地味鉄庵

鉄道趣味の果てしなく深い森の中にひっそりと (?) 佇む庵のようなブログです。

第七ジャカルタ炎鉄録 (15) さよなら103系!

2016-01-06 00:00:00 | インドネシアの鉄道


 年が改まるということは目出度いことなのかも知れませんが、昔懐かし系鉄道趣味の観点から言えば、また一つ、馴染みの車両が老朽化により鉄路の上から去って行くということでもあります。今年は年始早々からそんなことを痛感させられ、「さすが来年は国鉄分割民営化30周年となるだけのことはある……。1980年代前半までに造られた鋼製の国鉄型車両にとっては、いよいよ旧国末期と同じような事態となった」と慨嘆しているところです。ネット上でぼちぼち伝わって来る情報、そして昨年末ジャカルタを訪問されたKuching様から頂いた情報によりますと、ついにジャカルタの103系が昨年末で運用を離脱し、近々デポック送りとなって廃車となる模様です……。



 思い出してみれば、かつて武蔵野線で激しくアツい走りを見せていた計16両が、神奈臨千鳥線を経て川崎市営埠頭に運び込まれたのが、今から11年少々前。当ブログが始まった直後の出来事で、誰にも宣伝していないドマイナーブログへのアクセスが突如上がったものです。以来、都営6000に次ぐジャカルタの日本中古冷房車となった103系は、5色の塗装を纏い熱帯の街を走り続けたのでした。
 残念ながら、武蔵野線そのままのオレンジにスカートを付けただけの姿、そして旧国新潟色を彷彿とさせる姿は撮影が叶いませんでしたが、伝説の名作と言って良い青系ツートン、東海色、現行KCJ色……と、それぞれに美しい姿を纏った103系の姿にどれだけ歓喜しながらシャッターを切ったことでしょうか! そして、初訪問時にはボゴール線急行で活躍し、凄まじい雄叫びを上げながら急勾配を登って行ったときの感動は、今も瞳を閉じればありありと思い浮かべることが出来ます……。
 さすがにその後、メトロや203・205系が増えると主役の座から追われてしまいましたが、一昨年はたまたま、スルポン=バンテン線のマジャまで長駆して来た103系に乗り合わせてタナアバンまで帰るという千載一遇のチャンスにも恵まれました。そして昨年の8月15日(=敗戦記念日=インドネシア独立記念日イブイブ)には、日本におけるインドネシア鉄道の最良の理解者でおられる落花生。様とともに、ドゥリからマンガライまで約20分のガラ空き103系の旅を楽しみ、戦後70年の日本とインドネシアの関係を振り返りつつ、103系という存在の偉大さを改めてかみしめたものです……。
 103系は、メンテが容易な抵抗制御車で、実際インドネシアの整備関係者の皆様にも好評だったと側聞しますが、JREにおける大量廃車と輸出のタイミングが噛み合わなかったことなどもあり、103系の輸出が16両で終わってしまったのは残念なことです。とはいえ、アジア経済危機による荒廃から立ち直ったインドネシアが注目の新興国として台頭する中、世界で最も交通渋滞が終わっている首都ジャカルタの大動脈の担い手として103系が奮闘した事績は、今後も永く鉄ヲタの心に刻み込まれ続けることでしょう。

 Terima Kashih Banyak dan Selamat Jalan,
 Seri SERATUS TIGA di Jakarta!

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2 コメント

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Unknown (落花生。)
2016-01-09 02:05:49
おっとっと様、
本年も宜しくお願いいたします。
103系、とうとう最後の1編成が落城してしまったようですね… JR西がなくなっても最後までこれだけは運行し続けて欲しいと願っていたのですが、残念です。地元鉄の中には、再度復活させるという情報もあるようですが、正直なところ、可能性は低いのでしょう。
私も初めてジャカルタにやって来た、まだオレンジ色の武蔵野線色のままの編成を見て以来、各色時代共に親しませていただきました。車両としては本来メンテナンスのし易さがある一方、譲渡元のJR東日本が現在ほど当地に対して熱心ではなく、十分なマニュアルや、日本における過去の改造内容などの情報をキチンと渡して上げなかったため、現場では別の意味での苦労があったようです。
それでも長い間地元鉄に愛され、そして日本から起こしの皆様の第一目標であり続けてきた103系16両の当地における活躍については、私もおっとっと様と共に長く心に留め置きたいと思います。
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Unknown (おっとっと)
2016-01-11 12:59:18
>落花生。さま
 こんにちは、コメントどうもありがとうございます!
 こちらこそ本年も宜しくお願い申し上げます! m(_ _)m
 ジャカルタの103系、結局西の103系よりも先に引退となってしまいましたが、これもひとえに少数の譲渡でとどまってしまったのが最大の原因でしょうか。それなりに多数を占めていれば、部品取りも充分な数を確保し、延命に次ぐ延命を重ねることが出来たでしょうから……。今やJREが南武線車両のジャカルタ譲渡を一般向けにも宣伝しまくるご時世で、それだけ人口減少の時代における海外事業に関心を持っているということなのでしょうけど、103系譲渡当時やその後しばらくの間は、なるべく有利な条件で(113系との抱き合わせ販売とか、明らかに解体費用節約ついでの一儲けのような……)売ろうとして折り合わなかったという話もあったような、なかったような……。これに加えて、マニュアルや改造内容などの伝授不足もあったのですか……。
 そんな、決して宜しくない譲渡条件や、今と比べても全然予備車が足りず過酷な条件での運用が続いたという状況の中でも、KAI→KCJスタッフの懸命のメンテナンスによってここまで走り続けたということ自体、103系の超絶な頑丈さ・パフォーマンスを証明するものだったのでしょうね。やはり103系は、一見ボロでも名車の中の名車です……。
 私がジャカルタを訪れようと思った二大動機は103と東急でしたので、その半分が崩れたのは「一つの時代が終わった……」かの感がありますが、東急8000系列はもうしばらく奮闘しそうですので、東急には103系の分も頑張ってもらいたいものです。
 
 それにしても……今後はジャカルタ詣でをする人の年齢層も、103系や東急8000系列が超ストライクな世代から、「103系を知らない子供たち(=物心ついた頃には首都圏主要路線から103系が引退済み)」へと次第に変わって行くのでしょうね。ともあれ、103と東急の全盛期から、205帝国へと変貌する壮絶な過渡期に、ジャカルタ・スラバヤ勤務を続けて来られた落花生。さまにとっても、さぞかし万感の思いが去来されていることと存じます……。(まさに大河ドラマ的世界! ^^;)
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