詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

平岡敏夫「月の海」、藤井貞和「アカバナー 2」、やまうちかずじ「逢坂」

2015-01-13 10:43:51 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
平岡敏夫「月の海」、藤井貞和「アカバナー 2 化(まぼろし)」、やまうちかずじ「逢坂」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 平岡敏夫「月の海」(初出『月の海』2014年08月)。

月の海
黒く輝く広い海
桃の花に乗った女の子が
両手で小枝の両側をしっかり握り、
唇を小さく噛んで、静かな海を流れて行きました。

月の海
黒く輝く広い海
柏の葉に乗った男の子が
両手で葉の両側をしっかり掴み、
唇を固く閉じて、静かな海を流れて行きました。

 「童謡」なのだろうか。「桃の花」は女の子の節句。「柏の葉」は男の子の節句。でも、こどもの成長を静かに祈っているという感じとは少し違う。音が暗い。短調の響きがある。

子供らの魂を乗せた桃の舟、柏の舟は、次々と、
黒く煌きながら、遥かな月の海を流れて行きました。

 幼いまま亡くなった子どもを追悼しているのかもしれない。
 「童謡」には楽しいと同時に不思議な悲しさがある。「赤い靴はいてた女の子……」の歌も、妙に不気味でこわい。
 月は明るい。けれど、その月夜の海は白く輝く光の柱以外は黒く輝いている。強烈な対比が、幼い子の死の幻を引き起こすのか。



 藤井貞和「アカバナー 2 化(まぼろし)」(初出「水牛のように」2014年08月号)。藤井のこの詩も、また「歌」なのかもしれない。平岡の詩は「童謡」なので、そこに書かれていることばはイメージになりやすい。「絵」を想像できる。しかし、藤井の詩は簡単にイメージを結ばせてくれない。イメージを完結させてくれない。

月しろの光、光のくさむらに、(のたうつかげのわれらの- 不乱
舞茸を舞々つぶり、食えば舞う。 (かなしむ- 月光下の、 撒(さん)である
月の兎、 (腐肉の犠牲。 いま明かり行く真性の菌(たけ)に   食われて
夏越しの茅の輪、 (燃える地上にかげもまたスリラー、潜るスクリーン
うしろの正面の磔。 (怪かしの来てむさぼる、 ぼろぼろの鬼ごっこ

 これは書き出しの5行。「主語」と「述語」がわからない。つまり、散文になっていない。「意味」がわからない。ところどころ、イメージが、ただイメージとして浮かんでくる。
 月が出ている。光が白い。草むらが光っている。草が揺れると影が乱れる。乱れるということばが「不乱」ということばによって逆に印象的に見えてくる。舞茸を食って、毒に当たり(?)、狂ったように舞う。舞いは楽しいはずなのに、狂気はかなしい。かなしいけれど、そこには何か「真実」がある。正確な「論理」にできないことばの飛躍のなかに、何かが見えたように感じる。
 錯覚かもしれない。
 月の兎。月には兎が住んでいる。それは幻、錯覚だけれど、月の影に「兎」の姿を見てしまうという想像力は「ほんもの」である。見たものは「にせもの」であっても、それを見る力は「ほんもの」。
 その「ほんもの」は見たものが「幻」であるだけに、「ほんもの」であることを証明するのはむずかしい。いつでも「ほんもの」は「事実」によって検証される。そして「にせもの」(まちがい)と断定されるのだけれど、そういう「科学の経済学/論理の経済学」を超えて「夢見る力の経済学」は動いてしまう。
 月の光、満月の日の「うしろの正面だあれ」。輪になってまわるとき、その輪は「夏越し祭」の「茅の輪」に似ているか。輪の中の鬼。それは、何をくぐり、何を手に入れるのか。
 藤井は、書かない。
 私の書いてきたことは、単に私の「空想」であって、藤井の考えていることかどうかはわからない。わからないが、ことば、その飛躍は、ある種の「音楽(歌)」になって人間を動かす。
 「かごめ、かごめ」をしながら、子どものとき、「肉体」のなかに何をおぼえてきたのだろう。それは「科学の経済学/論理の経済学」からすると何の役にも立たない。「資本主義の経済学」にも縁がない。(何かの役に立っているかもしれないが、よくわからない。)
 何の役にも立たないかもしれないが、人間は、ことばの、「役に立たない音楽(歌)」のようなものに反応してしまう。その反応、ことばを書きながらの反応そのものを藤井は書いている。「歌」として書いている。「意味」ではなく、「歌」う瞬間に「肉体」のなかで起きる「意味」を超えた何かを響かせようとしている。

 この詩は、最初

月しろの光、光のくさむらに、(のたうつかげのわれらの- 不乱

 と、具体的な何かを書いて、そのあとに丸括弧をひらいて、それに向き合う反対というか、真奥というか別なことを書く。最初に書いた「月しろの光、光のくさむらに」の「光」に対して「かげ」をぶつける。(影は光という意味もあるので、必ずしも反対のものとは言えないけれど……。)
 そして、の丸括弧は閉じられず、つまり、半分意識をずらす形、イメージ論理が完結しない形のまま次に「音楽」としてつながっていく。「意味」ではなく、聞き覚えのある「音」をたよりにことばが響きあう形でつながるのだが、
 うーん、どこからだろう、ことばの前半と後半が入れ代わる。括弧の形がかわる。括弧が閉じられるようになる。(括弧を開きはじめた場所が、あいまいなまま、閉じられることだけが強調されるような感じ。)

あらしのゆくえ、 いつしか)みとせの(あなたに遠のいて)、化(まぼろし)が来る
嘆きの水よ)、 くれないの死者に)寄り添う(小動物を追う)、 あぶくま- 遥か
吹き落ちて)、 心火のあまい)乳汁を、あかごなす、魂か- 泣きつつ渡る)
つぶたつ) 粟のそじしに、惨として別れた)。 そじしが)切り立っていた)

 ものを見てことばを最初に発したときは、まだ「もの」が優勢だった。「もの」を語ろうとしていた。けれど語っているうちに(歌っているうちに、「対象」よりも「歌う」とう「動詞」が自立して、勝手に動いていく感じだ。
 「歌」は意味を必要としない--と書くと、書きすぎなのかもしれないが、「意味」はだんだん暴走し、「意味」をなくしてしまい、声を発する(ことばを発する/歌を歌う)という「欲望」が「意味」を乗っ取ってしまう。
 悲しいはずの「童謡」も、子どもは大声で歌ってしまうような、何か原始的(野性的?)な「歌」の衝動がある。



 やまうちかずじ「逢坂」(初出『わ音の風景』2014年08月)。

でんしゃが河をわたり、高層ビルがちかくになったとき、
ケータイがなった。シートを立って、デッキにむかう。で
んわは、まえに逢ったことのあるおとこからのはずだが、
走行音でなまえはきこえない。えきで待つといって切れ
た。着信履歴にばんごうがひかる。

 表記の仕方がかわっている。ところどころ漢字をつかわずに、ひらがなをつかている。そのひらがなを読むと、そこで私の意識は急にゆっくりする。このリズムの変化が、妙にあやしい。
 詩は、文学仲間(詩の同人のたぐい?)が集まって話をして、また別れるということを書いているのだが、その「内容」よりも、そのときの会合の、書き方が、書き出しと同じリズムである。(2連目は「場所」の説明なので、そこだけ通常の漢字のつかい方をしている。)
 その、仲間が会ったときの4連目。

新装まもないギャラリーきっさ。モネの絵の詩をかいた神
戸のじょせい。マンションから見あげるそらに廓のおんな
のおもいを重ねる八十よわいの元院長夫人。富士登山のつ
えを擬人化してかいた後期高齢よびぐんのだんせい。おも
いついた感想ですがとまえおきして話す白いパンツのじょ
せい。おとこの咆哮を詩集にあんだかんれきの求職者。交
わす批評。コーヒーカップのすれあうおと。

 藤井の作品と違って、「意味」はわかる。情景が思い浮かぶ。--けれど、「ほんとう」かな? 私が思い浮かべた情景は、やまうちが見たもの(体験したもの)なのかな? これが微妙である。
 私は「喫茶」「女性」「空」「女」「齢」と、やまうちの書いたことばを次々に漢字の「意味」で追いながら、同時にひらがなの「音」にとどまる。ひらがなを一字一字目で追うことに時間をかける。やまうちは、こんなふうにゆっくりと対象をみつめているのかな、「意味」にならないように「なま」の感じでつかみとっているのかな、そんなこと、そんな思いを無意識に繰り返しているが、それでいいのかな?
 たぶん、間違っているだろう。
 間違っているのだろうけれど、私は、実は気にしない。そうか、同じ時間、同じことをしていたとしても、私とやまうちでは、「肉体」のなかで動いていることばが違っている。似ているようでも違っている。「音」にしてしまうと、そっくりだけれど、違うんだぞという感じが、私のなかに残る。
 詩は(文学は)、いままで人が気づかなかったこと、わかっているけれどことばにできなかったことをことばにするものだけれど、やまうちは、同じことばでしか言えないけれど、ちょっと違うと言いたい--ということを書いているのかもしれない。

月の海
平岡敏夫
思潮社
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中正敏「雨ですか 日照りですか」、長嶋南子「ホームドラマ」、野村龍「光」

2015-01-12 12:26:53 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
中正敏「雨ですか 日照りですか」、長嶋南子「ホームドラマ」、野村龍「光」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 中正敏「雨ですか 日照りですか」(初出「詩人会議」2014年08月号)を読みながら「文体」について考えた。

その日 雨ですか 日照りですか
たれが ボクの死を見つけるのだろ
ボクは 自身の終りを知りません
それ故 どなたにも知らせません

 これは1連目。終わりの2行が「なるほど」と思わせる。そうか、死は自分では知ることができないのか。死んだら何もできないから、ではなくて知ることのできないことは知らせることができない。達観した笑い(発見の驚きが引き起こす愉快な感じ)があって、おもしろいなあ、と感じる。

沈黙が 告げるでしょう
世界は 喧ましく死は置きざりにされ
死骸は 空と握手するしかございません
しかし 空は空(から)っぽです風が抜けてゆきます

 「死」から「沈黙」への移行。こここには「ボクは 自身の終りを知りません」のような「笑い(発見の驚き)」がない。誰もが「死は沈黙である」という。せっかく「連」が変わったのに、ことばが逆戻りしている感じがする。「常識」、あるいは「常套句」へ。「沈黙が告げる」というのも「常套句」だね。「世界は」はおおげさだなあ。「死骸」は露骨だなあ。「空」は「そら」とも「くう」とも読むことができて、それが「からっぽ」と言いかえられても、驚かない。
 行頭に3文字のことば。1字あけて、つぎのことばというスタイルだけは1連目から2連目へつながっている。
 これは、しかし、3連目へいくと、違うスタイルになる。

ヒ孫の愛里(アイリ)ちゃんがモミジの手で
ボクの住んでいた月日を数えていて
数えきれずに瞳を隠します

 3連目が「起承転結」の「転」で、だからスタイルを変えた、のかもしれないが。
 でも、「論理的」にことばを動かすという中の基本的なスタイルは持続している。「それ故」「しかし」という「論理」をつかってことばを動かしていく方法は貫かれている。 「数えきれずに瞳を隠します」は、

数えきれずに「それ故」瞳を隠します

 数えきれないからといって、瞳を隠す(涙を隠して泣く)とは限らないが、「それ故」という論理性の強いことばで「事実」を「真実」にかえる。論理で事実が真実にかわるとき、そこに詩があらわれる--というのが中の「文体(ことばの肉体/思想)」なのだろうと思う。
 4連目。

鯉のぼりの吹き流しが風と遊んでいます
矢車が大世界のように廻りますか
五月雨でしょう蛇口で公園の人が洗顔しています

 最初の2行は2連目と呼応しているのだろう。飛躍があるようでも、その飛躍を暴走させないというのが中の論理のスタイルだろう。
 では、最終行には、どんな「論理」のことばが隠れているのだろう。「それ故」か「しかし」か。私は、次のように読む。

五月雨でしょう「それでも」蛇口で公園の人が洗顔しています

 「五月雨」と「公園の人が洗顔する」ということの間には関係がない。「無関係」。その無関係を承知で、「それでも」結びつけてしまう。そういう論理の「強引さ」。
 きっと、強引なんだろうなあ、中は。

ボクは 自身の終りを知りません
それ故 どなたにも知らせません

 これも考えてみれば「強引」だ。「ボクは 自分の死を知りません」というのなら、誰かボクのかわりに知らせてください。ボクは死んでしまったら何もできません、だから、誰かボクのかわりに知らせてください、というのが「ふつう」の論理。でも、中は論理を他人に任せてしまうことができない。自分のことを言ってしまう。強引な自己主張。
 この「強引さ」が、2連目を少し変にしているのかなあ、とも思う。2連目の「沈黙」「世界」「空(空っぽ)」が、どうも抽象的すぎて(あるいは、常識的論理で動きすぎていて)なんだか落ち着かない。自己主張にこだわっている。せっかく死ぬのに自己を捨てきれていない。--そのために、ことばは「哲学」に昇華しきれずにいる、という感じがする。詩になりきれていない、何かが残っているという感じがしてしまう。



 長嶋南子「ホームドラマ」(初出『はじめに闇があった』2014年08月)も「論理的」であるといえば「論理的」である。ただし、その「論理」は中が書いているように「理詰め」ではない。「それ故」とか「しかし」は存在しない。もし何かことばを補うなら「そして」だけである。あらゆることが「そして」でつながっていく。

ムスコの閉じこもっている部屋の前に
唐揚げにネコイラズをまぶして置いておく
夜中 ドアから手がのびてムスコは唐揚げを食べる
とうとうやってしまった
ずっとムスコを殺したかった

うんだのはまちがいです
うまれたのはまちがいです
まちがってうまれました
まちがってうんでしまいました
まちがわずにうまれるひとはいません

 引きこもりのムスコの世話がめんどうになり、「死んでしまえ」と思う。さらに「うんだ/うまれた」について自分勝手なののしりあいをする。こういう乱暴は、どれだけ乱暴であっても「肉親(母とムスコ)」なので「平気」である。「論理」を超えた「強いつながり」がある。それは「そして」という具合に、順番につながっているだけである。それは「超論理」と言いかえた方がいいのかもしれない。いちいち「論理」なんて言っていられない。「倫理」なんていうことも面倒くさい。「いのち」というのは切っても切れないつながりなのであって、つないで行くしかない。「それ故」なんて気取って「頭」のなかを整理する必要はない。肉体は産む/うまれることによって、「ひとつ」から「ふたつ」に分離している。そして「分離」が実は「いのちをつなぐ」こと。そのときから「矛盾」(分離/つながり)は同時に存在してしまっている。共存している。これをいちいち整理する必要はない。世界(?)がかってに「共存」を受け入れている。

主婦はなにごとがあっても子はうみます
ご飯をつくります

 「なにごとがあっても」。これが長嶋の「肉体/思想」である。
 この「なにごとがあっても」は、中が最終行で省略(?)していた「それでも」にいくぶん似ている。中も「それ故」「しかし」というようないかにも「論理」ということばを捨てて「それでも」で押し通せばおもしろいのかもしれない。
 「なにごとがあっても」が「おばさんの哲学」なら、「それでも」を押し通せば「おじさんの哲学」が詩になるかも知れない。「それでも地球はまわっている」が世界を変えた「哲学」になったように、と突然思いついた。「信念」というのは他人の「頭(論理)」をぶち抜いて動くものなのだろう。
 長嶋のことばには、他人をぶち抜く強さがある。

きのう子どもを食べているゴヤの絵を見ました
きのう天丼を食べました
カロリーが高いのでめったに食べません
どんぶりのなかにムスコがのっています
母親に食べられるのは
たったひとつできる親孝行だといっています

 これは「殺してやる」「ああ、殺せ、殺されるのは本望だ」というようなその場の口げんかを言いかえたようなもの。「おれには唐揚げで、おまえは(母さんは)天丼か」「たまには天丼くらい食べたってバチはあたらないよ、できそこない」というような、元気な「肉体(の声)」が聞こえてきそう。
 切っても切ってもからみついてくる「いのち」のつながり。「愛情」なんていうものより、もっと面倒くさい。「論理的」に説明できない。それと向き合い、大声を張り上げながら、だんだん「張り上げ方」を「肉体」がおぼえてくる。大声を出しても、もう声はかすれたりはしない。「腹式呼吸」「腹から押し出す声」になっている。
 元気でいいなあ。こういう詩を読むと、元気になるなあ。
 私は長嶋を知らないので、ずいぶん「誤解」しているかもしれないが、ほんとうは長嶋は苦労しているのかもしれないが、元気なおばさんと「勘違い」させておいてください。いっしょに暮らすと困るかもしれないけれど、傍から見ているのは楽しい。(ごめんね。)



 野村龍「光」(初出『Stock Book』2014年08月)。

濡れた翼を折り畳んだばかりの羅針盤から
今 暖かな輝きが溢れ出す

羽根ペンは 薔薇のしなやかな茂みに身を寄せて
波間に海燕の仄暗い歌を綴る

 こんな感じの2行1連のことばがつづいていく。「こんな感じ」と書いてしまったが、「こんな」を別なことばで言いなおすと……。
 一読すると「主語」がよくわからない。乱れる。
 最初の連は「暖かな輝き」が「主語」で「溢れ出す」が「述語」ということになるのかもしれないが、1行目との関係がよくわからない。「輝き」が「濡れた翼を折り畳む」? 「折り畳む」の「主語」は何? これが、あいまい。「濡れた翼を折り畳む」は、たとえば海鳥を主語にするとなりたつが、それと「羅針盤」の関係がよくわからない。
 動詞(述語)がことばを統一しているというよりも、そこにある「もの」が世界を統一しようとしている。「濡れた翼(海鳥)」「(船の)羅針盤」「暖かな(海/波の)輝き」。海は荒れているが正確に動く羅針盤が心強い--といったような世界。
 2連目は「主語」が「羽根ペン」で「述語」が「歌を綴る」だろう。おもしろいのは、しかし、そういう「主語/述語」の「枠」を内部から破壊するように挿入された「薔薇のしなやかな茂みに身を寄せて」という表現。文法的にはここでも「主語」は「羽根ペン」、「述語」は「身を寄せた」なのだろうけれども、読んでいる瞬間は「比喩的修飾節」の「内部」を意識が動いてしまう。「薔薇」が「主語」になって「身を寄せる」を思い浮かべてしまう。「羽根ペン」と「薔薇」のイメージの距離が遠すぎて、すぐには「比喩」としてつながらない。「比喩」が独立して全体を破っていく。
 この瞬間に、たぶん、野村の詩はある。
 ことば全体の「構図(絵)」を破って、部分が独立して自己主張する。その部分の「独立性」の輝きのようなものが、野村の詩のように思える。そして、その独立して自己主張する「もの」の存在の共存が「動詞(述語)」のつくりだす世界を超えていく。
 「もの(存在)」の乱反射が野村の詩。「濡れた翼」「羅針盤」「輝き」「羽根ペン」「薔薇」「海燕」「仄暗い歌」こういう「もの(名詞)」が「主語」というよりも「動詞」として働いている。それらの名詞につながる「動詞」は、実は、動かない。「名詞」が勝手に動き回るのをかろうじて制御するという感じ。
 文法が逆転したことばの暴力。それが野村の、この詩の特徴だ。
 「もの(存在)」を順々に追っていくのではなく、その全てを一気に「一枚の絵」のように把握する。把握するために、読者が自分自身で「動詞」とならなければならないのかもしれない。「名詞」のなかに飛びこんで、「主役」になって「名詞」を動かせると、野村の詩はきらきらと輝く「光」になる。


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笹本淙太郎「久遠へ」、粒来哲蔵「海馬よ、海馬」、那珂太郎「四季のおと」

2015-01-11 11:02:46 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
笹本淙太郎「久遠へ」、粒来哲蔵「海馬よ、海馬」、那珂太郎「四季のおと」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 笹本淙太郎「久遠へ」(初出『有の光芒』2014年08月)について、私は何を言えるだろうか。

森羅なる万象を鳥瞰し
未だ見ぬ銀河を尋ね
憶え得ぬ久遠へ

 私のつかわないことばが、漢字熟語のまま、並んでいる。私は日常的に漢字熟語をつかわない。カタカナ語をつかわないのと同じだ。
 漢字熟語を「見る」と私が肉体で覚えていること、ことばで言うのが面倒くさいことが、「結晶」したようにしてそこに「出現」しているような気持ちになる。私の手の届かない世界を笹本は漢字熟語でつかみ取っている。思っていることを、というよりも「思考」を、あるいは「思念」と呼ばれるようなものを書いているんだろうなあ。「あいまいな思い」ではなく、「意味」を日常の次元を超えた感じで結晶させようとしているんだろうなあ。

訥々として千古の思考を束ね
数知れぬ行為を聚め
総覧と闇路を綯い交ぜに思想となすが
有の縷々たるは可能の方途であるか

 これは「聞いて」もわからないなあ。目で「漢字」を見ながら「意味」を考える必要がある。「集め」と「聚め」は耳で聞く限りは同じ「音」だが(同じだと私は思うが)、漢字の表記は違う。その違いのなかにも笹本は「意味」をこめているんだろうなあ。
 「思考を束ね」「思想となす」という表現があるが、「思考」を「漢字」をとおして「思想」にまで作り上げる、鍛えて育てる。そういうことを笹本は「肉体」にしようとしているのだろう。
 私の「誤読」になるのだろうが、(というより「誤解」かも……)、こういう書き方は何か「漢字(表意文字)」がもっている「意味」に頼っているような気がする。別な言い方をすると「漢字の意味」を信じきっているような感じがする。その、あまりにも「純粋」な信じ方が、私には、ちょっとこわい感じで、知らず知らず身を引いてしまう。「立派な思想詩(哲学詩)ですね」と言って、あとは知らん顔をしてしまう。



 粒来哲蔵「海馬よ、海馬」(初出『侮蔑の時代』2014年08月)。粒来も「漢字」を利用している。しかし、その「利用」の仕方が笹本とは違う。

 妻は私に隠れて余程以前から海馬という馬を飼っていた
らしい。河馬ならばともかくも、海馬となると並の図鑑に
は載っていない正体不明の馬だから放っておいたが、妻が
老いると海馬も老い、人馬共に老耄を託ちながら共々に得
体の知れぬ生物に変貌しつつあるようだった。

 「海馬」は脳の一部。アルツハイマー病が起きるとき、最初に海馬が変化すると言われている。こういうことは最近はニュースで言われているので、海馬が実際に脳のどこにあるのか知らない人もなんとなくわかっている。
 この「海馬」から粒来は「馬」を取り出す。さらにその「馬」に「海」ではなく「河」をくっつけて「河馬」にしてみる。これは、まあ、なじみのある動物だ。動物園へ行けばたいてい、どこにでもいる。映像でもよくみかける。
 この「海馬」と「河馬」の比較(?)は、本来の「海馬」の「意味」からすると「ずれ」ている。間違っている。間違っているのだけれど、この間違いは、人を引き込む「ほんとう」をもっている。
 私たちは(私だけかもしれない。知らないことは調べればわかる、なぜ調べないと最近もある人から叱られたばかりだ)、知っていることを頼りに、勝手に「考える」。「覚えている」ことを思い出しながら、その「覚えていること」を動かしてみる。そして、「誤読」する。
 「海馬」は「馬」か。「海の馬」は知らないが「河の馬」なら知っている。カバは「河馬」と書く。馬というより巨大な豚に近い感じがするが、太った馬と昔のひとは考えたのか。豚よりも馬の方が身近に感じる人が「河馬」という表記を思いついたのかもしれない。--ということはおいておいて……。「馬」なら生き物である。生き物なら、年を取ると徐々に変化する。
 そうか、脳のなかに生きている「馬」が変化すると、脳そのものも変化して、人間も変わっていくのか。

 妻の寝息の中に、時々海馬の嘆き節が混じるようになる
と、妻の言動に乱れが出始めた。

 これはアルツハイマー病が発症したことを書いたのだろうけれど、「馬」が「妻」のなかで変化し、それが妻の肉体を動かしているという感じが、「肉体」そのものに響いてくる。
 人間の肉体のなかに生きている動物が人間の理性の支配を離れて野生を生きはじめる--これは肉体の衝動、本能の目覚めのように響いてくる。とても生々しい。
 「意味」(つまり、医学的な述語の世界)からみると、こういう「誤読」は「間違っている」のだが、「間違っている」方が「肉体」には納得しやすい。脳のなかで海馬がどのように萎縮し、それが神経にどのように作用し、言動が乱れるかということを医学述語で正確に言われたとしても、何のことかわからない。どこまで調べれば「理解」できるのか、「理解」したことになるのか、見当がつかない。それに、「医学述語」は時代と共に変化していく。きょう正しいと言われていることが、ある日、新発見によって覆ることがある。そういう「日常の理解」を超えた世界を「正確」に知るよりも、自分の「肉体が覚えていること」を頼りに生きた方が、生きるということを納得しやすい。人間の野性が動きはじめるの方が、自分の覚えていることとつながりやすい。
 妻はだんだん「馬」になりつつある。妻が「馬」になるから、「馬」と生きればいい。「馬」には「馬」の「能力(可能性)」がある。
 詩の最後で、「妻」が「白い小房の花」にみとれる。

  私はその小花を知っていた。馬酔木だった。海馬はつ
とにこの花に酔ったのだ。妻とはいわず、海馬よ海馬……
と口籠もりながら、私は妻の背を叩いて覚醒を促した。妻
の目にうっすらと馬影が映っていた。

 この詩の美しさは、「海馬」ということばの「意味」の不正確さから生まれている。「海馬」の「誤読」から生まれている。野性、本能にたいするいたわり、やさしさが生まれてくる。「意味」は自分で捏造するものである。そのとき動く「肉体」が詩である。「意味」を破壊し、別の「こと」をつくり出していくのが詩である。



 那珂太郎「四季のおと」(初出『宙・有 その音』2014年08月)。那珂太郎は、粒来とはまた違った形でことばを「解体」し、「再構築」する。「春」の部分。

ひらひら
白いノートとフレアーがめくれる
ひらひらひらひら
野こえ丘こえ(まぼろしの)蝶がとぶ
ひらひら
花びら(の)桃いろのなみがだ舞ひちる
ひらひらひらひら
ゆるやかな風 はるの羽音(はおと)

 粒来は「海馬」から「馬」を独立させて、「誤読」を加速させた。那珂は「文字」ではなく「音」を独立させ、音を「誤読」し、音を暴走させる。ただし、「暴走」とはいうものの、那珂の場合、日本語の伝統への意識(意味への脈絡)が非常に強い。どんな「音」もそれぞれに「文化的背景」を持っている。その音(ことば)が、どのようにつかわれてきたかという歴史をもっている。那珂は「自由」なようであって、でたらめではない。その伝統(意味)をしっかり踏まえている。
 「ひらひら」ということば。それは日本語の歴史のなかで、どうつかわれてきたか。「ひらひら/めくれる」「ひらひら/とぶ」「ひらひら/まう」。「ひらひら」は「うすい」。「うすいもの」、たとえば「ノート」「フレアー(スカート)」「蝶の羽」「花びら」。那珂のことばは、ほんとうは「暴走」していない。
 これは「なみだが舞ひちる」をよくみるとわかる。涙は「流れる」。あるいは「こぼれる」。しかし、「流れる」「こぼれる」という「動詞」は「ひらひら」とは相性がよくない。「ひらひら/流れる」「ひらひら/こぼれる」とは、よほどのことがないかぎり言わない。「きらきら/流れる」「さらさら/流れる」「ちらちら/こぼれる」。どのことばにも、それぞれの相性が合って、相性の合うものと結びつく。そしてその結びつきが「感覚の意味」になる。那珂は、この感覚の「意味」を「音」のなかでつかみとっている。それを自立させ「音楽」に高めている。
 ことばのなかの「音」が「音楽」にまで結晶すると、そこからおもしろい現象も生まれてくる。「音」が「意味」を超えて、別なものになる。粒来が「海馬」から「馬」を独立させて別なものにしたのと似ているかもしれないが……。
 たとえば「四季のおと」は「四季の音」であると同時に「四季ノート」であり、「はるの羽音(はおと)」は「はるのハート」でもある。那珂は「羽音」にわざわざ「はおと」とルビを打っているのだが、これは「羽音」を「はねおと」と読んでしまっては「ハート」にならないからである。



宙・有その音
那珂太郎
花神社
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川上明日夫「草柩」、季村敏夫「小さくなって」、國峰照子「影ふみ」

2015-01-10 08:59:36 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
川上明日夫「草柩」、季村敏夫「小さくなって」、國峰照子「影ふみ」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 川上明日夫「草柩」(初出『草霊譚』2014年08月)。

ここではチョット深さが足りなかった
ここではチョット高さが足りなかった
そんな
足りない高さと深さのあわいを
階が
ゆっくりと
雲の話をして流れている
空の話をして流れている

 書き出しの数行だが、ときどき、対になったような2行が繰り返される。繰り返すことでことばを「歌」にしている。その「歌」を気持ちよいと思うかどうか。私は気持ち悪く感じる。ことばに酔っている感じがするので気持ちが悪い。それぞれの行に「思い入れがある」ことはわかるが、わかるのは「思い入れがある」ということであって、肝心の「思い入れ」の手触りがない。
 「内容(意味)」というのは方便だから「思い入れ」なんてわからなくてもいいのだが、思い入れが「ある」の「ある」だけ見せつけられているようで落ち着かなくなる。
 「そんな」「階が」「ゆっくりと」という短い行の音もなじめない。
 私は「散文的」な読者なのかもしれない。ことばが前へ前へと進んでゆかないと、どうも気持ちが悪くなる。

誰かがそっと
さきの世の 傘を さしてくれたから
ただ ただ
この世の「離(か)」るをひとり聴いている

 「離」に「か」とルビを打つだけではなく、「離」の一文字をカギ括弧でくくって強調している。「文字」をわざわざ強調し、独立させ、そこに日常とは違う「意味」を押しつけて「詩」であること主張している。
 これは気持ち悪くてしようがない。詩を探して読むのは読者のよろこび。詩を押しつけられるのは苦痛である。詩は作者のものではない、と反論したくなる。
 川上のことばと私は、「相性が悪い」のだろう。



 季村敏夫「小さくなって」(初出『膝で歩く』2014年08月)。
 「小さくなって」が収録されている季村の今回の詩集の作品には、末尾に「引用」がある。「引用」というより解説と言えばいいのかもしれない。だれそれのことばと向き合い、こんなふうに季村のことばは動いた--そういう「対話」の結晶が詩になっている。対話したあと、それを季村の「独白」に結晶させていると言った方がいいのかもしれない。
 私は、こういう作品が苦手である。季村が対話した相手のことを、私はよく知らないからだ。知らなければ調べればいい、とひとは言うが、私は、そうやって調べたことがほんとうに「知る」ことなのかどうか、わからない。「知」に対して、私は懐疑的である。他人がまとめた「知」を動かすとき、そこで動くのは私のことばではなく、「他人のことば」にすぎないと私は考えている。(これは季村のことを言っているではなく、私のこと。私はこの詩に登場する「渡辺京二」を知らない。季村は調べて知っているのではなく、いままで生きてきたなかで出会っている。だから、渡辺を書いている。)

 「知らないまま」、では、どうやって作品を読むか。私は、こんな具合……。

部屋のなかのひとは
かたわらの背中をさすりつづける
さわられるひとは横たわり
微塵も動かない

これはボスポラス海峡からのたより
難民が収容される病院では
むかし読んだ一節が今もくり返されていたと*

 この「*」が末尾の注釈につながっている。末尾では、こう書かれている。

小さきものは過酷さを甘受せねばならない運命にさらされている、渡辺京二氏はこう刻み込んでいる。

 「ボスニア海峡」云々は渡辺のことばの言い直しなのだろう。渡辺はボスニアの難民のいる病院で背中をさする人、さすられる人を見て「小さきものは過酷さを甘受せねばならない運命にさらされている」と感じたのだろう。そう書いたのだろう。
 そのことばを(かつて読んだことばを)、季村は「繰り返している」(反芻している)。そして、その「繰り返し」には渡辺の「肉体」も参加している。
 渡辺は、かつてどこかで背中をさすり、背中をさすられる人を見た。ボスニアではじめてみたのではなく、それ以前に見た。それをおぼえている。そして、それをおぼえているからこそ「小さきものは過酷さを甘受せねばならない運命にさらされている」とことばが動いたのだ。
 あるできごとが、そうやって繰り返され、ことばになって「事実」になる。「真実」になる。--これは季村が『日々の、すみか』で「出来事は遅れてあらわれる」と書いたことにつながる。できごとは、すぐにはことばにならない。時間を置いて、肉体がおぼえていることが繰り返されて、できごととして見えてくる。ことばといっしょに動いて、それがまぎれもない「事実」になる。
 渡辺がボスニアで見たもの、そしてことばにしたことが、季村の「肉体」のなかから阪神大震災のときの被災者の姿、さらに東日本大震災のときの被災者の姿を思い出させる。おぼえていることを、「いま/ここ」にひっぱり出す。
 季村もまた「背中をさする/さすられる」を実際に見たことがあるのだ。したことがあるのかもしれない。
 「背中をさするえさすられる」は「事実」として「繰り返される」。
 季村にとっては「繰り返す」ために、ことばはある。繰り返すことで、思い出しつづける。そのために、書く。
 それは大震災のことだけではない。
 それが何であれ、「むかし読んだ一節」、そこにあった「ことば」を繰り返し、動かして、そこから動いていくしかない。他者の記憶の継承、他者を生きる、それが自分を生きることにつながると季村は「肉体」で「おぼえている」。
 これは一種の「さとり」のようなものである。
 「さとり」というのは、何かに向き合ったとき、「自我」がぱっと消え、そこに起きていることが「こと」として突然、世界そのものとして見えてくる瞬間のことだ。「他人」があらわれて、その「他人」と「自我」が一体になって、その両方が消えてしまう。「こと」と「こと」を出現させる「動きの基本(動詞の基本)」のようなものが動く瞬間のことだ。
 この詩では「背中をさする/さすられる」という人間の「動詞」がその「さとり」の中心にあると思う。



 國峰照子「影ふみ」(初出「gui 」102 、2014年08月)。

さかりを過ぎた猫が
軒下の
恋人たちのわきを
そっぽを向いて
フん

ちょっと離れていいかしら
をんなの影がいう
ああちょっとだけなら
影は軽く猫のあとを追う

菜種梅雨に
濡れた影がかえってくる
猫の影もつれ
花びらもつれ
ララフんじゃった

 恋人たちの横を猫がとおりすぎる。「さかりを過ぎた」猫と感じるのは、恋人たちが「さかりが過ぎた」からだろうか。「さかりの最中」だからだろうか。
 答えるはむずかしい。なぜなら、その「答え」は読者が肉体でおぼえていることを語ることになるからだ。肉体のなかに「さかり」が暴れまわっていたころ、世界はどんなふうに見えたか--それを語ることになってしまうからだ。
 答えが國峰の「意図」と重なるかどうかは、問題ではない。詩はいつだって書かれてしまった瞬間から(読まれてしまった瞬間から)、作者のものではなく、読者のものである。読者の「肉体」とことばの関係になってしまう。
 「ちょっと離れていいかしら」「ああちょっとだけなら」。こういう会話が成り立つのはどういうとき? 「さかり」がついている? 「さかり」が過ぎ去ったあと? 「離れる」は場所? それとも時間?
 「をんなの影」と書いているが、「影」だけが「離れる」のだろうか。そうすると「影」は何かの象徴? 何かの「意味」?
 答えるのがどんどんむずかしくなる。
 でも、答えなくてもいい。答えなんか「知らない」と言えばいい。
 最終連で、影はもどってきて、じゃれている。「ララフんじゃった」が明るいが、その明るい終わり方が全体を明るくしている。
 「意味」なんか考えず、「ララフんじゃった」を繰り返せば、そのうちに「肉体」のなかに「答え」が自然にあらわれる。
 國峰については、マッチョ主義の文章を書く人という印象が根強く残っているので、私には今回の詩は以外だった。

膝で歩く
季村 敏夫
書肆山田

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秋亜綺羅「来やしない友だちを待ちながら」、井川博年「買い物」ほか

2015-01-09 10:12:30 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
秋亜綺羅「来やしない友だちを待ちながら」、井川博年「買い物」、金澤一志「けむりのトポロジー」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 秋亜綺羅「来やしない遊び友だちを待ちながら」(初出『ひよこの空想力飛行ゲーム』2014年08月)には「または伊東俊への弔詩」という副題がついている。
 この詩を読む限り、秋亜綺羅と伊東俊はとても似ている。『ゴドーを待ちながら』の二人の登場人物のように。実際に似ているかどうかは知らないが、秋亜綺羅は「同類」の人間と見ていたのではないだろうか。ロープ(運命の糸)でつながれていた、と感じていたのではないだろうか。

津波が近づいていたときふたりで
サーフボードを売っている店を探したよな
とぼくはもういわない

避難所ではさトイレの前がオレの寝床なんですよ
酒臭いやつはトイレの匂い消しに役だつんだよ
ときみはもういわない

 ふたりとも「ことば」で状況を異化して見せる。ほんとうは、そういうことばを言うべき状況ではないかもしれない。けれど、ことばには、そういうことを言うことができる。想像力は自由だ、ということだ。
 そして、その想像力というのは、

高校時代いっしょに同人誌を出さなかったら
ふたりは物書きになっていなかったね
総合文芸誌「穴があったら出てみたい」
出版社名が竪穴住居出版だったね

 「穴があったら入りたい」ではなく「出てみたい」。ふつうのひとの「概念」を否定する。流通している概念を壊すことに向けて、想像力が動いている。
 想像力は自由だというだけではなく、積極的に想像力を解放しようとしている。
 それはよくわかるのだが、こういうときの想像力の運動というのは、意外と「論理的」ではないだろうか。
 終わりの方に、

逆説で固められた迷路にわたしたちはいる

 という1行がある。象徴的だと思う。「逆説」というのは「論理」の形態である。正しい論理(?)を前提としている。前提がないと「逆説」はない。問題は、そのあとの「固められた」である。「固められた」と書く以上、秋亜綺羅は自覚しているのだろうけれど、私はときどき秋亜綺羅の想像力は「逆説」だけでできているように思える。それがほんとうに「解放」なのかどうか、わからない。「固められた」状態では解放といえないだろうと思う。
 「逆説」で「論理」を相対化するのではなく、そこにある「論理(前提の論理)」を増殖・拡大することで、その論理のもっているものの「暗部」を露骨にするという形の想像力も必要だと思う。他人の土俵に乗って、その土俵の限界を暴き出すということも必要な時代だと思う。たとえばアベノミクスの就業率が増えている(雇用者が増えている)ことの背景に、その雇用者の賃金がどう変わったか、利潤の行き先はどこかを事実と論理を組み合わせながら解析するというような姿勢が必要な時代だと思う。

「穴があったら出てみたい」
きみの人生と戯曲ではどちらが劇的でしたか

 これでは平穏すぎるように思う。「弔詩(弔辞)」にこんな不満を書くのは非礼なことかもしれないけれど……。



 井川博年「買い物」(初出「歴程」590 、2014年08月)。「つまらないから家を出た。」とはじまり、途中で寺の前で「墓地分譲中」であることを知る。

同じ宗派ではあるし
考えてみないでもない

といってみたところで
買えるものではなし

男からチラシだけ受け取り
食べ物屋の行列を見て

眼についた何でも屋で
爪切りを見つけたので購入した

これが欲しかった買い物だった。

 その日の行動を時系列にしたがって、だらだら書いただけ。これが詩? ふつうのひとなら、きっととまどうなあ。どこが詩?
 あえて言えば、「買い物」が「爪切り」というささいなもの、わざわざ詩に書くようなものでもないことを書いている。その、人をくったようなところが詩。詩って「実用」じゃないからね。
 私は少しだけ違うことをつけくわえたい。違うというより、もしかすると同じことかもしれないが。
 分譲中の墓地を「買う」。爪切りを「購入する」。ふたつの動詞が出てくる。「意味」は同じである。金を出して、それと引き換えにほしいものを自分のものにする。そのときの「金を出す」という行為。
 問題は、「爪切りを購入する」という言い方。こういう言い方をする? 金額の高い墓地なら「購入する」というような格式張った(?)熟語をつかうかもしれないが、爪切りなんて、「購入する」なんて、私は言わないなあ。「何でも屋」にある爪切りは、百円ショップの爪切りと、どれくらい違うんだろう。千円出して爪切りを買う時代じゃないねえ。
 この詩は、そういうところに「購入した」というようなことばをつかって、それから「これがほしかった買い物だった。」とすとんとオチをつける。このタイミング、読者の意識を少しだけかすめて動く「違和」のようなものをていねいに描いている。何気ないようであって、ことばが「ていねい」なのだ。この「ていねい」は「意地悪」でもある、と私は思うけれど、井川は、「いや、正直なのだ」と言うかもしれない。
 でも、私は「夢中」をふくまない動詞は「正直」とは呼びたくない。なんとなく身を引いて、身構えてしまう。



 金澤一志「けむりのトポロジー」(初出『ウプラサ、ピポー叢書の夢』2014年08月)。目で見る詩。「あめつちほしそらやまかは」(天/土/星/空/山/川)ということばが縦ではなく横一列に、扁額のように並んでいる。その途中、「ら」のところは「からつ」と言う具合に縦の行が交錯する。「かは」の2行は、

  たかはし
しょうはちろう

 という具合。たいていが「固有名詞」が縦に交錯する。
 「すとうつがると」という魅力的な表記もあるが、ふーん、それでどうしたの、と私はも思ってしまう。
 私は、ことばは「音」であると思っているので、こういう「視覚」に頼っている詩は好きになれない。
ひよこの空想力飛行ゲーム
秋亜綺羅
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吉増剛造「蕪村心読(一)」、和田まさ子「ひとになる」ほか

2015-01-08 09:43:53 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
吉増剛造「蕪村心読(一)」、和田まさ子「ひとになる」、渡辺めぐみ「樹間戦争の頃」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 吉増剛造「蕪村心読(一)」(初出「ふらんす堂通信」141 、2014年07月)。私は吉増の詩は苦手である。一篇の詩なのかで文字の大きさがかわったり、ルビが交錯したりする。どう読んでいいか、わからない。どう「音」にしていいか、わからない。吉増自身は「音」を表現しようとしているのだろうけれど……。
 吉増が「音」にこだわっているということは、

「朧(oboro )」は安藤次男氏の『流』からだ、……。”朧(oboro )はたんぽぽ(tanpopo )乃、popo”ここから這入って行こうかしら。

 というようなところから感じられる。ことばを、わざわざローマ字にして母音を確かめている。
 そして、それは日本語だけではなく、

Un Poco Loco Un Poco Loco ハ
朧ろ(Oboro )君

 という具合に、スペイン語の音との交流もある。「少し狂って」と「朧ろ」というのは「意味」としてどういう関係があるのかわからないが、「音」はたしかに響きあう。響きあうものがあれば、まあ、そこに何かの感覚の行き来があるだろう。そういうものを感じる瞬間があるだろうと、私も思うので、そういうところだけは何かわかったつもりになる。
 また、そういうことを、

なんとはなしに、蕪村さんのこころは金色だったという気がする。

 といいかげんな(?)感じ、「なんとはなしに」で押し切るところも私は好きなのだが、どうにも表記の複雑さが私には納得できない。ついつい読むのがおっくうになってしまう。
 (引用の表記は原文とは違うところがある。傍点も省略した。また文字の大きさも無視した。実際の表記は「現代詩手帖」か「ふらんす堂通信」で確認してください。)



 和田まさ子「ひとになる」(初出『なりたい わたし』2014年07月)。和田の詩のなかに出てくるひとは壷にでも金魚にでも何にでもなる。そして、その「なる」前はひとなのだが、この詩では「ひと」になる。なぜ「ひと」になるかといえば「夜のうちに/豹になっていた」からなのだが……。
 その詩の後半。

バス停で待っていると
待っているのは
バスなのか
餌食となる動物なのか
判然としない
まだ、眠りと現実のあわいにいるようだ
二月の晴れた日にアフリカではなくて
ここにいる不思議にとまどっている

あそこにもひとり
夜、なにかになっていた女性がいる
懸命にひとになろうと努力しているのがわかる

 なぜ、わかるのか。それは「わたし」が人間になろうとしているからである。自分のしていることと、相手のしていることが重なる(一致する)。そのとき、ひとは「わかる」。これは、「わかる」というよりも「重ねてみてしまう」というだけのことかもしれないが。そして「重ねてみる」というのは、他人のなかで「自分を思い出す(肉体がおぼえていることを思い出す)」ということだろうと思う。
 他人の肉体と自分の肉体が重なる。いや、他人の肉体に自分の肉体を重ねる。そうすると、いくぶんあいまいだったことが鮮明に自分の肉体の奥から誘い出される。そういうことが実際に起きていることかもしれない。
 こういうことを「意味」をつけくわえずに書くのが和田の詩のおもしろいところである。だから、最終行、

ひとになるのがいちばんむずかしい

 これはそのとおりなのだろうけれど、「語りすぎ」かもしれない。
 ここに書かれている「ひと」が壺や金魚と同じように、「ひと」と呼ばれているものであることはわかるけれど。
 私は和田の詩は大好きなので、そういう「不満」も書いておく。私の「不満」くらいではゆるがない強いものがあるので、平気で「不満」が書ける。



 渡辺めぐみ「樹間戦争の頃」(初出『ルオーのキリストの涙まで』2014年07月)にはふたつの「文体」がある。

あらゆる行為の無意味の意味を問いかけた
争うものの思想の吃音が
羽毛をけたたましく散らすたび
殻が割れるのではないかとおびえ続けた

わたくしはもともと鳥の卵ではなく
鳥以前の卵ではなかったかと思案する
羽を持たない他の種族の卵ではなかったかと

 「意味」「思想」「思案」ということばに象徴されるように、ここでは「思う」という動詞が「意味」と結びついている。ことばは「意味」を探って、「意味」を渡辺の肉体に引き入れようとしている。
 もうひとつの文体は、

りり
りりりりりり
りり
りり
りりりりりり
りり

 こういう「音」だけのもの。「意味」がない。「思想」がない。つまり、ここでは「思案」がされていない--とは、しかし、言えない。
 渡辺はこの行につづけて、こう書いている。

わたしくの不確かな存在証明が
大気を震わせて編まれていった
鳥語を喋れないだろう
啼けないだろう
それでも樹間戦争が終るまで
生きなくてはいけない

 「意味」以前のことばでも、そこに「音」がある。それは「喋れない/啼けない」かもしれないが、聞くことができる。
 渡辺は自分のことばで「語る(思案する/思想する)文体」と「聞く文体」を結合することで、ことばの全体を豊かにしようとしている詩人だ。
 和田は突然「他者」になってしまうが、渡辺は「他者」になるというよりも、「他者」の声を聞きながら、自分の声を豊かにする方法を探していると言えるだろう。

ルオーのキリストの涙まで
渡辺 めぐみ
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福田拓也「まだ言葉のない朝(抄)」、三角みづ紀「定点観測」ほか

2015-01-07 12:04:08 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
福田拓也「まだ言葉のない朝(抄)」、三角みづ紀「定点観測」、宮尾節子「明日戦争がはじまる」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 福田拓也「まだ言葉のない朝(抄)」(初出『まだ言葉のない朝』2014年07月)。長い長い詩の一部が掲載されている。そのなかから、私はさらに一部を取り出して思っていることを書く。福田にとっては、こういう紹介(感想)は迷惑かもしれないが……。

行き着いた死と再びの出発を重ね合わせ解体する語はひら
がなの破片としてそこここにそれ埋めた舌が光を放つ夜を
夜ごと燃やし尽くす燠火がいつまでも灰になったその中に
灰まみれの身体としてばらばらに動きを放つ息吹きまでわ
ずかに動く表面瓦解し永続する崖崩れと土砂にその廃地を
読む視線の焼けただれた空白まで白と黒の激しい交換状態
として僕たちは絶えず流動する場所となる

 句読点がなく(読点「、」はときどき出てくるのだが)、どこで区切って読んでいいのかわからない。しかし、ことば(意識)はもともと不連続に連続していく。脇へそれたり、もどったり、先走りしたりする。それを句読点で整理しているだけだから、この福田のことばは、いわば整理される以前の「文章」ということになるかもしれない。
 「未生のことば」という言い方がある。それに対して「未生の文章」と言えるかもしれない。
 「未生」のものは「混沌」としている。そして、それはほんとうに「混沌」かと福田のことばを見つめなおせば、それほど混沌ともしていない。
 たとえば1行目には「行き着く」と「出発(する)」という逆方向のベクトルをもつ運動がある。もちろん「行き着いた」その先へさらに「出発」するというときはベクトルは同じ向きになるが、「着く」と「出発(する)」は「停止」と「始動」と言いかえることができるので、「目的地」を別にすれば運動として逆方向である。同じように「重ね合わせ(る)」と「解体する」は逆方向の運動である。
 福田は、ここでは「逆方向」の運動を同時に描いていることになる。一種の「衝突」を描いている。動詞と動詞がぶつかる。それは「合体」のときもあれば「解体」のときもある。その衝突から、何かがスパークする。火花が飛び散る。それを「破片」ということもできる。
 さて、そういう「破片」をどうするか。

ひらがなの破片としてそこここにそれ

 このことばの連なりは、手ごわい。破片はそこここに(あちこちに)逸れる(飛び散る/逸脱する)のか。あるいは、最後の「それ」のあとに「を」を補って、

ひらがなの破片としてそこここに(散らばり)それ(を)埋めた舌が光を放つ

 とつづけて読めばいいのか。私は少し悩む。書いてないことばを書き加えると作品をかってに改変していると批判を受けるが、読むというのは、そこに書いてあることばを自分のなかに取り込み動かしてみることだから、どうしても「改変」が加わるものだ。
 こういう「わからない部分」は「わからない」ままにしておく。
 衝突して、破片が飛び散る。そこには必然的に「欠落」がある。それを「舌」が埋めるというのは、ことばで補うということかもしれない。しかし、そういう「意味」を語るかわりに「舌が光を放つ」という具合にイメージにするのが福田の詩の、別の方法である。
 「別の」というのは、それにつづいて、その直後に、最初にみた反対方向の運動をすることばがつづくからである。反対の方向に動く運動が一方にあり、そういう衝突する運動とは「別の」、衝突によって生まれた欠損を補う運動がある。
 で、繰り返される「衝突する運動」とは、「光」に対して「夜(闇)」という取り合わせのことである。動詞ではなく名詞の「反対/矛盾/混沌」である。そしてそこには「埋める(補う)」と「放つ」という逆方向の「動詞」が同居している。
 福田は、「混沌」を人為的につくり出している。一般的にことばというのは「混沌」を分節し、「もの」と「運動」を明確にし、「意味」をめざすものだが、福田はそういうこととは反対のことをしようとしている。すでに分節されて存在することばに、それとは反対のことば(非ことばへと動くためのことば)を組み合わせ、「混沌」をつくりだそうとしている。
 「まだ言葉のない朝」を、人為的につくりだそうとしている。いま福田は「言葉のない朝」いるわけではなく、「言葉のある朝」にいて、そこから「言葉のない朝」へもどろうとしていると言いかえてもいいかもしれない。
 で、そういう風に読んでくると、2行目から3行目へかけての、

舌が光を放つ夜を夜ごとに燃やし尽くす

 この「夜」の繰り返しがちょっと物足りない。「夜を夜ごと」では「反対」にならない。単なる繰り返しである。「夜を朝ごと」「夜を昼ごと」という感じで衝突させないと、既成の「意味」になってしまう。「意味」にひっぱられてしまう。
 それにつづく「燃やし尽くす」→「燠火」→「灰」という運動のなかには矛盾(反対方向の運動)がない。「燠火」のなかに「燃える動き」があるというかもしれないが、そしてその「燃える動き」がそのあとの「息吹」と呼応するのだろうけれど、「燠火」→「灰」への連絡が密接すぎるので、何かいきいきとした矛盾(混沌)という感じがしない。
 「まだ言葉のない朝」が何かを生み出す「混沌」というよりも、何かが破壊されたあとの「夕方」、崩壊した廃墟のような感じがしてしまう。「解体する」前に、解体されてしまっている。その解体が、「永続する」。その永続する解体のなかを反対のもの(たとえば、白と黒)を交換させながら「流動する」。自分が「流動する」のではなく、その場そのものを流動させるということかもしれないが。
 こうした一連の動きを、福田は「中性化」(引用した部分の数行先に出てくる)と呼んでいるようだ。「混沌」ではなく「中性」。どちらかに属するのではなく、どちらでもありうる可能性。ことばを既成の意味から解放する(ことばの既成の意味をたたき壊す)ことが詩である--その実践をしているということなのだと思うが、「意味」のつらなりがときどき強くなりすぎるように、私には思える。



 三角みづ紀「定点観測」(初出「読売新聞」2014年07月14日)。

いつか果てるとして
今年も きみと並び
花火を見上げている
きみに うつりこむ
花火を見上げている

 花火を見上げながら、同時に「きみに うつりこむ/花火を見上げ」ることはできない。花火は空にあり、その花火が映る(花火が照らす)きみの顔は地上にある。--という論理は、どうでもいい。花火の光に照らしだされるきみを、花火を見るように見ている、花火を見るよりもきみとこうしていることがうれしい。このうれしさをこれからも繰り返したい、「定点観測」するのように、繰り返し繰り返し。
 そういう祈りがここにある。
 この3連目に先立つ2連目。

はげしく---ゆるやかに
瞬間に立つ---ひとびと
生きることに慣れないまま
かさなる月日が去っていく
束の間に---かがやいて

 生きることに慣れなくても、ひとは生きてゆける。慣れないから、ひとは輝く。そこに祈りがある。
 ことばのリズムそのもののなかに祈りがある。



 宮尾節子「明日戦争がはじまる」(初出『明日戦争がはじまる』2014年07月)。有名になりすぎていて、感想を書くのがむずかしい。

まいにち
満員電車に乗って
人を人とも
思わなくなった

インターネットの
掲示板のカキコミで
心を心と
思わなくなった

虐待死や
自殺のひんぱつに
命を命と
思わなくなった

じゅんび

ばっちりだ

戦争を戦争と
思わなくなるために
いよいよ
明日戦争がはじまる

 「思わなくなった」ということばを含まない4連目がなまなましい。「論理」を超えたむきだしの欲望。他者の闖入。この3行が、宮尾のことばを詩にしている。
 この詩に「ことばをことばと/思わなくなった」をつけくわえることができると、もっとおもしろいと思うが、そうしてしまうときっと重くなりすぎるかもしれない。


まだ言葉のない朝
福田 拓也
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蜂飼耳「さまよう庭をさまよう」、平田好輝「シャコ」、平林敏彦「瑠璃の青」

2015-01-06 10:03:41 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
蜂飼耳「さまよう庭をさまよう」、平田好輝「シャコ」、平林敏彦「瑠璃の青」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 蜂飼耳「さまよう庭をさまよう」(初出「現代詩手帖」2014年07月号)。副題に「荻野夕奈氏の作品に」とある。「さまよう庭」という作品のなかをさまよっている作品のようだ。砂に似た色、ベージュ色が広がっていて、そのなかに形があらわれてくる。それは蝶に見えたり、満開の花、枯れようとするつぼみ、葉っぱ、小枝のように見えたりする。

すべてのはじまりの色
そんなものはなくても、
決めなければならない瞬間
そんなものはあって、
どこからやって来るのだか
ふと訪れる色という色は 息を殺して
投げ出すもの投げ出してまざりあう

 「そんなものはなくて、」「そんなものはあって、」。つまり、どちらでもない。「決めなければならない瞬間」というものがあるようにみえて、それもない。「瞬間」という「時間」さえない。「瞬間」だから「ない」のではなくて、「時間」というものに「実体」はないのだ。
 全てを投げ捨てる、自分さえも捨ててしまう--そのときに、そこが「庭」になるということだろう。
 この世界はもう一度繰り返される。ひとは大事なことは何度でも繰り返す。繰り返している間に矛盾してしまうこともある。道義反復になることもある。それでも、それを繰り返す。繰り返すことが、唯一、肯定だからである。肯定といっても、否定しなければならない肯定であるけれど。つまり、肯定に拘泥していては、肯定したものが「我」になってしまう。

かたちを求めてかたちにならないもの
なることを 拒むもの
いまにも かたちになろうとするものや
ならなくてもいっこうに構わないもの
 ほどいて 溶けてゆく 飛びたつ
  沈みこむ ふりむく
   ひそめる息、影
  ひとつひとつに影また影

 「ならなくてもいっこうに構わない」が「自在」であること、その瞬間瞬間、そこに何かがあらわれること、何かになることを可能にする。「構わない」は「固執しない」ということだろう。
 これは、めずらしく「一元論」の詩である。すべての存在は「私(あるいは真理)」であるが、それを「私(真理)」と呼んでしまうと(そのことに固執すると)、それは誤謬になってしまう。全ては、それが立ち現れる瞬間に「真理」なのだが、「真理」と呼ぶと「真理」ではなくなる。こういうとき、私は「存在するのは契機(一期一会)だけである」と言いたくなるのだが、まあ、これもそう言ってしまうと「嘘」になってしまう。
 わかる(感じる)のは、蜂飼が荻野の作品との「一期一会」を「一期一会」のまま、ことばにしようとしているということである。



 平田好輝「シャコ」(初出「青い花」78、2014年07月)。この作品は大好きだ。一回感想を書いた。それをもう一度アップしよう--と思ったが、見当たらない。どこかにまぎれてしまったのかもしれない。「検索」できないだけで、どこかにあるかもしれない。
 同じことになるかもしれないが、同じ文章をアップしようと思ったのだから、同じになってもかまわないだろう。
 これは「一期一会」の詩である。

シャコを食わせる店に
連れていってあげますと言うから
シャコぐらいどこだって
食えるのではないかと思ったが
万事任せることにした

 と、はじまり、小さな店に連れて行かれる。車で40分もかかるから、まあ、けっこう遠い店だ。

巨大な深皿に盛り上げた
シャコが出てきて
わたしは焼酎を飲みながら
何十匹ものシャコを
食べ続けた
彼は車の運転があるので
焼酎は飲まず
シャコもせいぜい
二、三匹口にしただけだった

わたしたちは
ほとんど何の会話もなく
相客の一人もいないその小さな店に四十分ほどいた

悪夢にうなされそうなほどのおびただしいシャコを
わたしは食べた
彼は二、三度会っただけの
名前もよく知らない奴だったが
やさしい目でわたしの食べっぷりを見ていた

 引用してしまうと、書くことが何もない。以前この詩を読んだときは引用したら満足してしまって、感想を書かずに終ったのかもしれない。
 何が書いてあるかというと、ただあまりよく知らない人とシャコを食べに行った、ということだけである。それがそのまま書いてある。「悪夢にうなされそうなほどのおびただしいシャコ」と書いてあるが、そのことを書きたいという感じではない。
 何も感想はないのだが、ふと、こういうことは誰にでもあるよなあ、と思い出してしまう。あまりよく知らない人と、誘い合わせていっしょにものを食べる。あるいは飲む。そして、それはそれっきりということもある。なぜいっしょに食べたのか、飲んだのか、よくわからないが、たまたまそういう話が出て、話が出てしまったので、なんとなくそうしてしまった。それなのに、そのことをおぼえている。忘れてしまえば何でもないことなのに、なぜかおぼえている。
 最終行、

やさしい目でわたしの食べっぷりを見ていた

 その「やさしい目」が「食べっぷり」を、どんなかたちにも自在にかえてしまう。見られながら食べるというのは変な気持ちだが、そのひとは食べっぷりを目で食べていたのかもしれない。--などと書いてしまうと、この詩はつまらなくなる。
 あれは確かにあったことだが、一度きり、そこにあらわれてきた瞬間、それだけの何かだったのだと思った方が楽しい。このあらわれかたは、手応えがないようでも、とても充実している。



 平林敏彦「瑠璃の青」(初出『ツィゴイネルワイゼンの水辺』2014年07月、「水●」は文字が変換できないため「辺」で代用)。冬の朝を描いている。「たまゆらに/ふりむく空が裂けたかと/おどろく冬の朝がある」と静かにはじまったことばが、だんだん張り詰めてくる。

ただよう浮雲の果て
ゆくりなくこの世にこぼれおちた日の
まぶしさもときめきもいつか薄れ
剪定をわすれた木の実のように
あらまし腐爛したものの影は
ひそかに荒れた地の底へ下りて行った

見はるかす海
もえる陽はまだ中天にあり
まぼろしの光を反射する秤の皿は
愉悦と慰撫でほどほどに釣り合っているが
かつて破船とともに姿を消した漁夫たちも
明日は風の沖で網を打っているだろうか

 平田の平易なことばと比べると、ずいぶん違う。平林はことばひとつひとつを輝かそうとしている。ことばに緊張感をもたせようとしている。そしてそのことばは、いま/ここにない何かをことばの力で出現させる。

なべて約束の場所に生きるものよ
いつ仮に磔刑の日がおとずれようと
ふりむく空が裂けたかと
おどろく冬の朝もある
 
 そこにある「現実」よりもことばがとらえる「真実」が優っている。ことばが「現実」を「真実」に作り替えようとしている。その「真実」を求める欲求が、ことばを厳しく律している。
 最初に出てきたことばが繰り返され、繰り返すことで、ふたつの同じことばにはさまれたことばを両側から圧縮し、結晶させようとしているように感じる。
 「詩の作法」を感じた。

ツィゴイネルワイゼンの水邊
平林 敏彦
思潮社
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高橋順子「海を好きだった」、高橋睦郎「七月の旅人」ほか

2015-01-05 11:43:05 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
高橋順子「海を好きだった」、高橋睦郎「七月の旅人」、中尾太一「宇宙船のララバイ」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 高橋順子「海を好きだった」(初出『海へ』2014年07月)。東日本大震災の衝撃を書いている。津波は高橋のふるさとも襲い、「中学時代の同級生など十四人が波に呑まれた」と書いている。

海が凶暴な力をもっていることは知っていたが
それは海の向こうの海のことだと思っていた
幼かった足うらをえぐる小さくない波の力と砂のつぶを
いまでもわたしの足うらはおぼえている
わたしの海は荒れるときも
防波堤に当たって夢が砕けるように自らを砕き
わたしの夢に侵入することはなかった

 これは1連目の一部だが「知っていた」「思っていた」と「おぼえている」が交錯する。「おぼえている」は「忘れることができない」ということでもある。それは、その「おぼえている」を生きるしかないということでもある。

一ヵ月後余震の中を古里に行くと
家の庭からも前の道からも
それまでは家並みにさえぎられて見えなかった海が見えた
海が見えた というよりは
海を見なければならなかった というべきだろう
海 青い他界
古里の家には昨日青畳が入った
わたしたちは凪を踏むようにして その上を歩いた

 ここには「足うら」ということばは書かれていないが、高橋の足うらは、その青畳の感触を、これからもずっーと「おぼえている」だろう。忘れることはないだろう。幼い日の波と砂粒の感触をおぼえているように。
 「海が好きだった」とタイトルは過去形で書かれているが、いまでも高橋は海が好きだろう。嫌いとは言えない。
 引用が前後するが、2連目に

これが わたしの海か
これが 海のわたしか
わたしの「海まで」の矢印は 海によってへし折られたことを
分かってゆかねばならない

 ここにでてくる「分かる」という動詞は、最初に見た「知る」「思う」「おぼえる」とも、また違う。知っていること、思っていること、おぼえていること--そういうものを全て突き破って「海がある」ということを「悟る」というのに近い。「分かってゆかなければ(分かってゆく)」と高橋は書いている。「分かる」へ向かって動いていく、進んでゆくということだろう。「海がある」とき「高橋がある(いる)」。海によって、いま高橋が「ある(いる)」というところへ。

海が見えた というよりは
海を見なかければならなかった というべきだろう

 ことばでは「見えた」「見なければならなかった」と区別されるが、どちらが「正しい」わけでもない。「認識」を捨てて、「海がある」の「海」そのものに「なる」感じだ。「海」になったとき、「足うら」に「凪」がやってくる。「海」は「凪」になる。「海がある」「高橋がある」が「海になる」高橋になる」「凪になる」。この「なる」が「分かってゆく」の「ゆく」と重なるのかもしれない。
 詩集の感想を書いたときは読み落としていた。高橋の「肉体(思想の動き)」が静かに見えてくる詩だ。



 高橋睦郎「七月の旅人」(初出「鷹」2014年07月号)。
 1連目におもしろいことばが出てくる。

旅人は永遠(とわ)に五十歳
時雨ならぬ 真夏の光ふりそそぐ
大阪南御堂(みなみみどう) 花屋の辻に立つ
天地に沸きかえる蝉声(せんせい)を浴びて
幻視 いや 幻歩するのは
ついに踏むこと叶わなかった 肥前長崎
出島に打ち寄せる 波のあなたの

 「幻歩する」。このことばを私は知らない。知らないことは調べろとひとは叱るが、私は調べない。調べる代わりに、「幻視」を「幻歩」ということばに書き直していると感じる。そのとき、私の「肉体」が「歩く」。歩いているときの感覚が肉体を動かす。
 実際に、そこに「ある」場所ではなく、そこには「ない」場所を歩く。どこかに「ある」場所を歩く。幻を見るように(錯覚するように)、肉体が(足が)動く(歩く)たびに、その足元から、そこに「ない」場所が「ある」ものとしてあらわれてくる。それは「目で見る幻/幻視すること」ではなく、「足で歩くこと」がつくりだす幻だ。幻の歩みが現実をつくりだすのだ。
 そうか、芭蕉は、「奥の細道」のあと、長崎へ、出島へ、さらにその海の向こうへ歩いていこうとしていたのか。南御堂の花屋の辻に立ったとき、すでに「肉体」は歩きはじめていたのか。

五十歳の旅人は 私たちひとりひとり
私たちのいま立つそこが 花屋の辻
一瞬ごとに死んでは甦る私たち
願わくば 五七五の音の巧力(くりき)で
夢の枯野を 現(うつつ)の緑の野に戻して

 「いま立つそこが」どこであれ、芭蕉の立った南御堂の「花屋の辻」。そこからまだ見ぬ場所へ歩いていくと決めたとき、そこが「花屋の辻」になる。「頭の認識」はそこは「花屋の辻」ではないし、「いま」は芭蕉時代ではないというかもしれないが、歩いていくと決めた「肉体」にとっては、「花屋の辻」であり、そのとき「私」は芭蕉そのものである。「私」は芭蕉に「なっている」。
 「一瞬ごとに死んでは甦る」は、そのとき「肉体」を貫く「悟り」のようなもの、「肉体」が「分かっていること」である。「私」というものが消えてしまうことが「分かる」ということなのだ。それは「一瞬ごとに死んでは甦る」世界の全体でもある。
 こういう「世界観」の中心に「幻歩する」ということば、「歩く」という「動詞」を含んだことばがある。「幻視」(幻視する)も「動詞」と言えるが「見る」よりも「歩む」の方が「肉体全体」の存在を感じさせる。動いている感じがする。「肉体」がより身近に感じられる。「肉体」が感じられるので「一瞬ごとに死んでは甦る」に、どきどきしてしまう。「実感」の強さを感じて震えてしまう。



 中尾太一「宇宙船のララバイ」(初出『a note of faith  ア・ノート・オブ・フェイス』2014年07月)。

クエストは象を巻き込んだ包(パオ)
歳をとった僕はzoneに入って
高原地帯に擦り切れたボールを遠投する
ネクストバッターズサークルでは
天使が打棒を掲げ
七本線の楽譜に散らばった罪の音符を
ひとつひとつ打っている

 これはなんだろう。「クエスト」。小倉に住んでいたとき「クエスト」という本屋があったが、違うなあ。「宇宙船」とタイトルにあるから、宇宙船に関係しているんだろうなあ。「パオ」はモンゴルの巨大なテントのような建物? 詩の舞台(場)が定まらないが、「ボールを遠投する」「ネクストバッターズサークル」ということばから野球を連想する。宇宙船はドーム球場のよう? ドーム球場はパオみたい? 宇宙船では、無重力ゾーン(zone)で野球して時間をつぶしている? 連想は身勝手に暴走する。
 で、そのあとの、

天使が打棒を掲げ
七本線の楽譜に散らばった罪の音符を
ひとつひとつ打っている

 これが、楽しい。現実の(人間の)音楽は五線譜に音符。でも人間を越える天使(神の子?)の楽譜は人間の五線譜よりも音域(?)がひろくて七線譜か。そして、「罪の音符」か。八部音符の尻尾は悪魔(罪?)の尻尾?
 こんな空想(飛躍)も「打っている」という「動詞」で「肉体」に重なる。ありえない世界なのかもしれないが「打っている」が「肉体」にはわかる。だから、引き込まれる。その前の「ボールを遠投する」も「遠投する」という「動詞」が「肉体」を引き込む。ただ「投げる」ではなく「遠投する」だと「肉体」の動きも違ってくる。そういう「肉体」の「差異」が、ことば全体を生き生きさせる。「肉体」を生き生きと刺戟してくる。
 だから(?)、
 だからでいいのかどうかわからないが。
 「バット」ではなく「打棒」という古い(?)ことばがおかしいし、「宇宙船」「クエスト」「パオ」「zone」「高原地帯」というような「ばらばら感」のあることばの飛び散り方が楽しい。
 何よりも、ことばの「歯切れ」がいい。ことばを実際に口で(舌で、喉で)動かして詩を書いている感じがする。

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高橋 睦郎
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紺野とも「貝釦」、高谷和幸「ふとんの前と後ろ」、高塚謙太郎「ハポン絹莢」

2015-01-04 10:34:49 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
紺野とも「貝釦」、高谷和幸「ふとんの前と後ろ」、高塚謙太郎「ハポン絹莢」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 紺野とも「貝釦」(初出『かわいくて』2014年07月)。
 うーん、これは外国語をgoogle翻訳にかけたような日本語。私はときどき日本語の詩をgoogleでスペイン語や英語に翻訳してみるが、こんなスペイン語や英語はないぞ、と思う。そのときに感じる「変な感じ」と似ている。一語一語は日本語だけれど、つながり方が変。

今朝のわたしは親知らずに噛みつぶされた目覚ましのアラーム音、眠る人にそのかけらを飲ませてあげたから定刻どおり身支度はじめる左前に身を滑らせる貝釦の指先、追えば心臓は握られる。

 「名詞」を追い、受け身の「動詞」を一部能動形にかえると、「状況」がぼんやりと思い浮かぶ。
 朝、目覚ましがなる。ああ、いやだと思いながら奥歯(親知らず)でその音を噛み砕くような感じで起きる。眠っている私に、目覚めた私が、起きろ起きろといっている。それから身支度をはじめる。「左前」というのは女の洋服のことだろう。あるいは、自分を殺して出社する「死に装束」という意味をこめているかもしれない。釦をとめながら、手はまるで心臓を握るような形になる。
 おもしろいのは、「動詞」。目覚まし時計のアラーム音を中心に、「噛みつぶされた」と「飲ませてあげた」が交錯する。「噛みつぶされた」のは「アラーム音」、「飲ませてあげる」は「わたし」、その「飲ませてあげる」対象は「目覚めかけているわたし」、「噛みつぶされた」を「噛みつぶした」という能動形にかえると、主語は「目覚めかけている私/眠っているわたし」になる。しかも「今朝のわたしは親知らずに噛みつぶされた目覚ましのアラーム音」だけを取り出すと、「わたし=アラーム音」になってしまう。とても奇妙。「学校作文」なら、主語と述語が合致していないよ、と言われてしまうかもしれない。
 「学校作文」なら、こういうときは「わたしは目覚まし時計のアラーム音を親知らずで噛みつぶすようにして、飲み込み、いやいや起きた」という感じになるのだと思うが、その「学校作文」と対比すると……。「飲ませてあげて」という能動は「飲み込み」と自主的な動き。紺野の書いているようにだれかに「飲ませる」という使役ではない。
 「動詞」というのはたいていの場合、主語を「ひとつ」に統一するように動くのだが、紺野の場合、主語を分裂させる形で働いていることになる。このために紺野のことばの動きがとても変に見える。
 「心臓は握られる」の受け身の形についても「噛みつぶされた」-「飲ませてあげた」につながるものがある。似ている。どう詩によって主語(わたし)が分裂するおもしろさがある。心臓を握る「わたし」がいて、他方に握られる「わたし」がいる。
 この変は変で、これがこのまま「動詞」の運動として動いていけばとてもおもしろいと思う。けれど、こういう「動詞」の動かし方は、きっと人間の「肉体」にあっていないのだと思う。このあと、紺野のことばは「動詞」をつかってではなく、「名詞」を頼りに動いてしまう。「わたし」が登場しなくなる。
 いや「わたし」はすでに最初の文章で「分裂」したから、あとはその「分裂」に合致する形で世界の「もの(名前/名詞)」が分裂していくのだ、と言えるかもしれないけれど、「分裂したわたし」をひきずりながら「名詞」と「動詞」が動かないと、「頭」で書いた詩になってしまう。
 「空き領域が減るのを防ぐため鱗引きで自分を削ごうとするけれど」「汐にまみれてゆく身体」と「自分」「身体」ということばも出てくるけれど、「自分」や「身体」を出すのなら、最後まで「わたし」を出してほしかったなあ。そうすると、奇妙さがもっと「肉体」に迫ってくる。散らばる「名詞」ではなく、ずるずるとつながってしまう「動詞」の不思議な本質が見えてくるだろうになあ、と思ってしまった。



 高谷和幸「ふとんの前と後ろ」(初出『シアンの沼地』2014年07月)。「ふとんの前と後ろ」って、なんだろう。ふとんに前、後ろがある? 敷布団の方? 掛け布団の方? ふつうは「裏/表」だろうなあ。でも「前と後ろ」。だから裏、表とは違うもの。私は、寝るときの「頭」の方、「足」の方、くらいに考えた。その場合、頭が「前」、足が「後ろ」になってしまうのは、これは私が頭を先に考えるからだねえ。ことばのあらゆるところに「肉体」というものは入り込むもんだなあ--というのは、私だけの感覚かもしれないけれど……。
 まあ、そんなことは、どうでもいい。私の「偏見」にすぎないから。高谷がそう書いてるわけではないのだから。高谷が書いているのは……。

ふとんの前と後ろに雨が降っている。

 この書き出しは魅力的だなあ。「雨が降っている」ということばとふとんが結びつくとは思わなかった。しかも、そのふとんには「前」と「後ろ」がある。

ふとんの前と後ろに雨が降っている。水滴の入射
角と屈折角が描いた反対の虹を、みんながわたっ
ているところです。湿地帯の森林でキノコが空気
の光る粒子を放散するような寝息。

 「前」と「後ろ」は次の文章で「入射角」「反射角」ということばのなかで「対」になる。こういう呼応があると、この詩は「ほんとう」へ向かって動いているという感じがする。書いてあることはわからないのだが、ことばの動きに「ほんとう(正直)」があるという感じがする。ひとは大事なことは何度でも言いなおす。その言い直しがことばを少しずつ進めていく力だ。(紺野の場合、「握られる」までは「対」の動きがみえたけれど、後は私にはわからなかった。)
 「反対の虹」とは何か。これもよくわからないけれど、ふとんに「前」と「後ろ」があるのだから、虹にも正しい(?)虹の一方に「反対の虹」があってもいい。「前」の反対が「後ろ」、「入射角」の反対が「屈折角」と言えるのかどうかわからないけれど、きっとそうなんだと思わせることばのスピードがいい。
 つづいて「雨」と「湿地帯」が呼応する。「湿地」と「キノコ」が呼応する。どんどんことばが暴走するなあと思ったら、思い出したように「ふとん」と「寝息」も呼応する。あ、おもしろいなあ、と思う。
 でも、私は目が悪くて、最後までその、ことばの「呼応」を追いきれない。詩は一気に読んで、その全体を「視野」のなかに入れて、そこで動いているものを鳥瞰図のように捉えながら、一方で地べたを這いずるようにたどらなければ立体的にならない。その作業が私にはむずかしい。
 散文詩。ことばが隙間なくつまっていると、それが特につらいなあ、と感じる。
 いま書いている「日記」は、いわば私の「体力テスト」みたいなものなので、どうしてもこんな感じの感想になってしまう。



 高塚謙太郎「ハポン絹莢」(初出『ハポン絹莢』2014年07月)。
 どんな作品でもそうだが、書き出しがおもしろいと読む気になる。書き出しがつまらないと、どうしても投げ出してしまう。この作品も書き出しがとてもおもしろい。書き出しばかりの引用、書き出しについての感想が多くなってしまうが、これは私にとっては一種の「必然」かもしれない。

おざなりはゆめのまたゆめ
ひざまくらには耳たぶのしめり
いいとおもう
ひだひだのメレンゲに浮いた花のその
すえひろがりのゆめに白々とみえてきた

 ことばの「音」が「音楽」になっている。「おざなり」「ひざまくら」のような呼応が複数の行にまたがって動いている。洒落ている。那珂太郎は一行のなかの音の響きにこだわったが、そうか、こんなふうに複数の行にまたがって「音楽」を動かすのもいいもんだねえ。
 膝枕の夢、膝枕をしたときの耳と膝とのとらえ方もいいなあ。「耳たぶ」か。「耳」の螺旋形の渦が「ひだひだ」と言いなおされ、それが「花(花びら)」と言いなおされるのもいいなあ。福耳のように「すえひろがり」の夢だ。

紙魚ついてしまった襟髪に
いっぽんゆびがためらいがちに
ためつすがめつ降りしきり
ゆるりゆるりとひらいていくくりてぃいく

 ここだけにかぎらないが、ことばがみんな「声」の「音楽」になっている。「声」の「音楽」だから、どうしてもそこに「俗な響き」が入ってくるのだけれど、そのリズムが、私はけっこう好きである。「頭」でこしらえたわざとらしい「音楽」じゃないところがいいと思う。
 引用の最後、「クリティーク」とカタカナにしてしまってはリズムが違ってくるが、このひらがなの版卓は本能かな? 技巧かな? 本能と思いたい。
かわいくて
紺野 とも
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岡島弘子「桃の夢」、岡本啓「コンフュージョン・イズ・ネクスト」ほか

2015-01-03 12:07:26 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
岡島弘子「桃の夢」、岡本啓「コンフュージョン・イズ・ネクスト」、小山伸二「cloud nine 8」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 岡島弘子「桃の夢」(初出「そうかわせみ、」12、2014年07月)は桃を描いているのか、岡島を描いているのか。母や父が出ててきて「おもう」という動詞をつかうのだが、それは私には「母は、そうおもっただろう」と岡島(桃)が思っているように感じられる。「おもう」の動詞の中で岡島(桃)と母、あるいは父が「ひとつ(ひとり)」になっている。「母」「父」と区別されているが「おもう」という動詞「ひとつ」でつながることで、全てが「ひとつ(ひとり)」になる。

かけられた袋の中で 桃の実の母はおもう
ぬいしろ やまおり 三つ折りぐけ
母のかいなにつつまれて
桃の実はみつをたくわえる

かけられた袋の中で 桃の父はおもう
いちまいの紙型
立体裁断のハサミのうごき
桃の実は小さな宇宙にまもられる

 岡島は桃の実のように、両親の手作りの洋服で身をつつみ生きてきたのだろう。両親が洋裁店を開いていたのだろうか。

袋をうかいして吹きすぎる風
雨は袋をリズムよくたたき
陽はじゅうまんした水蒸気に
じゅっ、とアイロンをかける

 この3連目が美しい。他の連は「おもい」が満ちていて、それはそれでいいのだけれど、この3連目は「動詞」が生き生きしている。「動詞」のなかに「世界」のよろこびがある。世界を呼吸するリズムがある。
 詩は、父母のもとをはなれて独立するまで(独立したときの天地の感覚まで)書いているが、私は、そういう「意味」から無関係な感じで世界が動く3連目が好き。
 ほかが悪いという意味ではない。ほかの連も美しいが、3連目が特にすばらしい。




 岡本啓「コンフュージョン・イズ・ネクスト」(「朝日新聞」2014年07月01日)。

肩のあまったシャツ
もたれかけた指をはなすと
頬にニュースのかたい光があたった
あっおれだ、いま
映った、いちばん手前だ、ほらあいつ
ほらいま煉瓦を投げつける
興奮しながらきみは
母親のひたした豆スープを口に運ぶ

 4行目から6行へかけての「口語」がいい。カギ括弧に入っていない。それでも、きみが「言ったことば(口語)」だとわかる。なぜだろう。リズムが、口語なのだ。思いついたことを、文章にととのえている暇がない。最小限の「文」として、とぎれとぎれにあらわれる。それは欲望の暴動のようにも思える。
 この文体と、それとは別の「地の文体」が交錯しながら詩は動いていく。
 最後の2行。

一人の女から産まれて
ここにいる、それじたいが暴動だ

 それはそうなのだろうけれど、4-6行目の口語の暴動に比べると、なんとなく落ち着きすぎていて「暴動」という感じがしない。「意味」があるからかなあ。「意味」を背負わされると、ことばはどんなに過激なことを書いても「おとなしい」。「意味」などわからずに、ただおもしろそう、と「肉体」が反応するのが「暴動」なのだと思う。
 最後の2行は、岡本が男だから、そう書くのだろう。女なら、どう書くだろうか。やはり「一人の女から産まれて」と書くだろうか。書かないだろうと思う。そこに「独特の意味」があり、それが窮屈なのかもしれない。落ち着きすぎている印象を引き起こすのかもしれない。
 「きみ」の口語に拮抗するリズムがあれば違った印象になるのかも。



 小山伸二「cloud nine 8」(初出『きみの砦から世界は』2014年07月)。

月を育てる
闇からはじめて
月を育てる練習をする

 この3行が書き出しとなかほどと終わりに出てくる。その間に「新宿駅地下道」「誰も知らない中央線(海の底を走っている)」が出てくる。新宿駅/中央線という「日常」の「闇」を見つめ、闇を見つめることで「光」(月)を育てたいと思っている。「闇」が月の前提になっているところがセンチメンタル(わかりやすすぎる)かな、と思う。闇からではなく、真昼の直射日光からはじめて月を育てるときは、ことばはどんなふうに動くのだろう。そんなことを思った。

野川
岡島 弘子
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岩崎迪子「夕暮れ時」、岩成達也「ル・トロネ聖堂の微光」、大崎清夏「アルプ」

2015-01-02 10:43:00 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
岩崎迪子「夕暮れ時」、岩成達也「ル・トロネ聖堂の微光」、大崎清夏「アルプ」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 岩崎迪子「夕暮れ時」(初出『丘の上の非常口』2014年07月)。1連目と2連目の落差(飛躍?)がおもしろい。

時々
夕暮れになると
わたしの肩にそっと
手を置きに来る人がいる
それは
もういない母でもなく
ましてや昔の恋人でもない
読みかけの書物のなかの
主人公なのだろうか
それとも遠くから訪ねてくれた
忘れかけの
古い友人なのだろうか
肩にやさしく冷たい気配が近づくと
川の向こうに
闇のかたりまが姿をあらわす

そんなことを書きながら
今晩は鶏のから揚げにしようと思った
ニンニクと生姜をうんときかせて
醤油味にしてみよう
明日逢うかもしれない誰彼の迷惑なんて
考えないことにしよう
揚げたての鶏肉の
ニンニクの感情

 「気配」のようなものを書いていて、それからこれから食べる鶏のから揚げを思う。そこに生身の人間が入ってくる。「明日逢うかもしれない誰彼」。その「誰彼」は「肉体」をもっていて、その「肉体」はニンニクのにおいを嗅ぐ。迷惑そうな顔をする。うーん、具体的だなあ。
 1連目の「気配」も、私にはわからないが具体的なのかもしれない。そっと肩に手をおく。そのときの母の記憶。恋人の記憶。「気配」を通り越している。「読みかけの書物なかの/主人公」というのは抽象的だが、岩崎はそのタイトルを書いていないだけで、ほんとうは強く実感している。岩崎には分かっているので書いていないだけなのだろう。「忘れかけの/古い友人」も忘れたわけではない。忘れかけているということを意識しないではいられないほどはっきり覚えているということなのかもしれない。
 2連目の「誰彼」も抽象的ではなく、きっと岩崎にはわかっている。明日逢う人がわかっている。約束している。けれど、そのひとの「迷惑」を振り切って、ニンニクをきかしたから揚げを食べる。そこには、ある種の「決意」さえある。この決意を、

揚げたての鶏肉の
ニンニクの感情

 「感情」と言いなおしている。ニンニクに感情があるわけではない。ニンニクを食べる岩崎の感情があり、その感情がニンニクの匂いとなって、明日、岩崎の口から息と一緒に吐き出される。
 私は、その前の行を「揚げたての鶏肉の肉体」と読みかえたい衝動に襲われているのだが。「鶏肉」だけではおとなしすぎて「感情」に拮抗できない--というのは、あくまで、私の「感覚の意見」だけれど、書いておきたい。



 岩成達也「ル・トロネ聖堂の微光」(初出「花椿」2014年07月号)。

深い夜、闇の中であなたは目を覚まします。何も見えないので、
慌てて、また、あなたは目を堅く閉ざします。すると、やがて、
目の内側の闇の中に、微かな光にも似たものが点々と現れてくる、
あなたはそれを感じます。

 「あなた」の動きが「自動詞」で描かれる。まるで「私」の体験していることのように描かれる。実際、岩成は体験している。自分の「肉体」で「あなた」の「肉体」の「内部」を体験している。「内部を」と書いてしまうのは、「目の内側の」という表現があるからだ。「あなた」が目を開いたり閉じたりするのは、外から、つまり第三者が観察して判断できることであるが、その「目の内側」の世界は「あなた」にしかわからないはずである。その「あなた」にしかわからないことを、岩成は「わかって」書いている。「目の内側」から「あなた」になって、それを見ている。

あなたはそれを感じます。勿論、微光は光ではありません、光源が
どこにもないのですから。でも、かつて私もそれに似た経験をした
ことが何度もあります。例えば、遂に行けなかった、ル・トロネの
修道院。

 なぜ、そんなことができるのか。「かつて私もそれに似た経験をした」と岩崎は書く。「肉体」がそれを覚えている。
 ただし、その「肉体が覚えている」ことが、少し、微妙である。岩成は実際にル・トロネ聖堂へ行ったことがあるわけではない。でも行きたいと思い、何度もその文献や図面を見た。(これは、詩の後半に書いてあるのだが、引用は省略。)そして、その「行けなかった」は「遂に行けなかった」と書いてあるから、これは「あなた」と一緒には遂に行けなかったの意味になるだろう。岩成はいまから行くことができる。けれど岩成が覚えている(岩成が自分の肉体で追体験している)「あなた」は遂に行けない。「遂に」のなかには、深い絶望のようなものが潜んでいる。その「絶望」が「あなた」と岩成を「ひとつ」にする。
 岩成は、そんなふうにして「あなた」になってしまう。だから、この詩の後半で書かれているル・トロネ聖堂の微光は、実は岩成が見ているものではなく、「あなた」が見ているものに「なる」。「あなた」に見てもらいたい、感じてもらいたいものに「なる」。書いているうちに、そういう変化が起きている。

         例えば、ル・トロネの堂内に漂う微かな光の粒
は聖ベルナールの信の深さであり、深夜、私の閉じた目の内側に浮
かぶそれは、やがて到来する私の終末の彼方の深さだというように。

 そして、岩成が完全に「あなた」になった瞬間に、その世界は一転して、岩成そのものに変化する。今度は「あなた」が岩成を「深さ」のなかで待っている。
 こういう世界を、岩成は「すると」「勿論」「でも」「例えば」という具合に、「論理的」に描き出す。岩成が書いているのは一種の直感的な世界、直接「肉体」が感じ取る世界なのだが、それを「論理」の力で引きよせ、育てようとしているように見える。



 大崎清夏「アルプ」(初出「東京新聞」2014年07月26日)。

むしあついあかるいはらっぱを
ずーっとくさむしりするゆめだったの
むこうではうしがそのくさをはんでいて
うしにまかせとけばいいのにとまらないの
むしるてが むしるのが とまらないの
あきれるくらいだだっぴろいはらっぱなんだよ、
それでなにかなまえをつけなくちゃとおもうんだ
けどすぐにあきらめてしまうの
むしってるんだからいいじゃないって

 「むしるてが むしるのが とまらないの」という行、「むしるて」という「主語(名詞)」が「むしるの(むしること)」にかわるとき、「手」という「名詞」の意識が消え、「むしる」という「動詞」がよりつよく浮かんでくる。というのは、あまり正確な把握ではないね。「むしるのが」(むしることが)自律して動く。「こと」といわず「の」と書いているが、「こと」よりも「の」の方が音が短く、より「肉体」に結びついて動いている感じがする。「こと」と書いてしまうと、その「こと」を「動詞+名詞」に分けてしまいたくなるが「の」という一音で書かれると、そういう分類(分節?)をしている暇もない感じ。
 そのあとの変化もとてもおもしろい。
 野原で草をむしる、という「こと」をしている。それは大崎にとっては特別なことだ。だから「野原」(あるいは「草」)に特別な名前をつけて、大崎自身がそれにかかわっていることを明確にしたい。でも、それをすぐにあきらめる。「むしってるんだからいいじゃない」。「むしる」という「動詞」そのものを、大崎はしたいのである。
 この変化の「徴候」のようなものが、

むしるてが むしるのが とまらないの

 という「言い直し」にある。大事なことは、ひとは何度も書き直す。言いなおす。その書き直し、言い直しの変化を追っていくと、そのひとの「肉体」が見えてくる。それが読む楽しさだ。
 「肉体」が動いていって、その「動き(動詞)」が対象を生み出していく。草をむしりたい、という欲望が、だだっぴろい野原(草原)をつくりだすのだ。「名詞(存在)」が「動詞」を誘い出すのではなく、「動詞」が「存在」を次々に生み出して世界が広がっていく。

わたしはなまえをつけてあげるのそのうしに
わたしのなまえをつけてあげるの

 「動詞」が「(一般)名詞」を「固有名詞」にかえたとき、世界は完結する。「固有名詞」が「わたし」の領土を区切る境界線になる。
丘の上の非常口
岩崎 迪子
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安藤元雄「樹下の暮らし」ほか

2015-01-01 12:12:45 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
安藤元雄「樹下の暮らし」、井川博年「ロシア大使館」、岡井隆「亡き弟の霊と対話しつつ過ぎた、手術の前と後」(「現代詩手帖」01月号)

 新しい年の初めに新しい詩を読む。「現代詩手帖」01月号を読みながら新年のことばを探したが、なかなか見つからない。一月一日というのは単なる暦のくぎりで、それはことばにとってはあまり関係がないということか。また掲載されている詩が一月一日に書かれたわけでもないから、これは当然のことなのかもしれない。
 正月とは関係がないかもしれないが、安藤元雄「樹下の暮らし」の次の部分に、生き方の「決意」のようなもの感じた。「決意」が正月っぽいと言えば言えるかもしれない。

孤高という言葉は
おそらく樹にこそふさわしい
地面にほんのちいさなてのひらをやっと拡げたときから
樹はすでに孤高なのだろう
姿が丈高いかどうかは問題にならない
たくさんの同類が並び立っていてもかまわない
樹は一本ごとにその樹ひとりだけの高さを持ち
それを誰とも共有しない
無数の小鳥の群れが訪れて
まるで襲撃のようにけたたましくさえずりかわしても
樹は啼き声の中で静かに立っているだけだ

 「樹は一本ごとにその樹ひとりだけの高さを持ち/それを誰とも共有しない」。この2行が強い。「共有しない」がとても強い。「樹ひとり」の「ひとり」に安藤は自分を託している。
 この2行を読みながら、詩もそうなのかもしれないと思った。
 詩は読まれて初めて詩になる。読んだ人が感動して、初めて詩になる。「共有」されて初めて詩になる--と言えるのだけれど、この「共有」はあくまで「詩」と「読者」の一対一の関係のなかでのこと。他の多数(複数)の読者に「共有」されるかどうかは問題ではない。
 作者と読者がことばを「共有」するのとも違う。作者から読者へことばは渡され、渡された瞬間、作者はことばをうしなってしまう。ことばは読者のものになってしまう。そういう感じで動くのが詩なのだ。
 手渡した瞬間、ことばは作者の思いとは関係ない具合に動くかもしれない。それは仕方がない。それが詩人の「孤高」である。
 ことばを受け止めて「このことばが好き、これこそ私が探していたことば」と読者がいったとたん、「それは違う。そういう意味で書いたのではない」と作者が叱るかもしれない。多くの他者もそう言うかもしれない。その瞬間違うと言われた「読者」は孤立する。そのときの「孤高」が詩である。間違っているといわれようと、それは関係がない。ことばを受け止めて、その瞬間、「読者」のそれまでのことばが変わってしまう。孤立してしまう。そのとき「読者」は詩人になっている。
 ことばはいつでも孤立している。孤高を生きている。その孤高と「一対一」を生きる。
 こういう読み方は、身勝手すぎるだろうか。
 「誤読」され、違うものになって消えていく--それはことば(詩)にとって悲劇か。悲劇かもしれない。けれど、悲劇かどうかも、詩にはあまり関係がない。誤読されようがどうしようが、次にまたことばを書く。失われ、消えていくからこそ、次の新しいことば(詩)がうまれるのかもしれない。

そう そして落葉
音もなくゆるやかに舞い落ちるものたち
それは枝から降るのではない
もっと高い 遥かな天の雲から
ひらひらひらひら 雪のように降ってくるのだ
地に落ちて なおも終らずに
風をそそのかして身を運ばせ ひるがえり
生き物のように素早く走り回り
最後にはどこか知らぬところへ消えて行く
その間にも枝にはもう次の年の芽がのぞいて
用心深くあたりをうかがっている

 「それは枝から降るのではない/もっと高い 遥かな天の雲から」は「孤高」をいいなおしたもの。そこから、「地に落ちて なおも終らずに/風をそそのかして身を運ばせ ひるがえり/生き物のように素早く走り回り」という具合に3行が動いていくとき、そこには読者の「誤読」を突き抜けて動いていく詩の強さが書かれていると思う。
 この強さがあって、はじめて「次の年の芽」が動くのかもしれない。
 ここに書かれている「孤高」は強い。



 井川博年「ロシア大使館」は、奇妙な祝祭の気分があり、これも正月に通い合うかな?小笠原豊樹新訳「マヤコフスキー叢書」の出版記念会がロシア大使館で開かれる。その招待状に「各方面にお声がけいただければ幸いです」と書かれている。それで「各方面」に声をかける。そうすると、みんなが「行きたい」という。で、ぞろぞろ集まってくる。そのときの集まり方が「マヤコフスキーが好き、その神髄にふれたい」というような理由だけではない。また、そこでの語らいは、というか、あったことはと言うと……。

会場を見渡すと、ほとんどの人は文学とは縁がなさそう。そこでこちらは詩人同士で語りあい、男たちはワインをがぶ呑み、女たちは真ん中の大テーブルに山盛りに置かれた、チーズケーキとチョコレートとフルーツに夢中で、コーヒーと紅茶をとってきては、またケーキの方に手を出す。酒のつまみのようなものがないので、男たちもチョコレートで呑むしかない。ついにテーブルのワインを呑み干したので、後ろ棚に置かれていたワインをかってに空けて呑んでしまいました。それも二本も只で。

 これがマヤコフスキーの魔力? 小笠原豊樹が「共有」してもらいたいと願って訳したことばの力? まあ、それはそれでいいのだ。全ては「一対一」。ことばと向き合っているその瞬間が詩の全てであり、あとは「付録」だ。
 井川の文体は、めりはりがないというか、だらだらしているというか、「ワインを二本も只で呑んだ」とはしゃぐような、一種の無防備なものだが、この「無防備」が何人もの人を引き寄せ、一緒にしてしまう。
 安藤が書いていた「孤高」の対極にあるような「文体」がつくり出す世界だ。この「孤高」なんて知ったことではないという感じも、強い。
 私は井川の詩はあまり好きではないが、こういう「だらだら」した文体、どこまでも区別なく書いていく文体はおもしろくていいなあ。



 岡井隆「亡き弟の霊と対話しつつ過ぎた、手術の前と後」は、「老人性の鼠径ヘルニア」の手術をすることになった岡井が、「先天性脱腸」の手術を受けた弟のことを思い出し、その霊と対話するという詩。弟と話をするのだけれど、その話に「遊女」の歌が何度も引用される。まるで遊女になって、岡井が自分の「思い」を語っている感じ。で、そういうときって、岡井は誰と対話している? 弟と? 私には遊女と対話しているように感じる。でも、遊女と対話して何になる?
 遊女と対話しているのではなく、若い妻と対話しているのかもしれないなあ。妻のなかに生きている遊女。それに気づいて、対話する。これは、こういう気持ちだよね、と自分の覚えている歌を借りて確認している。

ご承知のやうに家妻はぼくと年齢(とし)が離れてるんでね、ぼくとしても本気で自分の死後のことを墓の建立まで考へたよ。ほら中世の遊女が歌つてたぢゃない「いかな山にも霧は立つ/御身愛(いと)しには霧がない、霧がない/なう、限(き)り」つてね。

あるいは、

「左右ないこそ命(いのち)よ/情(なさけ)のおりやらうには、生きられうかの」つてんだが、「情」つて愛情さ、生き続けるには誰かの、そして、誰かへの「情」がなくつてはね。

 遊女の歌と「一対一」で向き合って、その遊女が何と向き合ってそういう歌にしたのか、その「何」をとっぱらって、自分と妻との関係にしている。自分と妻との「一対一」にしてしまっている。
 「生き続けるには誰かの、そして、誰かへの「情」がなくつてはね。」というのは、おのろけ? いいなあ。「うるさいから、まだまだ、こっちへ来るな」と弟は言っただろうか。聞いてみたいなあ。
安藤元雄詩集 (現代詩文庫 第 1期79)
安藤 元雄
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秋山基夫「ひな(抄)」ほか

2014-12-30 12:39:11 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
秋山基夫「ひな(抄)」、石牟礼道子「さびしがりやの怨霊たち」、一方井亜稀「残花」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 秋山基夫「ひな(抄)」(初出『長編詩 ひな』)。感想を書けるかなあ、むずかしいなあ、と思いながら、ついに感想を書かなかった長編詩。長さに、ひるんでしまった。「現代詩手帖」には「抄」という形なので、この長さならひるまずにすむ。とは言いながら、やっぱり半分ひるんでいるなあ。「抄」だけで感想を書いていいのか。でも、いま書いている「日記」は、さまざまなの詩のなかで、私自身のことばがどこまで動いていけるかということを確かめるための「テスト」みたいなものなので、思うことをただ書いてみよう。もともと私は「結論」を書こうとは思っていないのだし。

女に化けて お話をしましょう
これは冗談では ありません
女のあたしが 冗談なんかいうものですか

 1行目が、この詩の全てだと思う。「土佐日記」みたいだけれど、男が女になって書く。それは最初から「嘘」。人間は「嘘」を書くことができる。
 でも、どうしてだろう。
 「嘘」を書くとき、ひとは何を「頼り」にしているのだろう。ことばのなかに「何か」ほんとうのものがある。嘘の場合にも、嘘ではないものがある。それを頼りにしている。ことばは、人間でも、ものでもない。--こんな、ことは書きはじめると抽象的になって頭が煮詰まってしまう。
 1行目。ここで私が信じるのは「化ける」ということば(動詞)。「話す」ということば(動詞)。秋山はここでは「嘘をつく」と言っているのだが、その「嘘をつく」ということば(動詞)を、私は信じてしまう。「化ける」は「ふりをする」ということだと思うが、私も「ふりをする(ばける)」ということができる。「話す」ということができる。つまり「嘘をつく」ということができる。
 私に「できる」ことがあるから、そこに書かれていることを信じてしまう。「猫に化けて お話しましょう」「宇宙人に化けて お話ししましょう」--というとき、その「猫」「宇宙人」を信じるわけではなく、「化ける」「話す」を私は信じる。「化ける」「話す」は「ほんとう」で「女」「猫」「宇宙人」は「嘘」。
 いろいろなことばがあるが、私は「動詞」を信じている。「動詞」のなかに、自分との「共通」するものを見ている。私はいつでも「動詞」を頼りにして、そこに書かれていることを追いかける。
 「化ける」「話す」--このふたつの「動詞」のうち、秋山の重きはどっちにあるのだろう。「化ける」が今回の詩の「特徴」かもしれない。「話す」の方は「特徴」というよりも、秋山の「基本」的なありかたなのかもしれない。
 秋山は、ひたすら「話す」人間なのだ、と、この詩を読みながら思った。

あたしって毛皮のコートも学問もないでしょ
だから散文も詩もだめなの
せいぜい口でお話しするだけ
せいぜい紙テープをてきとうにちぎって
横へ横へとならべていくだけ
*たしか朔太郎がそんなことを書いていた。行分けをやめてつ
ないだら下手な随筆にしかならない口語自由詩のことだ。

 このとき「話す」というのは「ならべていく」「つないでいく」と同じことである。「話す」が「ならべていく」「つないでいく」と言いかえられている。
 つないだら、つながってしまう--それが、ことばなのだ。どんなにつながりようのないことも、つないだら、つながって、「ひとつ」になってしまう。「ひとつ」として存在してしまう。変なものなのだ、ことばは。
 この変なものを変じゃないものにする、嘘やでたらめではないものにするために、秋山はひとつの方法をとっている。「引用」。「引用」されるものは、すでに存在していることば。それを借りてきて「話す」。そうすると、「引用」という「ほんもの」が「嘘」を支えてくれる。念押しするように、秋山は「たしか」ということばをつかっている。「私のいうことは嘘かもしれない、けれど、たしかなことがある。それは……」という具合だ。推測というか、あやふやなものなのだけれど、それを逆に「たしか」と言い切ってしまうと、それが「たしか」に変わる。

*土井晩翆の「荒城の月」を踏まえているに違いない。たし
かにあれは滅びの美学的で偉かった。

 という部分にも「たしか」は出てくる。そして、これは「朔太郎」についても言えるのだが、「たしか」と一緒に「ほんもの」も書かれる。「土井晩翆」「荒城の月」。「ほんもの」をときどき利用しながら、なんでもかんでもつないでゆく。そのために、最初に「女に化ける」という「嘘」を実行する。嘘だから何をつないでも嘘--ほんものにならなくてもいい。でもね、ときどき「ほんもの」を利用する。その「ほんもの」を何にするか--そこに、実は秋山の「個性」があらわれてくる。
 これが、朔太郎、晩翆だけではない。なんでもかんでも。何でもかんでもつないでしまう「粘着力」の強さが秋山の「ことばの肉体」の強さなんだなあ、思う。私は、それにあきれる。笑ってしまう。あ、こんなに強靱な「ことばの肉体」を自分のものにすることができたら楽しいだろうなあと思う。



 石牟礼道子「さびしがりやの怨霊たち」(初出『祖さまの草の邑』7月)。

さびしがりやの怨霊を
悶え神たちの間においてきた
そこがいちばん安心と思ったのだが
うろうろと集まりすぎて
どれがわたしやら わからない

 「さびしがりやの怨霊」が「わたし」だろうか。「悶え神」は「さびしがり屋の怨霊」に似ているのか。「悶え」ることと「さびしい」は似ているのか。「怨霊」と「神」は似ているのか。それらかまったく違ったものなら、「わたし」以外のものがどれだけ多く集まろうと「わたし」の区別はつく。
 それとも最初は違っていたが、集ってきたものたちの影響を受けて、似てしまったのか。集ってきたものたちが「わたし」に似てしまったのか。あるいは、そういうことが同時に起きたのか。
 それは、しかし、どうでもいいことなのかもしれない。石牟礼は「わからない」ことをあまり気にしていない。

ちがいます ちがいます
ということを呪符にして
わたしは逃れたいのだが
そのわたしが うろうろのなかの
どれだかわからない
むかし 火をつけて 燃やしてしまった
草の邑の共同体から
ゆくえ不明になった怨霊たちよ

 と、「うろうろすること」を受け入れている。--と、私には感じられる。「うろうろ」しながら「共同体」の一員になってしまう。それは、その「共同体」の「怨霊たち」の一人になるということでもあるのか。
 そうすると、変なことが起きる。

夕べの暗い岬が わたしをよぎる
邑というからには川があった
河口があって 当然海があった
命たちはそこから陸に上がっていた
命には花が咲くのだった

 「共同体」のひとりになってしまうと、その「意識」なのかに「共同体」の「土地」があらわれてくる。「怨霊(意識?)」の「共同体」のなかに、岬、川、河口、海が広がり、海からは「命」が陸へ上がってくる。それは「怨霊」の「過去(必然)」のように見える。怨霊と土地が一体になる。怨霊が土地か、土地が怨霊か--そして、そう感じるとき「わたし」は「怨霊」か「土地」か。「わたし」は「怨霊」でも「土地」でもなく、「花」なのだ。「命の花」。
 それは「怨霊」と「土地」が一体になったときに開くのだろう。
 うろうろしながら、「どれがわたしやら わからないまま」、石牟礼は「命の花」になって咲いているのを感じる。それは「わたし」か、それとも「共同体」の「命」か。
 両方なのだろう。



 一方井亜稀「残花」(初出『白日窓』7月)。

ぬかるんでゆく土壌の
影は疾うに掻き消され
名指されないものたちが
通過するのを見逃す朝の
のつなぎ目にほどけてゆく

 何度読んでも、ここが魅力的だ。「通過するのを見逃す朝の/のつなぎ目にほどけてゆく」。「通過するのを見逃す朝の」と言って、それから何かを言おうとする。その一呼吸(改行)の瞬間に、何かと何かを結びつけようとした「の」、それがそのまま「ほどけてゆく」。
 書き出しの、

投げ出されていた
雨が
地上を覆う時
傘の列が途絶え
子供たちの声は聞こえない
舗道にはブレーキ跡ばかりが残り
投げ出されてゆく身体の
指先が語を取り逃してゆく

 ということばを読むと、朝の登校途中、児童が車にはねられた情景が思い浮かぶ。その死んだ児童の指差すもの、何かを言おうとしたことば。それが未完のままうしなわれていく。指先が指し示すことで結ぼうとしたもの、声にだすことでつながろうとした何か、その「何か」がそこから「ほどかれ」て、遠くなってしまう。そういう情景を思い浮かべる。
 そうしたことを「論理的な散文」にしてしまうのではなく、乱れた形のまま書く「の」の不思議な力。

鵜は立ち竦んでいる

 最終行の「鵜」(なかほどにも出てくる)は事故を目撃した一方井かもしれない。「残花」は事故現場に捧げられた花かもしれない。


秋山基夫詩集 (現代詩文庫)
秋山 基夫
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村瀬和子「萩の闇」、八木忠栄「母を洗う」、若尾儀武「在るだけの川」

2014-12-29 09:50:15 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
村瀬和子「萩の闇」、八木忠栄「母を洗う」、若尾儀武「在るだけの川」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 村瀬和子「萩の闇」(初出『花かんざし』6月)は、萩の季節、新しい御仏の誕生があると聞いて道祖神が武蔵寺へ集まってくる。なかなか誕生の知らせ(?)がない。飽きはじめたころ、六十の尼をともなって老人がやってくる。

もはや喪うものを持たない古希を過ぎた翁は
わずかに残された白髪を剃ることで仏の弟子になりたいと希うのである
武蔵寺の老僧は涙を抑えながらひとつまみの髪を剃ってやり
連れ添う老尼は
手桶の湯でていねいに頭を浄めてやった

道祖神たちが感動して馳せ参じた新仏誕生の奇瑞とは
たったこれだけのことであり
無一物となった翁が
妻の老尼と連れ立ち
とぼとぼと帰って行った道には
ただ白く埃が立つのみであった

 このことばを「物語」ではなく「詩」にしているのはなんだろうか。行替えというスタイルだろうか。そうかもしれない。改行によってうまれる、ことばとことばの「間」(空間)が、ことばを読むスピードを落とさせる。このやったりした感じが、ここで展開されている「物語」のスピードと合致している。
 「御仏誕生」というから赤ん坊だとばかり思っていたら、老人だったという「裏切り」(予想外のこと)が、「詩」と言えるかもしれない。
 あるいは「予想外」なのに、それを「たったこれだけ」とぱっと突き放したようなところがいいのかも。
 不思議なことだが、「道祖神たちが感動して馳せ参じた新仏誕生の奇瑞とは/たったこれだけのことであり」という批評がなくても、老人が出家したという「事実」(物語)は変わらない。そして、そのことばがない方が「これだけのこと」と思わずに、もしかすると感動が強くなるかもしれない。
 なぜ、こういうことばが、ここに挿入されているのだろう。
 たぶん。
 詩とは「事実」ではなく、その「事実」をどうみるか、という「思い」のことなのだ。
 「たったこれだけ」という「批評」を加えることで、御仏の誕生に期待する神々たちの欲望(?)のようなものを洗い流し、「仏」とは何?と問い直す。そういう姿勢、世界を見つめなおすというのは、自分の価値観を見つめなおすことだ、という具合に「思い」を揺さぶる。そういう「動き」が詩なのだろう。
 「たったこれだけ」という俗な口調が、神々の「俗」を洗い流し、とても気持ちがいい。



 八木忠栄「母を洗う」(初出『雪、おんおん』6月)。ここに書かれている「母」とは生きている母だろうか。死んだ母を清めているような響きがある。

生家のうらを流れる川
月の光あふれる川べりで 今夜
母を洗う
--ばかげたいい月だねか。
つぶやきながら 母はするすると
白い小舟になって横たわる

 死んだ人間がものを言うはずがないから生きている、ということもできる。しかし、生きている人間がそのまま小舟になる(変身する)ということもないから死んでいると言うこともできる。
 さて、どっち?
 死んでいても、八木の「肉体」のなかには母は生きているから、その母がことばを発しても不思議はない--と私は考える。「ばかげたいい月だねか。」という「口語」のまま、母は生きている。「意味」ではなく、その「語り口(肉体から出てくる音)」として生きている。
 これがこの詩の魅力だ。
 注釈で八木は「ばかげた--たいへんに」と書いているが、これは注釈がないほうがいい。「ばかげた」という「方言」は「意味」をつたえにくいかもしれない。けれど、そういう「つたえにくもの」を八木と母が共有している、という感じは説明されないほうが魅力的だ。「わからない」何かを八木と母親が共有しているのを「感じる」のがおもしろい。また「わからない」とは言っても「ばかげたいい月だねか。」の「いい月」ということばから、「ばかげた」は強調のことばなのだとわかる。「たいへんに」か「とても」が「すばらしく」かわからないが「いい」を強調している。それも、いつも母親が息子にいうことばそのままで(息子以外の他人にわかろうとわかるまいと関係ないという感じ/息子にさえつたわればいいという感じで)言っている、そしてそれを聞いている(聞いて納得している)ということがわかる。「直接」わかっている。その「直接」の力。
 この「わからない」から「わかる」へ飛躍する瞬間(「誤読」かもしれないけれど)が詩なのだと私は思う。「直接」を「直接」受け止めるしかない瞬間の、「誤読/錯覚」のうようなものが詩だと思う。(で、その「直接」がどんなことば、どんな形で書かれているか、ということに私は興味がある。--このことを、別な形で書き直せば「批評」というものになるのかもしれないが、そういうことを書きはじめると詩から遠ざかる感じがしてしまう。)
 「誤読」しながら、私は、八木の母ではなく、自分の母のことを思う。母が死んだときのことを思う。母の口癖を思い出す。そして、そのなかで「母を思い出す」ということが重なる。重なってしまうので、あ、この詩は八木が死んだ母のことを書いているのだと思う。八木の詩にもどって、ほっと息をつく。だれかが具体的に見えてくる(その瞬間が具体的に見えてくる)詩はいいなあ、と思う。



 若尾儀武「在るだけの川」(初出『流れもせんで、在るだけの川』6月)の感想を書くのは二度目である(と、思う)。くず鉄(?)を売り買いする。そして折り合いがついて百十円ということになるのだが、

それやのに金受け取る段に間の悪い
肝心の十円玉受けそこのうて
そこが板敷きつめた橋やったから
二転び版
のばしたワシの指先をひょいとかわして
板と板の隙間から
油テコテコの川づらに落ちよった

 と、口語で語られる。この「口語」の手触り、その手触りを支えている暮らしが詩である。「意味」ではなく、そこに「肉体」があらわれてきて、「肉体」を訴えてくる。十円玉を落としてしまった、ということ以上の「実感」が口語の「肉体」の重さとなって伝わってくる。

確かにワシは払うたで
分かってま
これはワシの落ち度や

 ふたりの「ワシ」の「肉体」が見える。「いつか/どこか」で出会った人(見た人)が、そこで違った形だけれど、「本質」としては同じ姿、違うから本質がより鮮明に浮かび上がる形で、そこに動いている。こういうとき、そのふたりのどちらを自分の「肉体」と思えばいいのかわからない。きっと、そのふたりのともが「私の肉体」と重なる。こういう「やりとり」をするということと「肉体」が重なる。
雪、おんおん
八木 忠栄
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思潮社

「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社

「リッツオス詩選集」も4400円(税抜、送料無料)で販売します。
2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。
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