拙稿の見解では、こういう超ハードな問題というのは、まず問題の立て方が間違っている。むずかしいと思うからむずかしい。むずかしいと思えば思うほど、解決から遠のいていきます。ですから、まずむずかしいと思うことをやめるのがよろしい。
拙稿の見解を述べます。世界が存在しているといい、私が存在しているといい、どちらもそれが存在しているとすることによって、私たち人間が互いにうまく語り合い、仲良くなり、協力できればよいのであって、哲学的矛盾などは重要なことではない。
世界というものは(拙稿の見解では)、それが現実にここにこう存在することによって私たち人間が協力して生活することができるようなものとしてある。逆に言えば、そのように作られているものが、私たちの感じとれる世界である、といえます。また、私というものも、人と語り合う時に、私というものがこの身体であるとすれば、話が通じて協力がうまくいくようなものとしてある。
そうであるからして、私は世界がこうあると思い込んでいるのだし、私というものがここにこうあると私が思い込んでいるのはなぜか、納得がいく。
世界が存在しているということ、あるいは私が存在しているということ、それぞれ、人と人とが協力し合ういろいろな場面で皆がそう思っていることが社会生活のために実用的です。そういう実用的な認知機能が人間の身体に発現し、それが概念を作り言葉として定着し、私たちは私たちが共有するそれら認知対象を現実の存在として感じとれる身体になっている。
仲間との協力をさらにスムーズに進めるように、私たちは、世界とか私とか、あるいはその他の概念を強烈な現実感をもって身体の奥底で感じとれるようになっている。そういう身体の機構を人類は共有しています。自分たちがそういう身体になっていることに、私たちははっきり気づいていない。けれども、私たちのそのような身体の作られ方が、私たちにこのような客観的な世界の構造を感じとらせているといえます。
ようするに、拙稿の見解では、世界も私自身も、それらがこのように存在していると私たちが思うことが私たちが生きていくために実用的だから私たちはこういう世界が現実に存在しているのだと感じとっている(拙稿23章「人類最大の謎」)。私たちはそう感じとるような身体としてできあがっている。人類がこの世界で生活を続けて子孫を増やしていくために人間の身体はこの世界と自分自身をこう感じとっている、といえます。つまり短く言えば、私たちのこの身体がこの現実の世界と現実の私を作っている、といってよいでしょう。
たとえば、私たちの身体の前後左右上下に三次元空間が無限に広がっている、と私たちは感じる。私が今いる建物の壁の向こうや天井の上に向かって、また床の下に向かって世界はどこまでも広がっている。それが私たちの住んでいる街であり、地球であり、あるいは宇宙である、と私たちは感じる。しかし私たちの身体がクラゲのように回転対称であるとすれば、どうでしょうか?
身体が左右対称形ではなくて、回転対称形であるとすれば、上下の方向しか区別はつかない。クラゲにとっては、世界は海面までの上方空間と海底までの下方空間の二層からなる単純な構造でしかないでしょう。実際、私たち人間の身体が頭と胴体からなる左右対称形をしているというところから世界が前後左右上下に三次元空間として無限に広がっていると感じられるのだ、といえます。
もし私たちの身体がクラゲのように回転対称であるとすれば、私たちは、上と下、という言葉しか持っていないでしょう。前とか後とか、右とか左とか、を表す言葉はないはずです。そういう場合、私たちの地理学は「海面下10メートルでは圧力がどれくらいで、水温がどれくらいで、どういう生物がいるか」というような記述から成り立つことになります。つまり、上下方向の一次元の地理学になる。クラゲにとって、世界の構造は、そういうことになります。