日本では”進化”論と誰もが疑うことなく使っている。進化は定方向に向かう、”進歩”と同義語として使われている。
進化はEvolutionを訳したことになっているが、Evolutionは、発展、展開、進展もっと基本的には変化するという意味でしかない。日本では誤訳が定着して進化という意味もつけ加えられている。
進化論は、チャールズ・ダーウィンによって提唱されたと一般に思われているが、ダーウィンは一度も進化という言葉を用いていない。進化論のバイブルとなっている、「種の起源(Origin of Species)」は反響が余りに大きく、初版本発行の1859年から改訂版が6版も出されている。「evolution」という言葉がやっと登場するのは、5版目からである。それまでダーウィンが使っていたのが、「descent with modification」である。これは種は変化をしながら系統だって行くというダーウィンの分析の主張を示した言葉である。系統の変化をダーウィンはビーグル号の世界一周で確信したのである。これでは分り難いので、5,6版でようやくEvolutionを用いるようになった。
日本では、世界で唯一良い方向にしか行かないという意味の、「進化」という言葉を使っている国である。私たちの臀部に尾がなくなったのも、Evolutionであるが、進化とは言えず止むを得ず「退化」という言葉で誤魔化している。
資本主義は経済成長が命題である。環境がそれを容認する体力がなくなっている。なのに相も変わらず、成長を唱え続ける社会は、縮小する社会を理解することができない。
北海道の夕張市はかつて12万人近くいた人口は、7000人少々となっているし、歌志内は4万人以上いた人口は4000を切ってしまっている。それでも市政を失っていない。3000人台の市は奇妙であるが、後退することなど念頭にない制度である。
進化しか考えない人類、成長しか命題を持たない資本主義は、進化のドグマから脱した社会を思考する時期になっている。もう遅いかもしれないが。