詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

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2019-12-26 18:23:41 | アルメ時代
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山本育夫「書き下ろし詩集『HANAJI花児』」

2019-07-23 10:51:02 | アルメ時代
山本育夫「書き下ろし詩集『HANAJI花児』」(「博物誌」39、2019年08月01日発行)

 山本育夫「書き下ろし詩集『HANAJI花児』」は「博物誌」復刊にあわせて書かれたもの。二十一篇の詩。全体の特徴を書いてもしようがないが、目につくのはことばの繰り返しである。

19 緊急字体宣言

ドトールコーヒーの幕間から、ちいさな物語がぞ
ろぞろと避難している、恐ろしい声が警報ボタン
を押している、押している、遠くからサイレンが
やってきていま目の前をヒャンヒャンヒャーと通
り過ぎた、歯ぎしりをして投げつけるがその圧倒
的な気分に砕かれていく、砕かれて、男はその字
体を変換する。

 「押している、押している」「砕かれていく、砕かれて」。なぜ繰り返すのか。繰り返しの間(ま)に、ことばにならないものが存在している。ただ繰り返しているのではない。しかし、その「ことばにならないもの」とは何か。ことばにしにくい。だからこそ、わたしはそこでつまずく。立ち止まる。
 「警報ボタン」を押したのはだれか。ここには書かれていない。学校文法的には「押している」の主語は「恐ろしい声」になるが、「声」がボタンを押せるわけがない。だれかが押している。ほんとうはだれかがいるということを、ことばにしないまま確認し(空白のまま確認し)、二度目の「押している」とつづける。このとき山本は(と、とりあえず書いておく。主役は後半に「男」という形で姿を現わす)、見えないだれかを意識している。見えないだれかによって、いまの「避難/警報」が作り出されたものだと意識している。その「意識」を明るみに出すために、山本は「押している」を繰り返す。
 「砕かれている、砕かれて」はどうだろうか。男は「砕かれている」と、まず気づく。そして「砕かれた」自分を意識し、そこから動き始める。「砕かれた」ままではなく、また「砕かれた」と過去形にしてしまうのではなく、「砕かれて(いる)」という現在から動き始める。それは「砕かれて」しまわない、過去形にならないという意識であり、その意識が「緊急事態」を「緊急字体」という具合にことばをねじらせる。
 ことば(あるいは文字)が男にとっての「抵抗」の意識をあらわす。ここに書かれているのは、書かれていない発見と抵抗である。書かれていないものが書かれているというのは矛盾だが、矛盾のなかに「事実」がある。どういう事実かというと、山本のことばが動いたという事実である。
 私はいま引用した「意味」の強い詩よりも、露骨な肉体と「ことば」のぶつかりあいを感じる作品の方が好きだ。

13 小さい、っの字

駅前にある黒くて細長い巨大な容器の内側からあ
ふれ出しているそのあふれは、遠い山岳のひとし
ずくに由来し、はるばるとここまできた、そして
成熟したことばになって地中深くから湧き出して
いるのだその午後にも、男はその水を飲み下し軽
いゲップをする、くちびるに小さい、っの字をひっ
かけたまま

 この詩にも「あふれ出しているそのあふれ」という繰り返しがあり、やはり繰り返しの間には、踏みとどまりと再出発(切断と接続)があるのだが、その「間」にどんなことばが書かれていないのか探し出すのはむずかしい。ただ切断と接続があるとだけ意識しておく。この切断と接続は「湧き出しているのだその午後にも」というねじれた文体の中にもある。学校文法のようにととのえてしまうことのできないものが人間のことばにはある。それをそのままの形で山本は書き、書くことで山本がつまずき、それを読ませることで読者をつまずかせる。
 この違和感は、「ゲップをする、くちびるに小さい、っの字をひっかけたまま」という奇妙な日本語を「肉体」のなかから押し出してしまう。
 「っの字なんか、ひっかからないだろう。見たことないぞ」と私は文句を言ったりする。つまり、文句を言うことで、私のことばが動き出すまでの時間を埋める。そして態勢をととのえ……。
 ゲップをする。ゲップは胃のなかにたまった空気を吐き出すことか。しかし、それは吐き出しきれるか。何かが残る。それを「小さい、っの字をひっかけたまま」と山本は書く。「小さい、っ」は「ゲップ」の「ッ」かもしれない。「字」と山本は書くが、まあ、意識のようなものだ。つまずいたときの「あっ」の「っ」かもしれない。肉体は動く。それが何のための動きか、わからない。でも、そういうものがあって、ことばは「学校文法」から逸脱して、どこにもなかったことば(比喩)として、「いま/ここ」にあらわれてくる。ことばは「意識」だが、「意識」はまた「肉体」でもある。
 これ以上書くと、「結論」のための「嘘」になるので、ここでやめておく。

15 おおお

ファミリーマートの主人は、四六時中のどにたま
るたんを吐き出すためにグググとかガガガとか咳
払いしている、咳き込みすぎて胸が痛くなるころ、
吐き出したことばが店内におびただしくあふれて
しまい、ドアの隙間からシュウシュウと吹き出し
ている、そのドアを男は激しく蹴破って、おおおお、
と声をあげる、ひとかたまりの感情がごろりと現
れる

 「グググ」「ガガガ」はことばではなく、「音」である。しかし、男(山本)はそれを「ことば」ととらえる。「主人」以外には「グググ」「ガガガ」はたしかに「音」にすぎないかもしれないが、苦しんでいる主人にとっては「意味」をもったものだろう。思い通りに「グググ」「ガガガ」と吐き出せたときは、「肉体」が解放される。こういうことは咳き込んだことがあるひとならわかるだろう。あれこそが「肉体」の「意味」だと。
 こういうきわめて「個人的な肉体」(したがって普遍に達した肉体)とどう向き合うことができるか。男は「おおおお」と声を上げる。「グググ」よりも「ががが」よりも一つ音が多い。濁音に対抗するためか。この「おおおお」を男は「感情」と呼んでいる。(あるいは「おおおお」によって洗い粗い清められた「グググ」「ガガガ」が感情なのかもしれないが。)その「感情」はただの「感情」ではなく「ひとかたまりの感情」である。「かたまり」というのは「内部」が結びついている状態だ。それは「整理」されていない。いまはやりのことばで言えば「分節」されていない。「未分節(ほんとうは無分節というらしいが)」のものである。これが「分節」されると「ことば」になり、「認識」になり、共有されるものになるのだが、それはちょっとおもしろくない。「たん」のように、思わす目を背けてしまう汚い(?)かたまりのままほうり出す。
 ぞっとするでしょ?
 これが、詩。
 「意味(頭)」ではなく、まず「肉体」が反応してしまう。ひるんでしまう。つまずいてしまう。そこからどうやって立ち直って、自分のことばを動かすか。
 山本のことばを「味わう」のではない。自分の「肉体」を動かす。吐き出されたものの上に、自分の「肉体」のなかからことばを吐きかけるのか、知らん顔して通り過ぎるのか、あるいは「親切」に後片付けをするのか。
 大げさに言うと、読者は「生き方」を問われる。




*

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林嗣夫『洗面器』(2)

2019-07-13 09:50:35 | アルメ時代
洗面器
林嗣夫
土曜美術社出版販売



林嗣夫『洗面器』(2)(土曜美術社出版販売、2019年06月30日発行)

 「朝」については、すでに書いたことがあるかもしれない。この詩にも「音」が登場する。

いつものように
暗い四時ごろ目が覚めて
布団の中でじっとしていたら

牛乳や 新聞配達の
バイクの音 庭を来る足音
そして去っていく

やがて外の暗闇に
何か かすかな……
響きのようなものが満ちはじめる

吹くともない風の始まりだろうか
生きものたちのささやきかもしれない
静かな律動に耳を澄ませる

夜が明けると まず気になって
近くの畑に降りてみた
目も覚める鮮やかなカボチャの花!

用意されていたいくつものつぼみが
羽化するように割れ
天に向かって開いている

遠いものの声を聴こうと
震えながら受粉を待っていた

 誰にでも聞こえる「バイクの音」「足音」。それが「去っていく」。その新しい静寂のなかに「満ちはじめる」「響き」。
 でも、それはすぐには動き出さない。
 「吹くともない風」と「ない」という否定形が動きを貯める。「満ちる」は、「内部」が「満ちる」のだ。外にあふれるのは、内部が満ちたあとなのだ。
 この書かれなかった「貯める」、内部に「満ちる」は「用意する」という動詞に変わっていく。「用意した」ものが内部に「満ちる」、内部が「満ちた」ものは内部から「割れる」。これを「開く」という。
 林の「聴覚」(聞く力)も「満ちて」、あふれる。

遠いものの声を聴こうと
震えながら受粉を待っていた

 これはカボチャの花の描写だが、林の姿そのものに見える。林はカボチャを追い越して、「遠い」声を聞き取り、ことばにする。詩が生まれる。この瞬間が、林にとっての「受粉」だ。
 林(人間)からカボチャへの変身。そして、それをことばにすることで、再び人間に帰ってくる。生まれ変わる。
 林のことばは、人間が再生する運動をしっかりとおさえて動いていく。

 詩集のタイトルになっている「洗面器」。

夏は
朝食前の涼しいときに
畑仕事を一つ済ませる
それからシャワーを浴びると
毎回のように
洗面器に浮かぶ 白い垢!

分子生物学によると
わたしたちの体は
絶えまない分解と合成のさなかにあり
組織は交替し
自分は自分からずれながら
ようやく平衡を保っている、と

危ういような うれしいような
からっぽのような
希望のような

おぬしは見るべし
朝の洗面器に漂う花筏
そこから立ち上がって よろける
一つの影を

 二連目は、いかにも「教師」らしい「論理」。
 これが三連目で、くずれる。「論理」では追えないものがあふれてくる。「ような」という直喩が繰り返される。「論理」は「ひとつ」の結論を目指すが、詩(比喩)は結論を拒んで分裂していく。
 そして「ような」という「直喩」から、「ような」を言っている暇がない「暗喩」の「花筏」へと結晶する。そのとき、「論理」を拒み続けた三連目の「直喩」が「喩」の運動だったことがわかる。「直喩」は林にとって「暗喩(絶対的な比喩)を生み出す運動」なのだ。
 このあと林は「一つの影」と自分自身を描写するが。
 この「一つ」。
 一連目の三行目に出てくる「一つ」と関係があるだろうか。ないだろうか。
 あるとも、ないとも言えないが、私は一連目の「一つ」ということばのつかい方が好きだ。「済ます」という動詞で林は「一つ」を補足しているが、「一つ」には何か「完結」したイメージがある。「完成」といっていもいい。それだけで存在する力だ。
 「畑仕事を一つ済ませる」と畑が「一つ」完成する。その「完成」のなかから、何かがはじまる。
 その「完結」「完成」と同時に、これから「はじまる」という感じが、最終行の「一つ」のなかに隠れているように私は感じる。
 「一つ」(ひとり)ではあるけれど、「遠い何か」とつながっている。

 説明というか、註釈というか、解説(?)にはならないのだが、どう語ればいいのかわからないのだが、この静かなことばに私は「古典」を感じた。
 私は「古典」ということばをつかいながら、「百人一首」を思い出している。「百人一首」の歌は、ほんとうに優れた歌かどうかわからない。和泉式部には「あらざらむ」よりももっといい歌があると思う。でも、ひとに伝わっていくのは「あらざらむ」なのだ。そういう「不思議」が「古典」にある。
 林の「洗面器」は、何か、そういう「ありきたりの強さ」を持っている。
 朝飯の前に「仕事を一つ済ませる」という「ありきたりの暮らし」。それが「ひとりの人間」を「一つのいのち」に育てる。
 林のいちばん書きたかったことばは「一つ」ではないかもしれない。でも、私は、「慣用句」のようにして書かれた「一つ」がこの詩をおさえていると思う。落ち着かせていると思う。

*

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アルメ時代 20 トリュフォー追悼

2019-06-28 10:52:44 | アルメ時代
トリュフォー追悼



 「女は主観的であり男は客観的である。この定義はあやしい。むしろ女は客観的であり男は主観的である。女は感性で動き男は知性で動くからだ。知性、論理は、自己を他者に受け入れさせようと動く。そこには意思が働いている。意思とは主観の別称である。これに対し感性は意思の制御をはなれて動く。主観の入る時間的な余裕がない。つまり客観的にしか動けない。そして女は、他人が自分をどう思うかなど気にせず、最初に動くものにしたがって動く。」
 トリュフォーがそう言ったというのは嘘である。しかしほんとうかもしれない。トリュフォーの映画を見て私が考え出したことばだからだ。
 ほんとうはヒチコックを追悼し、トリュフォーは次のように言っている。
 「断片的なものは客観的である。持続的なものは主観的である。持続とは意思の作用である。何を選択し何を排除することで統一を持続するか。ストーリーの時間の流れをどのように持続させるか。その判断は激しく主観的である。したがってどこかに必ず歪みが出る。そこに人間の秘密がある。ヒチコックのスリラーはそう教えてくれる。私は彼の映画のエッセンスを恋愛に応用してみたにすぎない。」
 この引用も実は捏造である。しかしまったく真実が含まれていないとは言えない。トリュフォーがヒチコックを追悼するとき何と言っただろうかと考えたとき、私の頭に浮かんだことばだからである。
 たぶんヒチコックの次のことばが私の意識に作用したのだと思う。
 「嘘を信じさせたかったら一つだけ矛盾をしのばせておきなさい。そして誰かが指摘するのを待って、突っぱねなさい。『たしかに矛盾している。しかしほんとうなのだ。』現実は数式のように整然とはしていない。誰もが抱いているその感覚を利用することです。」
 彼の忠告をあてはめるなら、私のトリックは非常につたない。しかし私はヒチコックの論理を厳密に適用しようとは思わない。前に捏造した文を作り替えはしない。なぜならヒチコックのことばも、出典は私の脳の奥だからだ。
 ヒチコックが何と言ったか。あるいはトリュフォーがヒチコックから何を学んだか。私はまったく知らない。私の精神の未熟さが、トリュフォーを追悼するにあたって、捏造の橋渡しを必要としているにすぎない。何かほんとうのことを言うためには一度嘘をつかなければ語りはじめられないことがあるのだ。
 私の、トリュフォーとヒチコックをつなぐ捏造をささえるものは、トリュフォーが敬愛してやまなかったルノワールのことばにこそある。トリュフォーは天才監督をインタビューし、次のことばを引き出している。
 「女にかぎらず、人間はみんな私の思惑を裏切るように動く。だから好きだ。なぜかといって、彼等はそうすることで私のインスピレーションになるからだ。」
 このことばが、先の捏造とどうつながるのか、私は説明できない。ルノワールがインスピレーションと呼ぶしかなかったように、彼のひとまとまりのことばが、私にはインスピレーションとなったのだ。そこからどんな力がどんなふうに私に作用したか。それはわからないが、私のことばのすべてはそこから生まれてきたのである。
 とはいうものの、ルノワールがほんとうに私の引用どおりに語っているかというと、そうではない。私は告白しなければならない。私は私の論理のつごうのいいように、ルノワールのことばを削り、つけくわえ、ねじまげている。先に引用を装った三つの文と同様、私の捏造であると言った方が正しいだろう。いや、実は、完全な虚構の産物でしかないと訂正しなければならない。
 しかし私は感じているのである。少なくとも類似したことは述べているに違いない。ことばでなければ、たぶんすばやく意識の奥にもぐりこみ、やがて静かに精神を濾過する映像の力で。そして、その力が、いま、私のことばを引用しているのだ。
 引用しようとすると、逆に私が引用される。そして知る。私の精神や感性が作り出したものは、私の精神や感性をつくったものへと還っていこうとしている、と。だから言うしかない。トリュフォーはこう言った。ヒチコックやルノワールはこう言った。というのは嘘である。しかしほんとうだ。



(アルメ241 、1986年05月10日)
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野村喜和夫『薄明のサウダージ』

2019-06-18 12:09:00 | アルメ時代
野村喜和夫『薄明のサウダージ』(書肆山田、2019年05月20日発行)
薄明のサウダージ
野村 喜和夫
書肆山田


 野村喜和夫『薄明のサウダージ』。一篇だけの感想を書くことでは詩集の感想を書いたことにならないのはわかっているが、一篇だけ引用する。いや、一篇の一部を。

かつて
すべては象であった
と模造の象のうへで喚いてゐる

 「模造の象のうへで喚いている」は「事実」であるかもしれない。しかし「かつて/すべては象であった」というのは、「事実」であるとは言えない。「すべて」が「象」であるとは思えない。「象」以外にもトラや犬もいるだろう、草や木もあるだろう、人間だっているだろうし、家だってあるだろう。それら(すべて)は「象」ではない、と思う。
 もし書き出しの二行が「事実」であるとするならば、そこには前提がいる。

かつて
すべて(の象)は(ほんものの)象であった
(つまり、模造の象はいなかった)
と模造の象のうへで喚いてゐる

 と、ことばを補えば、最初の三行は「論理的」になる。野村は「でたらめ」を書いているようであって、実は「論理的」にことばを動かしていることになる。
 これが、きょう、私が書きたいことである。
 「論理的」というのは、ただし、少し(かなり)説明がいる。ふつうの「論理的」とは違うからである。
 詩の続き。

あれはだれか
雲の二乗と二倍の雲の和は
象であつたし
女を二乗して三倍の私の影に加へたものから
空気を抜けば
ひとひらの海のやうな象であつた

 これは、どうみたって「でたらめ」の算数である。こんな計算が成り立つはずがない。算数にならない。
 しかし、ここには「論理」がある。どういう「論理」かというと「算数」をつかうという「論理」である。算数をつかいつづけるという意味においては「論理的」なのである。言いなおすと、この詩は、

あれはだれか
雲の二乗と二倍の雲の和は
象であつたし
女に塩酸と過酸化マンガンを加え、フランス語に翻訳したものから
ドストエフスキーの述語を取り除けば
加速器のなかで衝突するクオークのやうな象であつた

 と、もっと「でたらめ」に書くこともできるからである。
 しかし、野村は「科学/化学」「語学」「文学」「物理」というような「方法」をごちゃまぜにせず、常に「算数(数学ではない)」を「方法」として選び、そのなかでことばを動かしている。
 「方法」の一貫性において、野村は「論理的」なのである。

女を四倍にして海を引くと
女と私を足して二倍した風に
さらに一本の樹木を加へたものに等しい
といふ象であつたし
時のたまり場から虹や雪片を
引いたものを二乗すると
女に私を掛けて涅槃を引いた墳墓に等しい
といふ象であつた
狂ほしいほどに象であつた

 ね、「算数」しか出てこないでしょ?
 「算数」のまわりに「女」とか「海」とか「樹木」とか「虹」とか「雪片」とか、すでに詩でつかいふるされたことばが飾られる。「涅槃」「墳墓」は多少風変わりだが、それにしたって「現代詩」を読む人ならどこかで読んだことがあることばだろう。初めて触れることばではないだろう。
 こういうことばをつかって、野村は何をやっているか。
 私のことばでいえば「音楽」である。
 「音楽」は大きく分けて二つある。「クラシック」と「ジャズ/ポピュラー」。違いは何か。大雑把な感じを言えば……。クラシックは「旋律」は演奏者が変えることはできない。でも「テンポ」は指揮者まかせ。指揮しだいで「テンポ」が変わり、「テンポ」の変化とともに曲の表情が変わる。「ジャズ/ポピュラー」は逆。「リズム」はドラムが中心につくりだし、一曲の間、それは変わらない。しかし「旋律」は演奏者の勝手にまかされることがある。アドリブだね。私は音楽の専門家ではないから、まあ、いいかげんな「定義」だが。
 野村のやっていることは「ジャズ/ポピュラー」に近い。この詩の場合は「算数」という「リズム」が守られている。「算数」という「論理」を「リズム」に替えて、作品を統一し、「旋律」は思いつくままに。

 私は、野村の、この軽い音楽が気に入っている。「大好き」(これがないと生きていけない)というのではないが、「嫌い(腹が立つ)」ということはない。同世代ということが影響しているかもしれない。「音楽」というのは「通時性」よりも「共時性」が強いものなのかもしれない。






*

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アルメ時代 19 小倉金栄堂

2019-05-18 16:49:51 | アルメ時代
19 小倉金栄堂



 平積みの新刊書の横を通った。つややかな色であった。踊り場で出版案内を呼んだ。細かい活字が目の奥で微熱になった。二階でミンコフスキーについてたずねた。眼鏡の店員がノートをめくって二、三教えてくれた。タイトルや内容は忘れてしまった。機敏さだけがもちうる温かさが印象に残っている。人間が人間に伝えられるものは、ととのったことばの形では明らかにできないものである。これは本屋で考えるのにふさわしい内容とは言えない。書棚の陰をまわって文庫本の目録をめくった……。
 三階でペーパーバックをめくり思い出せない単語に出会ったとき、私は私の行為を反芻した。記憶の流れを阻んでいるものを取り除くために。
 状態ではなく、存在そのもののような手応えを持った心理をさすことば--私が思い出したいのはそれだ。しかし私は知っている。平積みの新刊書から順を追って反復しても、決して見出せないことを。記憶をつまずかせるものがほかにあることを。
 順を追って本屋の中での行為をたどり、わけありげな註釈を加えてみたのは、わだかまりから遠ざかるための方法に過ぎなかったのかもしれない。しかし、遠ざかろうとするものはいつだって、引き寄せられてしまうしかない。より深い力で引き寄せられるためだけに、私たちは遠ざかるという方法をとるのだろうか。
 記憶を折り曲げ、もつれさせているのは自動扉のわきにたっていた女である。女は男を待っている。本屋の中で待たないのは、男が本屋に入るような人間ではないからだ。しかし確実に前は通る。たぶん、いつも同じ道順を生きる男なのだろう--想像にはいつも自分の行為が逆さになったりねじれたりしながら統一を与えてしまう。などと考えながら、私は電車どおりの向こう側から女を見ていたのだった。信号が変わった。動き始めた人にうながされるように舗道をわたり、女のたっぷりとしたコートの色を見つめ、本屋に入った。
 「本屋に入り込み、あれこれ活字を眺めまわすのは、何もすることがない人間のすることである。」どこかに沈んでいたことばが、自動扉の開く音をぬって、鼓膜の表面に浮きでてきて波紋のように広がる。少し揺れながら、そんな人間の一人であると自覚するしかなかった。というのも、私が最初にしたのは、新刊のなかに男の肖像を探すことだったからである。ついで、心理学書に待つという行為に耐えるこころの力を探そうとした。カポーティのなかに、男女のいざこざのきっかけを探そうともした。そして突然、ありふれた、しかしそのために日本語ではあまり口にしない単語にぶつかったのだった。
 何とルビを振るべきか。私は人を待つようには答えがあらわれてくるのを待つことができない。待つということは気持ちが悪い。金栄堂の前の女が気にかかるのも、その気持ち悪さをさらけだされたように感じるからだ。
 私は何かがあらわれるのを待てない。見つかるあてがなくても探しに歩きださずにはいられない。そうして強い抵抗にぶつかって神経がぽきりと折れることを願っている。動き回ること、探し回ること、それは私にとって謎を問いにととのえることと同じ意味なのかもしれない。

 「女のこころに謎などありません。それが謎なのかもしれません。」さっきからそこにいたというかのように、書棚の細い通路を通って、すばやくあらわれた女は、私の指さした単語を訳すかわりにそういった。相槌を打つでもなく、再び同じ単語を指さすと、女は本を閉じてしまった。「けさ、私は、ヒゲを剃るとき男は両足をひろげて立つと気づいて笑いだしそうになりました。本を読むと、そうしたポーズというか、型がいくつもあらわれ、私を驚かします。男はいつまでたっても変声期の少年のようです。女という概念に発情し、目の前のものに目もくれず、その奥にあるもの、ほんとうはそんなものなどないのですが、男たちが勝手に概念と名づけたものを追いかけていきます。そうして遠ざかっていく男に女が耐えられる理由はひとつしかありません。男のこわばった感性の運動を見るとほほえましい気がするからです。たしかに感性といいました。私は精神とか知性というものを信じません。つつみこむ感性と入り込もうとする感性があるだけです。つつみこむためにみずから形をかえる感性と、分け入るために自分以外のものを変形させて平気でいる感性、そのふたつがあるだけです。」

 本と女には似たところがある。気ままに開き、気ままに加筆する。すると私がねじれ始める。不定形の鏡の世界へ連れて行かれる。ぼんやりと浮かびあがってくる像は確かに私なのだろうが、納得できない。自分の思うままの像に対するこだわりがあるからだと女はいうだろうか。
 つったたったままの私に、女は新しい本を開いてみせる。「現代物理学は物体から手応えをとりはらった。そのとたん宇宙の似姿ができた。極大を考えることと極小を考えることに夢中で、自分にあった大きさ、手応えの世界を置き去りにした。」

 ことばにふれるたびに、私がずらされていく。あるいはひきのばされていく。しかし不快ではない。むしろ、そのあいまいな感覚がひとつの手応えになってくる。私のもとめていたのは、ひきのばされ空虚になっていく構造をみたす力だったのか。あまい分裂をかかえながら一階から三階までを往復すれば、女はやがて帰ってしまう。
 天井の灯がふたつみっつ増えて、私の影が一瞬まばたき、再びひとつになる時間になっていた。




(アルメ240 、1986年03月25日)
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アルメ時代 18 アリシアへの手紙

2019-05-14 11:08:21 | アルメ時代
 私は今、細く入り組んだ道の両側に家が立ち並んだ街にすんでいますが、生まれ育ったのは田舎です。道はまっすぐではないけれど、山の形や川の流れにあわせた必然的な曲がり方で、入り組んではいません。どこかとどこかをつなぐといった明確な目的を持っています。道ということばとともに思い出すのは、野の道を、全身に風を感じながら歩いて、やがて街へたどりついた日のことです。まっすぐな道の両側に同じ形の家が並んでいました。真昼で、影はひとつも落ちていないのに、何か暗いものを見たように思いました。
 私の両親もあなたの両親と同じように、農業のことしか考えていません。ブドウやオリーブではなく、米と少しばかりの青い野菜を作っています。米がうまくできるかどうかだけをいつも心配しています。それはある意味で美しい生活だと思います。しかし、その美しさの底には暗いものがひそんでいます。彼らは、幸福については、かなり冷たいところがあります。自分たちの幸福のことしか気にかけません。他の人々の不幸を見て、私たちはまだ幸福だと考えるような消極的なところもあります。やせた土地で生き続けてきたものの知恵なのかもしれません。道のかわりにこころが入り組んだのかもしれません。
 
 私とはときどきほんとうは何が書きたかったのかわからなくなります。実はあなたたちが「ドゥエンデ」と呼ぶものについて、二、三教えてもらいたいことがあったのです。ゴヤについて学んだとき、何度かそのことばに出会いました。一種の暗さをさすことばだと理解しています。しかし単なる暗さではなく、燃えるようなひとつの状態のようにも思われます。いのちのありようといってもいいと考えています。
 手紙を書きだすまでは、それは両親の幸福感や、野の道の入り組み方にいくらか似たところがあるのではないかと考えていました。しかしぼんやりと考えていたことは、ことばにし、少しずつ追い詰めていくと、いつもどこかへずれていってしまいます。

 「ドゥエンデ」とは何ですか、と単純にたずねればよかったのかもしれません。けれどそれでは何の答えも得られないのだと感じているのです。
 私は答えではなく、あなたがわたしの手紙を読む、その時間、私のそばにいてくれることを願って手紙を書いていることを知っているからです。
 ¿Qué quieres decir con estas palabras?  私は再び、あなたの、その疑問に出会うだろうと思います。ほんとうのことを言えば、私にも何か言いたいのかよくわからないのです。たぶん私は、私の中の不分明な私と正しく向き合うために、あなたに手紙を書いているのだと思います。
 一人の人間がもう一人の人間を見つけ出すまで、そばにいてくれる忍耐心をもっておられることを願ってペンを置きます。

 雨が降り始めました。窓から手を出して受けてみると、もう雨が冷たい季節です。


















(アルメ239 、1986年2月10日)
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アルメ時代 17 本

2019-04-25 16:00:35 | アルメ時代
17 本



 その本を読み始めたのはいつのことだったか。誰も登場せず、何もはじまりそうもない描写がつづいた。二ページと読みつづけられない本であった。しかし、別の本を読み、次に何を読もうかと思いあぐねたとき、ふと手にしてしまう本だった。疲れたときにだけ見えてしまう水錆びの描写とか、風が吹いていくときに見える水の深さとかが、確かな文体で書かれていた。
 くりかえしているうちに、徐々に描写がずれてくるのに気づいた。コップの水が乾燥した季節のために蒸発したり、午後の湿気にくずれたバラが夜明けに新しい風をひきよせたり。あるいはトラとして書かれていたものが膝の上の猫に姿を変え、汗ばんだ毛の闇へと指を滑り込ませてくれと懇願したり。さらには、夏の光にたたかれて麦わら帽子だけになった少女が、大人の顔で記憶を振り返ったり。
 一般に書物は私たちに刺戟を与えるものである。ある描写を手がかりに、あ、あれはこういうことだったのか、と気づいたりする。この作者は私が言いたくて言い切れなかったことを美しい形で表現してくれている。そうした発見の楽しさのために本は読まれる。しかし、この本は違った。逆に現実を呼吸して描写を変えていくようなのである。だから、次にどのような描写があらわれ、本の世界がどう変わるかといった予測はまったくつかない。
 一ページ、時として一行しか読み進めない理由はそこにある。逆に言えば激しい吸引力に耐えられるだけの現実が私にはなくなってしまったということかもしれない。幼年期のむごたらしさも思春期の猥雑さや気まぐれ、恋愛期の加虐性被虐性も吸収され、分離整頓されて、ささやかな陰影に変わってしまった。何の彩りも描写に与えることができないので、ことばが私を裏切るように次々に形を変えていくようである。本を閉じなければならない。しかし一行も読み通すことができないので閉じることもできない--そうした葛藤に激しい汗を流すことだけが現実となる日々もあった。
 本ほんらいの姿を求めて新刊本を取り寄せてみたが手遅れだった。あらゆる活字と文体がかよわくふるえている。記憶され、あの本にのみこまれてしまうことを恐れている。主人公の苦悩や絶望を生成するストーリー、時間を空間や存在に転換する構造だけは、けっしてのみこまれないことを悟ってか、強固に構えている。しかし、それは主人公の感情の充実が強い文体で新しいいのちを手にいれるということは別の問題である。その強固さはかえって空虚さをきわだたせるだけである。読者と筆者の感性、あるいはくらい情熱の接点である描写そのものは、読み進めば読み進むほど魅力がなくなっていくる。察するに、この筆者もあの本を読んでいるらしい。なまなましい感覚や錯誤といった知的発見はすべてのみこまれ、計算と学習によって表現できるストーリーしか残らなくなったらしい。
 ページを開かなくても、本が私を通して現実を吸収し、刻々と姿を変えているのがわかった。アスファルトの油膜が不気味な水たまり、女の乳房の影に汗という星が輝くときの宇宙に似た青さ、存在から抽出され、やがて全体をひとつの色調に変える強い印象、つまり解放された現実が、時として本を開けと命じるからである。読み返し、本の文体がどのように変化したか確かめよと命じるからである。




(アルメ239 、1986年2月10日)
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16 犬

2019-04-24 11:45:02 | アルメ時代
16 犬



木枯らしの底辺を犬が走っていく
あの犬は何度も見たことがある
茶色のどこにでもいるただの雑種だ
夏は脳を沸騰させ冬は脳からこごえる
だからといって過敏ではない
少し毛の汚れた犬である
水銀灯の硬質な光をのがれて
郵便局の裏で時々吐瀉物を食べている
縄張りを持たないからいつも小走りである
飼い犬の鎖の長さの一鼻先をかすめることを得意としている
立ち止まるのは信号を渡るときだけである
けっして一匹では渡らない
人の影に隠れて渡る
よらば大樹の影ということばを曲解している
そのくせ知恵があると自負している
低い視線を持っている
そのことが自慢であるのか
足元をするりとぬけてゆき
ズボンの裾を気にする男を振り返ったりもする
尻尾をクリルと曲げて
すっとんきょうなリズムで
春には恋人をつれて歩いたこともあったが
どうせ行きずりだと思っているのか
耳が折れタビをはいた駄犬であった
毛並みのいいのには手をださない
相手のいるのにも手をださない
つまらない自制心だけはある
ようするに痛い目にあいたくないだけである
分を守ることが大切だとつぶやいているが
欲望だけはあるらしく
秋には赤鼻のセックスをなめ
最後かもしれないたかぶりにふるえていた
横丁を曲がり路地を抜け
高速道路下の安全地帯へたどりつく前に
肥満体の飼い犬に横取りされて
高い高い空を眺めることもあった
草を噛んで吐いて草を噛んで吐いて
胃と腸をしずめる日日を繰り返し
水に映った自画像を消すように
蓋のはがれたドブ水をなめた午後
名前を呼ばれることだけを求めて
改札口にまぎれこんだりもした
もはやだれも出歩かない深更
激しく心をひきつけたのは
二丁目の電器屋がしまい忘れたビクターの犬である
思い出したように通るトラックのライトに浮かび
再び闇にのまれて微動だにしない
汗と毛のにおいを持たず一点を見つめて思索している
昼間は水をぶっかけられるので近づきはしないが
かならず反対側を通って観察する
(不動の姿勢 ふむ
あれがいわゆる悟りというものだろうか)
小走りで考える
考えながら走りながらも
ガキとだけはぶつからぬ発射神経を持っている
とりわけ雨上がりには注意する
閉じ込められたからといって反動で過激になるやつは嫌いだ
呼ばれても振り向かない
近づいてきたらぐっとひきつけて突然走り出す
それが今風だと信じている
似たようなブチと真顔で話し合うこともある
聞こえないふりをするのは賛成だ
しかし少しずつ足を速めて逃げ出す方がよかないかね
相槌はそうかねの一点張りである
つまりスタイルは変えない主義である
体になじんだものだけを信じている
保守的と呼ばれることを恥じない
ただ反動的という批判には開き直れない
火曜日は葵ビルのゴミ出し場に弁当のクズが出る
菜食主義者なので必ずカツが残っている
といった最新情報はすぐにおいかける
行けばきまって先着者に追い払われる
それでもこりるといったことがない
覇気がないなどという中傷は耳に入らない
楽しみはかぎなれない小便の上に小便をかけることである
そのために見慣れないチビを尾行することもある
間違っても強いやつの上にはかけない
一匹狼だと思い込んでいる
ビル風にあおられながら
きょうは荒野を疾走しているつもりである



(アルメ238 、1985年12月25日)
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15 黒を分類する

2019-04-21 15:23:36 | アルメ時代
15 黒を分類する



   1
川がひらかれる
血のようにくろく流れていたもの
ビルを隈取り街の底部をつらぬいていたものが
朝の光に切り開かれる

(だがほんとうだろうか 昨日私は
夜が都市の内部を切り開くのを見た
黒いものが形の殻をとかし
内臓のそこで光っているものを
浮かびあがられる時間を歩いた)

   2
川がくろくなる
はねかえされた真昼の光が
疲労に沈む目を射抜くとき
周辺がくろくなる
光と同じ垂直な色に

    2′
日がかげる
やなぎのみどりが一瞬ふかくなる
海のように なつかしい
水のように
(橋の上から
私の上を あるいは私の下を
流れる水を見た
あるいは水が含むくろによって
なめらかになった影を
透明な形を)

   3
日が西へ動いていく
川は光にとざされる

窒息しそうになった内部は
つよく呼吸する
空にひそむ金の翳りを
熱を放射するアスファルトの気分のわるいにおいを
薔薇の花弁をながれる静脈を
一つを分類するとき周辺に集まってくるすべての黒を
美術館の肖像画を縁取る硬い線を
(存在をほどくように)

川はかえっていく
ぬれた黒
際限のないひろがり



(アルメ237 、19855年11月10日)
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14 夏の絵画

2019-04-17 11:12:46 | アルメ時代
14 夏の絵画



抽象(的な論理)が
草むらからほどけていく
加筆可能な物語に
発光する蛇は登場しすぎた
未熟な舌は
日焼けしていない女の足の
不思議な色に触れる
「女は自分を決定せずに
生きていける」
古い言いぐさにほどかれて
くずれる色の内部に
新しい下描きが浮いてくる
抽象(的な姦淫)
女の曲線に巣をつくれば
脱出可能な(はずの)物語に
どんな罠が似つかわしいか
発汗する幼い蛇
何が起きるのかを待って
一点をながめつづける目から
再びあらわれ舌を動かす
まなざしの背後で夜は
深い呼吸をしている
抽象(的な構成)が
ぬるい風をたわめている



(アルメ236 、19855年09月25日)
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13 アジサイ前線

2019-04-15 16:03:44 | アルメ時代
13 アジサイ前線



ビルを囲ったシートの緑が
風に膨らみ風にしなう雨の午後
私の考えは逃げていく激しく
叩かれて色を失う山の向こう
ここではないどこかへ
逃げていこうとする
「幻は卑近距離に引きずられる感情の形
アジサイの色は土壌の
水素イオンによってかわる
見えないところで動くものが現象
として私たちにやってくる」
咲き始めた花に頼ったことばを
かすめて生ぐさい白につまずいて
隠せると思ったこころが浮いてくる
(ここではないどこか)
土とコンクリートブロックの
ぬれることでひきだされた黒の
差異について考えれば
(ここではないどこか
私を支えていたものが遠くなる)
時間をなくした男になって
アジサイに割り込まれる
「説明はいつも誘惑的です
だからこころは離れていくのです」
ふいに向きを変える女の足首に
照らしかえされている



(アルメ235 、19855年08月10日)
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12 水の周辺 17

2019-04-10 15:38:16 | アルメ時代
12 水の周辺 17



   1
 表皮を剥ぎたい。水の肉体を見たい。指をはじきかえす弾力にさわりたい。指の腹にすいつくような、皮膚の内側にひそむ水分を思いおこさせるような、肉質に触りたい。

   2
 表皮を剥ぎたい。表皮と肉の間を走るすばやい流れをなめたい。つるんとして動きなどないように見せかけながら、舌をつつみ水を引き込む流れ、なめらかな重力に触りたい。
   3
 表皮を剥ぎたい。ぷっくらとふくれはじめるものに爪で傷をつけたい。平静な形をとる前の力をねじまげてみたい。乱れを丁寧になぞりたい。

   4
 表皮を剥ぎたい。血のように内部からにじんでくるもの、うっすらとひろがるものを手で汚したい。力まかせに掌でひろげたい。うめきに耳で触りたい。





(アルメ234 、19855年06月25日)
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11 土曜の夜、日曜の朝--汗について思う

2019-04-10 15:37:23 | アルメ時代
11 土曜の夜、日曜の朝--汗について思う



やわらかな夜の鏡は枯れた
闇をくすぐる微熱は落ちてゆき
死んだ魚のようにあぶなく光るものがある
「石を投げられたのか
一散に逃げていく蛇の夢を見た
ちぢみつづける海だとか
黄色い縁取りの鳥だとか、も」
砂の、風紋であるか
何かしら流れようとする意志のように
粗いものが発光する時間である
せきとめられた気配がたまってくるのである
「汗の働きは体温の調整にある
夢の働きは精神の調節にある」
冷房のかびくさい匂いに酔ったのか
薄荷のうすみどりにむかって
ひりつくものがある
シーツの淵から垂直に手をおとし
私は私の位置をととのえる
汗が流れるようにと


(アルメ234 、1985年06月25日)
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10 ベリー・午後二時

2019-04-10 15:32:44 | アルメ時代
10 ベリー・午後二時



「タラマ・ド・レンピックというのは
いつの時代の画家ですか」
ポスターの色はさめて暗い
視力を寂しくさせる横顔である
だがどんな時代の特徴も見出せない
見る力がなくなった
眼ではなくこころに見る力がなくなった
客に答えるコックの声は聞きとれず
突然話題が変わったことを知らされる
「ベリーというのは木の実
ではなく腹、食べてふくれ上がった腹のことです」
知っていることしか頭に入ってこない
入ってこないことを認めるのはつまらないので
「肖像神話」という文字のなかに逃げていったものを探す
しかしこころは動いていかない
細い明朝のかたちが全体をおさえている
少し古くなったスタイルに突き当たって立ち往生する
「ここの鏡、きれいに映るわね」
知らん顔して女は襟をなおしている
鏡のなかから街へ出て行く用意をしている



(アルメ234 、1985年06月25日)
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