の実像である。
この二種類の歌舞伎の舞台においても内蔵助像はかなり違っているし、実際には、どのような人物であったのだろうかと言うことである。
これも、先の製塩業利権の争い同様に、近松門左衛門の九代目近松洋男氏の「口伝解禁 近松門左衛門の真実」からの知識だが、内蔵助は、京都で、門左衛門と一緒にスペイン人牧師から西洋文学や西洋事情を習っていたかなり文明開化したインテリであったのみならず、その後も、自由の身になった有名劇作家で、謂わば、今で言う敏腕ジャーナリストでもあった友人の近松門左衛門から、逐一、吉良・浅野の世評や政治情報を報告を受けており、知性と情報収集能力は抜群であった筈である。
それに、当時も文化文明の中心であった京都や、経済の中枢であった大坂に頻繁に出入りして上流社会にも通じていたであろうし、言うならば、エクセレント・カンパニーの赤穂製塩株式会社のCEOでもあった訳であるから、並みの外様大名の城代家老とは、桁が違うのである。
米の先物取引で、デリバティブの発祥の地だと言われていた当時の世界経済の最先端を行っていた大坂経済との関わりの中で、内蔵助像を描き直してみると面白いかもしれない。
余談が長くなってしまったが、仁左衛門や梅玉の「御浜御殿綱豊卿」、そして、「江戸城の刃傷」や「最後の大評定」については、これまでに、このブログで書いたし蛇足になるので止めるが、幸四郎の内蔵助について一言。
高麗屋の伝統を受け継いだ素晴らしい内蔵助像を確立した東西随一の歌舞伎俳優だと思うのだが、先に記した私の内蔵助像との絡みから考えても、今回の内蔵助については、芸に没頭しすぎて感情移入がやや過多で、自分で感激してしまって他の家来たちと同次元で感動を表現しているのには、多少違和感を感じたのを付記しておきたい。