このブログをスタートした月、10年前の3月の記事でした。
「白いコート」
中国を腐す話題が出るたびに、中国で暮らすひとりにはこんな人もいるのに、と日本で暮らすひとりは思うのです。苦笑
まったく別の折(天安門事件の翌年)ですが、頭でっかちの私は、中国の知識人(医師資格をお持ちの留学生)の方を、裁判所に案内しながら、この国では、国を訴えることもできるし、新聞社は政府の悪口を記事にすることあるんですよ、と解説したものです。
彼は、ほぉ~とうなづいていたけれど、どこまでわかっていたのか不知です。
中国では、まだまだ行政府批判はご法度なのでしょう。
戦後の暮らししか知らない私たちは、言論の自由は当然のもの、と空気同然に書きなぐっています。
先日、テレビで終戦直後を取り上げた番組がありました。
終戦の数か月前に、「日本は戦争を早く止めるべきで、このままでは負けるだけだ」というような発言をしたことで検挙され、その裁判の判決が終戦後にあり、彼は有罪判決を受けた、という。世の中は彼の発言通りになったのに、裁判は有罪という不可思議。
実際の新聞記事が紹介されていました。
70年前は、私達の国は(も)、こんなトンチンカンがまかり通っていたのです。
私たちは、今現在はブログの文章に国のチェックが入る、なんて思うことなく綴っています。かつては、そうでもなかったし、今もそうできない国があり、それらの国も、私たちの国が変わったように、いつかは変わるだろう、という、緩い枠で見ていたいと思うのです。
今は、今年亡くなった阿川弘之さん(阿川佐和子さんの父上)の「山本五十六」を読んでいます。戦争に突入していった当時の軍部の空気を知ることができるかと思って。
これも「戦艦武蔵」同様、記録文学の分野に入るのでしょうか。戦中を知っている方々からの置手紙のように思えます。
なんだか、支離滅裂な綴り方になってしまいましたね。
要は、隣国を嫌だと決めつけてしまいたくないこと。
いつの時代も、外交は困難を極めるものなのだ、ということ。
戦争は外交の失敗の結果であるから、賢い道筋を模索しなくてはならない、ということ。
まとめてみようと思っても、ピンボケにしかなりません。
ゴメン。
「白いコート」
中国を腐す話題が出るたびに、中国で暮らすひとりにはこんな人もいるのに、と日本で暮らすひとりは思うのです。苦笑
まったく別の折(天安門事件の翌年)ですが、頭でっかちの私は、中国の知識人(医師資格をお持ちの留学生)の方を、裁判所に案内しながら、この国では、国を訴えることもできるし、新聞社は政府の悪口を記事にすることあるんですよ、と解説したものです。
彼は、ほぉ~とうなづいていたけれど、どこまでわかっていたのか不知です。
中国では、まだまだ行政府批判はご法度なのでしょう。
戦後の暮らししか知らない私たちは、言論の自由は当然のもの、と空気同然に書きなぐっています。
先日、テレビで終戦直後を取り上げた番組がありました。
終戦の数か月前に、「日本は戦争を早く止めるべきで、このままでは負けるだけだ」というような発言をしたことで検挙され、その裁判の判決が終戦後にあり、彼は有罪判決を受けた、という。世の中は彼の発言通りになったのに、裁判は有罪という不可思議。
実際の新聞記事が紹介されていました。
70年前は、私達の国は(も)、こんなトンチンカンがまかり通っていたのです。
私たちは、今現在はブログの文章に国のチェックが入る、なんて思うことなく綴っています。かつては、そうでもなかったし、今もそうできない国があり、それらの国も、私たちの国が変わったように、いつかは変わるだろう、という、緩い枠で見ていたいと思うのです。
今は、今年亡くなった阿川弘之さん(阿川佐和子さんの父上)の「山本五十六」を読んでいます。戦争に突入していった当時の軍部の空気を知ることができるかと思って。
これも「戦艦武蔵」同様、記録文学の分野に入るのでしょうか。戦中を知っている方々からの置手紙のように思えます。
なんだか、支離滅裂な綴り方になってしまいましたね。
要は、隣国を嫌だと決めつけてしまいたくないこと。
いつの時代も、外交は困難を極めるものなのだ、ということ。
戦争は外交の失敗の結果であるから、賢い道筋を模索しなくてはならない、ということ。
まとめてみようと思っても、ピンボケにしかなりません。
ゴメン。