熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

国立能楽堂・・・能「雷電」

2014年08月23日 | 能・狂言
   観世流の能「雷電」は、シテの菅丞相と雷電を観世銕之丞、ワキの法性坊僧正を則久英志で、非常に緊迫した迫力のある舞台が展開されて興味深かった。
   この能は、主人公が菅丞相、すなわち、菅原道真であり、歌舞伎や文楽とは違った天神様の物語となっていて、興味深い。
   左大臣藤原時平の讒訴によって、菅原道真は、権帥として大宰府へ左遷されて現地で没したのだが、死後に、天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとする逸話にテーマを取って、道真の怨霊が、雷電となって、内裏を舞台に暴れまわる、スペクタクルの能となっている。

   日頃、歌舞伎や文楽で、仁左衛門や、玉男や玉女の遣う神性を帯びた崇高な姿の菅丞相ばかりを見ていて、神様となった道真の印象があまりにも強いので、一寸、新鮮な能の舞台だが、むしろ、人間菅原道真の実像を見ているようで、面白かった。
   尤も、文楽でも、
   四段目の「寺子屋」などの前の段、「天拝山の段」で、菅丞相が、大宰府配流の途中時平の謀反を知って、形相を一変させて帝を守護するために生霊の雷神と化して都へ飛んで行くシーンがあり、大詰の「大内天変」で、都では雷神が荒れ狂って天変地異が続き、藤原時平一味は雷に打たれて死に絶え、桜丸と八重の亡霊が時平を責め苛んで殺し、菅秀才は菅家の再興を帝に許され、菅丞相も天満大自在天神として祀られると言う結末で、この逸話を踏襲しているのだが、上演が少ないので、「筆法伝授の段」や、「丞相名残の段」の神様然とした丞相ばかりが目立つのであろう。
   先の住大夫引退興行の「天拝山の段」で、玉女が、雷神と化した豪快な菅丞相を遣って感動的であったのだが、私が丞相の雷神姿を見た唯一の舞台である。

   さて、今回の舞台は、観世銕之丞家の舞台であり、銕仙会のHPの曲目解説を借用すると、概要は、次の通り。
   比叡山の法性坊(ワキ)のもとにある夜、菅原道真の霊(シテ)が訪れ、生前師弟であった二人は再会を喜ぶが、道真は雷神となって内裏に祟ること、そのとき参内の勅命があっても従わないで欲しいことを法性坊に告げる。法性坊がそれを断るや、道真は顔色急変して鬼の形相となり、柘榴を噛み砕いて火を吐くと姿を消してしまう。やがて法性坊が内裏に召されて祈祷をしていると、雷神となった道真の怨霊(後シテ)が現れ法性坊と戦うが、最後には法力に屈して去ってゆく。

   替装束の小書きはなかったが、前シテは十六の面をかけ、単狩衣を着て指貫袴姿、後シテは獅子口の面をかけて赤頭をつけ、袷狩衣を着て打杖を持ち豪快な雷神の姿で、夫々、右大臣として高位高官に上り詰めて、尚且つ、最高の知識人であるので、風格と威厳を秘めた格調の高さを示すと言うことであるから、非常に緊張した舞台であった。

   特に後場は、威儀を正した法性坊が紫宸殿に座し、数珠を押しもみ『法華経普門品』を唱えて祈祷しているところへ雷神と化した菅丞相が現れ、法性坊が「昨日まで臣下であった身で内裏を荒らすとは不届きである」と責めるが、雷神は「陥れた人々に思い知らせてやる」と暴れ回るのだが、二人の対話はこれまでで、後は地謡だけで、宮中での激しいバトルから、法性坊の千手陀羅尼に抗し切れずに、雷神が「仏法の力にあずかり、天満大自在天神という神号を帝から頂いて、生前の恨みも死後には晴れて悦びとなった」と言って、黒雲に乗り、空高く飛び去って行くまでを、謡い通すナレーションの展開だけと言う演出が、私には新鮮で心地よかった。
   雷電は、一度揚幕前で少し立ち止まるが、舞台から勢いよく橋掛かりをダッシュして袂を翻して揚幕に駆け込んで終わる1時間の舞台だが、歌舞伎や芝居などと違って、能は、間合いが短くて、一気にシーンが展開し、鑑賞者の想像をインスパイアする舞台芸術なので、非常に内容が深く濃い。
   このあたりは、シェイクスピア戯曲の舞台に相通じるところがあって興味深い。

   ところで、私など初心者にとっての見所は、後場の雷神と法性坊との丁々発止の戦いのスペクタクルシーンで、舞台左右に、紫宸殿や弘徽殿などに仕立てられて置かれた二つの一畳台を入れ代わり立ち代わり渡り合って、「我劣らじと、祈るは僧正鳴るは雷、揉み合い揉み合い追っ駆け追っ駆け、互ひの勢ひ喩へん方なく恐ろしかりける有様かな」と、方や数珠他方は打杖を構えて、飛び回る。

   菅丞相の雷神が、都内裏で恨み辛みを爆発させればかくアリなんと思われるようなショー化した舞台と言うべきか、静かで殆ど動きのない能舞台としては、格別なシーン展開である。
   銕之丞師の足踏みの迫力や激しくもリズム感豊かな流れるような舞台を観ていると、先月の納涼祭で見た「土蜘蛛」の印象も強烈であったので、是非、豪快で骨太の安宅の弁慶を見たくなった。

   菅原道真については、自らの著作もあり、多くの記録が残っているので、夫々に、かなり明確なイメージが組み立てられているのだろうが、能では、この「雷電」のほかに、主なところでは、「菅丞相」「一夜天神」などがあるようである。
   北野天満宮や太宰府天満宮の天神信仰については特別であろうが、私にとっての菅原道真は、単なる歴史上の人物であって、歴史的な常識程度の知識しかなく、歌舞伎や文楽でのイメージの方が強いかも知れない。
   近松門左衛門の「天神記」が、浄瑠璃本に影響を与えているのだろうが、オリジナルの近松バージョンの菅丞相を見る機会があれば、と思っている。
コメント
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