日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

「生きていること」、そして「死」ということを考えていたら・・・。

2007-05-29 10:17:02 | 私の雑感あれこれ
昨日は、現役大臣の自殺というニュースが飛び込んで…、こんな死に方もと、それはそれで、驚くことではありますが、あり、なのですね。

私が、家事をしながらも、「死」とか「命」を思っていたのは、26日の土曜日に、ある方の「偲ぶ会」に行ったことから、でもあります。
その方は、ガンのため78歳でお亡くなりになったのですが、本人がガンであることの告知を受けて、自分の命の終わりが近いと意識して過ごす、その心境を想像したりしていたわけです。
偶々、回復しえない病を患ったことを受け入れて、尚今までの仕事の続きのやれるところまでをやり、やりとおせないことを自覚して、そのことをも自分に納得させて(納得したくなくても、こればかりはどうしようもない)、生を終える。

うーん、そんなものか。
だよね。
そんなものだよ。
世の中、思い通りにならないことって、これまでにもいっぱいあった。
「死」を、突然宣告されても、案外、これまでの、思い通りにならない、受け入れざるを得ないことの一つ、そんなものでは、なんて考える。

古来多くの人が、「死」を思い、誰にでも訪れる「死」を記してきたけれど、誰にでも一度は訪れる機会であって、今語り合ってみたところで、その仲間の誰もが経験したことのないこと。

死ぬかもしれないと思って、一晩過ごしたときがある。
そのときは、すごく現実的で、自分の死ぬことを悲しく思うより以前に、私がいなくなることの、家族の役割としての、とりあえずの不都合を心配した。
これは、ホント。…一晩だけで、死の不安は解消したけれど。
わたしって、変なのだろうか。
ただ、自分として残念だなと思ったのは、子供達が育った姿が見られないのだ、あーあ。と感じた程度。
勿論、診断結果がなんともなくて、体がフワッと軽くなったように思えた、あの感じも覚えている。

そんな経験から10年は過ぎただろうか。
当然課されている「死の宣告」の件を、時には失念して生きている。
で、「偲ぶ会」などに出席すると、自分の「生きていること」をことさらながら自覚させられ、その、当然ながらの、期限付きの「生」を如何に生きていくかを、考える、というか、考え込んでしまっている。

確かに、無事子供らは育った(のだと思っている。音沙汰なしだし…笑い)。
とすると、かつての時と違い、自分の生は、自分のためのもの。
だとすると、どういう「生き方」をすることが、自分に一番嬉しいか、そんなことを考え、期限がやってくる日を、満足感をもって受け入れたいものだと、そんな風に考えている。

78歳で亡くなったその方は、自分の死期を自覚しながら、活動を続けていらっしゃったそうです。
その方のやり残すことになった課題を引き継ぎ、自分は天国へ行ったときに、お知らせしなくては、というご挨拶をなさる方もおられました。

実際に接しても、書物で出会っても、人の数だけの、いろんな生き方がある、つくづくそう思います。
期限付きであることを、時には自覚したりすることが多くなりました。
充実した生き方でありたいために。
欲張りなのです(笑い)。







コメント
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