教え子との15年ぶりの再会

今日は本当に嬉しい再会がありました。偶然ではないと確信します。非常に深い意味のある再会でした。

私の勤務する学校で、東京都教職員研修センターが行なっている事業の一つである「東京教師養成塾」の研究授業が行われました。25名の教師を目指す大学生が集い、5名の教授陣に指導を受けながら「未来の教師」を目指して学ぶ機会です。私の学校には道徳の授業に関しては都内トップレベルの教員がいるため、「お手本授業」として大学生たちに提供したのです。

今日参加した大学生25名の中に、なんとなんと!私の教え子がいました!
15年前に大田区の教員として、私が小学校2年生の担任をしていた時に学級にいた少女が、教師志望者として参加していたのです。

その子には、私の個人情報を記入した「裏名刺」を渡したので、きっとこの記事も目にすることでしょうから、あえていろいろなことを書き残しておきます。

15年前、小学校2年生だったこの子は、いつも私の周りにいて、興味深くいろいろなことを質問してくれました。私の記憶の中に鮮明に残っている児童の一人でなのです。ですから、「私は○○小学校時代に先生に担任してもらった○○です。」と言われた瞬間に、「え~!あの○○ちゃんなの!?しっかり覚えているよ!」と答えている私がいました。そうです。本当に私の心の奥底に刻まれている一人だったのです。
(ちなみに担任したことのある子どもについては全員しっかり覚えていますし、他学級の子どものこともたくさん覚えています。)

研修が終わって帰る前に、わざわざ私の所に来てくれて、「先生、○○小にいた○○です。」と自己紹介してくれました。16年も前のことで、小学校2年生だった彼女のことしか分からない私ですから、大人になった姿からは想像もできませんでしたが、話せば話すほどに記憶が蘇りました。

私が担任していた当時、この子はいつも私のそばにいて、毎日毎日私とおしゃべりをしたり、ゲームをして遊んだり、自分からどんどん関わってくれた子どもでした。

学級の中でもリーダー的な存在で、気持ちがとっても強い面を見せていたのですが、本当は繊細で、人の気持ちをすごく理解できる小学校2年生だったんです。今日、はじめに名字を名乗られて、私がすぐに下の名で「○○ちゃんなの?」と聞くことができたのも、それだけしっかり私の記憶に残っている存在感のある子だったからです。こういう子が教師になるならば、30年後には間違いなく優秀な校長先生になるに違いありません。


この出会いを見てくださった校長先生からは、「こういう再会は教師冥利につきるね。」と言ってくださり、まったくその通りだと感じました。

彼女には、私が関わった「マインドマップ作文すらすらワーク」もプレゼントし、「これからも連絡を入れてね。応援するからね。」と支援を伝えました。


できることならば、将来、自分のいる学校で一緒に仕事をできたら最高の幸せだと思います。
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半分教師 第48話 「今は亡き教え子の遺した額縁」

新学期を控え、これまでの2年連続6年担任として使わせていただいた教室からお引越しのため、休日返上で荷物運びをしました。ということは、3年連続6年ではないわけですよ(笑)。そして、何年生の担任になるのかは、明後日に正式発表します。

今回も「井上再生工場」であることに変わりはありません。ただし卒業した6年生の時とは異なり、自分に課しているものは普通では信じられない感覚です。

「最初の3分間ですべてを解決する」

3分間といえばウルトラマンですね(笑)。そうです。ウルトラマンをイメージしているわけです。3分間で変えられなければ自分の命が危なくなる。だから必ず3分以内に学級を再生させます。というか、私が担任に決まった時点で問題はすべて解決していると言わせていただきます。(うわぁ~、大言壮語も甚だしい!ビッグマウスと言われそうだ!でも、そこまで言い切る自信があるわけで・・・・・)



さて、私には教室のお引越しをするたびに確認をしていることがあります。それは写真の額縁のことです。この額縁は、私が教師生活2~4年目、養護学校時代に一緒に学校生活を送っていたK君のご両親から、彼の卒業記念にいただいたものです。

K君は先天性進行性筋ジストロフィーという病気でした。この病気は、年々筋肉が衰え、最後は肺を動かす筋肉までやられて命を失うという悲しい病気です。私がK君を担任した高等部1年生の頃には、すでに全身の筋肉に病気が進行し、食べることと話すことしかできない状態でした。そして高等部3年生になろうという時、彼は肺不全を起こして緊急入院します。私が養護学校に赴任して3年目。実はたった3年の間に、同じ症状で命を落とした子がいたほどで、極めて危険な状態でした。

運ばれたのは都立広尾病院。家族しか入ることのできないICU。私は「兄です。」と偽り、ICUに入れてもらいました。白衣を着て、帽子をかぶり、入室しました。K君は人工呼吸器をつけ、不安そうな表情を私に向けました。その目を見て、私はご家族の皆さんと共に腹を決めました。

「必ず退院させてみせる。自分が担任として“更賜寿命(さらに命を賜る)”の実践をする!」

「自分が毎日病院に通う!自分の命の躍動がK君の命に必ず伝わるはずだ。一歩も引かないで、必ず高等部卒業を勝ち取る!」

「ご家族の不安もすべて受け止める! 脱命の魔から必ず守る!」

そして半年間の病院通いが始まりました。お母さん、お父さん、お姉さんもまた、毎日病院通い。私はこのご家族と「同苦する」戦いをさせていただきました。

真剣でした。K君の命がかかっていたのですから。



嬉しいことにK君は命を取りとめました。気管切開をして、ノドから人工呼吸器を使った酸素吸入をしないとならなくなり、ご家族の負担は大変なものがありましたが、生まれてから18年間、必死に育ててきた我が子を亡くすことに比べれば、介護は大変でも生き続けてくれる方が何ものにも代えがたい喜びなのだと感じさせていただきました。



K君は、卒業式で、私たち高等部3年生担任が全員で生演奏するサザンオールスターズの楽曲「希望の轍」をバックミュージックに笑顔で巣立ちました。

その後8年も命を伸ばし、26歳で亡くなりました。亡くなった時のお顔も笑顔でした。



写真の額縁の中にある帆船は、私が彼を担任した3年間、毎週出していた学級通信「帆船・光丸の船出」をイメージして、K君のご家族が卒業記念に私に下さったものです。この額縁を見るたびに、今、目の前に担任している子どもたちに対して、こんなことを思うのです。

「勉強ができないなんて小さなことだ。言うことを聞かないことだって元気な証拠だ。生きていればいいじゃないか。元気であればそれだけでもいいじゃないか。明日死ぬかもしれない状態で学校に通っていたK君を思えば、何だって許せる。生きて生きて生き抜いていく心を持ってくれれば、それでいいじゃないか。」




彼は私に教師としての「原点」をプレゼントし、その使命を私に託し、一足先に逝ったのでした。
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半分教師 第47話 「ZARD   きっと忘れない」

ZARD_きっと忘れない


この会場に自分がいたことを忘れない。

きっと忘れない。

自分が教えた子たちのことも、きっと忘れない。


養護学校の1年目、3人を直接担当した。
一人はもう亡くなってしまった。
でも、きっと忘れない。

2年目から4年目、高校1年生から3年生までを3年間担当した。
やっぱり一人はすでに亡くなってしまった。
でも、使命があればは延びるということを私に教えてくれた。
一人は今でも、毎日私のことをネット上で見ながら、何か面白いことをしてくれないかと笑っている。

普通小学校に移って1年目。5~6年生。
学級旗を作って頑張ったマラソン大会。32人全員忘れてはいない。

3年目、5~6年生。
自分では頑張ったつもりだったが、もしかしたら良い思い出を残してあげられなかったかもしれない。残念ながら今ではつながりの無くなってしまった子たち。
でも私は忘れない。

5年目。5~6年生。
仲の良いクラス。最強の担任集団。私が「スーパー小学生」を育てることを意識し始めた学年だ。何をやるにしても仲良くて、担任していて居心地が良かった。
きっと忘れない。

4年生。
実は今、一番つながりのある子たちだ。
私が発信する情報を一番キャッチしてくれる子たち。
ありがたい。

2年生。
たった1度の低学年担任。
経験浅く、あまり上手な学級運営をできなかった。
でも、忘れない。

5~6年生。
転勤して初めて会った時のあの笑顔。
「あ~、自分はここに来るべくしてきたんだ!」と思わせてくれた。
あの笑顔を忘れない。

6年生。
緊急当番だった。強く指導しすぎた。悲しい思いをさせた子もいた。
辞表を出す覚悟もできていた。
でも、立派に卒業していってくれた。
今、出会っても、「先生!」と懐かしく声をかけてくれる。
だから忘れない。

3~4年生。
たくさんの子がバレーボールを始めてくれた。
自分の命も惜しくないと思って指導していた。
何度も死ぬかと思ったほど激務の中で戦った。
命に刻まれた子ども達。忘れるわけがない。

3年生。
何でも自分達でやってしまう楽しさ。
マインドマップを授業で初めて使った学年。
でも、自分に指導する知識と技術がなかったので、実を結ばなかった。
今教えていれば、すごいクラスになったのに。
だから忘れない。

3年生。
たくさんの子が保健室に逃げ込むようなクラスだったのを、教室が一番居心地がいいという状態にした。J-KIDS大賞で頑張って、「全国ベスと8」の表彰式に連れて行った。
忘れるわけがない。

6年生。
これまた緊急当番。
でも、みんなが「学校の看板になる」と自覚して、見違える姿に成長してくれた。
感動の卒業式。
「私たちは日本一の卒業式をやるんだ!」
「そのためには、みんな泣かないで、歌を唱いきるんだ!」
と言って頑張った子たち。すごかった。
忘れられるわけがない。

5~6年生。
マインドマップを使って日本中に衝撃を送り続けた。
取材が毎月続いて、なんだか日本一注目されている小学生だったんじゃないかな。
NHKのニュースにも出たし。
一生忘れないよ!


担任していた子のことを「覚えていないことがある」と言う教員もいるが、それは悲しい言葉だよ。私は自分のクラスだけでなく、自分の学年、担任していなかった子たちのことも全員を忘れてはいない。
インターネットが発達した時代だから、卒業生とたくさん交流が復活しているが、担任したことのない卒業生から、「どうして私のことを覚えているんですか!?」と驚かれることが多い。

だって毎日毎日、「成長しているように、幸せになっているように」と祈っているんだから忘れるわけがない。

今教えている学年の50人も、きっと忘れない。

【お薦めの本】
この本は私の宝です。
きっと忘れない―ZARD‐OFFICIAL BOOK
ビーイング
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半分教師 第46話 「インド青年文化訪問団6 ラビンドラバラティ大学」

今回は、26才の時に書いた文をそのまま載せることにする。

「ラビンドラバラティ大学」
インドの詩聖「タゴール」所縁(ゆかり)のラビンドラ・バラティ大学。

カルカッタの街の中にある思いのほか小さな学び舎。レンガ色をした何か懐かしい感じのする大学。そんな故郷のようなキャンパスで日本のことを学ぶ女学生に出会った。キラキラと輝く湖のような瞳で、日本について知っていることを私達に楽しそうに語ってくれた。

和やかな懇談の中、一人が「もみじ」を歌えるということで、居合わせた全員が声をそろえた。

「秋の夕日に 照る山 紅葉・・・♪」

言葉を越えた温かいものが一堂の胸をつつみ込むような一瞬であった。

そんな時、この歌を歌いだした彼女が言った。

「教師はみんな、芸術家であると思う。」

なにげない一言の中に、タゴールの精神が脈々と受け継がれていることを垣間見たような気がしてならなかった。

日本の教育界は知識偏重の傾向をいまだに破ることができず、教師も児童・生徒もともに混迷しているが、宇宙と人間(生あるもの)を調和させる柱として、教育に芸術を重んじたタゴールの教育観に学ぶところは非常に大きいのではないだろうか。

私はこの出会いの直前に、タゴールが病床に伏していた、そしてそこで亡くなられたという部屋にいた。広さで言うと約十畳程度の部屋で、とても質素な感じのする部屋である。しかし、この部屋があの有名な詩
「窓を開けよ!碧空をさえぎるな!」
の舞台だと思うと、「生きる」ことへの激闘を繰り返し、その激闘の中から永遠性を求め抜いた偉人の姿が目に浮かぶような気がして不思議であった。

女学生達と固い握手を交わし、「See You Agein」の挨拶の裏に、「いつか必ず共に平和のために」との思いを込めて、私達は帰途についた。ラビンドラ・バラティ大学の人たちはいつまでもいつまでも手を振って見送ってくれた。

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半分教師 第45話 「インド青年文化訪問団5 スプリングデールズ学園」

「スプリングデールズ学園」

インドはデリーの超エリート学園である。
3歳から19歳まで、2000人が通う名門校である。
日本でいえば、学習院あたりになるのであろうか?

私はここを訪問した。

すばらしい歓迎をされた。

中学生くらいの子ども達が、美しい衣装に身をまとい、インド舞踊を披露してくれた。

繊細な指先、微笑の大国と言われるインドを表している、こちらの心を洗われるような、なんとも言えない表情。

きれいだった。



砂絵の歓迎。
地面に色とりどりの砂で花の絵を描く。



インド独特の芸術。
南国の太陽のような表現。
日本人にはできない色彩表現。


こうしてインドの文化をしっかり育んでいる学校がある。
日本はどうなんだろう?
日本独自の文化を簡単に捨てて、目先のことばかり追い求めてきたのが明治時代以来の日本の姿なのではないかとも感じた。
小学校教育で、そうした日本文化に目を向けて、実際に取り組むことも必要なのかもしれない。


この学校の廊下で、低学年らしき子ども達と出会った。
子どもはどの国でも同じような素直さを持っている。
心の壁がない。
私は、持参していた「ハンカチ手品」を見せてあげた。
思いの外、受けた!

その様子を見ていて、校長先生が私を低学年の教室に連れて行った。子ども達の前で手品をやってくれというのだ。

はずかしながらやってみた。(写真参照)

日本の子ども達と全く同じ反応。
確信と自信を得た。
自分のやっていることがインドでも通用した。
だったら言葉の通じる日本なら、どんな学校に行っても簡単なことじゃないか。

そんなことで、乱れた学級を蘇生させる「イノッチ再生工場」とも言われる学級経営の根っこがインドにあるとも言えるのだ(笑)。

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半分教師 第43話 「インド青年文化訪問団4 歌は国境を越えて」

インドとの民間外交。私たちがインドを満喫することがインド理解を深めることにもつながる。

インドの交流先で現地の歌を歌いながら交流を進めていく。
私たちに与えられた役割は大きかった。

その歌は「CHALTE CHALTE(一歩一歩)」


チャルテー チャルテー
君はるか 遠き国
絹とラクダと帆船の道あれど
Never Say Good By
Now You Are With We
ガンガーの朝空けて
幸と平和の 道拓け行く夜明け

ピアルカルテ カルテ ハム トゥム カヒンコ ジャインゲ
イムヒバ ハルンゲ アーチャルメタッケ ソージャインゲ
サブ ノンコ ピルピー トゥムユヒサジャテ ラヘナ
カビアルビダナ ケヘナ カビアルビアナ ケヘナ
チャルテ チャルテ メレゲーイート ヤドラクナ
カビアルビダナ ケヘナ カビアルビアナ ケヘナ

Once we are join through the road of silk in spirit,culture and arts
But we are now far away though want to know and love each one
Our master let us know how to open the new SILK ROAD
We can see the sunrizing over the GREAT GANGA
Chalte Chalte never say good by,never say again
Now we see the dawn of peace,the dawn of our happiness



インドの各地で歌った。
歌う先々で友好の花が咲いた。

国は違えど人間は同じだ。
歌声に人は集まる。
目を開き、心を開く。

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半分教師 第42話 「インド青年文化訪問団3 ネルー首相の墓への献花」

献花。

国際的にはその国の偉人のお墓参りをし、献花するのは当然の礼儀と言える。

私たちは、まずはじめに「非暴力運動」を展開してインドを独立させたインドの父である「マハトマ・ガンジー」の墓(ラージガートという場所)に献花した。

次いで、ガンジーと共に活躍したインド初代首相のジャワハルラル・ネルー首相の墓にも献花した。

私はネルーの墓に、訪問団を代表して献花させていただいた。

旅立つ前に調べて驚いたことだが、ネルーが亡くなる5日前に私は誕生したのだ。勝手な思い込みだが、こうしてネルー首相のお墓に献花する役目を与えられたということは、偶然ではないような感じがした。

ネルーから「未来を頼むよ」と言われたような気がした。

献花の瞬間、ガンジーやネルーが目指した「非暴力」の世界を作ることに、自分の力を使わなくてはならない使命があるにちがいないと心に決めた。


インドは太平洋戦争後の東京裁判でも、日本に対して公平な立場で意見を主張した唯一の国である。

日本の文化は、インドを発祥として中国を伝わり日本へ着いたものが多い。

戦争中に毒殺された「かわいそうなゾウ」という話が有名であるが、戦後にネルー首相から「日本の子ども達のために」と上野動物園にゾウが贈られたことも有名である。

日本にとって、大きな恩のある国がインドである。


2006年12月に来日した現大統領のシン氏が、衆議院にて演説をした中で、「戦後、パール判事の下した信念に基づく判断は、今日に至っても日本で記憶されています」と語ったほど、戦後の日本支援へのインドの恩は大きい。
日本人は決して忘れてはいけない史実である。

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半分教師 第41話 「インド青年文化訪問団2 友誼の外交」

ニューデリー。
インディラ・ガンジー国際空港。
空の上から見た暗闇の中に、ぽつんと光っている。

とうとうインドの地に下りた。
現地時間、夜中の0時半(日本時間午前4時)。

空港で歓迎の女性達が待っていてくれた。
一人一人のおでこに、赤い塗料で点が打たれる。
インドの歓迎の儀式だ。
私も恥ずかしながら、おでこに赤い点をつけてセレモニーに出た。

夜中である。
それでもインド政府の方々は待っていてくれた。
空港内で簡単な歓迎のセレモニー。

打算でもない、政策でもない。
友誼の外交は私たちを温かく包んでくれた。
民間外交こそが本当の時代を作り行く地下水の役目を果たすのだろう。

夜中のセレモニーは短時間で終った。
私たちをホテルで休ませるための配慮である。
インドの温かさを感じた。


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半分教師 第40話 「インド青年文化訪問団 その1」

教職について4年目の夏休み、26歳の時のことだ。

私はインド政府(ICCR…インド文化関係者評議会)が企画した「第1回インド青年文化訪問団」に、ありがたいことにメンバーに加えてもらった。

「青年が若き時期に世界の友と交流を深め、未来を語り合うことは世界平和への最も近道である」

こうした期待を受けて訪問団に加わった。

16日間の旅。

旅立つ前にインド大使館へ表敬訪問し、大使との語らいの場を持っていただいた。



インドは「精神の大国」と言われる。
仏教誕生の地である。
インド大陸に11億人もの人たちがいる。
日本人には実感できないほどの他民族・多言語国家である。

ガンジーやネルーという偉大な人物を生み出すだけの深みのある国である。

最近、教育界ではインド数学が大きな話題になっている。


これからの時代。世界に大きな影響を与えていくのは、「アメリカ」「中国」そして「インド」「アフリカ大陸」だと私は思う。

「日本」の役目は「接着剤」ではないだろうか。
反目する大国の間に立って、世界平和を実現していくリーダーとなる。ここにしか日本の生きる道はないだろう。そのための人材はこのインド訪問団から、すでに衆議院議員や参議院議員となって頑張っている。

「青年が若き時期に世界の友と交流を深め、未来を語り合うことは世界平和への最も近道である」

インドへ派遣してくれたことに応えるため、自分の若き日の情熱を忘れぬため、文字にしておくことにした。

このシリーズを10回連載する予定だ。

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半分教師 第39話 「ポルターガイスト」

やはり昔、補教で入った4年生のクラスでの出来事である。

子ども達を完全に話の中に取り込んでいくために私がやることがある。まずはカーテンを閉めることは当たり前。次に教卓の上に正座する。そんなことをする教師は滅多にいないので、これだけで小学生はビックリする。そしてどんな話が始まるのか、アドレナリン全開で聞くようになる。

私がこの技を使うのは自前ではない。この技術の恩師がいる。中学の理科の先生である。この先生は落語研究会出身の方だった。その情報をつかんだ私たち生徒は、ある日「落語!落語!」の大合唱をして授業を妨害した(笑)。先生はその期待に応えて、教卓の上に正座して落語を披露してくださった。
ものすごく強烈な印象が私の心に残った。


さてさて、4年生の教室での出来事である。

教卓に正座した瞬間、子どもたちは「あ~!机の上に乗ってはいけないんだぁ~!」などと必ず言う。それでも続ける。4年生という学年に必ず話すのは、5年生で行く「林間学校」や「臨海学校」にまつわる怪談話である。

林間学校は深い森の中、修行をする若い僧侶が恋に落ちるが、その恋が破局して悲劇が起こるという設定で話をする。しかも現地取材をしているので、話が超具体的になる。
臨海学校では深い海の底では何が起こっているか、何がいるか分からないという話題で通す。海はいろんなことを想像していくだけで怖くなる。

前任校の4年生のクラスでこれをやった時、なんと後のロッカー上に置いてあった物が落ちた! さらに入口近くにあった習字用水黒板が倒れた! これは教室を恐怖のどん底に落とす出来事だった。

ポルターガイストなの?????

原因は今でも分からない。

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半分教師 第38話 「怖い話の失敗」

小学校の授業は、担任が病気や出張でいない時には「補教」という形で、身体の空いている教師が補助をする。担任はプリントを用意したりドリルを使ったりして、補教に入る教師が監視だけをしていれば良いように自習体制を組んでおくのが定番だ。

私が補教に入ると、これがめちゃくちゃになってしまう・・・

「さあ、カーテンを閉めて・・・・・。はい、では電気を消してね~。」
そして始まるこわ~いこわ~い話。

ある日、2年生の補教でこれをやってしまった。
話題はトイレの花子さん。軽く怖い程度で手加減したつもりだった。
しかし子ども達にとっては・・・・・アウトだったようだ。

苦情が入った。

「イノッチ先生が怖い話をしたため、うちの娘が学校でトイレに行けなくなってしまった。学校が終ると一目散に帰ってきてトイレをすませている。困りますよ!」

「ええっ?!・・・・・・。すみません。」

そうか、こんなことにもなるんだな、子どもって・・・・・
勉強になりました。

そんなことがあっても一向にめげることなく、怖さに拍車がかかっている私。

江東区の日光学園では、入口付近にある「封印された赤い屋根の小さなおうち」にまつわる話が得意です。他校の移動教室にも要請があれば出向いていきますぞ~!(笑)

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半分教師 第36話 「きもだめし」

私は「きもだめし」に全精力をかけている。

林間学校や移動教室といえば「きもだめし」である!!!
きもだめしをやるために、引率教員でもないのに授業が終ったあと休暇を取って、車を飛ばして移動教室先にかけつけることが何度もあった。たった1時間の行事のために高速道路を全力疾走してかけつけた。

徳持時代は林間学校の宿泊先が埼玉県秩父の「三峰神社」だった。
これはシチュエーションとしては最高の場所である。神社ですよ!神社!
何もしないで夜道を歩くだけでも怖い。
そこに私の超怖い話が加われば、子ども達の大半はパニックになるのであります!
今、23才の世代の林間では、怪談話が終ったとたん、あまりの怖さに100名のほとんどがトイレに駆けこんだという記憶がある。

3年前の6年の移動教室にもわざわざ日光まで車で出かけ、大谷川や戦場ヶ原にまつわる恐怖の話をした。半分以上の子は怖すぎて泣き叫んでいた。(^0_0^)
この子たちには「日光の2日目の夜には行ってあげるからね!(笑)」と事前に伝えたが、「怖いからぜったいに来ないでっ!」と却下されていた。それでも行ったのさ(笑)

「イノッチ先生のこわ~い話」はもう完全に趣味である。

どうして私の怪談話が怖いかというと、きちんと現地取材をして、その場所にあるいかにもこわそうなものを題材として話し、実際にその怖い物を見に行かせるからものすごく現実味を増すことになるのであります!

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半分教師 第35回 「子ども座談会」

【これは2007年2月27日の日記です。】

いやいや面白かった!
インフルエンザの流行で、半分の人数しかいないクラスの子ども達を前に、どんな授業をしようかと一瞬ためらい、そして思いついたのが「座談会」であった。

15人しかいない教室なので、机を丸く円にして座る。
私が司会をしながら、6年間の思い出を振り返っていく「座談会」をした。

最初は何を話せばいいのか困惑していた子ども達も、私の司会術にはまっていく。そう、私は少年時代から大人の座談会の司会をやらせてもらう訓練を受け続けてきたので手慣れているのだ。

1年生の入学式から始まって、遠足の思い出やけんかしたこと、転校した友だちのことなど、次から次へと話題が出てくる。そのうちに子ども達だけで勝手に話し続けるようになった。

よく笑った。
普段の授業ではぜんぜん発言しない子も、大はしゃぎでしゃべっていた。
たちまち1時間の授業が終ってしまう。
楽しい時間は過ぎるのが早い。

子ども達の興奮はおさまらず、次の時間のクラブ活動へ行く道々でも話し続けていた。

6年間の全部を話し尽くせていないので、また明日もやることになった。


出てきた話題に、少々恐ろしくなったこともあった。
「○年生の時、○○先生から『あなたはみそっかすね』と言われた。」
「廊下に立たされたんだよな。」
「あの時、○○先生、マジ切れしてたよな。」
子どもたちは怒られたことを良くおぼえている。



「5年のころ、イノッチ先生に一番怒られたような気がする。」
「おいおい、そんなに怒っていないぞ!」
「先生は学校で一番怖いんだよ(笑)」
「え~・・・・・」

これは当時3年担任だった私が、3年生に対して廊下でビシビシ叱っていたのを、5年生の“やんちゃいたずら坊主たち”にわざと見えるように仕向けていた効果です。でもそんなに印象に残ったのかな?(残るよな。3年のやんちゃ坊主はワンワン泣いていたんだもんな。)

教師たる者、あんまり強く怒っちゃいけないね。

(写真は、このクラスの子たちと取り組んだ『鮭とば作り』でサケを三枚に下ろしているところです。)

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半分教師 第34話 「えっ?!だれもいないよ?!」

大田区立徳持小学校での6年目。
6年生を担任していた時の教員チームは最高だった。

6年生の担任は1組が小林先生。2組が学年主任の森嶋先生。そして3組が不肖の私、井上であった。このトリオは私の教員生活では最高のトリオであった。「最強の担任軍団」と言ってよいだろう。
この時の卒業生にはこれで分かる子もいるにちがいない。


1組の小林先生はサッカーのスペシャリスト。
あのベルディにいた北澤選手とも、高校時代に技を競い合ったというJリーグレベルの小学校教師。私もいやいや狩り出されて、いっしょにサッカーの試合に出たことがあるが、彼のシュートにはカルチャーショックを受けた。
“シューッ!!!!!”
まるで野球のボールのように、サッカーボールが音を出すのだ。
私など足元にも及ばないほど子ども達に人気があり、しかも面倒見が良い。すごい教師だ。


2組の森嶋先生は、ファッショナブルな魅力あふれる女性で、女子のあこがれの的だったんじゃないかな?
しかし性格は竹を割ったようにさっぱりしていて、いっしょにいてとっても楽しい。男勝りな面もあり、おっちょこちょいな面もあり、でも授業はきちんとやる、仕事は早い。飲んだら怖い、よくぶたれた(ばらしちゃった!)
妙な男2人を左右に従え、これ以上ない立派な学年主任の先生であった。


3組・井上は言うまでもない。
この年になってホームページやブログをあやつる、マニアックな訳のわからん教師であるよ。
へたなのにバレーボールばっかりやっているしね。
アホな自分のことは書けませんな(笑) ハハハ


私は教員経験がとうとう20年を超えた。
やっぱり養護学校の時の教員集団が一番理想的だったと思えるが、普通小学校では実はこの学年がまれに見る理想的なトリオであったのだな。最強の担任軍団に率いられた6年生3クラス。
みんな本当に可愛かったよ。
クラスの子だけでなく、学年の全員が大切な一人一人だったよ。


6年生の学芸会期間。
「金の大好きな王様」を練習していた。

そんなある日の朝。1時間目は学年練習の時間になっていた。

職員朝会を終えて、「さあ!練習しましょう!」と、私たち3人の担任はそろって3階の教室に向かった。ところが2階から3階への階段を上がるあたりから、なんか雰囲気がおかしいと感じる。

「???????????????」

3階廊下で3人はビックリ!

「えっ?!だれも教室にいないよっ?!」

そう、6年生全員がものの見事にいなくなっていたのだ。
もしや!と思った担任3人は体育館に向かった。

「いたっ!!!」

そう、6年生は自分たちの判断で練習を始めていたのだ。

こうして文章に書くくらいだから、この出来事は私の教員生活の中で、かなりの特記事項なのだな。

大あわてで担任3人は子ども達に遅れて学芸会練習を始めたわけであるが、あまり言葉はなくても3人共に、(すごい子ども達だ!)と感じていたのである。

その後の中休みに3人で、「本当にすごい子たちだよね!」と、感激の会話を交したわけですからね。


もう一回だけでいいから、教師を超えるこんな子ども達に出会えるといいなぁ。


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半分教師 第33話 「教師・・・面白すぎる仕事」

教師は大変だとか、トイレに行く時間もないとか、子どもが言うことを聞いてくれないだとか・・・最近の教師という仕事は「大変だね」のひと言で表されることがよくある。

どうなんだろう???

僕は(あえて僕を使う)、どんなに大変なことが起こっても、すべて人間ドラマだなぁと思ってしまうような楽観的な思考をしているような気がする。

僕は確かに敵は多いよ。子どもに嫌われることだってあるよ。
だって強引に、自分が思ったことを強引に進めていくことがあるもんね。

でもね、人間はだれでも完璧じゃないよ。
地球上の65億人すべてに尊敬されている人なんて1人もいないじゃん。
たった一人もね。

だったら自分の信じた道をとことん進む方がいいんじゃないかな?
(極論だなぁ・・・と、自己批判)



僕は子ども達に“なんとなく”という曖昧な生き方をしてほしくないと思っている。
「自分はこうするんだ!」という意志を持ってほしいと思っている。


何にしても、教師ほど面白い職業はない!

けんかの仲裁も面白い。

型破りな指導を入れて学級を激変させるのも面白い。

いろいろと考えて投げかけたことが、子ども達にバッチリ合って成果があがったら、これほど面白いことはない。

誰も考えないようなことを考えつくことが面白い。

職員会議で意見を出すことも面白い。

自分の意見をどう通していくかを考えるのも、かけ引きがあって面白い。



面白すぎるじゃないか、教師という仕事は。

そして何よりも面白いのは、目に見えてクラスやチームが成長していく姿を感じた時だ。めったにないかもしれないこの感じ。これを感じられた時に、教師という仕事を選んだ者は泣きたくなるほどの喜びを覚えるのだ。

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