久しぶりに顔を見に行くからね、北陸に住む母に伝えた電話。
今日は大掃除なんだけれど、90(歳)を過ぎて、役立たずだから、自室で休んでいる、と。
そういえば実家の大掃除は、畳を炎天に干して、縁の下に風を通して乾かして…、と手伝いをしていた頃の、記憶が読みがえる。
昔の家だから畳が多い。1階だけでも、12畳、8畳、4畳半。
畳の下に敷いていた古新聞の埃を払うのも、炎暑の中での汗だくになる仕事だった…。
今日、仏壇の前で、昔の辛かった5年間のこと、また思い返していた、と。
昭和16年間からの5年間。
昭和15年生まれの乳児を抱え、満年齢で23歳の母。
夫が出征し、収入がない。
町で唯一の工場である紡績で働きたいと、姑に頼んだけれど、
「紡績は嫌いだ」とはねつけられる。
どうしようもなく思っている翌日、何もしないでどうして暮らしていくのかと、叱責。
はたと困って、ついた仕事が「砂利運び」という重労働。
電話口の母。
若い人は誰もいなかった。
殆どが男の人。
それも50、60歳の年取った、農家の普段から力仕事をしてきている人たち。当然、働き盛りは出征している時代。
そんな中に混じって、若い女の自分ひとりが、初めての重労働に耐えるしかなかった、誰にも愚痴をいわないでやりぬいた5年間を振り返ると、何回思い出しても、涙で胸いっぱいになるよ。
実家も歩いて15分程度のところにあるけれど、親には心配させたくないから、一切辛い話は聞かせなかった、という。
私は3人兄弟の真ん中で、女一人。
だから、何度も何度も、母親の苦労話を聞いてきている。
時には、またか・・・と、思うことも。
でも、90歳を超えても、母親の語る日々の過酷さは減らない。
毎日の辛い日々は、天から自分に与えられた試練だと、そう思ったから耐えられた。その試練を耐えたから、今、幸せなのだと、「今、幸せ」と言う言葉が出てくると、「よかったね」と相槌を打って、母との話は終わる。
今日、聞いた、少し具体的ことを並べてみる。
山に砂利を担ぎ上げる仕事の手間賃
砂利1貫(3.75キロ)につき5銭
1回で6貫(22.5キロ)を担ぐから、1度で30銭
母には1日5回が限度で、1日で1円50銭
働く時間は、早朝3時から午後3時の12時間
-本当に朝の3時か、と信じられなくて念を押したけど、そう、星が出ていた、と返事。なんと!
休日は特になし、で、雨が降ったら休み。
1ヶ月30日働いて、45円
雨の日が多いと、収入は減る。
戦時中とはいえ、労働環境に驚く。
同じ年頃の仲間は一人もいなくて、ただ耐えた。
給料袋は、封を切らずに姑に渡したから知らないけれど、労働単価から、ほぼどれだけの収入だったか、母の想像。
その収入は、姑と母と長男の生活費。
昭和21年、あまりの過酷な労働をしていることを見かねて、人から紡績工場を勧められる。そのときは、何故か姑も反対しなかったので、工場勤務となる。
結婚前は仕事場で指導する立場で働いていたこともあって、臨時工から、1ヶ月足らずで本採用になり、教える係に抜擢、砂利運びの重労働とは、体の疲れ具合が格段に違った、という。
工場では、給料のほかに住宅手当、扶養手当、割り当ての畑(※)も与えられ、給料袋の中身も、以前より分厚かったと思う、と母。
-ここでも、母は給料袋を自分で開けずに姑に渡しているので、金額は知らない。
(※)当時は食糧事情が悪かったことから、工場の空き地を畑作地として、従業員に作付けを認めていた。
昭和23年7月下旬、夫のシベリアからの帰還。
「シベリアに連れて行かれると、殆ど帰ってこられない」なんて、気軽に口にする人がいて、腹立たしかった、といっていた頃も、まだ20代。
幾年月。
好きな花も思いっきり作れたし、幸せだった、と続く。
今は、花が咲いてても、(足が不自由で)そばまで行くのがままならなくなって、ここ2、3日見ていない、と。
また、今度来たら、話聞いてね。
うん、行くからね。
そういって、受話器を置く。
今日は大掃除なんだけれど、90(歳)を過ぎて、役立たずだから、自室で休んでいる、と。
そういえば実家の大掃除は、畳を炎天に干して、縁の下に風を通して乾かして…、と手伝いをしていた頃の、記憶が読みがえる。
昔の家だから畳が多い。1階だけでも、12畳、8畳、4畳半。
畳の下に敷いていた古新聞の埃を払うのも、炎暑の中での汗だくになる仕事だった…。
今日、仏壇の前で、昔の辛かった5年間のこと、また思い返していた、と。
昭和16年間からの5年間。
昭和15年生まれの乳児を抱え、満年齢で23歳の母。
夫が出征し、収入がない。
町で唯一の工場である紡績で働きたいと、姑に頼んだけれど、
「紡績は嫌いだ」とはねつけられる。
どうしようもなく思っている翌日、何もしないでどうして暮らしていくのかと、叱責。
はたと困って、ついた仕事が「砂利運び」という重労働。
電話口の母。
若い人は誰もいなかった。
殆どが男の人。
それも50、60歳の年取った、農家の普段から力仕事をしてきている人たち。当然、働き盛りは出征している時代。
そんな中に混じって、若い女の自分ひとりが、初めての重労働に耐えるしかなかった、誰にも愚痴をいわないでやりぬいた5年間を振り返ると、何回思い出しても、涙で胸いっぱいになるよ。
実家も歩いて15分程度のところにあるけれど、親には心配させたくないから、一切辛い話は聞かせなかった、という。
私は3人兄弟の真ん中で、女一人。
だから、何度も何度も、母親の苦労話を聞いてきている。
時には、またか・・・と、思うことも。
でも、90歳を超えても、母親の語る日々の過酷さは減らない。
毎日の辛い日々は、天から自分に与えられた試練だと、そう思ったから耐えられた。その試練を耐えたから、今、幸せなのだと、「今、幸せ」と言う言葉が出てくると、「よかったね」と相槌を打って、母との話は終わる。
今日、聞いた、少し具体的ことを並べてみる。
山に砂利を担ぎ上げる仕事の手間賃
砂利1貫(3.75キロ)につき5銭
1回で6貫(22.5キロ)を担ぐから、1度で30銭
母には1日5回が限度で、1日で1円50銭
働く時間は、早朝3時から午後3時の12時間
-本当に朝の3時か、と信じられなくて念を押したけど、そう、星が出ていた、と返事。なんと!
休日は特になし、で、雨が降ったら休み。
1ヶ月30日働いて、45円
雨の日が多いと、収入は減る。
戦時中とはいえ、労働環境に驚く。
同じ年頃の仲間は一人もいなくて、ただ耐えた。
給料袋は、封を切らずに姑に渡したから知らないけれど、労働単価から、ほぼどれだけの収入だったか、母の想像。
その収入は、姑と母と長男の生活費。
昭和21年、あまりの過酷な労働をしていることを見かねて、人から紡績工場を勧められる。そのときは、何故か姑も反対しなかったので、工場勤務となる。
結婚前は仕事場で指導する立場で働いていたこともあって、臨時工から、1ヶ月足らずで本採用になり、教える係に抜擢、砂利運びの重労働とは、体の疲れ具合が格段に違った、という。
工場では、給料のほかに住宅手当、扶養手当、割り当ての畑(※)も与えられ、給料袋の中身も、以前より分厚かったと思う、と母。
-ここでも、母は給料袋を自分で開けずに姑に渡しているので、金額は知らない。
(※)当時は食糧事情が悪かったことから、工場の空き地を畑作地として、従業員に作付けを認めていた。
昭和23年7月下旬、夫のシベリアからの帰還。
「シベリアに連れて行かれると、殆ど帰ってこられない」なんて、気軽に口にする人がいて、腹立たしかった、といっていた頃も、まだ20代。
幾年月。
好きな花も思いっきり作れたし、幸せだった、と続く。
今は、花が咲いてても、(足が不自由で)そばまで行くのがままならなくなって、ここ2、3日見ていない、と。
また、今度来たら、話聞いてね。
うん、行くからね。
そういって、受話器を置く。