日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

呪文のように唱えながら、、、。

2020-01-15 14:36:10 | 庭 1月
バラの剪定作業は続きます。

「エンピツより細い枝には、良い花芽はつかない」と、声にならねど、パチンと鋏を入れるごとにフレーズを唱えているワタシ。

庭を始めて2~3年目ぐらいまでは、枝をなるべく伸ばしたい心理が働いていたのですが、昨今は、思いっきりパチリ、パチリです。

毎年、節分の恵方巻きよろしく、巻きずしを作りますが、そのころには、キッチンで酢を扱うと、「イテッテテテ!!!」となります。苦笑

バラの棘で、手元が負傷しているんです。

今日もよいお天気。

剪定枝もこのように。


まだまだ続きます。

で、剪定がためらわれるバラもあって、また、室内に入って、カメラを取ってきました。

ジュビレデュプリンスモナコ。




プリンセスアイコが開いてきました。


つるゴールドバニーも。


スイセンもあちこちで早春の使者の如く、です。










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人のうわさも75日。

2020-01-15 07:42:19 | 私の雑感あれこれ
年末のビックニュース、ゴーン氏の逃亡劇。

WEBニュースに流れたのも数日。
その中で、気になったことからの雑感。

8日にベイルートで開いた記者会見では、ゴーン氏は世界中から集まった記者たちに多言語を駆使して応えた、とあった。
英語、フランス語、アラビア語、ヘブライ語、とかだろうか。
ただし、日本からもたくさんの報道関係者が駆け付けたけれど、入室を許可されたのは5名のみ。そして、彼は17年間も日本で暮らしていたのに、日本語を話せるようにはなっていなかった、と。

少し前に観た、スペイン統治下のメキシコを描いた修道女の映画では、現地人の言葉が王族の耳に入ることすらけがらわしい、というシーンがあったりしたのを思い出した。

『ベトナム戦争の記録」というドキュメンタリー映画では、フランス統治下のベトナムでは、統治者側は一切ベトナム語を使うことなく統治していた、というのも併せて思い出す。

そういうもの、なんですね。
統治に来ている立場の者が、現地の言葉を身に付けなくてもなんの不都合はナイ。
その路線だと思えば、あの自動車会社は、ゴーン帝国だったのでしょうか。

民間会社だから、運営に口出しできるのは、株主の立場としてに限られてくるだけで、

ああ、そういう企業だったの~、としか言いようがありませんが、これから、どう展開していくものか。

専制君主がアリ、の時代には、いろんな無理もとおっていたのだろうと、そして、現代でも水面下で、いろんな取引がなされているのだろうか、とも。

これで、かの会社(の株価は。苦笑)はどうなっていくのでしょう。


コメント (2)
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曽野綾子著『納得して死ぬということ』を読む

2020-01-15 06:46:48 | 
同著者の『自分の始末』と2冊を図書館から借りてきた。
『自分の始末』のほうは、彼女のまとめたものではなく、かつての著作物からの抜粋を編集したもの(
本が売れないという昨今、編集者の売り上げ期待した作戦もあるのかしらと)。

タイトルの本は、夫の三浦朱門さんが91歳で亡くなった後に書かれたものです。
彼女は終戦時に13歳だったとあるので、私は戦後の24年生まれだから、17歳年下。
85歳を超えて書いている彼女の『今をどう生きるか』は、私が今欲しがっているものとはちょっとズレを感じて(、彼女が17年前の心境は違っていただろうし、と)、流し読みで終わるつもりだった。

そんな流れだったのに、ちょっとメモっておこうかな、という気持ちにさせられたので、記しておきます。

 以下引用。


 朱門が亡くなった時、私が見つけたのは、彼が人間的に成熟した人だった、ということだった。現実はけっしてそうではない。彼はぶきっちょで、幼稚園の子供でもできるような手先の細工ができなかった。つまりエプロンの紐を首の後ろで結ぶようなことは、最後までできなかったのである。
 しかし、彼の精神は大人だった。彼は、単純に自分の接した相手の評価をしなかった。物質的なものを求めすぎる人や、すぐ結果を期待する人のことは少し笑ったが、そのたびに私は自分が笑われているような気がした。
 考えてみると、人は生きている限り、年齢によっても、環境によっても変わっている。だから、結果は出ない。その人が亡くなった時、私たちは初めてその人の存在意義について答えが出るのかもしれない。

(下線はブログ主による)
この文章の前には 
人は失ったものの価値を、失った時に最もはっきり見つける、というフレーズがある。

彼女のこの時の心境なのだろう。

そうか、、、と、少し感じ入っている状態で、ページをめくると

引用

努力と結果は一致しないし 
将来の幸福とも関係ない
努力は現世で
成功するためではなく
悔いなく死ぬための準備でもある


という、私にとってのド・ストライクとなるような、豪速球がさらりと、見出しに出てくる。

読みながし本と軽く読んでいたのに、あらら、出会ってよかった本になりました。

納得して死ぬということ、とは、自分の「生きる」を精一杯やり遂げること、に通じるんですよね。共感

ガンジーの「自伝」を何度も読み返している、という。やっぱり、曽野さんも、ガンジーか、、、、とも。

あの、ガンジーの言葉、きっとこころにとめておられるのでしょう。









コメント (2)
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