哲学の科学

science of philosophy

塞翁が馬について(8)

2017-11-11 | yy59塞翁が馬について


人間万事塞翁が馬。占いの話でもあり、運勢の話でもあり、人生のドラマでもある。本来、占いも運勢も人生もドラマも小説も、同じものなのでしょう。私たちは自分の人生をこの(塞翁のエピソードの)ようなものとして見ている。成功があり挫折がある。しかし最後にはなんとか、救いもあるだろう。
たしかに私たちが好む小説、ドラマ、物語は皆そうなっています。まず作者がそう思っているからです。そうでない作者がいた場合、ちょっとぞっとするものが見えてしまいます。
悲惨な人生に救いなんかない。幻想があるだけだ、という怖い物語。たとえば人生の幸福はマッチが燃える間だけで、一瞬に消えてしまう(一八四五年 ハンス・クリスチャン・アンデルセン「マッチ売りの少女 Den Lille Pige med Svovlstikkerne」)という童話。これが童話として子供に語られているのは、なぜでしょうか?
マッチが燃えている間は幸福だが、それは束の間だろう、という思い。逆に不運のどん底でもいつか良い日が来る、という思い。どちらも、その根拠は実はなにもありませんが、理由もなく、私たちはそう思う。その思いが物語を作り、占いを作り、人生論を作り、明日の希望を作っています。逆にそうするしかない。そういうような身体が私たちだからでしょう。■





(59 塞翁が馬について end)





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塞翁が馬について(7)

2017-11-04 | yy59塞翁が馬について


たとえば人生における深刻な挫折。どう考えても立ち直る方法はない。もう二度とまともな人生を歩むことはできない。こういう場合、おみくじを引いてみます。大吉、苦難間もなく去るべし。そうであればうれしい。そういうこともないとは限らない。気を取り直して、今できることをこつこつと進めよう、と思います。
楽観主義ともいえます。根拠のない楽観主義。なんとかうまくいくだろうさ、と思うことです。
まったく希望がない状況に追い込まれるとき。絶望的状況ですね。そのまま死んでしまう、あるいはどこまでも悪いほうへ行くのでしょうか?実際にはそういうことも多々あるでしょう。しかし私たちはそう思いたくない。
逆転のチャンスがあるはずだ。逆転まで行かなくても、何とか生き延びられないものか、と思う。しかし、ダメなときはダメですね。
ふつうダメなとき、ダメといって欲しくない。それでもダメといわれると、がっかりしますが同時にすでに納得しているところもある。人生の真実を見せられたような気もしてしまいます。

鎌倉若宮大路のわきにある柔術教室の看板にラテン語箴言が書いてありました。Carpe diem。今日を生きるべし。明日を思うな。
しかし、人間はこれができない。これができる者は人間ではありません。言葉をしゃべらず、仲間の空気を読まない。人間として生きていない(拙稿22章「私にはなぜ私の人生があるのか」)ということになります。








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塞翁が馬について(6)

2017-10-28 | yy59塞翁が馬について


動物にはできないのに、人間はなぜそれができるのか?
人間には理性があるから、とか、意識があるから、とかいわれます。
人間は言葉を使う。そもそも言葉を話すことは、仲間と物事の予測を共有することです(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」)。明日を思い描き、仲間とあるべき明日を予測することです。一人きりで考える場合でも同じことです。自分の中にいる仲間と語り合っている。
人間の言語というものは、(拙稿の見解では)明日のために自分たちが今どうするか、を語る形式になっている(拙稿28章「私はなぜ明日を語るのか?」)。
「××が○○をする」という人類共通の言語形式は、××はこれから将来のために○○をする、という将来予測(のコンテキスト)を暗黙に前提としています(拙稿26章「『する』とは何か?」)。つまり私たちは何を語ろうとも言葉を語る以上、必ず、それだから将来のために(明日のためにあるいは今日これから)こうすべきだ、という話を仲間に語っているのです。これが(拙稿の見解では)人類の言語の基本的な構造です(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」)。
逆に言えば、人類は、このように言語を使って仲間と緊密に協力できる社会を作り長期にわたる予測能力を持って恒常的に高栄養価の食料を獲得し続けなければ(脳が大きくて発育の遅い)子供を産み育てられない動物となっています(拙稿22章「私にはなぜ私の人生があるのか」)。
そのような動物としての身体を先祖から受け継いだ私たちは、毎日、明日を占い、人生を予測し、自分と家族の幸運を願って生き続けるしかありません。
人間万事塞翁が馬。そのような自分たちの姿を俯瞰する言葉として、古来好まれてきたのでしょう。







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塞翁が馬について(5)

2017-10-21 | yy59塞翁が馬について


私たちの毎日の行動は、しかしながら、哲学者に叱られても全く懲りずに、身体で感得した経験で動いていきます。
人は習慣的に経験した知識を因果法則と思って行動しているがそれは必然的ではなく蓋然的法則にすぎない、という考えは昔からあります(一七三九年 デイヴィッド・ヒューム『人性論』既出)。しかし蓋然的であろうとも、だれもがそれを真実と思うのであれば、それは真実であるといってよい(拙稿35章「人間は真実を知ることができるのか?」)。

人間は将来を予測して対策を立てます。たいていうまくいきませんが、それでも予測をしたがる。
人間以外の動物はふつう、現在の身体が受けている感覚にだけ対応します。動物も自動運転自動車も目や耳、カメラやレーダーなど感覚器(センサー)が感知したデータを使って将来起こる変化を予測計算します。人間以外の動物や自動機械などの場合、将来といってもごく近い将来です。今現在から数秒、あるいは数分、あるいは長くても数時間後に起こる変化です。
その短い時間は、現在の瞬間をそのまま拡張したものです。
人間の場合、この予測は、現在の身体状態から予測される直近の状況変化ばかりでなく、むしろ現在の身体状態から座標を変換して、仲間の視座に憑依することで得られる客観的な時空間における遠い未来あるいは過去の自分の姿を対象として行われます。その場合、数分後あるいは数時間後の行動は、その遠い未来あるいは過去の予測ないし想起に対応して形成される長期にわたる目標を持った計画行動の一環としてなされます。
現生人類は、この能力によって緻密な社会を形成して、脳の大きい子供を確実に育成するシステムを完成しました。その結果、きわめて柔軟かつ効率的に地球上の多様な環境に対応して拡散し増殖した、と考えられます(拙稿22章「私にはなぜ私の人生があるのか」)。






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塞翁が馬について(4)

2017-10-14 | yy59塞翁が馬について


占いには、難解に見えるものも稚拙に見えるものも含めて、その底に共通した世界観があり哲学があります。その哲学は、概して因果循環、歴史は繰り返す、人生山あり谷あり、個人のサバイバルが大事、というようなものです。むずかしく言えば老荘思想。西洋哲学ではシニシズムに近い。

占いは現代でも滅びていません。それどころか、テレビや新聞、雑誌、インターネットで人気のある記事は、天気予報をはじめ、時事解説、経済予測、さらにはずばり運勢アプリとか就活、婚活の運勢占いでしょう。
昔から人生は運だとか、世界は神秘的な偶然で動いていく、という考え方は、ひろく好まれています。
Aという出来事が起きて続いてBという出来事が起こる。こういう体験を繰り返すと、人は、Aが原因でBが結果、という因果関係を信じたくなります。カエルが鳴くと雨が降り出す。P君が愛想よく話しかけてくるとろくな話が来ない。人は成長するにつれ習慣的にこのような知識が身についてきます。こういう知識は実生活で、かなり役に立つ。
私たちは毎日、このような自己流の因果関係の知識に支えられて行動しています。科学的知識というよりも占いに近いものが多い。これが人間の本性であるといえそうです。
これは哲学者によく叱られる間違いですが、私たちは毎日のように間違えて暮らしている。たしかに論理的には、Aに続いてBが起こる、という関係だけからAが原因でBが結果と思い込むことは間違いです。この形の誤謬は論理学で前後即因果 (post hoc ergo propter hoc)と呼ばれる非形式誤謬です。





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塞翁が馬について(3)

2017-10-07 | yy59塞翁が馬について


プロの占い師であったとすれば、心配事の多い人々がいる場所で商売します。現代でも大都会の繁華街などでブースを持っていますね。北側の野蛮人の国との境にある要塞の村では、住民は不安におののいている。占い師に依頼することは多い。老人は繁盛したでしょう。
皆が怖がっているときは怖くない、と言い、皆が喜んでいるときに怖いことを言う。そうすればだれもが聞きに来ます。テレビのコメンテーターと同じです。
まあ、現代のプロのコメンテーターは洗練されていますから根拠なく真逆のことなどは言いません。二十年前とか五十年前の歴史から教訓を引き出したり、外国の例を挙げたりして警告したり、毒舌ぎりぎりのブラックユーモアでどきりとさせたりして人気を保っていますね。

古代中国では、もちろん、占い師は権威がありました。優秀な占い師が人の幸不幸に関して常識と逆のことを予言して当たる、という言い伝えは多くあります。塞翁が馬と類似の故事として伝承された次の文章では、孔子が占い師として登場します。
宋人有好行仁義者三世不懈家無故黑牛生白犢以問孔子孔子曰此吉祥也以薦上帝居一年其父無故而盲其牛又復生白犢其父又復令其子問孔子其子曰前問之而失明又何問乎父曰聖人之言先迕後合其事未究姑復問之其子又復問孔子孔子曰吉祥也復教以祭其子歸致命其父曰行孔子之言也居一年其子又無故而盲其後楚攻宋 圍其城民易子而食之析骸而炊之丁壯者皆乘城而戰死者大半此人以父子有疾皆免及圍解而疾俱復(列子説符第八)
黒い牛が白い子を産んだから幸運が来る、と予言して当たった話です。孔子の予言能力はすごい、先の先を読んでいる、ということを言っています。また戦争はいやだ、国家など知らんが自分のサバイバルだけが重要だ、とも言いたいようです。
孔子が登場しているのに宋と楚の関係について言及していないところが列子らしいともいえますが不思議な違和感が残りますね。「怪力乱神を語らず」としてインテリの尊敬を得ている孔子が占いで尊敬されるのもおかしい。どうも列子のこの文章は儒教を揶揄する目的がありそうです。
こちらの話は日本ではあまり広まっていません。反儒教の匂いが強いし、占いの権威だけを押し付けて物事の因果が納得できないからでしょう。







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塞翁が馬について(2)

2017-09-30 | yy59塞翁が馬について


タレント政治家の青島幸男(一九三二―二〇〇六)が参議院議員時代に執筆した直木賞処女作のタイトルは「人間万事塞翁が丙午(一九八一年)」とされていて、昭和の庶民人生を描いた名作でした。「塞翁が馬」は徴兵を免れて生き残る話ですが、「塞翁が丙午」のほうは町の商人が徴兵されたものの戦死せずに復員したという話です。
どちらの話も戦争は嫌だ、国がどうなろうと自分の家族だけは災難を乗り越えて生き残ってやる、というたくましい庶民的サバイバル感覚のもとで書かれています。逆に見れば、この故事には、国家や政治を大事とする儒教的エリート思想に反発する、いわゆる老荘思想が下敷きにあるようです。この雰囲気が後鳥羽上皇のような超エリートが挫折したときに心底で共感したところなのでしょう。

ノーベル生理学・医学賞の山中伸弥が「人間万事塞翁が馬」と題して高校生に向けて行った講演録「京都賞高校フォーラム二〇一〇年一一月一六日京都大学」がユーチュブにありますが、山中教授は医師、研究者としての職業人生で遭遇した幾度かの深刻な挫折がのちの成功の要因であった、と述べています。この故事が不屈の精神を支え、科学の躍進と国民の栄誉につながったとすれば、故事伝承の社会的効用もまた偉大である、と思えます。山中先生は筆者より十数年若いのに塞翁が好きなのか、と感心しましたが、今の若い人たちも教養としてしっかり身に着けているようです。

さりながら自分がこの翁より上くらいの歳になって、故事の原文をもう一度読んでみると、ちょっと腑に落ちないところもある。
主人公として冒頭に登場するこの老人は善術者、つまり占い上手の人だったとのことです。ここはふつう読み飛ばしますがちょっと引っかかってみましょう。当時の占い師というのは現代のコメンテーターなどより尊敬されていたのでしょう。その占い能力をほめる、という形の故事になっています。
人々がお見舞いを言っているのに楽観的なことを言ったり、お祝いを言っているのに逆に不安がったりしている。偉い先生と思われていなければ、ひねくれものと無視されて、その逸話が記載されることもないでしょう。
株価が高騰すると暴落の予想を出したり暴落するとチャンスと叫んでみたりするエコノミストのようでもあります。
そもそも国境の要塞の近くに住んでいる、とあることからリスクをよく承知していたはずでしょう。そのうえ、安全地帯に引っ越せばよいのに、そうしない。この老人はリスクが好きというか、リスクで利益を得る立場にあったのではないでしょうか。






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塞翁が馬について(1)

2017-09-24 | yy59塞翁が馬について

(59 塞翁が馬について begin)




59 塞翁が馬について

高校生の頃、筆者は次の漢文に返り点を打って読んだ記憶があります。

近塞上之人有善術者馬無故亡而入胡人皆弔之其父曰此何遽不為福乎居數月其馬將胡駿馬而帰人皆賀之其父曰此何遽不為禍乎家富良馬其子好騎墜而折其髀人皆弔之其父曰此何遽不為福乎居一年胡人大入塞丁壮者引弦而戦近塞之人死者十九此獨以跛之故父子相保故福之為禍禍之為福化不可極深不可測也(紀元前一三九年以前 淮南子巻一八人間訓) 

あるいはうまく読めなかったのかもしれませんが、記憶では読めたことになっています。後で中身を知ったので楽に読めたと記憶しているのでしょう。外国語の文章は、中身を知っていれば簡単、知らないと難解です。
高校生に読ませるにはちょうど良い長さなので、教科書に使っていたのでしょう。
人生訓としてたいへん意味深いと言う人が多いようですが、まあ、中身は簡単なことを言っているようです。挫折にあっても落ち込まずに前向きに生きたらどうか、ということですね。

昔から日本人に好まれた故事であったらしく、十三世紀、北条義時に敗れた後鳥羽上皇が隠岐へ追放されたとき(承久の乱)人生を振り返って詠んだとされる和歌、
―いつとなく北の翁がごとくせばこのことわりや思ひ入れなん―
にある北の翁とは塞翁を指しています。










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