詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

黒澤明監督「野良犬」(★★★)

2017-10-11 18:32:00 | 午前十時の映画祭
黒澤明監督「野良犬」(★★★)

監督 黒澤明 出演 三船敏郎、志村喬、淡路恵子

 古い映画の感想はむずかしい。いまの視点から感想を言うと、まあ、「時代」がふっとんでしまうからね。
 御船が情報を求めてひたらす町を歩くシーン、満員の野球場のシーンは、この映画が公開された当時は、なまなましい「情報」だったのだと思う。「肉体」そのものに迫ってくる暗い息苦しさと、明るい喜び。そのせめぎあい。「ドキュメンタリー」だね。
 いまは、目新しくない。特に、カメラの演技が横行するようになったいまから見ると「平凡」(だらだら)という感じがするが、これは仕方ないなあ。当時としては、カメラが積極的に対象を「絵」にする(演技する)という手法は新しかったと推測できる。(昔は、カメラの前で役者が演技するだけだった。)
 私が気に入ったのは、淡路恵子が男からもらったドレスを着て踊るシーン。踊るといっても、くるくるとまわるだけなのだが、そのとき広がるドレスの裾のはなやぎが、とても美しい。ここでは役者の演技とカメラの演技が一体になっていて、まるで「異次元」である。
 黒沢は、「男っぽい」監督のように受け止められていると思うが、こういうシーンを見ると、とても「女っぽい」と感じる。女の喜びと絶望を、ドレスの裾、まわる足先だけで表現する(そういうところに女の喜びと絶望があらわれる)と、当時の男は気づかなかっただろうなあ。女の監督が撮ったのかと思ってしまう。(「ピアノ・レッスン」のジェーン・カンピオン監督なら、こういうシーンを撮るだろうなあ、と思う。)
 妙な「女っぽさ」は、クライマックスにも存分に発揮される。
 三船敏郎が犯人と対峙するシーンで流れるピアノの音(近くの女性が弾いている)、二人が格闘する花咲く荒れ野、疲れ切って倒れている二人の向こうを幼稚園児(?)が「ちょうちょ」を歌いながら通りすぎるシーン。
 たぶん、こうした映像は、暴力を浮かび上がらせるための「対比」手法、非暴力を暴力と同時に描くことで、暴力をあざやかに印象づける方法なのだが、黒沢の場合、「非情さ」が欠ける。ロマンチックになってしまう。「感情」が前面に出てきて、「野蛮」が生きてこない。さっぱりした感じがしない。
 「七人の侍」にも、山の中での「花摘み」のシーンがあって、それはそれで、そういうものを描きたい気持ちもわかるけれど、私の知っている自然は、もっと「非情」だなあ、という感じがあるので、うるさく思う。「女っぽく」て、いやだなあ、こういうシーンは嫌いだなあと思う。
 志村喬が三船敏郎に、「もう一軒つきあえ」と言って自宅につれていき、御船が帰るとき「見ていけよ」といって寝乱れたこどもたちを見せるところなんかは、男のなかにある「日常」があふれていて好きなんだけれど。「女につながる日常」というよりも「いのちにつながるいのち(持続していくもの、破壊する暴力の対極にあるもの)」を、さらりと見せていい感じなんだけれどね。
       (「午前10時の映画祭8」、中洲大洋スクリーン3、2017年10月11日)


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ジャック・ベッケル監督「モンパルナスの灯」(★★★)

2016-11-09 15:52:07 | 午前十時の映画祭
ジャック・ベッケル監督「モンパルナスの灯」(★★★)

監督 ジャック・ベッケル 出演 ジェラール・フィリップ、アヌーク・エーメ、リノ・バンチュラ

 モジリアニの生涯を描いた映画、なのだけれど。
 なぜ、モジリアニが、あの焦点のない目(瞳のない目)を描いたのか、首の長い肖像を描いたのか、というようなことは描かれていない。
 では、何が描かれているのか。
 モジリアニは女にもてた、ということが描かれる。このもてる男をジェラール・フィリップが演じるのだから、「美形だからもてる」ということになる。ふーん、美形でなければもてないのか。まあ、そうなんだけれど。なんといえば、それでは映画にならないだろう。いや、映画というのは、美男美女を見に行くもの(美男美女を見て自分が美男美女であると錯覚するもの)なのだから、これぞ映画というべきかもしれないけれど。
 で、おもしろいのは。なるほど、フランスだなあ、と感じるのは。
 ジェラール・フィリップはもてるから女とセックスする。そして次の女にまた手を出す。このことに対して、「罪の意識」というものを持っていないこと。好きな女とセックスをする、というのが当然と思っている。他の女に乗り換えても、「うん、新しい女ができたんだ」と当然のように主張する。「美形の男」というよりも「色男」だな。
 そして、これを捨てられた女が、なんというのか、これまた「当然」という感じで受け止めている。「そうなの、新しい女ができたの。私は捨てられたのね。でもいいわ。ちゃんとセックスしたんだから」という感じ。「色」を共有した、というのか、「色」を育てたというのか。未練がない、というと違うのだろうけれど、ジェラール・フィリップが他の女に引かれていく(色好み)のは「本能」のようなもので、それを引き止めてもしようがない、という感じ。そこで引き止めようとすると感情がめんどうくさいことになる。引き止めずに、それを見守る。女から、保護者(母親/色教育のパトロン)になる、という感じなのかなあ。
 出演者はジェラール・フィリップ、アヌーク・エーメ、リノ・バンチュラくらいしか名前がわからないのだが、金持ちの女がジェラール・フィリップをつかまえて、「あんたは女好きのする男なのだ」というシーンがあるが、好きになる(愛する)というのは、相手の色をすべて受け入れて、その色になってもかまわないと身を任せること。そう決意すること。そういう「恋愛観」が、この金持ちの女、居酒屋の女主人、アヌーク・エーメが、とても平然と体現している。金持ちの女と居酒屋の女主人が、互いを見つめ、「あ、この女、ジェラール・フィリップの色に染まっている」とわかり、それを受け入れるシーン(ジェラール・フィリップ)が倒れ、居酒屋の二階に担ぎ込まれ、そこで闘病するシーンに、そういう感じが出ている。
 これは、もしかするとモジリアニ(ジェラール・フィリップ)の生涯を描いたというよりも、モジニアニを愛した女の愛の形を描いた映画なのかもしれない。男を愛するとき、女はどんなふうに強くなるか、それを描いている。自分の中にある「色」を引き出してもらい、それによって「強くなる」、そのことを忘れないのが女なのだ。この男は、私の「色」を知っている。男の「色」に染めるのではなく、男の「色」が女の「色」を強調する。「色」のハーモニー。この女の愛に比べると、男の生き方なんて、とても「浅薄」なものである。
 ジェラール・フィリップは、この「浅薄」を生来の美形で気楽に演じている。モジリアニの絵は特徴的だが(自画像を描いてもらう男が怒りだすくらいだが)、モジリアニは絵を描くとき、その絵が自分の「色/スタイル」であるということを、そんなに強く意識していない。相手を「変形」させているとは思っていない。自分の「色/スタイル」を正直に出しているだけ、という「軽い」自覚しかない。
 リノ・バンチュラは、この他人から見れば「浅薄/軽薄(あるいは他人への配慮のなさ)」を「気迫(野性の本能)」にかえて演じている。モジリアニの絵の魅力をいち早く発見するのだが、買わない。死ぬのを待って、アヌーク・エーメの待つアパートに押しかけ、そこにある絵を買い占める。芸術(人間)を愛するのではなく、「金」で手に入れ、「金」で手放す。つまり、そうやってもうける。保護者(パトロン)にはならない。「浅薄」を「冷酷」に昇華させて(?)生き抜く。アヌーク・エーメが「モジがどんなによろこぶだろう」とそこにいないモジリアニと「一体(ひとつ)」になって涙を流して喜ぶのを、「この女、まだ何にも知らないぞ、気づいていないぞ」と、ほくそえむ目つきが、なんともすごい。
 うーん。
 女は、こういう目つきにはほれないかもしれないけれど、男はほれる。私は、ぞくっとした。これは、すごい、と一瞬、「我を忘れた」。言い換えると、金もうけだけを企んでいる画商なんて人間としてつまらない(浅薄である)と批判することを忘れた。「流通している倫理観」で画商を判断することができなくなった。
 こんなふうに世界をぐいっとつかみとってしまう「権力の野性/野性の暴力」に、「本能の力」を感じる。「産む性」ではない男は、「生み出されたものを奪う性」なのである。
 と、考えると、モジリアニを初めとする芸術家というのは、男のなかにあっては例外的に「産む性」であり、「産む性」という共通項が女を安心させ、女を引きつけるのかもしれない。少なくとも、フランスの女にもてようとするなら、男はすべて芸術家にならないといけない、と主張する映画である、と思ってしまう映画である。
         (「午前10時の映画祭」天神東宝スクリーン2、2016年11月07日)

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小津安二郎監督「東京物語」(★★★★★)

2016-03-10 10:00:21 | 午前十時の映画祭
監督 小津安二郎 出演 笠智衆、東山千栄子、原節子、杉村春子、山村聰

 笠智衆の台詞回しは独特である。妙にのんびりしたところがある。杉村春子の台詞回しと比較すると特にその違いが目立つ。杉村春子は「肉体」の動きと「ことば」の動きがぴったり重なる。笠智衆の場合、「肉体」が動いたあと、かなり遅れて「ことば」が動く。そして、そのことばもゆっくりしているので、さらに「間延び」した感じになる。最初は奇妙な感じなのだが、見ているとだんだんそれが「快感」になる。
 どうして「快感」なのだろう。
 笠智衆の「ことば」が相手に向けられているというよりも、自分自身に言い聞かせている「ことば」だからである。
 冒頭、東京へ逝く準備をしながら、笠智衆が東山千栄子に「空気枕をちゃんと入れたか」というやりとりをする。「お父さんがもっているのでは?」「おまえに渡したさ」というようなやりとりのあと、「あっ、あった」と笠智衆が言う。東山千栄子は何も言い返さない。このときの「あ、あった」ということばは、「そうか、ここにあったか、自分が間違えていたのか」というようなことを、さらには「おまえに難癖つけて申し訳なかったなあ」というニュアンスも含んでいるのだが、そういう「ことば」はすべて自分自身に言い聞かせているもの。その「自分自身への言い聞かせ」が、東山千栄子に伝わるのはもちろんだが、スクリーンを見ている自然に観客に伝わってくる。
 これが、気持ちがいい。
 「自分自身への言い聞かせ」なので、相手に伝わるかどうかは第一義ではない。伝わらなかったら伝わらなかったでかまわない。
 これが映画全体のストーリーと不思議な形で重なる。
 東京と大阪に住む子供たちを訪ねる。せっかく会いに行ったのに、杉村春子や山村聰は、笠智衆と東山千栄子をぞんざいにあつかう。自分の仕事(生活)に追われていて、親の相手をしている時間がない。笠智衆にはそれがさびしいが、そのさびしさを杉村春子らには言わない。言わなくても通じる相手(東山千栄子)と共有するだけである。「ことば」にしても、共有できないものは共有できない。「ことば」にしなくても、共有できるものは共有できる。
 その、「ことば」をもっぱら自分自身への「言い聞かせ」としてつかっている笠智衆が一回だけ、真剣に相手に向かって「ことば」を言う。原節子に対して、「東山千栄子の形見に時計を受け取ってくれ」というシーン。そこでも「自分自身への言い聞かせ」の要素はあるのだが、自分に言い聞かせるよりも、原節子に言い聞かせるという感じが強く出ている。
 これが感動的なのだが。
 この感動には、「自分自身への言い聞かせる」という行為と重なるものがある。「自分自身への言い聞かせ」とは、いわば「わかっていることば」を「くりかえす」こと。(杉村春子は基本的に「ことば」を繰り返さない。前へ前へと進んでゆく「ことば」を話す。)
 で、そのときの「繰り返し」というのが、東山千栄子が原節子のアパートに泊まったとき、原節子に言った「ことば」と「同じ」なのである。「同じ」だから、「繰り返し」というのだが……。「息子が死んで八年になる。赤の他人と言っていいのに、こんなに親切にしてくれる。申し訳なく思う。あんたには幸せになってもらいたい云々」。「繰り返し」によって、それは単に「思っていること」を突き抜けて「真実のことば=まこと」になる。
 いいなあ。
 さらにすばらしいのは、こういう感動的な瞬間を、笠智衆が明るい笑顔で語ることである。「ことば」は原節子に向けて言ったものだが、「おしつけ」にはしたくない。受けとめてほしいのは「ことば」ではなく、この「笑顔」だという感じ。もちろん、「受けとめてほしい」とは、言わない。「笑顔」はただ「笑顔」を誘うだけである。笑顔を見ると誰でも反射的に笑顔に誘われる。その笑顔。
 笠智衆の演技は、この「誘う」という部分が非常に大きいのだろう。「こんな気持ちなのだ、わかってほしい」と誰かに訴えるのではなく、「こんな気持ちでいるよ」という感じで、相手を誘うのである。けっして押しつけない。
 この「押しつけない」と関連して。
 一か所、笠智衆の「肉体の演技」でぐいとスクリーンのなかに引き込まれたシーンがある。東山千栄子が死ぬ。そのあと、ひとり席を立つ。悲しみがこみあげてくる。それを、ぐいと、「肉体」のなかに押しとどめる。悲しみを「のみこむ」。この「のど」の動きがリアルだ。あ、悲しみをのみこんでいる、というのが伝わってくる。

 原節子は、現代の女優でいうとケイト・ウィンスレットがいちばん近いかもしれない。からだがどっしりしていて不思議な安定感がある。最後まで尾道に残って笠智衆の家にいるシーン。ローアングルで原節子の足が映ったとき、その足のたくましさ(大きさ)に胸を打たれた。しっかりと大地を踏みしめている、という感じがする。
 原節子は、ケイト・ウィンスレットのように「感情」を剥き出しにするような演技をしていないが、そういう演技もきっとできただろうなあ、と思った。いまはやりの、ほっそりしたからだでは抱え込みきれない「感情」の「大きさ」を表現できる女優かもしれない。「感情」を「隠せる」女優かもしれない。
 原節子はクライマックスで「私、ずるいんです」と言う。その「ずるさ」とは「感情」を隠している(本心を隠している)ということなのだが、この「感情を隠す」を「気持ちを押しつけない」と言い直すと、どこかで笠智衆と重なる。
 「気持ちを押しつけない」笠智衆が、おだやかに原節子の「感情」を「誘う」。その「誘い」に反応して原節子の「隠していた感情」が思わず動いてしまう。そのとき、何と言えばいいのか、「ことばにならない共感」のようなものが、二人の間で行き来する。
 これは「秋刀魚の味」で花嫁衣装の岩下志摩が「お父さん……」と挨拶しようとすると、笠智衆が「いいから、いいから。わかっているから」と答えるシーンに共通する。
 「わかっている」というか、「わかる」が、ことばもなく「動く」、「わかる」が「生まれる」と言ってもいいかもしれない。そこには「いいから……」という許容、いや「言わなくていいから」というつつみこむような抱擁がある。
 思い出すとジーンとくる、あとから「わかる」映画である。
              (午前十時の映画祭、天神東宝4、2016年03月08日)






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小津安二郎監督「秋刀魚の味」(★★★★)

2016-02-28 09:43:35 | 午前十時の映画祭
監督 小津安二郎 出演 笠智衆、岩下志麻、佐田啓二、岡田茉莉子、東野英治郎、杉村春子、中村伸郎、北龍二

 小津安二郎の映画をスクリーンで見るのは初めてである。こういう評価の定まった作品の感想を書くのはむずかしい。
 最初に驚くのは、役者たちの演技の淡白さである。笠智衆、中村伸郎、北龍二の仲良し三人組(?)の酒を飲んでのやりとりなど、ただの棒読み。感情というものが感じられない。東野英治郎、杉村春子の父娘が、演技といえば演技っぽい。ただしまわりの役者が淡白な演技をしているので、浮いて見えてしまう。
 えっ、昔のひとは(現代でも評価が高いのだが……)、こういう演技を見て感動していた? 登場人物に共感していた?
 と、思いながら見ていて、ほとんど後半、ラスト近くになって。
 岩下志麻の結婚が決まり、花嫁衣装を着て、お決まりの父への挨拶をする。これがまた、そっけないのだが。そのあと、結婚式に出かけてしまい誰もいなくなった家のなかが映される。ここで、私は、「うーん」と唸ってしまった。椅子に、ぐい、と体を押さえつけられたような衝撃を受けた。
 岩下志麻のつかっていた鏡台だとか、窓だとか、畳だとか。そういうものが、とても美しいのである。
 スティルライフ、静物画ということばを思い出した。すばらしい「静物画」、たとえばモランディやセザンヌの絵を見たときのような美しさを感じた。スティルライフ、静かな生活でもあるのだが、「静かな生活」ではなく「静物画」の視点からこの映画を見つめなおすと、その美しさがわかるのでは、と考えた。
 たとえば薬罐とポットとコップの「静物画」があったとする。そのとき、その薬罐、ポット、コップは最初からそこにあるのではない。そこにそれがあるのは、それをつかっているひとが、そこに置いたからである。その「位置」が決まるまでには、それなりに繰り返される時間があり、同時にひとの動きがある。すぐれた「静物画」はものの形を書いているのではなく、そのものがそこに収まるまでのひとの動き、暮らしの時間を描いている。そのものが、その「色」に落ち着くまでの暮らしの時間、ひとの関わり方を描いている。
 その、「暮らしの時間/ひとの関わり方」の蓄積に通じるものを、最後になって、私は強く感じた。あるものが、ある位置に定まるまでには、はげしいできごともあったかもしれないが、そういうものは沈澱してゆき、淡々とした暮らしが繰り返され、そこに落ち着くのである。
 この「静かな生活(あるいは静かないのち、かもしれない)」の美しさは、「わかっている」ということばで言い直すことができるだろう。
 この映画のなかで、その「わかっている」を拾い上げると。
 花嫁衣装の着付けが終わった岩下志麻が膝をつき「お父さん……」と言おうとすると、笠智衆が「わかっている」と言う。何も言わなくてもいいと言う。この「わかっている」である。笠智衆は岩下志麻のことが「わかっている」。岩下志麻は笠智衆のことが「わかっている」。このままの暮らしではいけないということも「わかっている」し、いままでの暮らしを変えると大変だということも「わかっている」。「わかっている」から、むずかしい。どう動けばいいのか、悩んでしまうのである。
 この映画では、すべて「わかっている」ことだけが、「わかっている」ままに描かれる。逆に言えば「わかってほしい」と誰も主張しないのである。笠智衆の仲良し三人組が酒を飲む。そのとき三人は互いの家庭のことを、みんなわかっている。中学の教師をまねいて同窓会の話をするのだが、そのときだってきちんと詰めないといけないようなことなど何もない。みんな「わかっている」。だから、ただ顔をあわせて、台詞を棒読みするだけである。「感情」を主張する必要などない。自分を打ち出す必要はない。みんな「わかっている」のだから。
 どのシーンについても言える。佐田啓二、岡田茉莉子の夫婦がゴルフのクラブを買うことで揉める。岡田茉莉子が「だめ」と言いながら、最後には最初の月賦二千円を渡すまでのやりとりなども、岡田茉莉子はどうせそうするしかないのが「わかっている」。「そのかわり、私は白いハンドバッグを買うからね」と岡田茉莉子が言うことも、佐田啓二はどこかで「わかっている」。夫婦なのだから。
 それにしても……。岡田茉莉子が「トマト二個貸してちょうだい」と隣の部屋へトマトを借りに行くシーンは驚いたなあ。たしかに昔は、そういう貸し借りがあったなあ。いまは、そういうものがすっかりなくなり、他人が「わからなくなった」。昔は、だれもが他人がどうしているか「わかっていた」。
 いっしょにいれば、だれもが相手のことを「わかる」。「わかっている」から、声高に主張しなくてもいい。したがって役者も「感情」を動かして見せる必要はない。「感情」はそれぞれの観客のなかにあって、観客がつくりだすもの。観客が、それぞれが「暮らし(いのち)」のなかで反復し、育てるものなのである。この「感情」、わかる、知っている、自分も経験したことがある。そういうことを、ただ、思い出し、それを丹精に育てなおす。薬罐やポットやコップ、鏡台の位置や、カーテンの開き方、窓の開け閉めのように、それにふさわしい位置、動きにととのえる。そうするために見る映画なのだと感じた。
              (午前十時の映画祭、天神東宝6、2016年02月26日)










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ルイ・マル監督「死刑台のエレベーター」(★★★★)

2016-02-05 17:02:36 | 午前十時の映画祭
監督 ルイ・マル 出演 ジャンヌ・モロー、モーリス・ロネ 音楽 マイルス・デイビス

 昔の映画はいいなあ。役者の顔をたっぷり見せている。
 ジャンヌ・モローは私の感覚では「美女」ではないのだが、うーん、見とれてしまう。台詞は「愛している」「ジュリアンを見なかった?」くらいしかないし、夜の街をただジュリアンを探して歩き回るだけなのだが、この男を思って夜の街を歩くが、そのまま「感情のアクション」、それも「抑えきれない/抑圧されたアクション」になっているのがとてもおもしろい。
 モーリス・ロネにいたっては、台詞はもっと少なく、電源を切られたエレベーターのなかで、どうやってそこからぬけ出そうか試みているだけなのに、うーん、おもしろい。エレベーターの壁を外して、なんとかしようとするのだが、ナイフ一本でできるのはネジをゆるめる、カバーを外すくらい。でも、それをていねいに映像化すると、それが「アクション」になる。
 肉体をはげしく動かすのが「アクション」ではなく、感情が動いていることを肉体をとおしてあらわすのが「アクション」なのだ。
 で、こういうとき何が大切かというと。
 まず、肉体が動く。顔が動く。そのあとで「ことば」が動く。これが逆だと「アクション」にならない。いちばんわかりやすいのが。
 モーリス・ロネが殺人者として新聞に顔写真が載っている。彼が、それを知らずにカフェに入る。電話を借りる。それを見ているウェイトレス、店長の顔。モーリス・ロネが電話を離れてから、ウェイトレスが店長に「警察に電話しようか」と言う。まず、目で、「あ、犯人だ」という「驚き/感情」が動き、それはことばにせずに、そのあとでさっきの動きをことばで言い直す。--これは、極端な例。
 これをもっと短い間合いで、緊密に、ジャンヌ・モローが演じている。効果的なのが、ジャンヌ・モローの「こころの声」。「肉体」が動いたあとで、「あんな小娘と……」というような「声」が追いかける。(モーリス・ロネの車を盗んだ若いカップルがジャンヌ・モローの目の前を走り去る。彼女からは花屋の若い娘しか見えない。)その「声」をききながら、観客は、もういちどジャンヌ・モローの感情を反芻する。反芻すると、その「声」がジャンヌ・モローの感情ではなく、見ている観客の「声」になる。
 「あんな小娘と……」という「表情」を見て、その「肉体」からなんとなく、その「感じ」を受け取り、それ「ことば」で念押しする。その念押しの感情が、観客の「思い」と重なる。「追認」ではなく、一種の「共感」である。
 この感じを、さらにマイルス・デイビスの音楽が追いかける。ことばにしても、なおことばにならない何か。それをことばをつかわない音楽が念押しする。これは、どうしたって「ゆっくりしたアクション」以外では、うまくいかない。
 男を探し回るといっても、走るのではない。車をつかうのでもない。あてどなく、あの店、この店と歩き、店員に聞いたあとも店内のなかを、もしかしたら何か手がかりがあるかもしれないと歩き回るという「ゆっくりアクション」、エレベーターを力任せで「壊す」のではなく、精密機械を分解するようにていねいに解体しようとする「ゆっくりアクション」が、観客の肉体をまず刺戟し、そのあとでこころになる。それからその「こころ/意味」をことばで確認し、ことばで言い尽くせなかったものを音楽で「感じなおす」。
 「情感」にたっぷり酔った感じ。
 ストーリーは「推理小説」なのだが、謎解きというよりも、そこで動いているひとの「感情」の変化を「顔」をとおして味わう映画だ。最近は、こういう「味わう」映画が少なくなったなあ。
              (「午前十時の映画祭」天神東宝6、2016年02月01日)



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佐藤純彌監督「新幹線大爆破」(★★★)

2015-11-01 09:33:53 | 午前十時の映画祭
監督 佐藤純彌 出演 高倉健、山本圭、宇津井健

 1975年の映画。こういう昔の映画を「採点」するのはむずかしい。どうしても今の映画と比較してしまう。セットや撮影技術、演技も。へたくそだなあ、と思ってしまう。
 この映画のいちばんの問題点は……。
 いったい新幹線車輛の清掃係員がどうやって新幹線の「台車」に爆弾を仕掛けることができるのか、ということではなく、肝心の新幹線の「スピード」がぜんぜん伝わってこないことだ。新幹線用の特別の線路をひたすらスピードを出して走っているという感じが映像で再現されていないことだ。時間を稼ぐためにスピードを落としているのだが、そのスピードを落としているという感じも出ていない。本来なら速く走るはずなのに、ゆっくり走るしかない。その苦悩。なんといえばいいのか……、新幹線そのものが「もだえている」という感じがしない。新幹線という「車輛(物体)」が「肉体」になっていない。
 新幹線のスピードをいちいち何キロとことばにして説明しないと、新幹線が走っていることにならないのが、実につまらない。頭で「時速何キロ」と言われても、新幹線に乗っている気持ちにならないし、どんどん時間が減っていくという感じにもならない。これでは、どうしようもない。
 どうやって犯人を突き止めるか、どうやって仕掛けられた爆発物を取り除くか、そのやりとりがテーマであって新幹線は「舞台」にすぎない、ということかもしれないが、その「舞台」が、ほんとうに「舞台」にすぎなくて、「事件」になっていない。これが、おもしろくない。
 で、この「時速何キロ」という実感のなさは、新幹線の運転士(千葉真一)、管制官(宇津井健)の「肉体」感覚にもつながっている。まるで「学芸会」。時間がどんどん過ぎ去っていくのに、そのことに対する「あせり」が「肉体」になっていない。まるで新幹線が博多に着く前に事件が解決するということを知っている感じ。「脚本」を読んでいるのだから、もちろん役者は「結末」を知っているのだが、その「知っている」が「肉体」に出てしまっては演技と言えない。
 司令室のセットがちゃちということもあるかもしれない。ここでも「スピード」というか新幹線の進んだ距離(残された距離)は、「図式」のように説明されるだけで、走りつづける新幹線をどう監視するのか、制御するのか、そのシステムの存在感、「機械」の存在感がない。そこで演技している役者に(演技する役者のために)、当時の国鉄の職員が「司令室はこうなっているんですよ」と説明している感じ。役者が国鉄職員から説明を聞く「観客」になってしまっている。スクリーンを見ている観客に「肉体」で「事件」を再現しようとしていない。CTSなんて、「頭」でことばを動かしているだけで、それがどんなものか千葉真一も宇津井健も知らない、ということが見えてしまう。二人とも、それがどんなものか知らないのだと思う。知らないから、台詞だけ間違えまいとして、一生懸命にしゃべっている。小学校の「学芸会」以下。(現在なら、CTSがらみの事故というものがすでに起きているために、その重要性、重大性が、一般にも知られているが、この当時はきっと「夢のシステム」だったのだろうなあ。)
 だからね、というのは変かなあ。
 犯人側の高倉健や山本圭にしてものんびりしたものだなあ。走りつづける新幹線が凶器である、新幹線が暴力をもって動くのを駆り立てているという悪魔的な美しさがない。「時間」で脅迫している「肉体」感覚がない。「ことば」だけで脅しているよう。国鉄と警察を「ことば」で脅している、「ことば」だけで交渉している。
 彼らもまた映画の結末を知っている、という顔をしている。成功して、金を奪って、生き延びるのだ、欲望のままに生きるのだという「生命感」がない。何が起きるかわからないはらはら、どきどきを引き起こす野蛮、暴力、強暴の美しさがない。「やくざ」な血の騒ぎがない。
 警官側はもっとひどい。早く犯人をつかまえないと新幹線の1500人が死んでしまう。さらに新幹線が爆発すれば、その沿線にも被害がおよぶなんて考えてもいない。どうせ、犯人はつかまり、新幹線は爆破されないと知っていて、演技をしている。いや、演技になっていないというべきなのか。ストーリーの説明にしかなっていない。すべてが「ことば(会話)」で語られ、まるで「小説」を読んでいるか、「紙芝居」を見ている感じ。「映像」はストーリーの補足になってしまっている。
 せめてこの時代に、キューブリックが「シャイニング」を撮影するときにつかったシステムがあったならなあ。カメラが空を滑っていくように動き、新幹線のスピードを空撮できていたならなあ。当時のカメラでは、空撮の画像が揺れてしまい、高速で走る新幹線の感じがしない。単に空から撮っているというだけで、新幹線の大きさとスピードが視覚化されていない。どの駅でもいいのだが、新幹線が遠くから入ってきて、走り去る全体を空からスムーズに撮ることができていたら、「走っている(止まることができない)」ということが「実感」になっただろうなあ、と思う。冒頭に空撮の新幹線の映像があるが、激しく揺れて、ただ空撮しているというだけの映像。美しい走りが、そのまま凶器になっていくという「予感」を引き起こさない。美しいもの(完成されたもの)ほど、狂気をはらんでいて、危険だ、という「予感」が冒頭に必要なのに、その「美しさ」がとらえきれていない。またキューブリックになるけれど、「2001年宇宙の旅」の宇宙船、美しいでしょ? だから「危険」がいっぱいという張り詰めた感じがするでしょ? 「機械」を「舞台」にするときは、「機械」を「美しく」撮るということが絶対条件なのだ。(スピルバーグの「激突!」もタンクローリーの強暴な面構えが魅力的だ。)
 でも、まあ、「公衆電話」をつかった「脅迫(警察との交渉)」はおもしろかったなあ。どこに「公衆電話」があるか、それを事前に調べ、公衆電話から公衆電話までの「移動時間」を把握している(らしい)高倉健の動き。それを「脚本」にしっかり落とし込んでいるところは傑作だ。ここだけ「肉体」がしっかり動いている。高倉健も納得して(?)動いている感じがする。ただし、オートバイのシーンはスタントなのか、あるいは本人だから故なのか、ぎこちない。「肉体」の連続感、スピード感が違いすぎる。最初に死んでしまう若者のオートバイのシーンと違いすぎる。一方は逃走なのだけれど……。高倉健だって、捜査網をかいくぐり逃走しているという緊迫感がないとねえ。
 新幹線の東京-博多直結開通を取り込んでの映画作りという「やくざ」な感じは、エンタテインメントらしくて気持ちがよいだけに、とても残念。広がった新幹線網を舞台に、だれかリメイクしないかなあ。
              (午前十時の映画祭、天神東宝4、2015年10月31日)





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黒澤明監督「赤ひげ」(★★★★★)

2015-10-21 09:53:44 | 午前十時の映画祭
監督 黒澤明 出演 三船敏郎、加山雄三、山崎努、内藤洋子、二木てるみ

 主役は三船敏郎なのか、加山雄三なのか。タイトルは「赤ひげ」だが、ストーリーは香山雄三の成長物語。1965年、50年前の映画。このころ加山雄三は「若大将」をやっていたのか。最初の方の、生意気で、とげのある感じが、「お坊っちゃま」という感じで、「適役」というのはこういうことを言うんだろうなあ、思いながら見た。(後半のメーンテーマとなる二木てるみ。二木は内藤洋子より年下なのか? 年上じゃないのか? ということも頭をかすめた。)
 この映画でいちばん目を見張ったのは、赤ひげの診療所の床の美しさである。板張りなのだが、その板が磨き込まれている。黒光りをしている。ていねいにつかいこまれている。そのていねいさのなかに「暮らし」が見える。(なぜ、患者が白い着物をきているか、なぜ畳ではなく板の間なのか、ということが患者の口や、先輩医師のことばで語られるが、この部分は説明しすぎていてがっかりするが、当時はこういう状況説明を先にしてしまうのが映画の手法だったのかもしれない。)
 で、この「暮らし」の、隠れたていねいさが、少しずつストーリーとして展開する。患者の、あるいはそこに身を寄せる人々の「物語」が少しずつ語られる。隠されていた「時間」が語られる。それはそれですでに一篇の映画である。ついつい、三船敏郎と加山雄三が主役であることを忘れてしまう。冒頭の診療所で、診療所の床の美しさに見とれて、そこが診療所であるということを忘れるような感じ。
 そして、ストーリーが展開するに連れて、それまで見てきた「劇中劇」とでもいうべきストーリーが観客である私のなかに蓄積されるように、加山雄三のなかにも蓄積され、加山雄三が、生意気なお坊ちゃんから徐々に変わってくるのがわかる。診療所の床が美しいなどという「傍観者」的な感想がからだのなかに沈み込み、すっかり加山雄三の気持ちになって登場人物といっしょに生きている。
 うーん、いい感じだなあ。
 特に。
 二木てるみが泥棒小僧と会話をするのを盗み聞きするシーンがいい。加山雄三は診療所の賄い小母さんといっしょに洗濯物の影に隠れて会話を聞いている。泥棒小僧は小僧で懸命に生きている。二木てるみはなんとか少年を立ち直らせたいと思っている。少年をまるで自分自身であるかのように、真剣にことばを語っている。
 その二人の世界へ、加山雄三はしゃしゃりでていくわけではない。隠れたまま、それを知らないこととして、接しつづける。小母さんも同じ。知らないふりをして、しかし、なんとか手助けしようとする。ご飯を小僧のために残そうとする二木てるみに「育ち盛りなんだからもっとお食べ」といい、大食いの同僚おばさんには「そんなに食うんじゃないよ」と怒ったりする。観客には何が起きているかわかるが、二木てるみには何が起きているかわからない。
 こういう「関係」が、あの床の磨き込まれた美しさなんだなあ。
 床は拭き掃除を繰り返せば美しくなる。それは表面的なこと。美しくなるまで磨き込むとき、そこには美しくするということとは違う「思い」がある。清潔であることが、病人にとっては何より大事。病人のために、床をきれいにする。その積み重ねが、そこにある。その「思い」は、一見しただけでは見えない。これはしかし、見えなくていいのだ。見えないことを承知で、ひとは働いている。
 加山雄三は、「見えるひと」をめざしていたのだが、最後はこの映画の多くのひとのように「見えないひと」になろうとする。「見えないひと」のために、さらに「見えないひと」になろうとする。
 映画はストーリーではないのだが、そのストーリーに知らず知らず、飲み込まれていく。いいなあ、と思う。
 豪華な脇役が、この映画のストーリーをストーリーではなく、ひとりひとりが生きているという次元へ私をひっぱっていくのかもしれない。杉村春子や志村喬以外に、田中絹代と笠置衆まで出てきたのには驚いてしまった。主演級の役者がみんな「見えない役」を演じて映画を支えている。いい映画にするために「見えない役者」になっている。



 二木てるみと内藤洋子は、調べてみたら二木てるみの方が一歳年上だった。映画の中では二木が十代前半の少女、内藤が加山と結婚する娘なので、年齢とは逆の役をやっている。二木はだいたい暗い顔をしていて、貧乏人という感じがするのだが、それに拍車をかけて目を異様に光らせて登場する。泥棒小僧と出会って、少しずつこころを開いていく役なのだが、これは確かに内藤洋子にはできない、二木向きの役だね、と思った。
              (「午前十時の映画祭」天神東宝4、2015年10月19日)




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フランシス・フォード・コッポラ監督「ゴッドファザー」(★★★★★)

2014-02-11 11:45:48 | 午前十時の映画祭
フランシス・フォード・コッポラ監督「ゴッドファザー」(★★★★★)

監督  フランシス・フォード・コッポラ シュツエン マーロン・ブランド、アル・パチーノ、ロバート・デュヴァル

 3年前(?)、「午前10時の映画祭」で「ニュープリント」の「ゴッドファザー」を見たときは怒鳴り散らしたいくらいに頭に来た。冒頭の、マーロン・ブランドが「依頼」を受けるシーンの、漆黒の暗闇が薄っぺらい。昔見た、黒の輝きがない。外は結婚式で明るいのに、鎧戸をおろし、暗い室内で、暗いところでしか言えない会話をしている--その濃密な「闇」が「ニュープリント」では完全に変質していた。マフィアが着る礼服も、量販店で売っている礼服だってもっとしっかりした黒だぞ、といいたくなるくらいの安っぽい黒だった。特に屋外のシーンでは光が反射して、ほとんど灰色だった。
 デジタル版はどうなのか。それだけを確認するつもりで行ったのだが、よかった。見てよかった。艶やかと言っていいような闇が復活していた。礼服もきちんと黒。これでなくっちゃね。
 映画というのは、ストーリーよりも、影像情報そのものが大事だ。ストーリーに要約できない部分におもしろさがある。冒頭のマーロン・ブランドが口に綿を詰めてほほを膨らませ、年取った男を演じるシーンなんて、真似したくなるでしょ。部屋を暗くして、猫を撫でながら、ぼそぼそぼそ。白いシャツだけが、部屋中の光を集めて発光している--そんなポートレートとって、フェイスブックにのせてみたい。「あ、ゴッドファザーだ」と誰もが思う。そういうことが大事。そのためには影像はしっかりしていないと。色はきちんとしていないと……。
 映画はカメラがいのち。影像がいのち。と、書きながら思い出すのは、キューブリックの「バリー・リンドン」の女が入浴するシーン。ろうそくの明かりだけで撮っているのだけれど、あの時代の入浴は下着を着たまま。で、裸は見えないんだけれど、な、なんと。女が体をバスタブにひたすと下着が濡れて、透けて、恥毛が浮かび上がってくる。それを、あの時代にろうそくの光、薄暗い光のなかでしっかり影像にしている。なんでも焦点距離の非常に短いレンズで撮った(新しいカメラで撮った)という話だけれど、いやあ、すごいよねえ。
 それにしても、時代は変わるねえ。
 「ゴッドファザー」がはじめて公開されたとき、その暴力描写が残酷(リアル?)すぎると話題になったと思う。バーで、掌にナイフを突きたてられ、後ろから首を絞められるシーンとか、ジェームズ・カーンが高速道の入り口で銃弾を浴びるシーン、裏切り者が車の助手席で後ろから絞殺されるとき、足で車のフロントガラスを割るシーン(これは、私は大好きなシーンのひとつ)とか。でも、いま見ると、ごく普通。もっと激しい暴力シーンがあふれかえっている。人間というのは、こういう「過激さ」にはすぐに麻痺してしまうんだね。
 で、そんなことを考えると、やっぱり最後は過激でも何でもないシーンの美しさが映画の勝負どころという気がする。暴力シーンも、コッポラのこの作品はフロントガラスのシーンにしろ、何か「美しい」ものがある。(コーエン兄弟の「ノーマンズランド」の絞殺のシーン、首を絞められながら男が足をばたばたさせる。その足跡がリノリウムの床に花のような美しい模様を描く--というのは、絶対に「ゴッドファザー」の影響を受けている。)いままで見たことのない美を見るというのはうれしいねえ。

 と、書きながら。
 私は実は困っている。私は網膜剥離で眼の手術をしていらい、どうも眼が落ち着かない。デジタル画面がちらついて見える。私の眼のせいなのだろうけれど、デジタル版そのものにも問題はないのだろうか。フィルムの美しさがなつかしく思える。もう40年以上も前に見た最初の「ゴッドファザー」が忘れられない。
                       (2014年02月08日、天神東宝4)

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ロバート・ワイズ監督「ウエストサイド物語」(★★★★★)

2013-09-10 15:38:09 | 午前十時の映画祭
監督 ロバート・ワイズ 出演 ナタリー・ウッド、リチャード・ベイマー、ジョージ・チャキリス、リタ・モレノ

 この映画を見るのは何度目だろう。はっきりしない。以前に見ているから、とぼんやり見ていたら、思いがけないことが起きた。
 「クラプキ巡査」がすごく早い段階で歌われ、「クール」曲がいつまでたっても始まらない。あれっ、この映画は短縮版? そう思っていたら、決闘でシャーク団とジェット団のリーダーが死んだ後に「クール」が始まった。えっ、「クール」ってここだっけ? 「クラプキ巡査」と入れ違っていない? 別バージョンの映画?
 でも、そんなことないよなあ。「クラプキ巡査」が決闘のあとだったら、ジェット団のリーダーが歌えるはずがないから。うーん、でもなぜそんな記憶違いが起きたのかなあ。
 記憶と言うか、脳みそと言うものは自分の都合のいいようにものごとを処理するからなあ。
 唯一思い当たるのは、「クール」は決闘の後に歌うにしては、あまりにもストーリーにぴったりしていて物足りない感じがするということかなあ。もっと小さないざこざのとき「クール」、大事件のあとは事件から飛躍した(無関係に近い?)「クラプキ巡査」の方が劇的に迫ってくると思うのだが、どうだろう。「クラプキ巡査」の明るい感じが、決闘の後、流血の後の方が、未熟な人間の暴力をあらわすようで、おもしろいと思うのだが。また、バーブラ・ストライザンドがどこかで「クラプキ巡査」を歌っていて、これが私は「ウエストサイド」では一番好きなのだが、そういうこともクライマックス(?)でこの曲を聴きたいという気持ちを生み、そのために私がかってに曲順をかえてしまったのかなあ。

 それは別にして。
 やっぱりいいねえ。ニューヨークは巨大な都市だが、その大きさが青春の「重荷」になっていない。巨大を吹き飛ばす若さ、肉体の躍動がある。ビルの高さよりもよりもジョージ・チャキリスの振り上げたつま先のほうが空に近いという感じ。ビルは動かないけれど、人間は動くことで限界を超える。いまのダンスから比較すると洗練の度合いが低いかもしれないが、そのぶん、はみ出すエネルギーがある。筋肉の力を感じる。ナタリー・ウッドもリタ・モレノも丸々とはいわないけれど、健康な「太さ」がある。ナタリー・ウッドがターンするときスカートがふわりと浮き上がり、肉付きのいいももがスクリーンにあふれるなんて、うーん、いい時代だったなあ。いまはもっと露骨に肉体があらわれるけれど、最初から見せるためのものだからねえ・・・。

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ノーマン・ジュイソン監督「華麗なる賭け」(★★)

2012-01-14 21:58:45 | 午前十時の映画祭
監督 ノーマン・ジュイソン 出演 スティーヴ・マックイーン、フェイ・ダナウェイ

 タイトルの分割画面が、昔はとても新鮮に感じられた。でも、いまはなんだかうるさい。あまり効果的とも思えない。同じ画面に映っていなくても「同時」という感覚は生まれる。画面の大小もおもしろくない。いま、誰かがやるとするなら、目そのもののアップとか、飛行機の翼の一部とか、全体を観客の想像力にゆだねるものになるかなあ。
 冒頭の銀行強盗のシーンまでと、スティーヴ・マックイーンとフェイ・ダナウェイの恋愛がちぐはぐ。運転手をホテルに呼び出して雇うところから、公衆電話を活用して時間をあわせ、金を奪うまでは、ほんとうに華麗でわくわくするね。そのあと、まあ、恋愛してはいけない2人、銀行強盗の主犯と犯人探しの調査官が恋に落ちる――というのが見せ場なんだろうけれど、なじめないなあ。
 美しいのはグライダーのシーンとミシェル・ルグランの音楽が交錯するシーン。自力では飛ばず、惰力と風で空を舞う――その不安定が、2人の恋愛の駆け引きを象徴する。(そのシーンには別の女性がいるのだけれど。)どっちが惰力? どっちが風? 恋愛では、主役はなく2人の関係の揺らぎが主役。揺らぎ、駆け引きが美しい時、2人が輝く。惰力と風が拮抗しバランスをとるときグライダーが華麗に舞うのに似ている。
 これに比べるといかにもスティーヴ・マックイーンらしい海辺の車のシーンは、ぜんぜん美しくない。スティーヴ・マックイーンがリードするだけ。車を運転するとき、車をあやつるのはスティーヴ・マックイーン。まあ、砂浜のでこぼこが不確定要素だけれど、フェイ・ダナウェイは安心しきっているでしょ?
 それに比べると、グライダーは女が一応、「どうしてエンジンつきにのらない?」と問いかけるでしょ? 不安だからだね。自分のすべてをコントロールできたら、そこには恋はない。自分だけではコントロールできない――それが恋。
 ラストが、そうだね。最後の「賭け」は、どっちが勝った? スティーヴ・マックイーンもフェイ・ダナウェイも負ける。負けた二人の間で、不可能な恋だけが勝ち誇って輝いている。人間の「知恵」では解決できないいのちが輝く。それが、涙、というわけか・・・。


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テレンス・ヤング監督「007/ロシアより愛をこめて」(★★★★)

2012-01-12 19:53:57 | 午前十時の映画祭
監督 テレンス・ヤング 出演 ショーン・コネリー、ダニエラ・ビアンキ、ペドロ・アルメンダリス、ロッテ・レーニヤ、ロバート・ショウ

 昔の映画は品があるねえ。そして、その品とは何かなあ、と考え始めたとき、あ、肉体なんだと気がついた。普通の肉体の、普通の動き。その、普通に品がある。いまの映画はアクションが普通の動きじゃないからね。そんなに走り続けられるわけがない、そんな危険なことができるはずがない・・・。
 でも、この映画はそのまま普通の人ができるアクションだよね。
 象徴的なのが、最後。メイドに扮したおばあさんが、靴に仕込んだ毒針でボンドと戦う。そのとき、ボンドはどうしてる? 椅子でおばあさんの動きを封じている。いまならこんなことをしないね。おばあさんの毒針自体がのんびりしすぎている。ボンドが素手で戦えない(椅子以外は素手だけど、この場合の素手は道具なし、という意味)なんてありえない。「マトリックス」なんか弾丸にだって素手で立ち向かう。(あ、これは違う?)
 だいたいすごい肉体訓練してるでしょ? 空手(カンフー)、柔道なんてお手の物。ボクシングだって。いわゆる格闘技全般をいまの役者はこなしてしまう。
 でも、この時代のアクションは、つまるところ取っ組み合い。ボンドとロバート・ショウの列車内の格闘がそうでしょ? 多少、けんかに心得がある程度の格闘だね。鞄にしかけた催涙ガスなんていうのも、ゆったりした感じ。そういう肉体が普通に動いて、それでも格闘といえる映画だからこそ、おばあさんお毒針さえもが最終兵器。おもしろいよねえ。
 このとき、役者の動きというのはあくまで観客もまねができる。その、普通さが品だと思う。品というのは、普通の最大公約数――だれもがそれでいいと感じることのできるものだ。
 で、ね。
 ここからは私の強引な飛躍。
 「007」にはボンド・ガールが出てくる。それが売り。セックスシンボル。ボンドはセックスを楽しみ、殺しもするのだが、ほら、殺しが普通の肉体(いや、かっこいい肉体なんだけれど)でやれることなら、セックスも普通の肉体でできること。何もかわったセックスしていないよね。普通にやることにはみんな品がある。その証拠が、売り物のセックスシーン、女の裸、だね。
 こんなことは昔は思わなかったけれどね。

 ぜんぜん関係ないことだろうけれど、ショーン・コネリー以外に、ロバート・ショウも裸を披露しているねえ。私は、このロバート・ショウの恥ずかしそうな目が好きだなあ。ほんとうかどうか知らないけれど、なんでも子だくさん。小説も書いているインテリ(古臭い!)なんだけれど、その子だくさんの養育費を稼ぐために役者をしているんだとか。どうりで、シャイだね。




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サンセット大通り

2012-01-02 12:09:10 | 午前十時の映画祭
ビリー・ワイルダー監督「サンセット大通り」(★★★★★)

監督 ビリー・ワイルダー 出演 ウィリアム・ホールデン、グロリア・スワンソン、エリッヒ・フォン・シュトロハイム

 過去の名声を生きるグロリア・スワンソンの演技がすばらしいのはもちろんだが、私はウィリアム・ホールデンと脚本家を夢見る若い女性のやりとりに興味を持った。
 若い女性は、ウィリアム・ホールデンの書いた脚本の一部をほめる。「人間が描かれている云々」。そして、そこから二人で脚本を手直しして、新しい作品をつくろうとする。そこでは「ことば」でしか説明されていないのだけれど、新しい映画、ビリー・ワイルダーがほんとうにつくりたかった映画が説明されていると思った。
 先週見た「情婦」では、「結末は話さないでください」という字幕が最後に出る。しかし、映画はストーリーではないのだから「結末」がわかっていてもいい、と私は考えている。そして、そのことを「情婦」の感想にも書いたが、ビリー・ワイルダーもストーリーよりもほかのものを描きたいのではないのか。
 映画なのだから、もちろんストーリーはある。けれど、ストーリーではなく、そのときどきの人間のあり方、人間そのものを描きたいのだと思う。
 この映画では、売れない脚本家がかつての大スターの家に迷い込み、大スターが若い男に夢中になり、という恋愛(?)悲劇がストーリーとしてあるのだが、まあ、これは冒頭の射殺体でストーリーが見る前からわかっている。ここでは「結論」は先に知らせておいて、途中をじっくり見せるという手法がとられている。(ね、ストーリー、結論は関係ないでしょ?)
 で、人間を描く--とき、もちろんグロリア・スワンソンが「主役」になるのだけれど、主役がどれだけ演技をしても映画にはならないときがある。特に、この映画のように過去の映画を生きる狂気を描いたものは、どうしたって強烈な演技がスクリーンを支配してましって、迫真に迫れば迫るほど嘘っぽくなるという逆効果も生まれがちである。
 そうならないようにするためには、周囲のほんの小さな人物をていねいに描くことが大切である。一瞬登場するだけの人物にも「過去」を明確にあたえ、そこにほんものの時間を噴出させるということが大切である。
 この映画は、そこがとてもよく描かれている。
 たとえば、グロリア・スワンソンがウィリアム・ホールデンに服をあつらえてやるシーン。店員がコートを2枚持ってくる。ウィリアム・ホールデンは安い方のコートを選ぶのだが、店員は「高い方にしなさい。お金を払うのはあなたではなく、女なのだから」と耳打ちする。あ、すごいねえ。店員は単に高いものを売れば利益が上がるからそう言っているのではないのだ。そういう金のつかい方をする「人種」がいることを知っていて、そのことをウィリアム・ホールデンに教えているのだ。店員の教えには、店員が客と向き合うことでつかみとった「真実」がある。ほんとうのことが、そこでは演じられているのである。
 グロリア・スワンソンが撮影所を訪れたとき、昔からいる照明係が彼女の名前を呼んで、ライトを当てる。それにスワンソンが応じる。その瞬間に、過去があざやかによみがえる。その過去にはスワンソンだけがいるのではなく、照明係も生きている。名もない「脇役」が狂っている大女優の「現実」を支えている。
 これは--どういえばいいのだろうか。狂っているのは大女優だけではないということである。大女優の狂気は、彼女をとりまくすべての人の狂気であるということだ。テーラーの店員も照明係もまた大女優と同じような「狂気」をどこかに隠している。それは、いまは見えないだけなのである。大女優がいるから、見えないだけなのである。
 そこで、最初に書いたことに戻るのだが……。
 映画がおもしろいのは、そこに人間がリアルに描かれているときである。たとえそれが大女優ではなく教師であっても、その人が生きている姿そのままに描かれれば、そこから映画がはじまる。--それは、脚本家を夢見ている若い女性そのもののことでもある。この映画では売れなくなった大女優が主役を演じているが、脚本家志望の若い女性が主人公であってもいいのだ。彼女から始めるストーリーがあってもいいのだ。
 大女優の狂気を描きながら、つまり映画の過去を描きながら、この映画は逆に映画の未来をも描いている。なんでもない市民が主人公になり、なんでもない日常が描かれる。そこに生きる人間の「生きる」姿がそのまま描かれる--そういう映画を目指している人間が、この映画のなかに、すでに描かれている。
 ビリー・ワイルダーは映画の予言者でもあるのだ。


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ビリー・ワイルダー監督「情婦」(★★★)

2011-12-25 20:01:00 | 午前十時の映画祭
監督 ビリー・ワイルダー 出演 タイロン・パワー、マレーネ・ディートリッヒ、チャールズ・ロートン

 私は「結末は言わないで」という映画が好きになれない。苦手だ。なぜ、言ってはだめ? 映画ってストーリーじゃないでしょ? 私はどんな推理物でも、犯人が分かっていても、全然気にならない。むしろ面倒くさい「謎解き」に頭を使わなくてもいいから、「犯人」を聞いていた方が楽に見られる。悩むのは自分の問題だけで十分――と思う。
 で、この映画。
 「結末は言わないで」と断っているけれど、チャールズ・ロートンが自分で「どうもおかしい」と自分で言ってしまっているのだから、言うも言わないも、どうでもいいじゃない? 力点は、ストーリーそのものというより、ストーリーの周辺の人物の描き方に置かれている。(だから、「結末」なんて、どうでもいいじゃないか、とよけいに思う。)
 紋切り型かもしれないけれど、チャールズ・ロートンの「人間味」の描き方がていねいだねえ。葉巻が吸いたい。でも、止められている。看護婦がそばにいる。病み上がりなので殺人事件の弁護人なんか、したくない。――のだけれど、依頼に来た人の胸のポケットに葉巻があるのを見て、「それじゃ、お話をうかがいましょう」と事務室へひっぱりこむ。葉巻をねだる。それから、肝心のマッチがないことを知り、タイロン・パワーも事務室に引っ張り込む。直接話を聞くという名目で・・・。このあたりのリズムがなかなか楽しい。
 そして、この一種の「正直」丸出しのチャールズ・ロートンと曲者のタイロン・パワーが関係してくるのだから、これはもう、タイロン・パワーが犯人に決まっているのだけれど、まあ、私なんかは、気づかなかったふりをしてそのまま映画を見ているのだけれど。
 それから、「正直」というより、色男ぶりを利用して女に近づいてゆくタイロン・パワーの「甘さ」――それを見ながら、なるほどねえ、女はこうやって「甘さ」で誘うんだなあと感心する。(チャールズ・ロートンは看護婦に手を焼かせ「ほんとうに、面倒みてやらないと大変なんだから」と「甘やかせる」楽しみを与えるのとは逆だね。)
 そのタイロン・パワーの「甘さ」に、マレーネ・ディートリッヒの「硬質」が出会って、あらあら、あんな気位の高そうな(ほほ骨が高いだけ?)の女も、やはり「甘さ」にひかれるんだなあ。もしかすると、タイロン・パワーが私(マレーネ・ディートリッヒ)の中に、誰も知らない「甘さ」があって、それが共鳴しているのかしら、と勘違いするのかなあ。
 最後まで映画を見ていくと、まあ、マレーネ・ディートリッヒの女の「甘さ」が、「正直」として噴出してくる――これは確かにおもしろいなあ。そしてこの瞬間、理論的に見えたチャールズ・ロートンの「甘さ」も初めて浮かび上がる。チャールズ・ロートン自身は、どこかで自分の詰めが「甘い」と感じていたけれど、最後にそれを知るという構造だけれど。
 で。そのおもしろさって、「結末」を知っていた方が、くっきりわかるんじゃないのかなあ。ストーリーに気を取られていたら、3人の「正直」と「甘さ」のぶつかり合いが見えないんじゃないかなあ。なぜ、「結末」を言ってはいけないのかな?
 監督も役者も、苦労したのは「ストーリー」ではなく、「肉付け」でしょ?
 「ストーリー」は小説で、すでにわかっていたのでは?

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ルイス・ブニュエル監督「昼顔」(★★★)

2011-12-22 19:20:41 | 午前十時の映画祭
ルイス・ブニュエル監督「昼顔」(★★★)

監督 ルイス・ブニュエル 出演 カトリーヌ・ドヌーヴ、ジャン・ソレル、ミシェル・ピッコリ

 これはとても不思議な映画である。私だけが感じることなのかもしれないが、一番印象的なのが馬車の鈴の音である。カトリーヌ・ドヌーヴが肉体の内部、あるいは精神の奥の欲望につきうごかされ娼婦になるのだが、セックスシーンは刺激的ではない。まあ、いまの感覚から見ているせいなのかもしれないが、特に、あ、見たい、という気持ちには駆り立てられない。そうではなく、あのシャンシャンシャンシャンという音をもっと聞きたいという気持ちに駆り立てられる。あの音こそがセックス、という感じがするのである。
 どういうことなのだろう、としばらく考えてしまった。
 シャンシャンシャンシャンという音は、「いま/ここ」から違う場所へ行く「道」なのである。
 カトリーヌ・ドヌーヴは娼婦館へ歩いて入ってゆくが、それは「違う場所」ではなくカトリーヌ・ドヌーヴにとっては「同じ場所」なのだろう。――というのは、変な言い方だが、「同じ」というのはつまり、そこでは「想像力」は働いていない。むしろ、そこでは「想像したもの」が現実として動いている。ドヌーヴの肉体は、それまで「想像してきたこと」(男に乱暴に犯され、快楽におぼれる)ということを肉体で実行している。そのとき「想像力」は死んでいる。そして肉体も、何も変わらない。
 実際、ね、ドヌーヴははたから見て、変わらないでしょ? 美人で、なんというか、ふしだらな感じが全然しない。欲望におぼれ、だらしなくなったという感じがしないでしょ?完璧な美人、貞淑な女性に見えるでしょ?
 ドヌーヴが「変わる」のは「想像力」の中だけ。想像力のなかで、「いま/ここ」ではない人間になる。
 こんな言い方が適切かどうかわからないけれど・・・。最後の方で、ドヌーヴは若い男にストーカーされて怯える。この「怯え」は、「いま/ここ」というよりも、「これから」のことだね。夫婦の生活がどうなるか、自分の生活がどうなるか――まだ実現していない「想像力」の中で怯える。「想像力」のなかで起きていることは具体的には描かれないのだけれど、わかるよねえ。
 で、その「想像力」の根本は何? 何がドヌーヴを不安にさせる? ことば、声、つまり音だね。――音が、「想像力」を刺激し、ひとを「いま/ここ」から、どこか別の時間、別の空間へ連れてゆく。それは、実際の「肉体関係」よりも刺激的だ。
 どんな色っぽいことも起きるのだ。
 ストリーの前に戻る形で補足すると、娼婦の館で、ドヌーヴが隣の部屋をのぞく。このとき、ドヌーヴは「見ている」けれど、観客は「聞いている」だけ。観客はのぞくドヌーヴを見て欲情するのではなく、ドヌーヴが聞いている「音」を聞いて、そこに起きていることを想像し、欲情する。
 観客は耳でセックスするのである。映画なのに。
うーん。
 その耳のセックスの象徴がシャンシャンシャンシャン。
 で。
 さらに象徴的なのが、ミシェル・ピッコリの最後の行動。ドヌーヴの夫に、ドヌーヴの秘密を語ったのか、語らなかったのか。ドヌーヴにはわからない。ドアの向こう、聞こえないところで2人は会っている。何を話した? 何を話さない? 音が聞こえないので、わからない。そして、そのわからないところで「想像力」が動く。
 シャンシャンシャンシャンシャン。どこへ行くんだろう。

 そして――と、ここからは強引な我田引水になるのかもしれないけれど。オリベイラ監督の「夜顔」。延々とコンサートのシーンがあったでしょ? 1楽章、ずーっと演奏したでしょ? これはやっぱり「耳」の物語、「耳」の映画なんだなあ、と私は思うのである。「耳」こそがセックスへの入口と考えるひとが、私以外にもいるんだなあ、

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デイヴィッド・リーン監督「ドクトル・ジバゴ」(★★★★)

2011-12-06 23:01:00 | 午前十時の映画祭


監督 デイヴィッド・リーン 出演 オマー・シャリフ、ジュリー・クリスティ、ジェラルディン・チャップリン、ロッド・スタイガー、アレック・ギネス

 この映画には1か所、どうしてもわからないシーンがある。
 オマー・シャリフとジュリー・クリスティがモスクワから遠く離れた街で再会する。そしてベンチに座って話をする。そのとき、スクリーンの左側に水たまりというより、小さな池がある。これは、何? いや、池でいいのだけれど、なぜスクリーンに映っている? 映す必要がある? ただの(?)地面ではだめ?
 これが、わからない。ここに池があるという「美意識」がわからない。
 デイヴィッド・リーンの映画は映像が美しい。この映画では、タイトルバックに白樺の林の絵がつかわれているが、その絵も美しい。ロシアの広大な風景が美しい。カナダで撮ったようだけれど、雪の山が美しいし、雪が美しい。空気が美しい。
 雪原の果てしなさと、そこにある空気の透明感(人間を拒絶した純粋さ)は、それを砂に置き換えると、そのまま「アラビアのロレンス」になる。広い空間の美しさ、そこに存在する空気の美しさがデイヴィッド・リーンの映像の特徴である。
 小さなもの--たとえば列車の小窓からオマー・シャリフが眺める月、雲に隠れて、またあらわれる月が美しい。(これは「インドへの道」で、水にうつった月を掬おうとするするシーンにも通じる。)
 こんな美しい「世界」のなかで、なぜ、人間のしていることは、こんなにも矛盾して、苦しいのか。デイヴィッド・リーンの映画を見ると、いつもそう思うのだが……。
 あの、池--あれは美しくない。広大でもない。とても違和感がある。なぜ、あのシーンに池が必要なのか。何かの象徴なのか。

 それにしても、ジュリー・クリスティは美人だなあ。不思議な不透明さがいいなあ。ロッド・スタイガーが、その不透明さを見抜いて、ぐいと自分にひきよせてしまうところ、それをジュリー・クリスティが拒絶できないところ--これが、この映画を支えている。デイヴィッド・リーンの映画には、何かしら美しさと不純の誘惑が同居している部分があって、それが映像を強くしていると思う。
 ジュリー・クリスティとロッド・スタイガーの「高潔ではない強さ」が、鏡の朱泥のように、この映画を輝かせている。



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