詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『百枕』(16)

2010-08-16 12:00:00 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(16)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕虫--十月」。「枕虫」。こんなことばがあるとは知らなかった。エッセイに、

「枕虫」という珍しい歌語は『大斎院前御集(だいさんゐんさきのぎょしゅう)』に突如現われる。

 と、ある。

大斎院の雅(みやび)を伝える挿話の一つが、ある秋の夜、就寝前に洩らした「まくらむしのなく」の一語で、さっそく女房の進が聞き止めて、歌を詠むことを勧め、自分たちも詠みたてまつった。

 という。そして、その歌というのは、

うきよをばたびのやどりとおもへばやくさまくらむしたえずなくならむ

 というのだが……。この歌、「枕虫」とつながるの? 「浮世をば旅の宿りと思へばや草枕虫のたえず鳴くならむ」。「草枕/虫のたえず鳴くならむ」じゃないの? 旅に出て、「草枕」で横になる。すると、その枕の下から(草むらから)虫の声がする。まるで枕のなかで虫が鳴いているよう……。私のいいかげんな理解力では、そんな具合になる。
 あくまで「草枕/虫」。
 ここから「(草)枕虫」にかわる瞬間、その契機が、私にはわからない。わからないのだけれど、こういう変化というのは、おもしろいと思う。 
 変化ではなく、きちんとした脈絡があるのだけれど、私にはわからないだけなのだと思うけれど、こういうわからないものに出合ったとき、私は強引に「誤読」するのである。えい、やっ、と掛け声をかけるでもなく、ぱっと「誤読」の方へ渡ってしまう。秋の夜、虫が鳴いている。枕元にまで聞こえる。それを「ああ、枕虫が鳴いている」と言ってしまう。そして、そこから逆に、まるで旅で草枕で寝ているよう。そういえば、この世は旅の宿のようなもの、いまのいのちは旅の途中……大斎院の歌は、そう読み直せばいいのだな、と勝手に考える。
 女房たちにかこまれて生活しているのだが、旅を想像する。それも、人生という旅だ。そのとき「草枕/虫」は(草)「枕虫」に変わるのだ。そして、その変化したもの、「言語として結晶したもの」だけを高橋は引き継ぐ。
 高橋はいつも「言語の結晶」を引き継いでいる。そして、その「言語結晶」をのぞくと、それはプリズムのように、光を分解し、きらめかせる。その輝きが、高橋は好きなのだと思う。



髭振りて枕に近き虫一つ

 この発句は、「枕虫」の冒頭におかれるには、ちょっと奇妙な感じがする。「枕虫」はあくまで「鳴く」が基本。聴覚でとらえた「まぼろし」。「髭振りて」というとき、そこには聴覚は働いていない。視覚が中心になっている。「枕に近き」の「近き」も聴覚でとらえた距離ではなく、視覚でとらえた距離だろう。

 私は次の2句が好き。

つれづれに虫籠つらね肘枕

 虫かごをならべ、あきることなく見ている。「肘枕」というだらしない(?)というか、力をぬいた体の感じが、虫に酔っている、虫が大好きという感じをくっきりと浮かび上がらせる。
 このとき、「私」は、虫を見ている? 聞いている? 見ているんだろうなあ、と思う。鳴くのを待って、あかず眺めているのかもしれない。

籠の虫慕ひて虫や枕上ミ

 籠の虫が鳴いている。それを慕って恋人の(?)虫がやってくる。それがいま、枕の上)にいる。虫籠と枕のあいだ、枕の上の方(枕もと)にいる。枕の方(枕もと)から虫籠の方へ近づいていく。それを見ている。(これも視覚の句。)いいなあ。それを見ているとき、「私」は、虫の動きとは逆の動きを夢見ているかもしれない。つまり、だれかが「私」の枕の方へ近づいてくることを、ぼんやり夢想しているかもしれない。



 反句

虫めづる大斎院の枕杖

 「枕杖」ってなんだろう。大斎院の「枕虫」ということばを根拠(支え=杖)にして、「枕虫」という一連の句をつくりました、くらいの「あいさつ」かな?



花行―高橋睦郎句集 (ふらんす堂文庫)
高橋 睦郎
ふらんす堂

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高橋睦郎『百枕』(15)

2010-08-15 12:29:09 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(15)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕詞--九月」。「枕」がだんだんほんものの「枕」から「意味」としての「枕」にかわってきた。「もの」から「ことば」にかわってきた。
 エッセイで高橋は、「枕詞」を

詞(ことば)の枕で土地の神霊と共寝(きょうしん)して、詩(ポエジー)の夢天に遊ぶ

と定義している。「共寝」を「ともね」ではなく「きょうしん」と読ませている。あ、寝てしまわないんだ、同じ振動(バイブレーション)で(共振することで)、高まっていくんだ、遊ぶんだ--と、おもしろく感じた。そうだねえ、「共寝」って「寝る」ことが目的じゃないんだから……。
 ことばはおもしろいもんだなあ、と思った。

 句は、いつものことだが最初の句がおもしろい。

あしひきの長ガ夜を寝(い)ねず胸ナ枕

 「胸枕」は腹這いになって、そのままでは鼻・口が塞がって息ができないので、胸の下に枕をおいている状態をいうのだろう。長い夜、寝つかれずに体のむきをあれこれ変えてみる、そうしてますます眠れなくなる--その長い時間が、「胸枕」という具体的なことばではっきりしてくる。
 「胸枕」という「枕」はないかもしれないが、いまなら、「抱き枕」がある。やはり寝つかれないときにつかうんだけれど、そういうものも句に登場するとおもしろいかな、とも思った。
 というのは。

たまくしげ箱枕にはりんの玉

 という句があって、その「りんの玉」を高橋は次のように説明している。

「りんの玉」は閨房具で鳩の卵大の二玉から成り、中実の一玉で中空の一玉を突けば、りんりんと美音を発する、という。

 あ、よくわからない。どうやってつかうの? 高橋はつかったことがあるの? 末尾の「という」という伝聞形式の表現が気になる。
 「共寝」が「寝る」ことを指さないように、「枕」はどうしても「閨房」とつながる。「枕詞」という「ことば(文学)」に視点を誘っておいて、その実、こっそりセックスをしのばせる。その感じが、すけべこころを刺激する。好奇心を刺激する。そして、好奇心が働くからこそ、ことばを読む気になるんだなあ、とも思った。
 


 反句は、折口信夫に捧げた一句。

歌つひに枕序詞落葉焚

 それに先立って、

歌の生命の中心はむしろ序詞や枕詞の虚にあって、それらに飾られている実のぶぶんにあるのではない、

 と高橋は書いている。
 この実より虚という、ことばにかける思い--それは「枕詞」だけではなく、あらゆる表現に共通するものかもしれない。ことばがことばと出合う--そのとき、「共寝」するものがある。
 「共寝」が詩なのだ。

百人一首
高橋 睦郎
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高橋睦郎『百枕』(14)

2010-08-14 12:11:14 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(14)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「歌枕--八月」。

今朝の秋ゆかしきものに歌枕

 暑い盛りは旅はつらい。ひんやりとした空気。秋の気配。そんな瞬間、たしかに旅に出たいと思う。旅に出なくても、旅に出ることを思う。「ゆかし」は文字通り「行く」から派生して、「行きたい」、行って、知りたい、見たい、聞きたい、なんだろうなあ。どことはいわず「歌枕」とおさえる。この、こころの動きがいいなあ。

歌枕訪ねん靴は白きをば

 「歌枕」を訪ねる--は、単にある土地へ行くのではなく、その土地とともにある「ことば」(文学)を訪ねるということなのか。「白」は、自分のこころを真っ白にしてということだろうけれど、この矛盾が楽しい。「歌枕」を知っているけれど、知らないこととして旅をする。知っていることを突き抜けて、知らないところへ行く。生きなおす。
 これは高橋の俳句そのものの姿勢かもしれない。
 反句で、次のようにい書いている。

この枕歌ひいださば秋の声

 「歌枕」が「枕」と「歌」にはなれ、はなれることで結びついている。これが高橋の「歌枕」へのいちばんの思いだろう。



歌枕始白河あきのかぜ

 この句も好きだ。
 ここにも「白」。「白」は「河」にかかっているのだが、「あきのかぜ」が白く感じられる。ことばは不思議だ。



百人一首
高橋 睦郎
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高橋睦郎『百枕』(13)

2010-08-13 12:00:00 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(13)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「枕文字--七月」。

上五をば枕といふぞ明易き

枕文字五(いつ)に悩みて明易き

 「上五」。枕詞の--というより、書きはじめのといった方がいいのかもしれない。書きはじめはどんな文学でも難しい。短歌・俳句のように短い詩はなおさらだ。真剣に悩み、考えあぐねているうちに夜も明ける。
 高橋も書き出し、あるいは冒頭の句が書けずに、夜を明かしてしまうということがあったのだろうか。
 と、考えていたら、同じようなことを高橋がエッセイで書いている。

枕が据わらなければ、よい夢は見られない道理で、そのために短夜を考え明かすということは、俊成にも、定家にも、芭蕉にも、蕉門の誰彼にもあったろう。

 あ、さすが高橋。私は高橋もそうなのだろうかと想像したが、高橋が想像するのは俊成、定家、芭蕉なのか。
 そんなところに高橋の、ことばの高みが、ふいにあらわれる。びっくりというのではなく、こういう古典を相手にことばを動かすのが高橋なんだなあ、とあらためて感動する。私は古典を気にせず、ただ高橋の書いたことばを「いま」「ここ」に引きつけて読むけれど、高橋のことばは古典のなかへ帰しながら(古典をくぐりながら)、読むべきものなんだろうなあ。
 でも、私には、そんな素養がない。
 だから、思いつくまま、即興感想をつづける。

うとましきものに酸き髪汗枕

 「酸き」(すい)。「うとましい」。たしかに、そういうことばはある。つかったことはある。でも、急には思いつかない。そういう静かで強いことばにであうと、日本語はいいもんだなあ、と思う。まねしたくなる。こういうことばを探して、俳句を書くのは面白いだろうなあ、と思う。
 ところで、この「髪」の、「汗」の匂い--それはだれのものだろう。いつのものだろう。自分のものではなく、きのうの夜のセックスの相手の残したものだろう。(あるいはふたりの交じり合ったものか。)そのときは「うとましい」ではなかったもの、親密なあかしだったものが「うとましい」に変わる。短夜なのに……。
 この嗅覚の変化と短夜が交錯するところに、厳しい人間観察の(自己観察の)目を感じる。

山宿は先づもてなしの籠枕

 「もてなし」。なるほど、もてなしというのは、たしかにそういうものだ。特別な何かを用意するのではなく、いまあるもので何ができるか、そのできることの最良のことをする。美しいことばだと思う。



 反句は、

百物語一話枕に髪梳いて

 「四谷怪談」を踏まえた句。
 夏、暑い(今年は特に猛烈だ)。それをしのぐための、一工夫。ここでも、高橋が触れるのは文学である。ことばである。
 そのことが、ちょっとおもしろい。





詩人の食卓―mensa poetae
高橋 睦郎
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高橋睦郎『百枕』(12)

2010-08-12 12:12:12 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(12)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「梅雨枕--六月」。

さみだれの徒然(つれづれ)枕天上見て

 天上を見ているのは、何をするともなく横になっている「わたし」かもしれない。たぶん、そう読むのが俳句なのだと思うけれど、「枕」そのものが天上を見ていると思ってもいいかもしれない。
 だれもつかわない枕--取り残されて、そのまま天上を見ている。それは、そのまま万年床の感じにつながる。

この宿の昔聞かせてよ黴まくら

 雨に降られて宿に泊まってみれば、枕が黴臭い。だれもつかっていないのだ。つかわれずにほうっておかれた枕。いったいここはどんな宿? 枕に問いかけている。
 前の句の「わたし」は天上を見ていたかもしれないが、この句によって、その「わたし」は消え去り、ほんとうに「枕」だけが天上を見ているにかわっていく。
 この句が前の句を変えたのか、それとも前の句に変わる要素があって、それがこの句を生み出したのか。どちらかわからないけれど、ことばのなかにある何かがことばの運動を変えていく、ということがあると思う。
 連歌は、その運動を複数の人間で楽しむものだと思う。高橋は、それをひとりでやっている--これは前にも書いたことだが、この展開を見ると、また、そう思う。
 この句は「宿」だが、「黴まくら」はそのままに、次の句では「場」が変わる。

此処はしも蛞蝓長屋梅雨枕

 なめくじの出そうな(あるいはなめくじがはいまわっている)長屋。うっとうしい梅雨の感じがなめくじによって強調される。

 この「なめくじ長屋」から、エッセイは志ん生の『なめくじ長屋』という自伝へと進んでいく。高橋は一時期落語に夢中になっていた時代があって、志ん生が好きだと書いている。高橋のことばは、万葉の「肉体」も落語の「肉体」(口語の「肉体」)も内部に抱え込んでいることになる。
 そして、口語の「肉体」と関係するかどうか、よくわからないけれど……。

 反句、

閉てきつて黴を飼ふとや枕人

 「閉てきつて」。「しめきって」ではなく「たてきって」。読んだ瞬間、あ、なつかしいことばだ、と感じた。戸の開け閉めをぞんざいにすると、私は両親に「ちゃんと戸をたてて」と叱られた。昔は「戸をたてる(閉てる)」といった。
 この「たてる」は何だろう。
 いいかげんな連想で、まちがっているかもしれないが、考えてみた。
 「たてる」は「立てる」。もともと戸は敷居と桟のあいだに立っているように見えるけれど、昔はそんな具合ではなかったかもしれない。開けるときは、ちょっと横にずらして置いておく。倒れて邪魔にならないように立てるにしても長い方を下にして(つまり、戸を横にして)壁際に置いておいたかもしれない。こどものとき、納屋や何かで、そんなふうに「戸」(戸のかわりの板)を扱ったことがある。戸はたしかに「立てる」ものなのだ。
 そしてその「立てる」は「立つ」であり、「断つ」に通じるかもしれない。戸を内部と外部のあいだに立てる、というのは、外部を「断つ」ということである。「ちゃんと戸をたてて」は、ちゃんと戸を立てて、外が内部にはいってこないように「断ち切って」ということなのかもしれない。
 もし、そうであるなら。
 そして、「閉てきつて」の句の人が志ん生であり、そこに描かれている「場」が「なめくじ長屋」であるなら。
 志ん生は「外部」を断ち切って「落語」のことばの世界にとじこもり、彼自身の「芸」を磨いたということになるかもしれない。ことばがいきいき動いていれば、それでいい。なめくじがはいまわっていようがいまいが、どうでもいい。だけではなく、そこでもしなめくじがはいまわっているなら、そのことさえも、ことばとして動かしていかなければならない。なめくじがはいまわる暮らしを、どんなふうに「笑い」につながることばにできるか--もしかしたら、その人は、そんなことも考えたかもしれない。
 ふと、ことばに熱中して、それ以外のものは何も気にしない人間が見えてきた。「閉めきつて」だったら、たぶん、こんなことは考えなかっただろうと思う。

 




百人一首―恋する宮廷 (中公新書)
高橋 睦郎
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高橋睦郎『百枕』(11)

2010-08-11 00:00:00 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(11)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「草枕--五月」。

草枕旅のはじめは五月こそ

 「草枕」は「旅」の枕詞。五月の旅か。いいなあ。
 俳句は不思議だ。こういう何でもないような、つまりどこに工夫がしてあるのかよくわからない句が(あ、これは私にはわからないというだけのことであって、ほかの人にはわかるのかもしれないが)、すーっと胸にはいって落ち着くことがある。最初は読みとばすのだけれど、なぜか、その句へ引き返してしまう。
 音がいいのかもしれない。音にむりがないのかもしれない。

夏の風邪枕親しむ二三日

 「親しむ」ということばの使い方に、なるほどなあ、と思う。ずーっと寝ている。枕は常にそばにいる。それが「親しむ」ということ。

 この回のエッセイでは、高橋は再び万葉集を引いている。

草枕旅行く夫(せ)なが丸寝(まるね)せば家(いえ)なるわれは紐解かず寝む

草枕旅の丸寝の紐絶えば吾(あ)が手と付けろこの針(はる)持し
 
 高橋は、これに口語訳をつけている。「草を結んで枕とする旅をつづけるいとしい夫のあんたが着たまま寝るなら、家にいる吾(あたい)も紐を解かずに丸寝しようよ」「草を結んで枕とする旅をする旅の途中、着たまま寝る紐が切れたら、吾の手だと思ってこの針で縫いつけておくれなね」。
 このふたりは離れている。風邪をひいて寝ている「わたし」と枕の関係が「親しむ」という関係だとすると、その対極にある。けれど、ことばがこんなふうに行き交うとき、そこに「親しむ」--親しんできた関係がくっきりと浮かび上がり、そのなかで、ことばではなく、「肉体」が寄り添う。「親しむ」という関係、そばにいるという関係をつづけてきた「肉体」だけが、こういうことばを引き寄せることができる。発することができる。
 風邪(病気)のときの枕と人間の関係、それと男女の関係は、まったくないのだけれど、「親しむ」ということばに誘われて、私は、何かがつながっていると感じてしまうのだ。
 「親しむ」というのは懇ろになるということであり、安心して身をまかせるということでもある。そこには「肉体」がある。「肉体」抜きにして「親しむ」はない。

 旅は、肉体と肉体を遠ざける。距離をつくりだす。その距離をことばが埋める。ことばが距離を越えて結びつく。「肉体」よりも強く。

 そして、この距離を「空間」ではなく「時間」としてとらえなおすこともできるかもしれない。
 高橋は、「いま」と「万葉」の時代の「時間」の距離、隔たりを、ことばで埋める。高橋がことばを動かすとき、「いま」と「万葉」が「親しい」関係になる。「いま」が「万葉」に「親しむ」のか、「万葉」が「いま」に「親しむ」のか。区別はできない。時を越えて、ことばの「肉体」に触れ(ことばの「肉体」と懇ろになり)、そのとき、互いの「肉体」が新しくなる。いままで気がつかなかった「肉体」の奥の力を感じる。「肉体」の奥から力が湧いてくるのを感じる。
 高橋は、万葉に触れながら、ことばの新しい力を感じているのだと思う。



 反句、

草枕丸寝忘るな風薫る

 あ、書き忘れていた。「親しむ」と同時にそこに書かれていた「丸寝」ということば。服を着たまま寝る--自分で自分の体を抱き抱えるようにして丸くなって寝る。その姿。その姿をあらわすことば。

草を枕として着たまま寝る旅の原始的な姿を残した表現で、当時の平城京の官人貴族らには疾うに失われた習慣が、東国からの防人らには残っていたわけだ。

 高橋は、そんなふうに「丸寝」について書いているが、残っているのは「習慣」だけではない。「ことば」が残っている。人間はいつでもなにかをあらわすのにことばをつかう。そのことばがあるかぎり、それが指し示す人間の行為がある。こころがある。
 万葉に残っていることばを引き継ぐ、俳句に(あるいはエッセイに)取り入れ、動かすのは、その残っているこころに新しいいのちを注ぐことでもある。あるいは、残っているものから、注がれることでもある。
 残っているものを見つけ出すとき、それは、恋のように、見つけ出したつもりが見つけ出され、新しいなにかを注がれることなのかもしれない。

百人一句―俳句とは何か (中公新書)
高橋 睦郎
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高橋睦郎『百枕』(10)

2010-08-10 00:00:00 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(10)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「春枕--四月」。

春くれて枕ありけり金屏風

 「ありけり」と「ありにけり」は、どれくらい違うのだろう。「ありけり」の方が少しやわらかい感じがする。「ありにけり」だとそこにあるものが絶対的な無、空白と対峙している感じがするが、「ありけり」は、向き合うものがある。ここでは、金屏風と向き合っている。そのあいだ、向き合った「枕」と「金屏風」のあいだに「春のくれ」が入り込んできた感じがする。「時間」が入り込んできた感じがする。
 ここに書かれているのは、「もの」(存在)なのか、「時間」なのか、ということを考えてみたくなる。
 私の癖で、こういうことを考えはじめると、どうしても「時間」の方へ動いて行ってしまう。「時間」。枕がそこにある--それは、きのうの枕、けさの枕、そしてこれからはじまる時間のための枕。ついつい、「物語」を想像してしまう。「もの」も「物語」を持っているだろうけれど、そういう「物語」も「時間」でときほぐしていくと、そこいくつもの感情が動くので、ついついそうしてしまう。その枕は男のもの? 女のもの? 朝別れるとき、また夜の契りを約束したのだろうか。その約束のことばを、女は(男は)どう感じたか……。「くれ」の時間、揺れ動く時間。「くれて」と動きを意識したことば。あ、ひとのこころは変わるもの--という不安も、そして期待も、それから祈りもそこにはいってくる。
 「ありにけり」だと、こんな面倒なことは考えないだろうなあ。

雛の具に二タ小枕もありぬべし

 これはかわいらしいなあ。笑いたくなるなあ。ひな人形は眠らない。でも、ひとの見ていないときには眠るかもしれない。眠ってほしい。夢を見てほしい。そのための枕。
 人間は、ありえないことを考える。
 ありえないことを考えるのに、ことばがつかわれる。ありえないことも、ことばのなかでは、ありうることとして動いてしまう。
 おかしいねえ。
 ことばが、絶対にあることしか考えられないとしたら、世界から間違いはなくなる。なぜ、間違えるように、ありえないことを考えるように、ことばは動くのだろうか。
 そして、ことばがそんなふうに間違えたことばかりを考えて動くのだとしたら、その間違いを「許せる範囲」で遊ばせるにはどうしたらいいんだろう。ことばが人間を(世界を)破壊するために動かないようにするにはどうすればいいんだろう。

 あ、これは、考えるべきことじゃないね。
 ただ、ことばがどんなふうにして遊べるか、それを単純に楽しめばいいのだろう。

いかな枕好みたまひし西行忌

 こういう句も好きだなあ。西行がどんな枕をつかっていたか、好んでいたか。そんなことは西行の「業績」とは関係がない。けれども、その人間をかたちづくるのは「業績」だけじゃないね。硬い枕が好き、やわらかい枕が好き、高い枕がいい、低い枕でないと夢見が悪い。そういう「肉体」(感性)からひとは他人に近づいていくということもある。そして、不思議なことに、「肉体」の方が裏切らないという印象もある。「硬い枕が好きな奴なか信じられない」という理不尽な理由の方が、ある判断にとっては間違えないための基準だったりする。そんな理不尽なことが理由になってはいけないのだけれど、それがなってしまうとういことがある。
 「肉体」もまたことばと同じように、理不尽に、間違えるために動くことがある。そして、その間違える、余分なところへ逸脱していく--その「逸脱」のなかに、なにか他者と接する契機のようなものがあるのだと思う。

 間違えて、自分から逸脱していく。自分が自分ではなくなる。そういう自分ではなくなったもの同士が触れ合って、いままでそこに存在しなかったものを生み出す。そういうことをするために、ことばはあるのかもしれない。詩はあるのかもしれない。

枕の香とは髪の香ぞ春の闇

 いろっぽくて、いいねえ。この句がちらりと左目の片隅に見えたから、「金屏風」「雛の具」の句を読んだとき、セックスまで想像してしまったのかなあ。
 目は、一瞬の内に見えないものを見てしまうから、面倒だね。

坐蒲団を折りて枕や春惜しむ

 この句はいいなあ。大好きだなあ。何もすることがなくて、横になる。ひじ枕という手もあるけれど、手がしびれる。座布団を折って高さを調節して、枕にする。この一連の動きのなかにある、人間の「時間」。自分の肉体にあった枕の高さをつかみ取るまでの時間--そういうくだらない(?)もののなかに、人間のゆるがない確かさを感じる。「俗」の確かさ、絶対に間違えない人間の生きる力というものを感じる。

 私は、なにかを間違えてどんどん暴走するものが大好きだが、そういう暴走のときも、どこかにここに書かれているような、全体に間違えない人間の力がないと信じられない。逆に言えば、こういうぜったいに間違えない人間の力を出発点としての暴走なら、どこまでいっても大丈夫と安心してついて行ける。



 反句は、

枕もし季題とせんか春もくれ

 「枕」は「季語」ではないという。そして、もし季語にするなら、その季節は? 春がいい、と高橋はいう。
 「座布団」の句を読むと、そうだなあ、と思う。納得する。





友達の作り方―高橋睦郎のFriends Index
高橋 睦郎
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高橋睦郎『百枕』(9)

2010-08-09 00:00:00 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(9)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「涅槃枕--三月」。ここに書かれている句は、私には、とっつきにくい句である。私は「涅槃」とか「釈迦」というものについて考えたことがない。だから、ことばが追い付いていかない。ことばが動いてくれない。知らないことしか書かれていないから、わからない。

 一方、エッセイの方にはとても刺激的なことばがあった。

 仏伝によれば、釈迦は布施物の豚肉を食べて下痢が止まらず、ついに死に至った、という。鎌倉暑気の清僧明恵(みょうえ)上人などは、涅槃会の一日じゅう、釈迦の苦痛を思って涙が止まらなかった、と伝えられるが、当今の仏教者にこの宗祖への体感敬慕の残っているものがはたして幾人あるだろうか。体感が喪われた時、宗教は肉体を失い形骸化するほかないのではあるまいか。

 読みながら、私は、ことばについて思ったのだ。高橋は、「日本語」の「体感」を生々しく持っている。いままで取り上げてきた例でいえば、たとえば

よき夢をたのみ縫ひつぎ初枕

 の「たのみ」。そのなかにあるいくつものことばとの連絡回路。「期待」「祈り」。その回路を、「肉体」のなかの筋肉、骨、神経のように、なまなましく持っている。高橋は、高橋のことばが、「いま」「ここ」ではなく、遠いどこかでつかわれたことばの「肉体」と感応し合いながら動いているのを感じ、そしてそれが動くたびに奥深い連絡回路をよりなまなましく感じ取ることができるひとなのだ。
 古典を読む--そうすると、高橋のことばの肉体のなかに、古典の、万葉集のことばの感覚が「肉体」としてよみがえってくる。そういう詩人なのだ。
 万葉のことを書いたのは、そのエッセイのなかで高橋は柿本人麿について触れているからである。

日本の詩歌に関わるものには、仏祖ならぬ歌祖、柿本人麿の死についてなら、いささか快感も可能かもしれない。

 これは、高橋は、「柿本人麿の死については体感できる」と、控えめに言っているのである。高橋は人麿の「肉体」を感じ、そのことばには「ことばの肉体」を感じている、高橋はその「ことばの肉体」を引き継いでいる、という意味でもある。
 反句。

石枕われもしてみん人丸忌

 人麿は石見(島根県)で死んだ。石を枕に死んだ。人麿は

鴨山(かもやま)の磐根(いはね)し枕(ま)ける吾をかも知らにと妹が待ちつつあらむ

と歌った。その歌から「石枕」ということばを引き継いだとき、高橋は、人麿の、ことばではなく、「肉体」そのものも引き継いでいる。
 「ことばの肉体」はほんとうの「肉体」にもなる。「体感」になる。

 ことばの連絡回路は、人間の「肉体の回路」(骨、神経、筋肉)そのものなのだ。




百人一首―恋する宮廷 (中公新書)
高橋 睦郎
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高橋睦郎『百枕』(8)

2010-08-08 00:00:00 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(8)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 高橋睦郎『百枕』を読みはじめたとき、そしてその感想を書きはじめたとき、「日本語」について何かまとまったことが書けるかなあ。高橋がどんなふうに日本語を耕しているか、そのことについて書けるかなあ、とぼんやり考えていた。
 その思いは、いまでもときどきよみがえってくるけれど、そんなことはどうでもいいのかもしれない。ただ楽しければいい。そこに書かれていることばが楽しければいい。楽しいことだけを、「結論」をめざさずに、ただ書き流してみたい。

 「立春枕--二月」。「立春枕」ということばがあるかどうか、知らない。「初枕」もあるかどうか、私は知らない。あってもいいじゃないか、と思うだけである。

枕にも衾にも春立ちにけり

 これは、じっくり考えはじめると、変な句である。枕にも衾にも立春がやってきた。立春は、別に、枕や衾にやってくるものではないだろう。暦によって「立春」が刻まれるだけだろう--などというと、この屁理屈が面倒になる。
 「初枕」と書いた瞬間に新しい年のめでたい気分があふれてくるが、同じように「立春」(春立つ)と書けば、そこに明るい何かがあらわれてくる。
 「春立ちにけり」が、ほんとうに「春」そのものが「枕」や「衾」の上に立ち上がるように見えてくる。「けり」という強いことばの力のせいかもしれない。
 「切れ字」というのは、いいもんだなあ、と思う。
 世界を有無を言わさず断ち切る感じがする。そのことばの先には何もない。絶対的な空白がある。その絶対的空白と真っ正面から存在が向き合っている。そういう存在形式の力、存在形式を支える力が、「春」という抽象的(?)なものを、まるではっきりした「もの」のように感じさせる。「春」という「もの」が、立ち上がっているように見えてくる。
 枕にも衾にも春が来た--と散文的に書くと、「けり」の持っている絶対的な空白と立ち向かう力が消えてしまう。

豆打たれ鬼は何処に枕得し

 「立春」といえば、「節分」。「節分」といえば「鬼」。「あいさつ」の発句を踏まえながら動いていく高橋のことば。ひとり連歌の楽しい展開。
 そのなかでも、私は、この句が好きだ。この展開が好きだ。
 「鬼は外、福は内」ということばとともに追い出された(でも、ほんとうに追い出された? ほんとうは内に入ろうとして拒まれた?)鬼は、どこで寝るんだろう。どこでやすらぎを得るんだろう。その「寝る」「やすらぎ」が「枕」ということばになってやってくる。「枕」という小さな存在、その見知った形が、かなしみのように見える。

 俳句は抽象を具体的な「もの」のなかに凝縮させる。その瞬間が、詩、ということか。


 反句は、

春・枕・鬼の三題噺せよ

 「三題噺」がおもしろい。「噺」というのは簡単に言えばでっちあげ。こじつけ。こじつけなのだけれど--そのこじつけのなかには、ことばの連絡がある。むりやりこしらえた連絡がある。その「むりやり」と「こしらえる」という動きのなかで、ことばにならないものが「もの」のように凝縮する。
 あ、それは、「けり」について書いたときの絶対的空白と「もの」の関係に似ているかもしれない。
 「噺」の虚構、三つの噺をむりやりつないで、そこに関係をさらに捏造するとき、その捏造された運動は、絶対的な空白と向き合っている。

 詩というのは、絶対的な空白と向き合う力、絶対的な空白に抗い生成する力のことかもしれない。





語らざる者をして語らしめよ
高橋 睦郎
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高橋睦郎『百枕』(7)

2010-08-07 00:00:00 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(7)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「初枕--一月」。

よき夢をたのみ縫ひつぎ初枕

 「たのみ」がおもしろい。期待する、願う、祈る。「頼んだぞ」というとき、たしかに、そこには「期待」がこめられている。「まかせた」ということばもあるが、少し違う。「まかせる」には自分の「思い」を放棄している(?)ようなところがある。「たのむ」は自分の「思い」をまだかかえている。未練のようなものがある。その「思い」をかかえながら、枕を縫う。新しい綿をつめる。新しい枕なら、初夢もきっといい夢になる。
 新しい--と書いたが、もしかすると新しくないかもしれない。「縫ひつぎ」の「つぎ」が古い枕を呼び起こす。古い枕を手直しする。その針の動きが「縫ひつぎ」の「つぎ」かもしれない。
 けれど不思議だ。そんな枕も「初」という字がつくと「年の初め」のための「新しい」もののように感じられる。枕は新しくないが、気分が「新しい」。ことばは、「事実」ではなく、「気分」を引き連れてくる。

よき枕得て決めてけり寝正月

 こののんきな感じもいいなあ。「寝正月」の理由を「枕」にあずけている。何もすることがないから寝正月になるのだろうけれど、いい枕が手に入ったので、というのは、とぼけていて、そこがおもしろい。

 「初枕」「初夢」、そして夢を食う「バク」。そんなことをめぐる句がいくつかあって、反句は、

年の占枕に問はんはつ衾

 「夢」「夢占い」。あ、それもあるかもしれないけれど、ここでは「問はん」が、とてもおもしろい。
 「はつ衾」は「初交合」(ひめはじめ)なのだろうけれど、それを「問う」とは、「どうなるかなあ」と想像するということ。「夢」みること。
 でもその「夢」は眠っているときにみる夢じゃない。覚めているときにみる「夢」。「枕」をみながら、想像する。「初枕」を「縫ひつ」ぐのも、覚めているときの行為。覚めながら、「よき夢」を夢見ている。
 「枕」と「衾」はセットになっているものだが、同時に「夢」と「セックス」ともセットになっている。



百人一句―俳句とは何か (中公新書)
高橋 睦郎
中央公論社

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高橋睦郎『百枕』(6)

2010-08-06 00:00:00 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(6)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「年枕--十二月」。

これよりは枕を友ぞ冬に入る

夜長しと枕の蕎麦を足しにけり

 高橋の句はことばが多いものが目立つけれど、こういった静かな句もある。私は特に「夜長し」の句が気に入っている。枕はつかっているうちにだんだん低くなる。だから、蕎麦を足している。それだけのことだが、この「足す」ということばに不思議なあたたかさを感じる。「くらし」の維持、というとおおげさだけれど、何かを丁寧に持続するこころ--そこにあたたかさを感じる。
 冒頭の句は、冬に入れば、ほんとうは「ふとん」が友達になるだろうけれど、それを「ふとん」と言わずに「枕」といったところがおもしろい。あ、そうか、ふとんだけじゃ眠れないね、と気がつく。ささやかな気づきなのだが、そのささやかなところへとことばを動かしていく感性が気持ちがいい。

極月の枕に人の匂ひかな

年の衾年の枕や深沈と

 ここにあるのは、恋だろうか。恋はセックスをしてこそ、恋。セックスの肌のあたたかさ。冬こそ、そのあたたかさを感じるときだ。「肌」を「人」と、「あたたかさ」を「匂い」と呼ぶとき、そこに感覚の融合がある。触覚と嗅覚がまじりあい、「人間」が生まれてくる。

 そんな句を書いたあと、高橋はエッセイで『紫式部日記』の「大晦日」を引用し、

長局年の果なる凍テ枕

 あ、だれも触れないので、そこにはひとの匂いがしない。単に冷たいのではなく、ひとが触れないことで匂いをもたない感じ--それが「凍テ」る、ということ。
 
日本語はおもしろい。

遊ぶ日本
高橋 睦郎
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高橋睦郎『百枕』(5)

2010-08-05 00:00:00 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(5)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「菊枕」を読んだとき、そこに濃密な「恋」を感じた。
 菊、恋、高橋睦郎とことばをならべると、どうしてもそこに「男色」を思い浮かべてしまう。久女の、虚子への恋(熱愛)も書かれてはいたのだが、久女は孤独のなかで若くして死に、他方、王に捨てられた童は若さをたもったまま永遠のいのちを獲得するという文脈で恋が語られるとき、恋に上下はないはずなのに、王と童の恋(男色)の方が強い、と主張しているように思える。死ねば終わる恋も、死ななければ終わらない。死ねなければ終わらない。
 こんな濃密な恋を書いたあと、高橋は何を書くのだろう。

 「時雨枕--十一月」の冒頭。

凩のいつか時雨やひぢ枕

片しぐれ聞くに片肘片枕

 もう恋人はいない。ひとりで自分の腕を(肘を)枕に寝ている。孤独。一気に、前の句(連作)が洗い流される。

手枕を解いて灯入るる時雨かな

 うたた寝(あるいは寝ないまでも、ぼんやりと横になっている)から起き上がり、自分で灯を入れる。このわびしさ。外が時雨なら、その気持ちはいっそう強くなる。

時雨聞く枕の高さありにけり

 この句で、私は、ほーっと声を漏らしてしまった。俳句のことは私はわからないので、見当違いのことかもしれないけれど、とてもすっきりしている。高橋の句は、どちらかというとことばが多い。それも強いことばというか、ふつうの会話ではつかわないような高尚なことばが多いし、漢字も、こんな複雑な漢字いまもあるの?と、引用にも困るものがある。ことば、文字に抵抗感(?)がありすぎて、思わず身構えてしまうのだけれど、この句ではそういうことが一切なく、すっと引きこまれ、枕と一体になって時雨を聞いている感じがした。「ありにけり」は何にも言っていないように見えるけれど、あ「ある」ということはこういうことなのか、「ありにけり」とはこんなふうにつかうのか、と感動してしまった。
 ここで「ある」と言っているは、文法的には「枕の高さ」--その「高さ」という一種、抽象的なものになるのかもしれないが、「高さ」が「抽象的」に「高さ」としてあるわけではなく、何センチという物理的(数学的?)にあるわけではなく、時雨、その音、枕、よこたわる体、耳ではなく、全身--それが、あ、時雨と聞き知ったときの一瞬のうちに、枕の高さのなかに集中し、そしてそこから静かに広がっていく--その集中し、広がっていく意識の動きそのものが「ある」ように思われる。

 *

 反句は、

恋の座の枕時雨にゆづりけり

 あ、「菊枕」はやっぱり「恋」の句だったんだね。そう意識して、それを「時雨」で転換したんだね。
 高橋のこの句集は、ひとり連歌である、という印象がさらに強くなった。




続・高橋睦郎詩集 (現代詩文庫)
高橋 睦郎
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高橋睦郎『百枕』(4)

2010-08-04 00:00:00 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(4)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「菊枕--十月」。

ゆかしさよ昔菊綿菊枕

 「菊枕」とは枕の綿に菊の花びらをつめたもの。「眼を澄ませ頭を軽くするという。」という言い伝えを紹介したあと、高橋は、エッセイで杉田久女「白妙の菊の枕を縫ひ上げし」、高浜虚子「明日よりは病忘れて菊枕」という句のやりとりや、それから派生した久女のほととぎす除名、中国の童が王の枕(菊枕)をまたいだために山奥に捨てられた逸話やらをとりあげている。山奥に捨てられた童は、菊枕からしたたる露を飲んで七百歳にもなって童のままだったという。
 こういうことを、高橋は、次のように句にしている。

踏越えし咎めとは何菊枕

干菊の香を死の香とも菊枕

菊枕目の澄む果ては黄泉見えん

 久女の除名、童の追放は、愛憎とからんでいる。愛憎とは、死をこえて生きるものかもしれない。
 高橋は、次のように書いている。

王の枕を跨いだ咎とは何を指すか。おそらくは王の寵愛に傲った(と王の周辺が感じた)ことだろう。しかし、その結果、慈童は永遠の若さを獲る。いっぽう、師に熱愛を献げ忌避を蒙った久女は絶対孤独の中、五十七歳で逝く。

 どうも、愛と死は、相反する運動をするようである。いのちは残酷な運動のなかであらゆるものを輝かせる。それは、ある意味では「夢」なのかもしれない。
 高橋は、久女に次の句を捧げている。

白妙は傷みやすしよ菊枕

 「傷みやすい」もののなかに、「夢」の源流があるのか。あるいは「傷みやすい」と認識する意識の中に、永遠が「夢」のようにあらわれてくるのか。
 ことばは、失われていくもの、見えないものを、「いま」「ここ」に浮かび上がらせ、そして「ことば」として生き残っていく。
 どのことばのまわりにも、そういうことばがひしめいている。忘れ去られながらも、ひしめいている。高橋は、その「瀕死」のことばに、新しい力を注いでいる。
 高橋が、「菊枕」ということばを書き、そのまわりに「菊枕」につながることばを書くとき、「過去」が動きはじめる。
 あ、「夢」とは「過去」なのだ。




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高橋睦郎『百枕』(3)

2010-08-03 00:00:00 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(3)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「邯鄲枕--九月」。

別れんか竹の枕や竹夫人

籠枕名残とけふも一ト昼寝

老びとに邯鄲の夢足枕

 九月--もう籠枕の季節ではなくなってしまった。籠枕は素材は竹である。だから1句目のような句が生まれる。
 2句目の「名残」が、なんというのだろう、「矛盾」を感じさせておもしろい。秋、涼しくなりもう「籠枕」は必要ではない。その必要でもないものに「名残」を感じ、まだそれをつかって昼寝をする。そのとき、ほんとうに「名残」があるのは、枕かな? それとも昼寝かな? あるいは、昼寝のひと眠りのあいだに見た夢かな?
 ひとときの眠り、そしてその夢--となれば、どうしても「邯鄲の夢」。
 あ、でも、高橋は「邯鄲の夢」はさらりと駆け抜ける。「籠枕」が竹のまわりだけでできていて中は空洞なのに対して、秋の枕(ふつうの枕?)は中は空洞ではない。「籠」ではなく「陶器」(陶枕)というものも、そういえばあるなあ。陶枕も中は空洞。
 そういう枕を変遷して、

いつのまの秋の枕や昼寝覚

枕腸タ更へし夢こそ涼新た

 「枕腸タ」は「まくら・わた」かな? 枕の内部につめるもの。内部にものがつまった枕をつかう季節。そのとき、「夢」も新しくなる。暑苦しい夏の夢から涼しい秋の夢へとかわる。
 この変化が、私はとても好きである。

 でも、この変化にこそ、実は「邯鄲の夢」についての思いが書かれているのかもしれない。
 「粟籾」をつかうというのは、私は不勉強で知らないが、

粟粥は煮よや枕は備へよや

 という句もあるので、粟籾もきっと枕の詰め物につかうのかもしれない。そういう「詰め物」は、また、一種の「空洞」である。カラッポである。
 「枕」のなかに「夢」があり、それが「頭(かしら)」と入れ代わる。そのとき「頭」はすがはいったようなすかすか。虚しい状態。
 不思議なことに、そんなことを考えていると、「邯鄲の夢」というか、人間の考えの実体のなさに比べて、「枕」はすごいなあ、と思えてくる。「実体」がある。
 一方に、ただ移り変わる「人間」があり、他方にいつまでも変わらぬ「枕」の「実体」というものが存在する。枕には「籠枕」「長枕」などいろいろあるけれど、「枕」である。「もの」である。そういうものに比べると「人間」、その「夢」というのは、「邯鄲野夢」であろうとなかろうと、あまり差がないような木かしてくる。

 あ、これは高橋の俳句に対する感想になるのかなあ。

 私の書いているのは、感想ではないし、批評でももちろんない。私は、高橋のことばに触れて、そのとき思いついたことばを動かしているだけである。「日記」である。高橋の句を「誤読」して、高橋から遠く遠く離れていく--そのために、私はたぶん書いている。近づくではなく、遠ざかるために。



美女(びんでう)も美童も露や仇枕

 美女や美童も露のように消えてしまう。それは「夢」にすぎない。「仇夢」ではなく、「仇枕」か……。「枕」だけが実体だと私は思ったが、その枕さえ、高橋は「仇」なものであるという。
 では、「仇」ではないものは?
 高橋は、ことば、というかもしれない。日本語というかもしれない。
 高橋はこの本で「枕」ということばを集めているが、枕がこんなにたくさんあるとは私は知らなかった。
 ことばがあれば、そこにはことばを書いた(言った)ものの何かがある。高橋は、それが「実体」だと言うのかもしれない。

 本を読みはじめたばかりだが、私はそんなことを考えた。


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永遠まで
高橋 睦郎
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高橋睦郎『百枕』(2)

2010-08-02 00:00:00 | 高橋睦郎『百枕』
高橋睦郎『百枕』(2)(書肆山田りぶるどるしおる、2010年07月10日発行)

 「長枕--八月」。冒頭の句。

汗臭き鼾累々長枕

 「長枕」は文字通り長い枕で、ひとつを複数でつかうのだろう。どうしてもエロチックな印象がある。それが「汗臭き鼾累々」だと、そこから女のにおいが消えてしまう。男だけの、それはそれでエロチックな暴走もありそうな感じである。
 その暴走を高橋は2句目で、一気に洗い流す。

夏の夜の短き夢を長枕

 「短き夢」、その「短き」がとてもいい。そこでおこなわれる性愛はあくまでセックスであり、愛とは無縁のもの。「愛」の長さをもたぬもの。「現実」にはなりえない「夢」。「短い」夢と「長い」枕。この出会いが、さっぱりしている。
 高橋がエッセイで書いているが、いわゆる「若者宿」の、一夏の(一晩の)できごとである。この「若者宿」を高橋は、海辺の集落のものと設定して、海を、漁師を、登場させ、ことばを動かしていく。
 その終わりから2番目の句。

百物語に百クの枕や更けて雨

 ふいに登場する「雨」が、とてもおもしろい。「百クの枕や」と、「百」を突然「ひゃく」と読ませているが、その音の変化と、気候の変化、雨が降りはじめたという変化が呼応していて、気分が一新する。
 若者宿の性愛など、ほんとうに夢となって遠くなる。

 反歌(のような句--以後、反句、と書いていこうかな……。)

土用波砂の枕を崩しては

 「長枕」が「砂の枕」にかわっている。「若者宿」の長枕は、それこそ丸太一本の長枕だったかもしれない。それは砂の枕と違って崩れない。だからこそ(というのは変ないい方かもしれないけれど)、一晩の性愛はの「愛」は崩れさり、単なる性の暴走となって、夢のなかへ消える。消えても、「枕」が証拠として残るから、それはそれでいいのだ。ところが、「砂枕」となると、波が崩してしまえば「証拠」がのこらない。(あるいは、雨が崩してしまうということもあるかもしれない。)こういうとき、ことばが求められる。「もの」が消えてしまっても、残りつづける「ことば」。そして、それは一瞬の暴走だった性の戯れを、「愛」として引き止める。「愛」として、それをとどめておきたい「夢」が、崩れていくもの、消えていくもののなかにある。
 あ、なんだか、「性愛」よりも、こっちの未練(?)の方がエロチックかなあ……。



漢詩百首―日本語を豊かに (中公新書)
高橋 睦郎
中央公論新社

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