詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

緒加たよこ「お庭のきんぎょ」

2024-08-08 22:37:17 | 詩(雑誌・同人誌)

2024年08月05日(月曜日)

緒加たよこ「お庭のきんぎょ」(朝日新聞、2024年08月07日夕刊)

 緒加たよこ「お庭のきんぎょ」(朝日新聞、「あるきだす言葉たち」)は、「説明」を省略した作品である。その全行。

お庭のきんぎょのお池のよこで
きんぎょたべました
じゅうじゅう焼いて
きんぎょ?きんぎょ?
じゅうじゅう焼いて
きんぎょ?きんぎょ?
そうじゃそうじゃ
そうそうそうじゃ
おじちゃんと
おにいちゃん
にこ 
にこ
にこにこ
にこにこ
お庭のきんぎょ焼いてたべたよ
まま、
まま、
きんぎょをみるたび
これたべた
あたらしいともだちができるたびに
いいました
じゅうじゅう焼いて
じゅうじゅう焼いて
お庭のきんぎょのお池のよこで

 そのまま読むと「金魚を庭で焼いて食べた、バーベキューの食材に、庭の池にいた金魚を焼いて食べた」という情景が浮かんでくる。もちろん、そういう「読み方」があってもいいと思う。
 私は、しかし、そんなふうに読まない。
 この詩に特徴的なことは、同じことばが繰り返されていること。ことばというよりも、「音」と言った方がいい。「音」は「意味」ではない。「音」は「声」であり、「声」はは何よりも「感情の動き(意味)」を伝える。それは辞書にある「ことばの意味(定義)」を超える。
 で、ここからなのだが。
 この詩のなかで「意味」になりにくい「音」は何か。「じゅうじゅう焼いて」の「じゅうじゅう」が、「わかる」けれど、それ「意味」として明確にするのは難しい。何かが焼けるときの「音」。その何かは「乾いた」ものではない。なかから液体(脂、水分)がにじんでくると、熱に反応して「じゅうじゅう」と音を立てる。この詩の主役(?)は、その音に反応している。車をブーブー、犬をワンワン、猫をニャーニャーという「音」で把握するように、バーベキューを「じゅうじゅう」という音でつかみとっている。
 その幼い子(たぶん)にとって、その「じゅうじゅう」という音のいきいきした漢字は「きんぎょ」という音の確かさに似ているのかもしれない。逆に言えば、「きんぎょ」という音は「金魚」ではないものを指しているかもしれない。「きんぎょ」という音の確かさ、音の手応えは「そうじゃそうじゃ」に似ている。同じ音を繰り返す「にこにこ」「まま」もその類かもしれない。その幼い子のまわりにいるひとたち(おじちゃん、おにいちゃん、まま)は、それを理解して、「ことばの意味」ではなく、「声の調子(音のなかに動いているこどもの感情)」に「そうじゃそうじゃ」といい、「にこにこ」する。
 この「にこにこ」が、この詩では、とても重要。「じゅうじゅう」が実際に聞こえる「音」をなぞったものなのに対し(ブーブー、ワンワン、ニャーニャーも同じ)、「にこにこ」はどんなに耳を澄ましても聞こえない「音」である。「音」ではない「音」である。「音を超える音」。声にしなければ、存在しない音。
 詩というものが、ことばにしなければ存在しなかった感情を明らかにするものだとすれば、ここには同じように、ことば(声/音)にしなければ存在しなかったものが、ことば(音)として書かれている。「にこにこ」は誰もが知っていることばである。しかし、それは「音」として存在しないのに、私たちが「音」を通して受け入れている何かである。
 そうしたもの、それに類する何かが、この詩のなかで動いている。「きんぎょ」という音を出発点にして、「じゅうじゅう」という音をとおって、さらに自由に動いていく。
 私は、とりあえず、そういう「説明」をここに書いているが、緒加は、そういう「説明」をしない。ただ、「音」を動かして見せる。「音」「声」のなかにこそ、「辞書に書かれていることばの定義(意味)」を超える大切なものがあると知っている。そして、それを「形」にしようとしている。
 この一篇だけではわかりにくいが、緒加の詩には、独自の「音楽」がある。「音学」ではなく、「音の楽しさ」がある。音を説明すれば「音楽」ではなく「音学」になってしまう。「数学」とか「科学」とかに似たもの、あるいは「文学」もそうかもしれない。「学」にしないで、音を楽しみ、音楽に肉体をあわせれば(音楽に合わせて肉体を動かせば)、緒加の世界へ入っていけるだろう。

 緒加たかよは、朝日カルチャーセンター(福岡)の「現代詩講座(谷川俊太郎の世界)」の受講生。第一詩集「彼女は待たずに先に行く」(書肆侃侃房)は、講座で書いた作品を編んだもの。

 

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三重野睦美『たなごころ』

2024-08-05 21:01:18 | 詩集

三重野睦美『たなごころ』(梓書院、2024年04月30日発行)

三重野睦美『たなごころ』の「満月」。

月の夜に
犬とすれちがった

目があい
近づいて
すれちがい

ふりむいて
ためらいながら またすすんだ

カーンと冷たい
月の夜に

 
 最後の連の「カーンと冷たい」、とくに「カーン」がいい。乾いて、透明な感じがする。「カーン」という音(?)がするのかどうかわからないが、どこかに緊張感もある。
 とくに、どうのこうのという詩ではないのだが、こういう表現に出会うと、いい詩だなあ、と思う。
 三重野が書かなかったら、存在しなかった「一瞬」の世界。
 「中洲のカラス」にも、おもしろい行がある。

中洲のカラスはよじれたカラス
川にうつった自分をみている

 「よじれた」がとてもいい。どんなふうに「よじれ」ているのか。
 詩は、こうつづいていく。

おまえとおれをとっかえよう
つめたい川におれをすてよう
いたんだバナナの皮のように
チョコレエトの包み紙のように

そいつはやがて
よどんだ川の底に沈むだろう
そして朽ちて消えるだろう
地上で朽ちることといったい何がちがうのか

地上のカラスは
黒い翼をばたつかせ
よどんだ空の上を
飛ぶことにしたらしい

 詩は、一行、いや一語、そのひと独自のことばがあれば、それでいい。

 

 

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ネタばれ、その2

2024-08-03 21:55:06 | 考える日記

 映画、あるいは芝居において、監督+出演者と観客とは、どう違うのか。何が違うのか。
 いちばんの違いは、監督+出演者は「結末」を知っている。(ネタばれ、を承知である。)一方、観客は「結末」を知らない。
 しかし、「結末」を知らなくても、対外の場合は「予測」がつくし、こんな奇妙な例もある。男と女が恋に陥る。ふたりはほんとうは兄弟なのだが、幼いときに生き別れになっていて、それを知らない。しかし、観客は、それを知っている。そして、ふたりはいつ自分たちが兄弟であると知るのだろう、とはらはらしながら見守るということもある。
 で、ここで問題。
 兄弟であることを知らない男女という設定でも、役者は(そして監督は)脚本を読んでその事実を知っている。だから、ほんとうに大事なのは、役者や監督が「結末」を知っているにもかかわらず、まるで知らない、初めての「できごと」を体験しているという具合に演じ、演出しなければならないということである。
 いい映画、いい芝居というのは、それが演じられる瞬間において、それを演じる役者(演出する監督)が「結末を知らない」と感じさせるものなのだ。観客は、すべてを知っている。しかし、役者、監督は何も知らない。その「結末」がどうなるか知らない(いましか存在しない)と感じさせなければならない。
 観客が「結末」を知っているのだけれど、もしかしたら、それとは違う「結末」があらわれるかもしれないと感じさせる、あるいは「結末」を忘れさせる演技、シーンが、いちばんいい演技であり、シーンなのだ。観客の知っている「結末」を忘れさせてしまうような「現在」を噴出させる演技、芝居がいい演技、いいシーンというものなのだ。
 こういうことは、非常にむずかしい。だからこそ、ある何人かの監督は、脚本なしに、即興であるシーンを撮ることがある。何が起きるか、だれもわからない。その瞬間、その「いま」がとてもリアルになるからだ。

 ちまたでよく言われている「ネタばれ禁止」問題というのは、結局のところ、役者が下手くそになった(魅力的ではなくなった)、監督が下手くそになったという「証拠」にすぎない。
 また観客の多くが、役者の演技を見なくなったという「証拠」にすぎない。
 だからなのだと思うが、いわゆる「完璧な脚本」の映画が、ただ、それだけでいい映画として評価される傾向が生まれてきている。そんなものは、映画にせずに、ただ「脚本」として発表すればいいのではないのか。映画である以上、あるいは芝居である以上「脚本のでき具合、結末」を忘れさせる充実した「いま」が必要なのである。
 役者や監督に「ネタばれ」を叩き壊してみせる「肉体」の力がなくなったからこそ、「ネタばれ禁止」などということが言われるのだろう。

 具体例なしで書いてきたので、わかりにくいかもしれない。最後に、いい役者の具体例を書いておこう。「さゆり」という映画。役所広司が、たしか足の悪い男を演じていた。彼は、もてない。しかし、渡辺謙に近づきたい女がいて、役所を出汁につかおうとする。ちょっかいを出す。それを役所は、女が自分に気があると勘違いする。そして、その女にとても親切にする。つまり、すこし恋仲の男が見せるようなコビをふる。そのシーンを見た瞬間、ほんとうに役所が振られるかどうか知らないはずなのに、私は「おいおい、役所、お前は振られるんだぞ。出汁につかわれてるんだぞ。脚本を読んでいないのか」と、笑いだしてしまった。役所は、「パーフェクトデイズ」でも、おもしろかった。トイレ掃除のとき、三目並べの紙をみつける。いったん、それを捨てる。しかし、もういちどそれを最初にあった壁の隙間に戻す。それがどうなるか知っているはずなのに、まるで何も知らない。ただ、もしかしたら誰かが三目並べのつづきを書き込むかもしれないと、ふっと予想する感じで肉体が動く。それが、とてもよかった。きっと三目並べをはじめた誰かが書く。役所が期待してるとわかるから。一度もスクリーンに登場しない人間の感じている「見なくても(あわなくても)わかる」という意識の動きさえ引き出して見せる演技だった。 

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小松宏佳『崖』

2024-08-03 20:45:42 | 詩集

小松宏佳『崖』(紫陽社、2024年09月01日発行)

 小松宏佳『崖』の表題作「崖」の最後の部分。

それら経験の底には
崖の機嫌が横たわっている
うふふ、をやっていこう
冬だから怖いのよと言いながら
大股で近づいてくるのは
崖から見ても
わくわくするものだ

 「うふふ」と「わくわくするものだ」の呼応がおもしろい。「わくわくする」ではなく「わくわくするものだ」と「ものだ」をつけくわえているのが、ちょっとさめていて、それもいいかもしれない。
 ことばの動きが、荒川洋治っぽいなあ、と思った。こういうのは「印象」にすぎなくて、だからどうなんだといわれたら、別に何かを言いたくて言ったわけでもないので、説明のしようがない。
 ほかの詩にもそういうものはあるかなあ、と思い、ぱらぱらと読んだが、ぱらぱらがいけなかったのか、みつからなかった。
 でも、この詩集のなかでいちばん魅力的なのは、私が引用した数行だろうなあ。そういう数行、あるいは一行でもいいが、それがあれば詩集は詩集として成り立つと思う。

 

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洞口英夫『一滴の水滴が小鳥になる』

2024-07-30 21:22:28 | 詩集

 

洞口英夫『一滴の水滴が小鳥になる』(思潮社、202407月20日発行)

 洞口英夫『一滴の水が小鳥になる』はタイトルが魅力的だ。そのタイトルになっている作品。

一滴の水滴が
小鳥になる
私の死んだあとに
まるいとうめいな
球が出現して
その中に小さな私が
はいっていて
どこへともなく
とんでいった

一滴の水滴が
小鳥になる

 一滴の水がどうして小鳥になるのか。なんの「説明」もないのが、とてもおもしろい。夢を見た、その夢をそのままことばにした感じ。論理で、見たものを補足しようとしていない。何も補うことができないのだ。補えば、そこから嘘がはじまる。
 そのままにしている。何もしない。これは、簡単なようで、なかなかむずかしい。この「そのままにしている」というのは、「コスモス」では、こう書かれている。

コスモスが
風にゆれている
それだけで いい

道ばたに
青い小さな花が
咲いている
それだけで いい

みなそのままで いい
私は私のまま
いなくなる
それで いい

人にふまれても
咲いているタンポポそれでも
そのままで いい

いつか地球が
なくなる
いつか地球がほろびて
宇宙になる

 「それだけで いい」は「そのままで いい」と三連目で言いなおされている。だから、私が先に書いた「そのままにしている」というのは、たぶん「それだけで いい」と通じるだろう。
 何もしなければ、世界は(宇宙は)完璧なのだろう。宇宙自身の「理」というか「法」として、そこにあることになるのだろう。
 最終連の、最後、そこには「それだけで いい」が省略されているのか、それとも、最初から「ない」のか。
 たぶん「ない」のである。最後に「それだけで いい」と書き加えると、それはやっぱり「結論」のようなってしまうので、何もないのがいい。「それだけで いい」は洞口の「納得」のなかにあれば、それでいい。読者が肉体のなかでことばが動けば、それでいい。何も書かないことが「それだけで いい」を誘うのである。
  「それだけで いい」「そのままで いい」、つまり「何もしない」は「餓鬼」では、こう書かれている。「私」が「修業」している山の上に、「餓鬼」が攀じ登ってくる。それが、こわい。しかし、

私がここで
何か一ツでも、心にもない行為したら
終りだとおもって
私はじっと魂にしたがった
そしてじっとがまんしてたら
餓鬼共は皆谷底に落ちていった

 「何もしない」を「心にもない行為(を)したら」と言いなおしているのだが、これは、いいなあ。そうなのだ。人間はいつでも「何かをしよう」としたら「心にもない行為」になってしまうのだ。だから、「こころ」を動かさない。「そのままで いい」(それだけで いい)。「一滴の水滴が……」で私がつけくわえた「何も補わない」というのは、「こころにもないことば」をつけくわえないということである。補足しようと思ったときから、それは「こころにもない(こころが、その瞬間にうけとめたものとは違ったもの/こころがつくりだしたもの)」になってしまう。ことばは、こころを「飾る嘘」になってしまうことがある。だから、何もつけくわえない。「そのまま」にしておく。
 この世界につながるのが「くるみ」。

たにまのくるみの
樹の枝が
 川の流れのある方に
  枝を伸ばしていって
    たねを落とすように
人はいつか
 永遠の流れにのびていって命を落す

 「くるみ」の描写、木、枝、たね(実)の描写がとても美しい。私は、私の故郷にあるくるみの木を思い出す。川岸にあって、そのくるみは確かに川の法に枝をのばしている。川で泳いでいると、くるみの実が落ちて、岩に当たる。そこにとどまったままの実もあれば、流れにのって、どこかへ行ってしまうものもある。それは「無常」の世界かどうかしらないが、私はこの詩を読みながら、故郷の、あのくるみの木になった気持ちになった。そこに川の流れがあるから、そこに枝を伸ばす。それから先は考えない。そのくるみの木が、私には忘れることができない。

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ネタばれ

2024-07-29 18:13:14 | 考える日記

 「ネタばれ」ということばは、私は、どうにも好きになれない。何か「下品」な響きがある。その「ネタばれ」について、どう思うか、とある映画ファンから聞かれた。私は、最近は映画を見ていないので、映画について語るのはむずかしいのだが。
 私は、いわゆる「ネタばれ」というものを気にしたことがない。
 映画の結末を言わないでくれ、というのだが、結末がわかっていると何か不都合なことがあるのだろうか。
 映画にかぎらないが、多くの芸術・芸能は、未知の「結末」を知るために見たり、聞いたりするものではないだろう。多くの場合は「結末」を知っていて、その上で見たり、聞いたりする。これはギリシャ悲劇にはじまり、シェークスピア、近松も同じ。歌舞伎も同じだろう。「忠臣蔵」のストーリーを知らずに「忠臣蔵」を題材にした歌舞伎を見に行った江戸時代の人間なんて、いたんだろうか。知っているからこそ、見に行くのである。「映画」だけ、「結末」がわかっているとおもしろくない、ということはありえない。
 私は音楽ファンではないが、コンサートを聞きにいくとき、「予習」としてCDを聞く人もいるだろう。バレエも同じ。ジャズも同じ。ロックコンサートだって、みんなと一緒に歌うために、家で練習する人だっているだろう。みんな、それが何であるか、あることがどう展開するか知っていて、その場へ行く。
 どんなものでも「結末」というか、ストーリー(音楽ならば、旋律か)は同じだが、その「表現方法」が違う。その違いを味わうために見たり聞いたりするのだろう。「結末/展開」がはっきりわかっていた方が、その到達点へ向けて、出演者が(指揮者が、監督が)どんな工夫をしているか、それを見たり聞いたりするのがおもしろいのである。
 こういう言い方は好きではないが、「ネタばれ」はルール違反だとか何とか言うひとは、映画にかぎらず、楽しみ方を知らないのだろう。映画会社の「宣伝」に、頭の動きをにぶらされた人間なのかもしれない。「ストーリー」以外の「情報」を味わう能力を奪われた人間なのかもしれない。
 「ネタばれ」はルール違反と言いながら、映画会社の宣伝を受け売りしている「批評家」めいた人間が、私は、好きになれない。そうした強欲な宣伝マンに比べると、いわゆるミーハーの方が映画をよく知っている。よく見ている。
 何年か前、私は永島慎司(だったかな?)の漫画を原作にした映画を見に行ったことがある。映画館に到着するとロビーは、若い女性でいっぱい。彼女たちが、原作の漫画を知っているはずがない。なぜ?と思ったら。主演が、嵐の二宮なんとかが主役なのだった。彼が見たくて見に来ている。いいなあ。映画は、そういうものである。(芝居も、クラシックコンサートも、何もかも)。知っているものの、それでも知らない何かを見つけるために、見る、聞く。「私は、きょう、これを新しく見つけた」というために、見たり聞いたりする。いや、そんな面倒なことはしなくて、ただ「二宮、かっこいい、大好き」という自分の気持ちを確認するために見る、聞く。
 そのさらに昔、オードリー・ヘップバーンの「暗くなるまで待って」という映画。劇場の灯が全部消される。真っ暗になる。しかし、ある瞬間、ぱっとスクリーンが明るくなり、「キャー」という悲鳴が響きわたる。その悲鳴が大好きで、何度も何度も「暗くなるまで待って」を見たという男がいた。当時は入れ替え制ではなかったから、朝から晩まで、映画館にいる。ずーっと映画を見続けるのではなく、「キャーッ」という悲鳴が聞こえることを見計らって、劇場に入るのである。この楽しみは「ネタばれ」あっての楽しみである。私は意地悪な人間だから、こういうときは「ネタばれ」しない。知らないあなたは、映画ファンではない。そういう人には、私が書いた「楽しみ」がわかるはずがない。
 これは、映画や芸術だけではない。いまパリでオリンピックが開かれている。私は関心がないからテレビを見ないが、好きなひとはテレビを見、新聞を読み、さらにはネットで「記録」を検索して見るだろう。「結果」は知っている。けれど、見る。さらには、その「感想」を誰かに言ったりもする。
 小説も、詩も、哲学も同じ。すでに読んだことがあるものを、繰り返し読む。繰り返し読むことができるものだけが、おもしろい。「ネタばれ」してもしても、それでもなおかつ語りたいことがあるというものが、おもしろい。「ネタばれ」したらおもしろくなくなるものなど、最初からおもしろくないものなのだ。

 

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Estoy Loco por España(番外篇451)Obra, Luciano González Diaz

2024-07-28 21:01:33 | estoy loco por espana

Obra, Luciano González Diaz

 ¿El arpa nació del cuerpo de una mujer? ¿El cuerpo de la mujer nació del arpe? No hay necesidad de decidir eso. La mujer y el arpa se juntan para tocar música. La mujer y el arpa se vuelven uno en la música. O tal vez la música se dividió entre el cuerpo de la mujer y el arpa.
 Y este sentido de unidad está muy influenciado por los movimientos de los dedos de Luciano que permanecen en la obra. La música resonaba en el cuerpo de Luciano, y sus manos y dedos intentaron darle forma, dando origen a esta obra. Los dedos de Luciano tocan el cuerpo de la mujer como una mujer toca las cuerdas del arpa. En ese momento, la música que Luciano buscaba se desborda del cuerpo de la mujer. Luego toma la forma de la mujer tocando el arpa. Al mismo tiempo, del cuerpo de la mujer nace un arpa.
 El movimiento de los dedos sobre la superficie de la obra, el brillo simple pero fuerte que me hace sentir, es hermoso. Es una obra que me da ganas de cogerla y tocarla.

 女の肉体のなかからハープが生まれたのか。ハープのなかから女の肉体が生まれたのか。それを決める必要はない。女とハープが一体になり、音楽を奏でる。女とハープが音楽のなかで一体になる。あるいは、音楽が女の肉体とハープに分かれたのかもしれない。
 そして、この「一体感」には、作品にのこるルシアーノの指の動きが大きく影響している。ルシアーノの肉体のなかに音楽が鳴り響き、それを形にしようとしたルシアーノの手、指が、この作品を生み出した。女がハープの弦に触れるように、ルシアーノの指は女の肉体に触れる。そのときルシアーノが求めていた音楽が女の肉体からあふれる。そしてハープを弾く女の形になる。同時に女の肉体からハープが生まれてくる。
 作品の表面にのこる指の動き、それを感じさせるシンプルで強い艶の感じが美しい。手にとって、触ってみたくなる作品だ。

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野沢啓「大岡信の批評精神」

2024-07-26 22:05:52 | 詩(雑誌・同人誌)

野沢啓「大岡信の批評精神」(「イリプスⅢ」8、2024年07月25日発行)

 野沢啓「大岡信の批評精神」の最後の部分に、こんなことを書いている。(31ページ)

《すべての書を読んだ》マラルメのひそみにならって言えば、詩のことばはあらゆることばとの深い相互関係のなかで生きている。批評とはそうしたことばの深淵のなかにおもむき、そこから無限の富を引き出してくる試みであって、そこには限りというものがない。

詩人がことばのなりたちやその歴史を深く知ること、ことばにたいする豊富な経験をもつことがその直観力、着眼力などをどれだけ高めるものであるかを知らなければみずからの詩の営為に対する批判力をもつことはできない。

 その通りだと思う。
 そして、同時に、ここに書いていることは、野沢が「言語暗喩論」で展開してきたこととはまったく逆のことではないか、と私は感じる。野沢は、詩のことば「暗喩」は「突然」誕生すると言っていなかったか。そのために初めて雷鳴を聞いた(体験した)人間の発する驚愕の声や、初めて海を見た人間の発する声について語っていなかったか。「ことば」にならない「声」のようなものから詩、暗喩を語り始めていなかったか。
 私は、そういう野沢の「言語論」に与することはできないと言いつづけた。
 詩のことばにかぎらないが、「ことばはあらゆることばとの深い相互関係のなかで生きている」。これを「色や形はあらゆる色や形との深い相互関係のなかで生きている」と言いなおせば、絵画や彫刻についての批評となるだろう。さらに「音はあらゆる音との深い相互関係のなかで生きている」と言いなおせば音楽に対する批評になるだろう。「肉体はあらゆる肉体との深い相互関係のなかで生きている」と言いなおすことから、バレエ論、ダンス論(ブレイクダンスを含む)を語ることもできるだろう。あらゆる芸術は、すでに存在するもの、既存のものに対する「批評」の形で生まれる。それは言いなおせば、既存の「ことば」「色/形」「音」「肉体」がなければ「芸術」は生まれないということである。
 さらには「数字はあらゆる数字の深い相互関係のなかで生きている」「素粒子はあらゆる素粒子との深い相互関係のなかで生きている」「細胞はあらゆる細胞との深い相互関係のなかで生きている」という意識を深めていくことで、現代の科学は進展してきているかもしれない。
 詩に戻して言えば、詩は、すでに人間が「ことば」をかわして生きているという事実があるからこそ、その現実に対する批評として生まれてくる。それは、はじめて雷鳴を体験することや初めて海を見るときに発する「ことばにならないことば」とは関係がない。そして、そういう「創造」は詩の特権ではない。絵画でも彫刻でも音楽でもダンスでも、それぞれ「創造する力」をもっている。「哲学」も同じだろう。
 なぜ、詩を「特権化」するのか。それが、野沢の「言語暗喩論」に対する私の疑問である。

 「ことばとことばの相互関連」「ことばのなりたちや歴史」を、私は「ことばの肉体」と呼んでいる。人間の「肉体」の、たとえば「手」、たとえば「腎臓」。それはそれだけを取り出してあれこれ言うこともできるが、「本体」と切り離すと「いのち」ではなくなる。ことばも同じで、それは「肉体」とおなじように相互関連のなかで動いている。

 今回の野沢の論は、大岡信のことを書いているのか、藤原俊成のことを書いているのか、藤原定家のことを書いているのか、はたまたは紀貫之のことを書いているか判然としないが、それはそれでいいのである、と思う。大岡も俊成も定家も貫之も、そして野沢も日本語を生きており、そのことばは「独自」に見えても深いところで「相互関連」を生きている。
 そして、そのとき野沢は意識するかどうかわからないが、「文学」のことばだけではなく、ほかの分野のことば(色であったり、音であったり、手の動かし方であったり)とも関係しているし、そこにはあらゆる「識別」を超えた「運動」の「相互関連」もある。
 「暗喩」は、そうした「相互関連」を明るみに出すすべての「法(絶対理)」のようなものであるだろう。それが成立するためには、言及の対象が「現前」していないといけない。「存在」のないことろに「暗喩」は生まれない。「暗喩」とは「いま目の前にあるもの」をつかって、「可能性としてあるもの」をリアルに表現するものだからである。それを明確化するのは直観と粘り強い論理の冒険力である。そして、その「可能性としてあるもの」は、「発明される」というよりも「発見される」もの、つまりすでに存在するものである。
 「新しいもの」とは、すでにありながら「けっして古びないもの(これまで気づかれなかったもの)」のことかもしれない。それを論理(ことばの運動)で探し出すのが人間の仕事(特権)というものだろう。


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こころは存在するか(39)

2024-07-26 12:19:41 | こころは存在するか

 和辻哲郎「鎖国」の終の方に、こういう文章がある。

一五八二年二月、ワリニャーニが少年使節たちをつれて長崎を出発したあとの日本では、九州でも近畿地方でも新しい機運が五月の若葉のように萌え上がっていた。

 後半の「五月の若葉のように萌え上がっていた」は比喩であり、哲学書や学術論文には不向き(?)な表現かもしれない。しかし、私はふいにあらわれるこういう表現が好きである。そこには「感情の事実」が書かれている。和辻が、少年使節がヨーロッパへ出発したあとの日本の雰囲気に「興奮」していること、その時代をとても希望に満ちたものとみていることがつたわってくる。「新しい機運が盛り上がっていた」も感情をつたえるかもしれないが、まだ「弱い」。「五月の若葉のように萌え上がっていた」には、それこそ、和辻の感情が「五月の若葉のように萌え上がってい」ることを教えてくれる。何か「肉体」を見ている(読んでいる)感じ、「若葉」を見たときに興奮する「肉体」の感動そのものを見ている感じがする。
 それは、次の文章も同じ。

宣教師たちが自分の用をつとめなければ追い払う、--それは前の年にクエリヨに特許状をあたえたときの秀吉の腹であった。

 この「腹」は「思い」(考え)と言いなおすことができるが、「考え」では何か「弱い」。そこにいる「人間(肉体)」が見えてこない。「腹」ということばは「肉体」そのものを感じさせる。この「腹」ということばをつかうとき、秀吉の腹と和辻の腹はつながっている。つまり、和辻は秀吉の「考え」を「頭」で理解しているのではなく、「肉体(腹)」で理解し、「共感」している。
 それこそ、私は「こころ(精神)は存在しない」を、こういうときに実感するのである。存在するのは「肉体」である。「頭」が何か考えるのではない。「肉体」、たとえば「腹」が考えるのである。それは、ここではたまたま「腹」だが、あるときは「手」であり、「指」かもしれないし、「足の裏」かもしれない。どこでもいいが「肉体」が関与しない思考、感情など存在しない。そうしたことを、私は「感じる」。人間が何かを考えるときに必要なのは「肉体」である。
 それは「鎖国」に対する和辻の次の表現、なぜ「鎖国」政策が生まれたのかという次の表現からも、間接的(?)に感じるのである。外国との積極的な交渉ができなかったのは……、

為政者の精神的怯懦のゆえである。

 「肉体的な弱さ」ではない。「精神的怯懦」に原因がある。「精神的怯懦」が動くとき、「肉体」は動いていない。そのとき人間は「死んでいる」のである。逆に言えば、「肉体」が動き、世界に働きかけるとき、人間は「生きている」。そして、その働きかけを実際に表現するものとして、「肉体」と「ことば」がある。「ことば」は「肉体」に対して「(論理的)可能性」を教える。「精神(こころ)」など、気にしてはいけない。そんなものは「存在しない」と否定しなければ、何もできない。これは「暴論」かもしれないが、私が感じるのは、そういうことだ。

 

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青柳俊哉「あやめる」ほか

2024-07-21 23:23:46 | 現代詩講座

青柳俊哉「あやめる」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年07月15日)

 受講生の作品。

あやめる  青柳俊哉
 
花の分身として、花に結ばれ、花に帰依する蝶の本性。花
にしいられ、宇宙的な変身を遂げる蝶の神性を畏れる。
 
聖餐のように花の衛星がまう。小さな双対の花弁の、複雑
な飛翔の軌跡を追う。鋭角に舞い上がり、水面低く乱舞し、
秘密のように花に休む。
 
匂やかな葉先にとまって何かを思念している蝶……。羽を
立て微かにそよがせ、空気のわずかな乱れにも鋭敏に反応
する。その時意識を消して、花が発する霊力の衝撃に紛れ
て、羽をそっと指先で閉じる。あざやかに羽を摘みとり、
花の中へ沈める。指先は白や黄色の鱗粉にまみれた。
 
一続きのいのちを、蝶の羽に映じるわたしを花へ帰す。蝶
もわたしも花の模倣であり、花へ殉(したが)う草である。

 「あやめる」は「殺める」。そのとき、人間は何を感じるだろうか。小さな生き物を殺した記憶、というのは、多くの男性(少年)なら持っているだろう。そのときの記憶を、単に「殺した」という「客観的事実」ではなく、「肉体」そのものの変化としてどう消化/昇華できるか。そのとき「肉体」が受け止めたものを、どれだけ「ことば」にして表現できるか。
 この青柳の詩では「指先は白や黄色の鱗粉にまみれた」に「肉体」の反応がある。「まみれた」は「塗れた」である。「よごれた」でもある。このとき、その「塗れ/汚れ」をどう感じるか。それを深く突き進めると、詩は、強くなる。「塗れる/汚れる」はかならずしも「不快」とは断定できない。こどもたちは母親たちが顔をしかめるのをからかうように泥んこ遊びに夢中になる。有明の泥の干潟では「泥リンピック」という催しさえある。「気持ち悪い」ことは「気持ちいい」ことでもある。常軌を逸する「愉悦」がある。「愉悦」とは、いつでも小さな死と同時に不思議な再生である。
 この詩には、ひとつの「仕掛け」がある。最後の行の「殉(したが)う」という表現。「殉死する」。それは「死んだ人について死ぬ」ことであり、この「ついていく」から「したがう」という「読み」も生まれる。また字義的には「したがう」のほかに「もとめる」もある。(新漢語林/大修館書店)
 「蝶の死」に「したがった」のは何か。「精神」か「肉体」か。「記憶/感受性」か。
「想像力」か。
 「殉(したが)う」と書いてしまうと、そこに「漢字」の持っている「意味」が優先的に動いてしまう。「肉体」が、すこし置いてきぼりになる。「殉」という「殉死」そのものを呼び覚ます漢字ではなく、違った「和語」、「肉体」そのものにつながる動詞をつかって最後を展開できれば、この死はいっそう刺戟的になる。つまり、読者を悩ませる詩になる。「殉死」とは書いていないのだが、それに通じることば(漢字)があると、「意味」が明確になりすぎる感じがする。
 読者の「意味」(意識)を裏切る、ということが、詩には重要なポイントである。

わたしがいて 気がつけばいつもあなたが 傍にいた   堤 隆夫

たかが一生 宇宙の永さに比べれば ほんの一瞬 
でも ほんの一瞬の短い人生でも 
最期のときまで 希望を持ち続けることこそ 生の目標であり 生の原動力なんだ
苦しい人生の中で 蟻の穴ほどのちっぽけな窓から 頭を出し
一条の希望の光を 探し続けていれば 
幽けき光は いつの間にか光束となって
降り注いでくれるんだ

希望は人生 人生は信じること 生きることは続けること 
生きることを続けていれば 私たち皆 老い 障害を背負い 末期患者となり 
支え合い無しには 生きていけなくなるんだ
このことを皆で深く広く考えて 老若尊厳社会を築こうではないか

偉大な人生もちっぽけな人生も 無い 
ただ わたしとあなたの人生があるだけ
あなたの人生とは この青い地球で 泣きながら笑いながら怒りながら
暮らす隣人 全ての他者の人生のこと
わたしの人生はわたしだけの一度きりのもの 後戻りできないもの 
あなたの人生もあなただけの一度きりのもの 後戻りできないもの 
畢竟 二度の人生なんて無いんだ
他の人の人生と 自分の人生を比べることは 
自分が決して体験しようの無い 仮想の人生と比べることになるんだ

一度きりの人生の重み 一度きりの人生の尊厳 
それぞれの人生の重み それぞれの人生の尊厳
わたしとあなたが 今の一瞬の人生を ともに手を携え 支えあい 助けあうこと 

絶望している人の傍に寄り添い 体温で暖められた 一本の名も無い草の花を 捧げること
そういう社会を目指したい

 堤のことばは、青柳のことばよりもはるかに多くの「意味」を含んでいる。それは「意味」を突き抜けて「意見」に変わり、さらに「主張」へと昇華していく。そこにいちずな堤の正直があらわれるのだが、「主張」は同意を呼び寄せることもあるが、時には敬遠したい気持ち、さらには反感を呼び寄せてしまうこともあるかもしれない。反対できない「主張」は、反対できないということが、なんとも窮屈で、その窮屈が反感に変わってしまうのである。
 窮屈を感じさせない「主張(意見)」というものは、どういうものだろうか。
 この詩には、ふたつの例が提示されていると思う。「わたしの人生はわたしだけの一度きりのもの 後戻りできないもの/あなたの人生もあなただけの一度きりのもの 後戻りできないもの」と「一度きりの人生の重み 一度きりの人生の尊厳/それぞれの人生の重み それぞれの人生の尊厳」。似たことばが繰り返される。繰り返しのなかに「ずれ/差異」がある。この「ずれ/差異」が、「遊び」を生み出す。(デジタルの組み合わせではなく、アナログの「余裕」を生み出す。)こうした「余裕」があった方が、何かを「共有」しやすい。「余裕」がないと、読者が自分自身の「肉体」を参加させることがむずかしくなる。「精神(意識/頭)」は、その「主張」が正しいとは判断するのだが、「私は、もう少し『ずる』をしたい。ちょっと手抜きをして参加したいけど、手抜きをするとしかられるかもしれないなあ」と気後れがする。
 「主張(結論)」は大事なのだが、「結論」よりも、ことばの運動の過程での「迷い」の方が読者を引きつけることもある。作者が「わからない」という「結論」に達したときの方が、「あのひとはわからないと言っているが、わたしよりもはるかにわかっている」という感じをあたえることがある。「答えを知っている、でも、それがことばにならないだけなのだ」という印象になって、強くこころを揺さぶることがある。
 プラトンの対話篇。ソクラテスは「何も知らない(わからない)」と言いながら対話するが、聞いているひと(対話に参加しているひと)は、プラトンは「知っている、わかっている」と感じる。そして、それは同時に、自分自身で「知る/わかる」ことでもある。ひとはだれでも、そのひと自身の「意味」を生きているから、答えは読者に任せればいいのだと思う。
 答えを読者に任せるのは、とてもむずかしいけれど。そのむずかしいことにこそ取り組んでもらいたい。
 

七月の手紙  杉惠美子

半夏生の咲く頃
白い雲の流れと
螺旋のごとき夏の風を感じるとき
遠いあなたへ手紙を書きます

梅雨の終わりの期待感と
夏の日の目覚めは
あなたとまた会えそうな
そんな気がします

控えめに光を捕えながらも
変わらぬ色を求めつつ
勤勉さを忘れない
あなたに会えそうな気がします

夏色の祈りは
あなたへ向かうことばとなって
七月の揺れる風のなかに
立っています

 「半夏生の咲く頃」とごく自然な夏の描写ではじまったことばが、いつのまにかなるの描写を越えて動いていく。
 最初のきっかけは「手紙」である。「手紙」は「ことば」で成り立っている。「私(作者/杉)のことば」と「あなた」の「ことば」が出合う。現実に出合うことはできないのかもしれないが、「ことば」同士が出会う。もちろん、そのとき「あなたのことば」というのは、いま杉が書いていることばに対する「反応/返事」ではないだろう。しかし、「手紙」を書くとき、知らず知らずに「あなたのことば」(返事)を予想している。あるいは、期待している。
 私がこの詩でいちばん驚いたのは「勤勉さを忘れない/あなた」ということばである。「勤勉さ」というのは抽象的で「意味」が強く、もしかすると詩ではあまりつかわれないかもしれない。「要約」になりすぎている、と言えばいいのだろうか。しかし、この短い詩では、その「要約」がとても効果的である。具体的にどんな「勤勉さ」なのか、どこにも具体的な説明がないから、この「勤勉さ」は杉にしかわからない「勤勉さ」なのだが、だからこそ、そこに私は私の知っている「勤勉さ」を重ね合わせることができる。「ああ、私の姉は勤勉だったなあ」などと、ふと重ねるのである。もちろん、杉の書いてる「勤勉さ」と「私の姉の勤勉さ」はピッタリ重ならないが、それでいいのである。だいたい「勤勉さ」の定義自体、杉と私とでは違うだろう。同じことばであっても、そこには「ずれ/差異」がある。だからこそ、私たちは「ことば」を重ね合わせることができる。
 「ことば」は最終連に「ことば」という表現になってあらわれてくるが。
 この「ことば」がとてもおもしろい。立っているのは「ことば」なのだが、それは「夏の祈り」であるし、どういえばいいのか、そのときその「ことば」のとなりには、「あなたのことば」も一緒に立っている感じがするのである。「あなたのことば」がいっしょにそこにいると感じるからこそ、「杉のことば」もそこにいることができる。
 前回の詩で、杉は兄の俳句を紹介していたが、その俳句のことばと大江健三郎のことば(実際には何も書かれていない)が交錯して動いて感じられたように、ここでも「書かれないことば」が動いている。そういう「動き」を感じさせる、とても自然なリズム、音楽がある。

いのちか  池田清子

六畳 和室の
腰高窓の雨戸を閉めるとき

 このようにくれ
 またあしたをむかえる
 これが
 これがいのちのあじわいなのか

というフレーズがうかぶ
少し胸がしまる

大抵は
そうよ って
明るくシャッターを下ろす

か? って
軽く聞かれているような気がして

 二連目の「これがいのちのあじわいなのか」は「か」で終わっているが、必ずしも「疑問」をあらわしているとは言えないだろう。疑問というよりも「詠嘆」にちかいかもしれない。「これが」といったん言って、すこし間があって「これがいのちのあじわいなのか」と「これが」を繰り返してしまう感じは、「諦観」かもしれない。
 そうしたことばに出合って、それを疑問に変え、「か? って/軽く聞かれているような気がして」と言うとき、そこには「ずれ/差異」があって、その「ずれ/差異」こそが池田なのだ、池田の正直なのだと感じさせる。
 そして、それは、その最終連の前の、二連のなかの変化があってこそなのである。「諦観」に「少し胸がしまる」、そして「そうよ」(それでいいのよ)と言うことで、けりをつけたいのだが、なかなか「明るく」決断に踏み切れない。
 「迷い」がある。「わからない」がある。
 だから、読んでいて、こころが誘われる。
 「軽く聞かれているような気がして」と中途半端(?)で終わる行も、その中途半端がとてもいい。絶妙の「余韻」を生んでいる。
 書きそびれたが、書き出しの「六畳 和室の/腰高窓の雨戸を閉めるとき」の一種の「古くささ」がとてもいい。「腰高窓」は、いまはもうつかわなくなったことばかもしれない。それが「六畳/和室」ともぴったりくる。何かしら、この書き出しで「時間(過去)」を感じさせる。つまり、池田が「生きてきた」ことを感じさせる。「これがいのちのあじわいなのか」という諦観のことばと向き合える年齢の人間だと感じさせる。言いなおすと、ここには若いひとには書けない「余裕」がおのずと漂っている。それが詩を強いものにしている。

 

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読売新聞・特ダネ記事の読み方

2024-07-18 23:08:17 | 読売新聞を読む

 2024年07月18日の読売新聞(西部版・14版)に、「特ダネ」が載っている。見出しに、

台湾上陸 1週間以内/中国軍、海上封鎖から/日本政府分析/日米の迅速対応 焦点

 記事は、こう書いてある。

 日本政府が中国軍の昨年の演習を分析した結果、最短で1週間以内に、地上部隊を台湾に上陸させる能力を有していることがわかった。政府は従来、1か月程度を要すると見積もっていた。中国軍が米軍などが反応するまでの間隙(かんげき)を突く超短期戦も想定しているとみて、警戒を強めている。
 政府が分析したのは、中国軍が昨年夏頃、約1か月かけて中国の国内や近海など各地で行ったミサイル発射や艦艇などによる訓練だ。
 政府高官によると、一連の演習を分析した結果、各部隊が同時並行で作戦を実施した場合、台湾周辺の海上・上空封鎖から大量の地上部隊の上陸までを数日程度で遂行できることが判明した。分析結果は今年に入り、岸田首相に報告された。

 「特ダネ」は「政府高官」からのリークと想像できる。「政府高官」が発表したのでも、「政府」が発表したのでもない。読売新聞は、例によって「わかった」と書いているが、「どうやって」わかったのか。書いていない。書けないのである。「リークされた」から「わかった」とは、誰だって恥ずかしくて書けない。だから、単に「わかった」と書き、どうやってか、は読者の想像に任せている。
 さて、この記事は、何のために書かれたのだろうか。
 中国が危険な行動を起こそうとしている、行動次第では日本にも影響がある、ということを伝えようとしているのだろうか。たぶん、そうなのだと思う。こうした「仮想敵国(?)」の軍事行動を分析するのは、政府の当然の仕事だと思う。しかし、それが当然の仕事だとして、その「分析結果」をわざわざ読売新聞にリークしてまで書かれているのはなぜなんだろうか。
 記事を読めばわかるが、「分析対象」は「昨年夏」の中国軍の動き。そして「分析結果」は「今年に入り」岸田に報告されている。「今年に入り」というのは、たぶん1月ごろのことだろう。それから半年たって、それを「政府高官」が読売新聞にリークしている。この微妙な「分析結果」から「リーク」までの「時間」が、何とも言えない。
 ほんとうに重要なら(読売新聞の読者だけでなく、国民全員が知る必要があるのなら)、もっと早く「公表」すべきだろう。
 それに、これから書くことが、ほんとうに「不思議」なのだが。
 こういう「分析」って、「公表」していいものなのか。私は軍人ではないが、もし軍人だったら(とくに軍の責任者だったら)、この「リークした政府高官」を徹底的に批判すると思う。こんな「分析結果」を公表すれば、もし、中国にほんとうに台湾を武力攻撃する計画があるなら、この「分析結果」を上回る電撃作戦を展開するだろう。
 読売新聞は「日米の迅速対応 焦点」と書いているが、日米の迅速対応を上回る作戦を中国は準備するだろう。軍事行動とは、そういうものではないのか。誰かが十分に「対応」できるように行動を起こすことはありえない。相手が対応できないように行動してこそ、軍事作戦は効果がある。自分たちの被害は少ない、相手の被害が大きい。それが「攻撃」をする指導者が考えることだろう。
 日米が「迅速対応」するのがわかっていて、「後手」にまわるような作戦を立てるほど中国の軍関係者は馬鹿ではないだろう。
 それにねえ。
 「日米の迅速対応」以上に重要なのが「台湾の対応」だろうが、それについては読売新聞は何も書いていない。台湾は何もしないけれど(台湾の対応は無力だけれど?)、日米が「迅速対応」する、有効な対応ができるということかな? 変じゃない? なぜ日米が対応しないといけない?
 いや、対応すべきことも、あるにはある。読売新聞も、ちゃんと書いている。

 超短期戦が現実となった場合、日米など各国が迅速に対応できるかが焦点だ。日本政府も、台湾に在留する約2万人の邦人の保護や、台湾に近い沖縄県・先島諸島の住民の避難が課題となる。

 アメリカ人も台湾に在留している人がたくさんいるだろう。そういうひとたちの「保護・避難」のために、日米が「迅速対応」するというのなら、記事は(政府高官は)、そういうひとたちを安全に保護・避難させるために何が必要か(何日必要か)ということを詳しく書くべきなのだが、そんなことはどこにも書いてない。
 この記事は、ようするに、中国は危険だ、その危険を防ぐためにはもっと軍事予算をつぎ込まなければいけない(アメリカから軍備を購入しなければいけない)ということを、読者に納得させるための「リーク」なのだ。
 ほんとうに必要なのは「台湾有事(このことばは、今回の記事にはなかった)」が起きないように、「対話」で働きかけるべきなのだが、そういうことは省いて、ただ軍備の増強を訴えるために書かれている。
 これって、次のアメリカ大統領がトランプになるのか、バイデンになるか(あるいは別の誰かが登場するのか)わからないが、どっちにしたって日本はアメリカから軍備を買います、アメリカの軍需産業は安心してください、と伝えるだけのための記事なのだ。だからこそ、「いま」書かれているのだ。アメリカ大統領選の行方が混沌としているからこそ、「いま」この記事がリークされているのだ。

 なんというか……。
 中国の危険性よりも、アメリカから軍備を買い、それでアメリカのご機嫌をうかがうという日本政府の方針がまるわかりの、品のない記事だなあ。
 ほんとうに戦争が心配なら、まず、その戦争で犠牲になるかもしれない日本人をどうやって救出するか、そのために何をすべきか、そういう問題をこそ分析し、公表し、あらゆる方面からの知恵を結集すべきだろう。たった二、三行で「日本人保護・避難」について触れ、しかもそれを「課題」と指摘するだけなんて、私の感覚ではまったく理解できない。戦争で死んでいく(戦争のために殺されてしまう)人間のことを何一つ考えていない。そういうひとたちが「世論」を誘導するために新聞記事を利用している。「特ダネ」を書かせているし、「あ、特ダネを手に入れた」と歓喜して記事にする記者がいる。それを、そのまま紙面にしてしまう記者がいて、経営者がいる。

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梁平『時間ノート』

2024-07-16 23:04:15 | 詩集

 

 

(竹内新訳)(思潮社、2024年04月25日発行)

 梁平『時間ノート』の「夜に夢を見る」のなかに、次の行がある。

夏、秋、冬のなかにだって春はない

 この行に出合った瞬間、私は、何かを書きたくなった。梁平の詩を貫く何かが、この一行に隠れていると直観した。
 「ない」ということばが、強く私を揺さぶる。
 「春はない」。しかし、「ない」と書かざるを得ない何かが「ある」。それは、まだ名づけられていない「存在」であり、「事実」かもしれないし、あるいは「ある」という強い動詞の動きかもしれない。
 いや、こんなふうにひとくくりにする「概念」ではない、何かが「ある」。
 「ない」と「ある」は切り離せない。「ない」は「ある」そのものでもある。それは、「誰にも古屋が」という詩のなかでは、こう書かれる。

逃れる場所は そこ以外にないのだった

 「ない」は「ある」を限定している。「限定されたある」以外には、「何もない」。「逃れる場所」ととりあえず梁平は呼んでいるが、この限定には、すでに意味はない。なぜなら、

古屋はもう存在せず

 なのだから。「古屋はもう存在しない」、つまり「ない」。しかし、それが「不可能性」として、いつも「ある」を浮かび上がらせながら、「ない」という形で迫ってくる。この、どうすることもできない「矛盾」。その「矛盾」のなかから、何かしら、梁平がことばにするまでは存在しなかった純化された抽象、あるいは抽象の純化の動きのようなものが浮かび上がってくる。
 それは「否定」だけが描き出す美しさである。
 「越西の銀細工師」には、その「否定」の力が、何もかもを純化する力として動いていることを教える美しい数行がある。

銀細工師は学問したことはなく、
村の外の漢族のしゃべる話は 聞いても分からない
彼が最も遠くへ出かけたのは西昌だが
そこの月を見上げれば 越西で見るものとそっくり
彼が銀から打ち出したものが
天に懸かっているのだ

 学問をしたことは「ない」(否定)、話を聞いても、何を言っているかわから「ない」(否定)。その「否定」が逆に、銀細工師を完全な「個人」にする。すべてを「否定」しても、人間がそこにいる(私がそこにいる、そこにある)ことは、「否定」をこえて、「ある」。そして、その「ある」を通して「銀細工」と「月」が「ひとつ」になる。その「ひとつ」に「なる」運動のなかで、銀細工師は、紛れもない彼自身に「なる」のだが、その「なる」は「生まれる」であり、そこに「ある」ということでもある。
 中国の詩人のことばを読んでいると、私はかなりの頻度で、中国には「二」以上の数はないと感じる。あるいはいつも「一対」、つまり「二(一プラス一)」であって、それ以上は数えきれない。「無限」というよりも、それは何か「絶対」としての「存在形式」である。
 ここでは「月」と「銀細工」が「一対」なのか、「銀細工師」と「月」が「一対」なのか、区別がつかないが、「月」「銀細工」「銀細工師」が「二を超越する完全な一対」になってあらわれてくるのだが、この「顕現」を支えるのが、「ない」から始まる運動なのである。銀細工師に学問があったなら、彼に漢族のことばがわかったら、きっと彼は西昌で見る月が「越西で見るものとそっくり」とは思わないし、それが彼が打ち出した「銀細工」と同じとも気がつかない。学問があれば(頭で考えれば、論理的に考えれば)、どこから見ようと月はひとつ、「そっくり」どころか、変わりようがないものだからである。

 何を書くつもりだったのか、もう思い出せないが、「夜に夢を見る」の余白に、私は「何かを壊す、そうすると壊す先から新しく生まれてくるものがある」というメモを残している。「壊す」を「否定する」と言いなおすと、先に書いたことと何かが通じるが、それとは別に「私は間違いのある文だ」という詩の余白には「壊しながら生成する」というメモがある。
 「破壊(否定)/生成」の運動を、私は梁平のことばから、強く感じているのだ。
 その「私は間違いのある文だ」は、こう始まっている。

いつから始まったのか
私はものを言うのに文法の論理を失くしてしまい
言動が取り留めないものになり もう筋の通った文章が書けない

 「文法の論理を失くす」(文法の論理が、ない=無)、その結果「文章が書けない」(否定)。
 「書けない」けれど、書いてしまえば、ことばはそこに「あり」、「文章は生まれる」、そして、そこには、いままで存在しなかった「文法(の論理)」が立ち現れてくる。

夏、秋、冬のなかにだって春はない

 「夏、秋、冬」に「春はない」のは、学校の文法(論理)では当然だが、その学校の文法の論理に頼らずに、新しいことば(表現)は存在してしまう。既成の「意味」を否定し、「意味」ではないものが出現する。「意味」でないなら、それは、なにか。「もの」か「存在」か。「運動」か……。
 この答えを、私はもっていない。「答え」など、どうでもいいのだろう。「問う」ことが必要なのだろう。ただ問い続け、ことばを動かし続けることでしか、梁平が抱えている「否定の運動」の軌跡は追えない。

 梁平の詩のなかでは「間」ということばも印象に残った。

目を開けることと閉じることの間

 「都市の深い眠り」の書き出しの一行の「間」。この「間」は「時間」をあらわしているのか。そうかもしれないが、私には違う風に感じられる。「開ける/閉じる」という運動は反対の動きであるが、そこには「切断」はなくて「連続」がある。「開ける/閉じる」で「一対」であり、そこには「間(断絶)」は存在しない。「間」は、意識がつくりだした「錯覚」である。「錯覚」なのだが、しかし、「間」と書いた瞬間、それは「錯覚」ではなく、絶対的な「事実」にもなってしまう。
 「文法(の論理)」とは、たぶん「ことば」と「ことば」の「間」を整えることであり、それを「間」と読んだ瞬間に「ことば」と「ことば」が「孤立」したような感じが生まれる。「ことば」を連続させるときの「接着剤」が「文法(の論理)」だとすれば、梁平はその「接着剤」を捨てて、「間」を拡大する。「間」を「自由」にする。それは「間」によって、「ことば」を自由にするということでもある。
 そして、その「間」(接着剤の否定)によって「ことば」が自由になるからだと思うのだが、梁平の詩は、なんともいえずさっぱりした印象がある。あるいは何も書いていないような、さっぱりした気持ちよさがある。
 で、この「何も書いていない」というのは「意味」を書いてないという意味であり、「意味」のかわりに、いままでのことばでは存在することができなかった「もの/存在」が「意味」をもたないまま、そこに「ある」ということである。
 これは、とても楽しいことである。
 「意味」というものなら、人間ならだれでもそれをもっている。みんなが、自分自身の「意味」に苦労している。「意味」などというものは、それぞれの読者に任せておけばいいのであって、詩人は「意味」を否定し、「意味」にならないものがあることを「ことば」で出現させれば、それでいいのだ。
 「意味」を「否定」し、それを「ない」にした瞬間、その「ない」のなかから、「もの/存在」があらわれてくる。
 その、私が「もの/存在」と仮に呼んだものを、「パリでカラスの鳴き声を聞く」では、こんなふうに書いている。(これまでの詩の紹介が断片だったので、この作品は全行を引用する。梁平の詩は、どれもおもしろいが、「旅行記」はその瞬間にしか書けないような、不思議な味わいがある。)

カラスかどうか確認できなかった
姿は見えず ただ鳴き声だけが耳に澄み渡り
それはパリの早朝を引き裂いた
私は習慣通りに バルコニーで深呼吸し
あらゆるものが行き交うなかで 古きを吐き新しきを吸い込んだ
共和国広場の自由の女神は
余りに長きにわたって立ち尽くし いささか疲れていた
頭のてっぺんのオリーブは枯れたようには見えなかった
かと言って鮮やかな緑が咲きこぼれるでもなかった
昨夜の広場に集結した鬨の声は
航空と鉄道 公共交通とタクシーに及び
群がり集まったカラスのようだった
彼らのスローガン、彼らの歌は 聞いても理解できなかったが
リズミカルな力強いリズムは
百年の地下鉄三号線とピッタリ息が合い
それだけが私の夢のなかに残っていた
目を覚ませば 広場はがらんとして
地下鉄の出入り口では おびただしい出入りが始まっていた
荘重と軽薄 質素と艶麗
どう見てもロマンティックではなかった
だが私の場合 カラスの鳴き声を聞いたのであり
それとは似て非なるものだったのだ

 「似て非なるもの」。これが詩の「神髄」である。梁平の書いているどのことばも、私たちの知っていることばに似ている。しかし、それは「似て非なるもの」である。だから、詩なのである。そこには「否定」することでのみ到達できる「絶対肯定」がある。


 

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こころは存在するか(38)

2024-07-15 20:35:21 | こころは存在するか

 和辻哲郎「鎖国」は、私にとって忘れることができない本である。この本によって、私は初めて「歴史」に興味を持った。歴史というものに対して、驚く、ということを知った。
 スペインから出発したマゼランは、マゼラン海峡(南アメリカ)を越え、太平洋を渡り、喜望峰(アフリカ)を越え、スペインへ帰っていこうとしている。このとき、マゼランは、すでに死んでいる。マゼランは、実は世界一周をしていない。乗組員は食料不足で苦しんでいる。そう書いた後、こんな文章が出てくる。

窮迫のあまり、ポルトガル官憲に押えられる危険を冒してサン・チャゴ島に上陸したが、この際最も驚いたことは、船内の日付が一日遅れていることであった。ビガフェッタはこのことを特筆している。自分は日記を毎日つけて来たのであるから日が狂うはずはがない。しかも自分たちが水曜日だと思っている日は島では木曜日だったのである。この不思議はやっと後になってわかった。彼らは東から西へと地球を一周したために、その間に一日だけ短くなったのであった。(210ページ)

 いまでこそ、「日付変更線」という「もの(概念)」があるから、なんとも思わないかもしれないが、当時はそんなことは知らない。「この不思議はやっと後になってわかった」の「わかった」は「だれ」がわかったのか、和辻は書いていないのだが、その「わかった」の根拠になっているのが(わかったを支えているのが)、ビガフェッタという乗組員の「日記」である。私は、ビガフェッタという人物を初めて知ったが、こういう「名もないひと(?)」が歴史をつくっているのだ。そのことに、私は非常に驚いた。彼がいなければ、私たちが「日付変更線」に気づくのは、もっともっとあとだろう。
 「東から西へと地球を一周したために、その間に一日だけ短くなったのであった」という文章にも、私は、こころが震えた。スペインを出発したのが「1919年9月20日」、カボ・ヴェルデ諸島に着いたのは「1522年7月9日」。この3年間近くの間に、短くなったのは「たった一日」。なんという不思議。3年も航海しているなら、もっと短くなっても、あるいはもっと長くなってもいいのに、「たった一日」。
 「実感」と「事実」は、こんなに違う。そして、「実感」のなかには「実感」ではとらえることのできない「見えない事実」がある。それは「論理的」に考えない限り「見えてこない事実」である。南北アメリカ大陸は、コロンブスが「発見」する前から存在した。だから今では「発見」と言わずに「到着」というのだが。この「日付変更(線)」は(日付の短縮は)、実は、どこにもない。どこにもないけれど「存在する」。それを存在させないと現実を支える「論理」が狂ってしまう。「虚構」なのに、「真実」。
 こういう「真実」が、歴史のなかにはもっともっとたくさんあるだろう。「ことば」によって初めて存在し始める何かが。こうしたものの存在を教えてくれたのが、和辻の文章なのである。
 このあと、和辻は、こうも書いている。

最初の世界周航は、スペイン国の仕事として一人のポルトガル人によって遂行され、右のイタリア人によって記録されたことになる。(210ページ)

 ああ、「記録」ということばの、なんという美しさ。強さ。
 和辻は、いつも「記録」をたどっている。「記録」のなかに隠れているもの、もう一度別なことばで言い表さない限り浮かび上がってこないものを書き続けている。そのことを教えてくれたのが「鎖国」である。
 ここからこんなふうに飛躍するのは、私の「誤読」の最たるものだが。あるいは「うぬぼれ」の。
 私は、この和辻の「姿勢」に強く励まされた。「記録(ことば)」を語り直すとき、そこからその「ことば(記録)」が隠し持っている(と思われるもの)が浮かび上がってくることもある。私は、詩を読んだり、映画を見たり、絵や彫刻を見たりするたびに、その「感想」、その「印象」を書いているが、私のことばによって浮かび上がってくる何かがあるかもしれない、とときどき思うのである。それは、たぶん、「ことば」を発した人、「芸術作品」をつくったひとの「意図」とは違うだろう。しかし、「意図」と違っていても、そこには「真実」があるかもしれない。作者の気づかなかった真実が。それを、もしかすると、私のことばは、別の誰かに指し示すことができるかもしれない。
 ビガフェッタは「日付変更線」が「発明(?)」されるようになるとは思わなかっただろう。「日付変更線」が存在しないと「論理」がまっとうに動かないということなど、想像もしなかったかもしれない。しかし、そういうことが「歴史」においては起きるのであり、それは何かしら、とてつもないことなのだと思う。

 ところで。
 私の持っている「鎖国」を収録した岩波版の全集第15巻、1963年1月8日第一刷発行、1990年7月9日第三刷発行には、たいへんな「誤植」がある。その後、どうなったか知らないが、203ページ8行目。(7行目から引用すると)

その航路はアフリカ南方の海峡を通って太平洋に出る道である。

 この「アフリカ」は「アメリカ」の誤植。アフリカ南端の喜望峰はすでに発見されている。
 気になっていたことなので、書いておく。


 

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特ダネ記事の「危険性」(読売新聞を読む)

2024-07-11 10:13:08 | 読売新聞を読む

 2024年07月11日の読売新聞(西部版、14版)に、「特ダネ」が載っている。リーク先は「複数の政府関係者」。誰かがリークし、それが本当かどうか確かめるために、別の政府関係者にも確かめたようだ。

 政府は、重大なサイバー攻撃を未然に防ぐ「能動的サイバー防御」で、自衛隊の新任務を創設する方向で調整に入った。武力攻撃事態に至らない平時に、発電所などの重要インフラや政府機関を守るため、攻撃元サーバーへの侵入・無害化措置を行う権限を与えることを検討している。
 複数の政府関係者が明らかにした。

これを、見出しでは、こう書いている。

自衛隊 平時も無害化権限/能動サイバー防御/新任務検討/対インフラ攻撃

 こういう「特ダネ」は何のために書かれるか。以前にも指摘したが、そこにつかわれていることばに対する「読者(市民)」の反応を見るためである。あるいは、読者(市民)に対して、これから政府が発表する「政策」に驚かないようにするためてある。過激な反応をしないようにするためである。「あ、そのニュース、もう知っている」と感じさせるために「特ダネ」記事(リーク記事)は書かれる。
 「発電所が中国や北朝鮮からサイバー攻撃され、電気が止まったら生活ができない。なんとかして防いでほしい」と読者は思う。「わかりました。サイバー攻撃される前に、攻撃元のサイバーに侵入し、攻撃できないようにしたいと思います。攻撃元のサイバーを『無害化』するために、自衛隊に、その権限を与えたいと思います」「ああ、それなら安心ですね」。
 こういう具合に、読者(市民)が反応するかどうか確認するためである。
 で、ここで問題になるのは、その「内容」もさることながら、「表現」である。「政府関係者」は、攻撃元のサイバーに「侵入し、攻撃する」とは言っていない。「侵入はするが、攻撃ではなく、無害化措置を行う」。
 「無害化」という聞き慣れないことば(表現)がつかわれている。
 しかし、実際は、あるサーバーに侵入し(ハッキングし)、その機能を阻害するわけだから、これは「攻撃」である。「攻撃」なのに、それを「攻撃」とは呼ばずに「無害化」と言う。「無害化」によって、日本の発電所が攻撃されなくなる。
 これは対象が「サイバー」だから、実際には何が起こっているか、傍からはわからない。その「攻撃」によって、誰かが死ぬわけではないだろう。だから、たぶん、読者(市民)は、そのまま何の疑問ももたずに記事を読み、「無害化」ということばも受け入れるだろう--たぶん、「政府関係者」も、リークされた記者(書いた記者)も、そう思っている。
 ここに、危険性がある。
 ことばはいったん「受け入れられる」と、どんどん拡散していく。きっと、この「無害化」は「サイバー」を対象とした表現にだけ限定してつかわれるのではなく、ほかの対象、たとえばミサイルに対してもつかわれるようになるだろう。
 中国の(北朝鮮の)ミサイルを「無害化」するために、そのミサイル基地(敵基地)を攻撃する。それは「攻撃」ではなく、「無害化」である。
 少し前は、この「敵基地攻撃」を攻撃することを「反撃」と呼んでいた。攻撃されたら、日本国内で「防戦」するだけではなく、その攻撃元に反撃する。「防戦」には限界がある。で、それが「防戦」→「反撃」から、「抑止力(=先制攻撃)の誇示」を含むものへと、じわじわと変わってきている。
 でも、この「反撃」にしろ「先制攻撃」にしろ、そこには「撃」という文字が含まれていて、どうしても危険な感じがする。
 この印象を、どうやって「消す」か。どうやって「隠す」か。
 「攻撃」ではなく「無害化」では、どうだろう。「無害」なら、だれも傷つかない。だれも危険な目にあわない。そう思わせるために、ことばが選択されている。
 注意深く読めば、その前段に「武力攻撃事態に至らない平時に」という表現もある。「平時」から、自衛隊は仮想敵国のサイバーに対して「無害化」を掲げて攻撃をするのである。攻撃してきたのが自衛隊であるとわかれば、仮想敵国は自衛隊に対して、あるいはサイバー防衛システムがととのっていないあらゆる企業に対して「反撃」してくるだろう。そういう「危険性」については、記事は何も書かない。「新任務」によって日本は安全になる、と主張するだけである。

 この「無害化(権限)」は、これから先、使用頻度が高くなっていくに違いない。
 ことばというのはとても奇妙なもので、発した人と、受け止めた人では「意味」が違うことがある。そして、その「違った意味」が暴走していくことがある。
 「戦争法」のとき問題になった「集団的自衛権」という表現は、もともとは同盟国であるアメリカが攻撃されたら、それを日本への攻撃と見なし、アメリカといっしょになって自衛隊が戦う権利を指すが、多くの市民が「日本が攻撃されたら日本だけでは守れない。アメリカのほかにフィリピンや台湾、そのほかのアジアの諸国と集団で中国、北朝鮮と戦わなければならない。多くの国と協力するのはいいことだ」と受け止め、「集団的自衛権に賛成」という声が広がった。「集団で日本を守る」と受け止められ、広がった。この「誤解」を自民党(あるいは安倍)は「修正」しようとしたことはないし、私の読んだ限りでは、読売新聞にも「集団的自衛権=集団で日本を守る」という理解が間違っていると指摘する記事は書かれていない。「誤解」をいいことに、「集団的自衛権」を推進したのである。
 平成天皇の「生前退位」ということばでは、とてもおもしろいことも起きた。だれが「リーク」したのかまだ明らかになっていないが、美智子皇后(当時)が誕生日の談話で「生前退位ということばは聞いたことがなく、胸を痛めた」というような趣旨のことを言った。これは「リーク元」は宮内庁ではあり得ないことを意味する。なぜなら、天皇・皇后や皇室を含め宮内庁関係者は「生前退位」という表現をつかったことがないからだ。(歴史的にも、そういう表現は出てこない、と美智子皇后は言っていた。)つまり、これは間接的に、「リーク元」が「政府関係者」であることを意味する。この談話の直後(その当日だったか、その翌日だったか)、読売新聞はあわてて(率先して)「生前退位」ではなく「退位」という表現をつかい、それに他のマスコミも追随した。きっと「政府関係者」が「生前退位」という表現をつかうのをやめてくれ、と言ってきたのだろう。

 ことばがどうかわっていくか。
 新しいことばは何をねらって「発明」されたのか。
 ことばの変化の「危険性」に注目してニュースを読む必要がある。今後、あらゆる領域で「無力化(権限)」ということばがつかわれるようになるだろう。その実質は何を指しているか、隠されたことばを掘り起こすことが大切になる。
 

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Estoy Loco por España(番外篇450)Obra, Sergio Estevez

2024-07-11 00:10:16 | estoy loco por espana

Obra, Sergio Estevez

 En las obras de Sergio se esconde un tiempo misterioso.
 No hay “novedad” en ninguna de las obras. Cada obra me da una sensación de “tiempo acumulado”. En otras palabras, siento el “largo tiempo” que está en sus manos que crean esta obra, y el “tiempo que las manos han vivido para crear esta obra”. Por eso siento nostalgia.
 ¿Qué tocó la mano de Sergio? Probablemente hayas tocado papel, tela, hierro y metal. O quizás hayas tocado la piel de una mujer, la piel de un hombre, la piel de un niño o la piel de un anciano.
 En todo esto, la “historia de las manos” transforma “materiales” en “obras”. Por tanto, lo que veo no es “color”, “forma” o “material”, sino el largo y rico tiempo que han vivido las manos de Sergio.
 Ese tiempo es tan cálido y rico. Por eso siento como si en algún lugar hubiera tocado algo que las manos de Sergio tocaron.

 Sergioの作品には、不思議な時間が隠れている。
 どの作品にも「新しさ」がない。どの作品も「蓄積された時間」を感じてしまう。言いなおすと、その作品を生み出す手のなかにある「長い時間」、この作品を生み出すために「手が生きてきた時間」を感じる。そのために「懐かしい」と感じてしまう。
 Sergioの手は何に触ってきたのか。紙に触り、布に触り、鉄に触り、金属にも触ってきただろう。あるいは、女の肌にも、男の肌にも、こどもの肌にも、老人の肌にも触ったことがあるだろう。
 そのすべて、「手の歴史」が「素材」を「作品」に変える。だから、私が見るのは「色」でも「形」でも「素材」でもなく、Sergioの手の生きてきた長く豊かな時間である。
 それがあまりにも温かく豊かなので、私もどこかで、Sergioの手が触れたものに触れたような気がしてくる。

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