半分教師 第32話 「東京都大会初出場  涙するしかなかった入場行進」

「こんなに嬉しいことがあったんだなぁ!」

平成11年6月。東京体育館。
小学生バレーボールを指導しはじめて6年目。
それまでの4年間連続で、東京都大会の出場切符を「あと1勝」というところで逃してきた。今その原因を振り返れば、ただただ私の指導能力がなかったことである。そのために嫌な思いをさせてしまった子ども達がたくさんいる。

平成11年6月。東京体育館。
私が辰巳小に異動して1年目のことだった。

その年は月・水・土曜日に、私は辰巳小の勤務が終るとすぐに大田区の池上にとんぼ返りして、「徳持JVC」という小学生バレーボールチームを指導していた。

そこには純粋に強くなりたいと練習している子ども達と、それを全力で支えてくれる保護者の方々が待っていてくれた。どんなことがあっても、練習の最後の10分間だけでも指導をしたいという思いだけで江東区から大田区までかけつけた。

実は転勤したばかりで受け持った5年生は41人学級。
初めての1学年1学級という状況に、四苦八苦していた中の挑戦であった。

今では理由をつけて異動を待ってもらうということができるようになったが、その時は「このバレーの子たちだけは徳持で指導しなくてはならないんです。」と何回校長に頼んでもダメだった。

腹を決めた。何が何でも都大会出場だ。



都大会出場を決めた試合が感動的だった。

第19回ライオンカップ。

予選である支部決勝大会に私は行くことができなかった。辰巳小の運動会と決勝大会がバッティングしたからだ。保護者に監督をお願いして、私は運動会の仕事をした。運動会どころではなかったのは言うまでもない。頭の中にあったのは、徳持JVCの子ども達が都大会の出場権を勝ち取ってほしいという気持ちだけだった。運動会の間、心の中でず~~~~っと祈っていた。

夕方、保護者代表さんから電話が入った。

「先生!(声が笑っている) 結果、どうだったと思います?(笑)・・・・・・・・」
なかなか教えてくれない。
「じらさないで教えてくださいよ。」
と私。
「知りたいですかぁ~?」
「どうだったんですかっ?!」
「先生っ!都大会、出られますよっ!」

本当に嬉しかった。
やっぱり苦労しなければ結果は出ないと思った。
私がいない中で、子ども達は本当に頑張ってくれたんだなと感謝した。


そして東京都大会。盛大な開会式。
私は東京体育館の2階の席から徳持っ子の堂々たる入場行進を目にした。一人一人が輝いていて、一生忘れられない一場面であった。
「俺はこの姿を見るために、苦労してきたんだなぁ・・・・・」
言葉にならない数々の思いがこみ上げてきて、涙を抑えられなかった。



今、あのころの純粋な心を忘れてはならないと自分を戒めることがよくある。

都大会にも何回も出られるようになってきた。バレー界の中でも重要な役職をさせてもらえるようになった。しかしそうした経験が、私独特の「子どものための指導」をさまたげることがあるような気がしている。

今年、もう一度原点に返って、「イノッチイズム」の復活を目指そうと思っている。

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半分教師 第31話 「青年の志」

自宅の本棚をいじっていたら、自分が19才のときに書いた日記が出てきた。恐る恐るページをめくった。ひとこと「青いな」とつぶやいて失笑した。いったい俺は何者なんだ???という感じ。今19才の人には信じられないだろう。はっきり言って「引く」だろうね。

しかし、情熱だけは今とは比べものにならないほど強いかもしれない。そこで表に出せそうなものだけ書きとめておこうと思う。

何の参考にもならないだろうが、世の中にはこういう人間もいるんだなぁと笑ってもらえればよい。

【ここから19才の時の日記】

(1)
 黎明は いかに遠きか 我が生命
    行くも行かぬも 己なりけり


(2)
 青年よ! 流されてはならない。
 自身の弱さを自身の敵と知れ!
 自己との戦いこそ 最も困難で 最も長い戦いである。
 小さな勝敗に一喜一憂することなく
 人生の勝利に向かって
 見事なドラマを展開し行くのだ
 青年よ すべては 自己との戦いだ!
 絶対に負けてはならない 戦いなのだ。


(3)
 夜明けは遠く 光の見えぬこの大地に
 青年は立ち上がる
 闇の中に 一点の光明を求めて
 今再び 前へ前へと 歩を運ぶ
 道は荒れ 我が身が傷つくこともあろう
 しかし 青年は ひたすら歩み続ける


(4)
 教育とは 人間と人間の 価値創造の
 永遠の闘いである。
 そこには不安があり 葛藤があり
 そして情熱がある。
 憎しみや 不信さえも 含まれている


(5)
 相手がどうだと見る前に、
 「自分はどうなのか?」と考えることが大切である。
 教育で相手を変えようとするならば、
 それよりも先に、
 教育環境である“先生”が変わらないではいられない。
 自分の命に濁りがないように。


(6)
 自分自身の道を極めるためには、少々の非難・中傷に耳を貸す必要はない。自分にとって何が一番大切なのかを深く考えて、それを固い信念として守り通すことだ。流されれば安易な人生になってしまう。信念を貫け。一度決めた教育者の道を何としても築くのだ。
 信用したくなければしなくてもいい。俺は絶対に教育の道を築く。そのためには何を言われようとも絶対に耐え忍んで・・・今に見ろの精神だ。
「十年後の自分を見ろ。二十年後の自分を見ろ。」
と。だれが成長したか、その時が勝負だ。


(7)
朝、起きられず。一日何もせず、無駄にしてしまった。
もっと自己に厳しくせねばならぬ。


(8)
いよいよ明日は成人式である。
実感はないが、成人らしき振る舞いをせねばならぬ。
精神的な成長も必要である。
(翌日)
成人式を厳粛に執り行う。
責任と義務の自覚。
夜、同期の仲間で渋谷のディスコへ。
すこし浮かれすぎた。
明日は受験生の激励にいくぞ。


(9)
受験生のK君、M君、S君と会う。
若いのに元気がない。もっと自信を持てるようにしてあげたい。
ひたすら自らの力のなさを悔いるのみ。


(10)
多忙である。
塾においても女子。指導している高校の卓球部においても女子。
全部で21人の女子の教育にあたっている身である。
加えて37名の大学生を支えて、励ましていかなくてはならない。
さらに受験生23名も徹底して育てるのだ。
自分との闘いである。
自分の双肩に81人もの人生がかかっているのだから、肩がこるのも当然である。忙しいのも当たり前である。
闘いを止めるな!止めるな! 日々前進!
とにかく我に負けるな。
自分の思いが深ければ深いほど、波動も大きいことは分かっているはずではないか!
大志に生きようぞ!
小心者の我ではあるが、柔軟な生命の力強き波動を巻き起こしゆかんと念願す。


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半分教師第30話 「27個のメダル」

まずはこちらの記事に目を通してから、今日の記事を読んでください。

半分教師 第5話 「障害者スポーツ大会」

この「障害者スポーツ大会」という話題はなんと20年も前の話です。20年たった今日、その本人からメールをもらったのです。電動車イスの大会に出場していた子。メッセージにはこう書かれていました。

「私は去年までスポーツ大会に出ていた。去年8月で引退しました。メダルの数は27個でした。本当にありがとうございました。」

20年間で27個のメダル?! すごいではないですか!!!

スポーツ大会に出場させるなんて誰も考えなかった彼女の高校生時代に、私が「絶対に出られるし、メダルが取れるっ!」と言い切って出場させました。それをきっかけにして20年間も頑張ってくれました。


どんなスポーツでもやっぱり指導者が選手にリミッターをかけてはいけませんね。

この子の場合、もしも担任が「危険だから」「会場まで連れていくのは大変だから」「自分の指導力では勝てないから」「スポーツは遊びで良い」などの理屈をつけて試合に出さなかったら、この子の『27個のメダル』はあり得なかったですよね。

27個のメダルが、どれほど彼女の生きる希望や目標になっていたことでしょう。
それを思うと、本当に試合に出してあげて良かったと思います。


大会、試合に出してこそ、練習していることの意味が分かる。“何のために”練習をするのかが理解できる。試合は楽しいし、勉強になるし、生きる力になります。
それを教えられなくなったら私だったら指導する資格はない、指導者を引退すべきだと思っています。


オリンピックではないけれど、この車イスのメダリストちゃんに続くスポーツ選手を私はもっともっと育てたいと思っています。なぜならそういう選手を育てることこそ私が教師を目指した原点だからです。

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半分教師 第29話 「てんか」

休み時間、教室から子どもたちが一人もいなくなった。男子も女子もみんな。
「消えてしまった・・・・・」
私はビックリした。いったい何が起こったのか???

今から12年前。3回目の6年生(現在24才かな)を受け持った時の話である。
子どもたちはみんなどこへ行っていたのか?
屋上であった。

全校で800名近くいた大規模校では屋上まで遊び場所で使わなくてはならなかった。柵を高くしてボールが飛び越えないようにしていたし、30メールくらいの陸上トラックもあった。

クラス全員がいなくなるほど屋上に何があったのか?

みんなで「てんか」という遊びをしていたのであった。

この「てんか」とは、ボールを数個使って当て合うゲームで、だれかに当てられると命がなくなってしまい、ゲームに参加できなくなる。しかし、自分を当てた子が他の子に当てられるとゲームに復活できるというルールである。
このルールで遊ぶと、当てられた子は自然に「○○ちゃんを当ててぇ~!」と大きな声で叫んで助けを求める。授業ではほとんど声を出さない子まで、信じられないほど大きな声で遊んでいた。

楽しそうなので私も仲間に入れてもらった。
単純だが、ドッヂボールよりも運動量があり、全員が積極的に参加できる点が素晴らしかった。

このゲームは、今では私の“武器”になっている。
これをやるとクラスは確実に良くなる。
人間関係を育むことができるボールゲームである。

今の学年の子どもたちも「てんかをやるよ!」というと喜んでくれる。

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半分教師 第28話 「クラスの旗」

私自身、小学校に転勤して初めて担任したクラスへの思い入れは年を経るごとに強くなっている。

転勤当時26才(にしては老けていたと言われている…泣)にして、気持ちは新任教員を同じだった。初めて受け持つ小学生だから、心を込めて働かせてもらおうと思っていた。しかし振り返ってみると、学年4クラスのうち自分の受け持った3組だけが経験の浅い担任であとの3クラスはベテランの先生方。保護者の皆さんはとても心配だっただろう。とにかく一生懸命やるしかなかった。

いろんなエピソードはあるが、自分の心に残っている良き思い出に「クラスの旗」を作ったことがある。その旗に描いたのは3匹のライオンであった。

「勇気」「団結」「友情」の意味を込めた3匹のライオンの旗。

12月の校内マラソン大会に向けて、クラスのシンボルとして作ったものだ。

全校でそんなものを掲げたのは我がクラスだけだったので、これまた足並みを乱す勝手な行動であったことは間違いない。
今となっては恥ずかしい話でもある。
しかしこの時の猪突猛進型・若手教員だった私は、「この旗で学校の雰囲気まで変えてやる」くらいに傲慢に行動していた。

いろんな反省もあるが、子ども達といっしょに旗を作って盛り上がった経験は、私の心の財産として刻まれた。(ほとんど自己満足な世界かもしれないが)


小学校教師として初めて担任したこのクラスからは本当に面倒見の良い子ども達が育っていった。みんな社会の中で頑張っている。卒業生の活躍する情報を知った時の喜びは格別だ。

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半分教師 第27話 「教室動物園化計画」

アニマルセラピーという言葉がある。
生き物による“癒し”である。

たとえば孤独なご老人や、社会生活に疲れてノイローゼになってしまったような方々に、動物の世話をしてもらうことによって自分の存在感を確かめてもらったり、心にゆとりを生み出してもらったりという治療効果があると言われていて、実際にそういう研究成果もあがっている。


私はこれを教室で試してみた。
以前書いたが、私の仕事は“はちゃめちゃ”である。
やる!と決めたら失敗を恐れずにやってしまう。
よくこだわりの一品という商品があるが、アニマルセラピーはかなりこだわった教室環境の一品であった。


「教室動物園化計画」
こういうネーミングをして、教室で動物を次々と飼っていった。
今振り返ると、絶対に異常な行為だった(苦笑)。

「ウサギ2羽」「モルモット1匹」「ジャンガリアンハムスター(子どもが生まれて10匹くらいになってしまう)」「ミシシッピーアカミミガメ」「金魚(コメット水槽・丹頂水槽)」「メダカ水槽」「グッピー水槽」「プラティ水槽」「その他の熱帯魚水槽」

教室でこれだけ飼えば動物園といっても文句はないだろう。


あまりにもすごかったので、このとき4年生だった子ども達の数人は、2年後の卒業文集に教室動物園のことを書いたほどだ。

不思議なことに、今でも私とインターネット上でつながっている教え子には、この時の子どもたちが多い。

もしかしたらこれも「アニマルセラピー」の効果なのかなぁ???
(そんなわけないか・・・笑)

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半分教師 第26話 「斎藤喜博先生」

私が教員になった頃に、川崎で中学校教員をしている大先輩の自宅で勉強会をしていただき、その時に託された宝物の写真集がある。

『いのち この美しきもの』

とても大きなサイズの写真集である。
いったい何の写真が集められたものなのか。


いのち、この美しきもの―写真集 群馬県境小学校の子どもたち (1974年)
斎藤 喜博,川島 浩
筑摩書房

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それは、古い教員であればだれでも知っている「斎藤喜博(さいとうきはく)校長先生」の学校・群馬県境小学校の子ども達の凛々しき姿を納めた写真集である。

私が斎藤喜博先生の話題を出すと、残念なことであるがベテランの先生でも「ああ、昔の良き時代の教育だね。」という反応が返ってくることが多い。しかし私は、絶対に“古き良き時代”ではないと思っている。写真集に残されている子ども達の姿は理想的な輝きを見せている。私の脳裏には常にこの写真集の中の子ども達が理想の姿として刻みつけられている。

この「理想の姿」を追い求めるあまり、時に子ども達の現状とのジレンマが生じて厳しく指導してしまうことがあり、反省をすることもある。

それでも私の根本の考え方はいまだに変わらない。
「理想の姿」を見失った、または持っていない教員は、羅針盤のない航海をしているのと同じように、嵐が来た時に対処できなくなるという考え方である。
教員が、理想の子ども像を持っていると、受け持った子どもたちは必ず成長すると実感している。


斎藤先生の流れを意識して組織化していった人に、向山洋一先生の存在がある。「教育技術の法則化運動」の中心者であり、今は「TOSS」というそれはそれは厳しい研修を行なう教員研修組織(授業の名人作りを進めている民間組織)のリーダーとして有名である。

法則化の本は簡単に手に入る。読みやすいように文章も工夫されている。マニュアル書のイメージが強いので、すぐに使えることが多い。
でも私は若い教員に「斎藤喜博先生の本を熟読しなさい」と薦めたい。読んだところで今は実感として分からないことが多いかもしれない。しかし、教員経験を年々積み重ねるほどに重みを増してくる本である。

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半分教師 第25話 「林竹二先生」

私はモノマネが得意である。
何のモノマネかというと、「授業のモノマネ」が得意なのである。

「今見た授業を再現してやってみろ」と言われれば、その授業にかなり近づけて再現する自信がある。

この習慣は少年時代からスポーツで培ってきた。
つまり強い選手のマネをすればある程度の実力はつくという発想を、今考えれば小学生時代から持っていた。

小学生時代の野球(なんともうれしいことに東京都大会で優勝したチームにいた・・・品川ドジャース)では、プロ野球選手のピッチングフォームをマネして遊んでいた。ジャイアンツの堀内、倉田、大洋ホエールズの平松、中日の星野等々。ついには左投手の江夏や高橋一三のマネもしたくなって練習し、スイッチピッチャー&スイッチバッターにまでなった。

中学高校でやった卓球では、当時世界チャンピオンだった中国の郭躍華選手のプレーを、卓球専門店に毎日のように通いつめてビデオを見せてもらい完璧にコピーした。20年以上たった今でもその当時に身につけた「投げ上げサーブ」は健在で、教職員卓球大会では誰にも取らせない。ここ数年間、無敗である。


授業でコピーをした(最近の言葉ではパクったというらしい)のが「林竹二先生(元 宮城教育大学学長)」の授業である。

「人間とは何だろうか?」

このテーマの下、覚える授業ではなく、考える授業、追求する授業を林先生に代わって続けてきたつもりである。これまで勤務した学校ではこの授業を数多くやりたくて、他クラス他学年の先生に頼んで、授業時間を2時間借りて、出前授業をしたほど惚れこんでいる授業である。


林先生は残念ながらすでに故人であるが、そのお人柄を忍んで今でも夏休みになると、先生の授業実践ビデオを見ながら語り合う研修会が開かれている。私も2回参加させていただいた。

先生は、学長という立場にもかかわらず、教育現場を大事にした。多くの小中学校で次々と授業実践を行なった方だ。

授業が大事である!

多くいる現職校長(東京の小学校だけで1200人以上)の中で、「私にも授業をやらせてほしい」と担任に頼みに来る人がどれほどいるだろうか? 私の教員生活の中では、大田区立徳持小時代にお世話になった高山正之校長先生ただ一人である。

林先生の著作には、子ども達のたくさんの授業写真が載せられている。授業を通して子ども達の表情がみるみる変わっていくことがよく分かる。

「授業を通しての変容」

こうしたことをもっともっとたくさんできるような力量ある教員を目指して勉強をしていこう。林先生の本を手に取ると、不思議とそういう気持ちになる。

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半分教師 第24話 「なんでホームページなのか」

信じられないだろうが、私は基本的にはアナログの人間である。
パソコンのくわしい技術的な話になるとなんだか分からなくなる。

ではなぜ私がホームページにこだわっているのか?
それはアナログ人間だからである。

というわけの分からない文章のはじまりとなった。


私が初めて本格的にパソコンをさわったのが2000年であった。それまで仕事で使っていた自分の「ワープロ」が壊れてしまったことがきっかけであった。しかたないので職場のパソコンをいじってみた。そのころはインターネットがそれほど行きわたっていない時代であった。

パソコンをいじっているうちにホームページという存在を知った。辰巳ジャンプという小学生バレーボールチームを立ち上げたばかりの私は、指導法を学ぶことに非常に貪欲であった。そこで名門チームのホームページを次々と閲覧してみた。

そこで出会った世界が「掲示板(BBS)」であった。

小学生バレー界ではとても有名な監督たちが、掲示板に日記形式でチームの指導を書いていたのだ。ある監督さんは1日に2回も掲示板に書き込みをしていた。そこに書かれている内容は、バレーボール経験のない私には珠玉の宝物であった。まさに砂漠に水をまいたように、私は指導法やチームの作り方について吸収することができた。

こんなに勉強になるのなら、自分もホームページを作ってみたいといつしか思うようになった。パソコンを買ったのはその年(2000年5月)のことだった。そして7月25日。いよいよ「辰巳ジャンプのホームページ」を世の中に登場させることができた。

幸運なことに、その2ヶ月後の9月には読売新聞の取材を受けた。
ホームページの持つ力を実感した出来事であった。

これ以来6年半、ほぼ毎日、何かを書き続けてきた。
よくも飽きずに書いてきたものだ。
このブログの中にある「掲示板過去ログ」は私の貴重な財産となっている。

ホームページの持つパワーをたくさん体験してきた私である。きっとこれからも書き続けていくにちがいない。

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半分教師 第23話 「教育技術は盗むもの」

普通校に移ってできないと痛感したことが三つあった。

「集団を統率する技術」
「授業中に勝手な発言をさせない技術」
「子どもの間のもめ事を解決する技術」

これはすべて教育技術の問題である。その教師の人間性とか性格とかとは別次元の話であると私は思う。

この教える技術を私はベテランの先生から盗んでいった。
1学年が4クラスある大規模校だったことがけっこう幸いした。なぜなら空き時間が週に6時間あったからだ。音楽・図工・家庭科に専科がつき、2時間ずつ合計6時間。この空き時間を利用して、まるで忍者のように先輩の授業をのぞき見して回った。
「お願いして見せてもらえば良かったんじゃないの?」
と言われるかもしれないが、それで見せる授業をされては困ると思い、廊下で人知れず授業を観察した。けっこういろんなことを学び取ることができた。

集団を統率する技術の習得では「メモ魔」になって学んだ。
全校朝会、運動会、遠足など、大人数を動かしていくベテランの先生の一挙手一投足には味のあるものが多い。だてに年数を経ているのではない。その年数を通して通用する技術だけが淘汰されて残っているのである。
「これは使える!」
と思ったものは、すぐにメモをして覚え、実践していった。

子どもの仲介についても、他のクラスでもめ事があり、担任の先生が廊下で話をしている場面を見つけたら、「どうしたんだ?」とばかりに話に入り、ウンウンうなずいて手助けをしている振りをしながら、先生たちの指導パターンを盗み取っていった。

こんな学習方法が正しいかどうかは分からないが、少なくとも自分自身の財産となったことは間違いない。

まあ、職人の親方が「技は盗んで覚えろ」と言葉では教えてくれないのと似ているのかな。わたくし、紳士服の仕立て職人の息子なもので、やっぱり職人気質(かたぎ)なのかもしれませんな。

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半分教師 第22話 「学級通信」

「理解されなくても良い。とにかく文章の雨を降らせていくのだ。乾いた地面に降らせた雨は、まだ見えない地面の下の芽を必ず伸ばしてくれるだろう。」

そんな決意をするきっかけになったのが、小学校に転勤した年の夏休みに参加した研修であった。

第21話に書いたように、私のクラスは「教室騒然」のクラスとなっていた。これを変えるにはどうしたらよいのか?
こういうマイナス状況の時、どんな教育書や技術書を読んでもなかなか役に立つ本に出会えないことが多い。おそらく自分自身の気持ちがまいっているので、良い情報をつかみ取るだけのアンテナを張れずにいるのだろうと思う。

やはり生の声を聞くことが一番だと思う。なぜなら、現場の先生たちはみんな、いつも何らかの悩み・課題をかかえながら仕事をしているから、同僚の苦しみには必ず手を差し伸べてくれるからである。

私の参加した研修の中で、学級通信を最大限活用して学級を立て直していった先生の実践報告があった。その学級通信には毎週の週案、子ども達の声、担任から見た子ども達の良さ、親からの声などが載せられており、クラスのみんなが楽しみに読んでいることがよく伝わってきた。
「これなら自分にもできる!」
と思った。学生時代から文章を書くことは苦ではなかった。

2学期から、週に1回のペースで学級通信「輝け太陽」を発行していくことを始めた。もちろん週案を載せた。これで子ども達は1週間の見通しを持って授業に取り組むようになった。

子ども達の良いところを見つけて記事にする「子どもの心の宝さがし」というコーナーを作った。これによって、私自身の子どもに対する視点が変わった。

私を少しでも理解してもらう必要があると、子どもの頃の自伝も書いた。


学級通信だけがクラスを変えたわけではないが、2学期には見違えるようなクラスに変身したことは事実である。

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半分教師 第21話 「教室騒然・・・」

養護学校での4年間の経験は貴重なものであった。しかしその反面、普通小学校で必要とされる集団を統率する教育技術を身につける機会なく、私は転勤となった。

受け持った学級は5年3組。32名の子ども達が待っていた。

それまでの4年間は、直接担任していた生徒が3~4人だったので、一気に10倍もの人数を相手にしなくてはならなくなったのである。これは大変なことだった。

新任教員であれば「分からない」で済むことがある。しかし私は新任ではなく、4年間も教員経験を積んで異動した教員である。「分からない」は通用しない。

一人一人を奥深く見つめていく目は、私の中で確かに育っていた感じがする。例えばウソのような話だが、廊下を歩いてくる児童の足音で体調や気分の良し悪しを聞き取れた。研ぎ澄まされるというのはすごいことだ。

元気な小学生たちは本当に可愛かった。こんなに楽しい仕事は絶対にないと心から思った。元気が何よりだと信じていた。教室にいても楽しかった。ところが1回目の授業参観で目を覚まされた。参観直後の保護者会で口々に指摘された。

「先生の授業は、子ども達が勝手に話をしたり後ろを向いたりしている。こんなにうるさいクラスを見たことがない。」

子ども達が元気で楽しそうにしているクラスという“おほめの言葉”をいただけると信じていた私は、まさか厳しい指摘を受けるとは予想もしていなかった。私は完全に“自己満足”をしていたのだ。

この日から自分との戦いが始まった。

(つづく)

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半分教師 第20話 「人が好きだから」

望ましい集団からは歌が生まれる。
望ましい集団からはドラマが生まれる。

私の教員1年目に歌が生まれた。
この歌を引っさげて、新潟県に修学旅行交流に出た。
新潟県の高校生は心から感動してくれた。
その歌詞もメロディもいまだに忘れえられない。




「人が好きだから」

人が好きだから いろんな人と出会いたい
人が好きだから 君と出会いたい 友を作りたい
同じ世界に 生きているから
お互いが分かりあえる
はるかな希望を求め
明日に向かって 羽ばたけ



何度も書いておこう。
いろんなドラマを経験させてもらった新任時代があるからこそ、今の私があるのだということを。

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半分教師 第19話 「卒業式バンド」

養護学校の教師としてスタートして本当に良かったと思えるエピソードがたくさんある。そのひとつが、担任全員による「卒業式バンド」の結成である。

思い起こせば、ノリノリの学年教員集団だったのだろうか。

「卒業式で生徒を送り出す曲を、私たちが生バンドでやろうよ!」
そんな先輩音楽教員の意見にみんなが合意し、生徒にも親にも秘密で猛練習が始まった。音楽の先生はもちろんピアノ。他の先生も学生時代に手に覚えのあるギターやクラリネット、サックス、エレクトーン、フルートなど、それぞれに楽しんでいた。

苦しんだのは私である。
楽器など習う余裕も買う余裕もない貧乏人の息子である。(ご両親様、こんなことを書いて、あいスマン)
やったこともないドラムを担当した。

ヒェ~~~~~、できるわけないじゃん(T_T)

この企画が決定以来、連日のドラム練習が始まった。ドラムと言っても短期間で私ができるのは、「小太鼓」「シンバル」の二つを組み合わせた変式簡易式ドラムのみ。
曲はサザンオールスターズの「希望の轍(わだち)」

頑張りましたよ練習を。この時は。
だって卒業式だもん。

おかげさまで、何とか形にはなりました。

「希望の轍」

私にとっては生涯忘れることのできない一曲となったことは疑う余地もありません。

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半分教師 第18話 「学年経営」

どういう学校を作っていくのかは「学校経営」と言い、これは校長の責務である。
「学年経営」は学年主任を中心に、その人だけに頼らず、学年の教員全員で創り上げていくものである。私はそう考える。

養護学校時代に私がいた学年は、この学年経営に成功した経験として、私の教員としての財産となっている。何が良かったのか?

私がいた学年は「親分」のような男性と女性の中堅教員がいて、この方々が教員集団のお兄さんお姉さんとして、先行きの見通しを持っていてくれた。その下の年齢には「進路指導」「教科指導」「人情」のスペシャリストと言える方がいた。そこに私を含めた新米教員が常に2名いて、分からないことを先輩に相談したり、やりたいことをどんどんやらせてもらったりと、まるで生徒のように育ててもらった。

バランスの取れた良い学年に4年間恵まれた。

何よりも仲が良かった。
お姉さん役の中堅先生の家に招かれてパーティーをしたり、私もいろいろと企画して、東京湾納涼船のツアーを組んだり、生徒の親も含めたお楽しみ会をしたり。

慣れ合いでもなかった。
私自身、厳しい指摘をされて悩んだことも少なくなかった。

職業柄、心身に変調をきたす教員が出ることも少なくない職場だが、その先生の家まで行って差し入れをしたり、励ましたりすることもあった。

仲の良い集団は自然と学年経営はうまくいく。そういう雰囲気は生徒にも親にも伝わるものだ。同じことが「学校経営」にも言えるはずだ。




私がお手本にしている小学校のひとつに、斎藤喜博先生の「島小学校」「境小学校」がある。斎藤先生が書かれた「学校づくりの記」という本の一説を書き残しておく。


 私たちが、教師として自分たちの職場を明るく住みよいものにするということは、もちろん自分たちが一人の人間として、毎日毎日をしあわせに楽しく生きていたいという願いに出発している。そしてそれは、憲法第十二条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は国民の普段の努力によってこれを保持しなければならない」という条文をふまえたものであり、自分たちの断えざる努力によって、自分たちの職場の中に、憲法の精神を実現し、自分たちをしあわせにし、自分たちを解放して創造的な生き甲斐のある仕事のできる人間にすることである。

 これは、職場の中に、また自分たち自身の心の中にある、さまざまな圧力から脱却することである。それらのものから抜け出し、気持ちが解放されたとき、私たちの精神は生き生きとしてき、表現活動も盛んになり、教育実践も生きた創造的なものになってくる。そしてそのことは教師と同じように抑圧され、表現をおさえられている父母や子どもたちの生き方に影響を与える。

 私たちはこのように考えて職場づくりをしてきた。その結果先生たちは生き生きとしてき、自信を持ち、実践が個性的創造的になるとともに、詩、短歌、作曲、脚本、童話など、自分の創作活動もするようになってきた。解放されることによって、今まで内におさえられて芽を出さずにいたものが、それぞれの形で表現されてきた。そしてそのことによってさらに一人一人が自覚し、みんなの気持ちを一つにすることができてきた。

 私の学校の先生は、みんな輝くように美しい。私は、先生たちをみるごとに、いつも美しいと思うし、よそから来た人たちもそのようにいう。私はこのことがとてもほこりであるし楽しい。

(「学校づくりの記」 斎藤喜博 著  国土社 発行 より抜粋)


学校づくりの記 (現代教育101選)
斎藤 喜博
国土社

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