日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

映画「ブラックブック」を観る。

2007-05-03 09:45:43 | 本・映画・テレビドラマ・絵・音楽
2006年製作、当地は4月~公開。
1944年ナチス占領下のオランダが舞台の映画「ブラックブック」。
当然ユダヤ人は隠れ家での生活。
ナチスから逃れるため連合軍に解放された南へ逃げれば安全という警察官誘いを善意に解釈したところから始まる。
南へ逃げようと木造船に乗った全員、ラヘルの家族全員も一気に射殺される。川に飛び込んで一命をとりとめた元歌手ラヘルは、死んだユダヤ人から財産が悉く剥ぎ取っていくのを見る。
目の前で見た恐怖の体験を抱えて、1人きりになったラヘルがレジスタンス運動仲間の中で行動し、スパイとしてドイツ軍将校に近づき…。
やがて45年のドイツ敗戦、オランダが連合軍に開放されるまでを描いている。

自分の生まれる4.5年前の西ヨーロッパでは、人々はこんな悲惨な状況下にあったのか。今のヨーロッパの人たちも、この時代の記憶を背負ってきているのか。
つくづく、そういう思いでみた映画でした。
そりゃ、いままでも、この時代のヨーロッパを取り上げた映画を何作も見ています。
いくつ映画があっても、まだ、こうして映画を作りたい、映画で描きたいという、ヨーロッパ人の監督さんたちの意思を思います。
仲間として行動しているその人が、とか、信頼できる医師や法律家と思っていた人が、平時であれば、当然このような行動をとるはずもない人たちが、偏った権力に寄り添っていくさまが、残念というか、人間の弱さなのだとつくづく思いました。
平時に明晰に判断することは平易です。でも武力戦争、強いほうにつかなければ、命の保証までが危ういとき、人はいかに脆いか、それを思います。

かつての時代は、今と違って良心的な人の割合が少なかったとは思いません。
いつの時代も、そんなに違わないはずです。
どこかで分水嶺を越えてしまうように、戦争と言う手段を認めてしまうと、なだれを打ったように、「良心」の羅針盤は狂いだします。

ものは、言い方次第で、解釈が変わることもあります。
どの時代も、よほどのことがない限り「戦争」は、「したい」のではなく「せざるをえない」という大義名分の下に行われるのでしょう。
でも、どんな「大義名分」があっても、「絶対武力を使った戦争はしてはならない」。
このことは、繰り返し訴えていく必要があり、その表現としての映画なのでしょう。
23年間ハリウッドで映画作りをしてきた監督が、生まれた国に戻って製作された映画だとか。
ヨーロッパ人は生活の中に敵が潜むという経験をしています。
ヨーロッパ人は戦場となった歴史を持っています。
その経験から、再度「戦場を作ってはならない」メッセージャーとしての映画だと思います。


コメント
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