哲学の科学

science of philosophy

人類最大の謎(4)

2010-07-31 | xx3人類最大の謎

なぜ「世界は、はっきりとここにあるし、私は、はっきりとその中にいる」のか?

この問題は、あまりにも神秘的だから神の存在と関係があるという考えも出てくる。この世界の存在理由がよく分からないのは、それが神様によって作られたからだ、というような理論がでてきます。実際、近代の西洋哲学では、形而上学は神の存在をめぐる議論から発展してきました。東洋の哲学でも、昔から無窮とか無我とかの概念が最も重要なものとされていて、その謎は深すぎて人知の及ぶところではない、という考え方などがあるようです。

古今東西の哲学者たちがこれを根源の謎といっているのであれば、本章のタイトルとして採用した「人類最大の謎」というおおげさな表現も、まあまあ許されるでしょうね。

問題はこうです。

いまここにある現実の世界は、現実であるからして、だれにとっても同じものです。というか、現実はただ一つ、いま私が目の前に見ているここにあるこの現実しかない。だから現実といわれる。そうであるならば、この現実はだれが観察しても同じものでしょう。

この現実世界に私はいる。そうであれば「世界は、はっきりとここにあるし、私は、はっきりとその中にいる」ということです。ところがこの話には破れ目があります。その破れ目は私の身体です。

ある人がここにあるこの私の身体を観察する。だれが観察してもこの私の身体は、客観的現実としてのひとつの物質です。この身体をいくら観察しても、生きたまま脳や内臓のすみずみ、、それら細胞の分子構造にまで解剖して顕微鏡で見ても、この身体は一つの人体であって、他の人体とあまり変わりがない。私のこの人体を観察しても、他の人体を観察して分かることしか分からないはずです。

この身体が、この私がいま感じていることを感じているかどうかは、客観的現実としては観察できない。私だけは私がいま感じていることを感じているということが体感で分かりますが、私以外のだれも私の身体が感じていることを体感としては感じられないでしょう。こういう場合、私にしか感じられないことは客観的現実とはいえない。だれもがそれが存在することを感じとれる場合に限って、それを客観的現実ということになっているからです。

このように、客観的現実世界をいくら調べても、物質であるこの私の身体がいまここでこの現実を感じているこの私だ、という私のこの体感自体を客観的に観察することはできない。私以外のだれもそれを観察できないものは、客観的現実とはいえないのではないか。そうであるとすれば、私が感じている私というものは客観的現実世界の中にはっきりといるとはいえない、という結論になります。

つまり「世界ははっきりとここにあるし、私ははっきりとその中にいる」という考えは間違いです。そうであるとすれば、「世界がはっきりとここにある」ということが間違いなのか、あるいは「私がはっきりとその中にいる」ということが間違いなのか、あるいはその両方とも間違いなのか、どれかでしょう。

この人類最大の謎を、どう考えたらよいのか? すぐには解けそうにないことはたしかですね。しかしここであきらめてしまっては話は終わってしまうので、拙稿としては、あきらめずに進める方向を考えてみます。そこで、この謎はなぜ解けそうにないのか、あるいはそもそもこの謎はどういう謎になっているのか、をまずは見ていこうと思います。

もう少しくわしく、この謎の作られ方を調べてみましょう。

まず「世界は、はっきりとここにある」ということはどういうことなのか?どんな場合でも、そういうことであるのか、あるいはそうではないこともあり得るのか、そこからして疑ってみることにします。

はっきりとここにある、とはどういうことか? それがだれにとっても客観的な現実であるということでしょうか? もしそうであるとしても、まず客観的現実というものは、本当にだれにとっても同じものなのでしょうか? 

たしかに、人間ならだれもが「世界は、はっきりとここにある」と思っているに違いない、と思える。しかし、今ここにあると感じられる世界が現実の本物の世界だ、と思えるという状態は、私の内部の状態であるから、私が今これが世界だと思っているものが他の人が世界だと思っているものと同じだという証拠はない。私が、他の人も私が世界だと思っているものを世界だと思っているだろうと思っているだけで、それがそうであるという証拠はない。それを確かめるために他の人に質問してみてもだめです。

だれかをつかまえて、世界ははっきりとここにあると感じているかどうか、質問してみましょう。すると人間だれもが「私は『世界ははっきりとここにある』と感じている」と言うでしょう。しかしその言葉の形は同じであるけれども、それぞれの人が感じている世界が同じ一つのものである、という証拠は、どこにもありませんね。

それどころか、それぞれの人が感じとっている世界は、それぞれその人だけが感じているものであって、互いに同じものであるかどうかを調べる手段はないのではないでしょうか? たしかに言葉で語りあえば話は通じる。「この現実がここにあるよね」ということでだれもが納得します。

しかしそれぞれの人は、その人だけが感じている現実を感じてそう言っているのではないか? つきつめれば、私以外の人が現実世界について何を語っていようとも、その人が私が感じているこの世界を感じているかどうかは分からない。言葉でどう言おうとも、永久にそのことは分からない。私が感じているこの世界を私以外のだれかが感じているということはないのかもしれない。それを否定することができない。そうであるとすれば、今ここにあるこの現実世界をこのように感じられるのは、つきつめれば私だけかもしれない、ということになる。

たとえば、ここにあるこのリンゴの赤さをこのような鮮やかさの赤だと感じるのは、私だけではないだろうか? 他の人も「本当にそのリンゴは鮮やかに赤いね」と言うけれども、その赤さが私がいま感じている赤さと同じであるという証拠はどこにもない(これを哲学ではクオリア問題という)。こういうように、この世界がこのような世界であると感じていることがたしかな人間は、私だけだ、ということになる。

もしそうであれば、他の人と違って私だけが、今ここにあるとなまなましく感じられるこの現実世界の存在の証人となるわけだから、その点において私は世界の中にたくさんいる他の人とは違って、私がいまここに感じとっているこのなまなましい現実世界が存在するための特別の関係者ということになる。そうだとすると、私はこの世界の内部にはいない。なぜならばこの世界の中にいる人はみな物質として同じような作りだから、私だけが世界と特別の関係を持つことはできないはずだからである。したがって、この世界を感じとっているに違いないことがはっきりしているただ一人の人間であるこの私が、ほかの人間たちと一緒に区別なくこの世界の中にいるということはおかしい、という結論に行きつく。

こういうふうに考えていくと、「世界がはっきりとここにある」ということは間違いであるかもしれないし、さらに「私がはっきりと世界の中にいる」ということは、おそらく間違いだ、ということになる。

しかしこの結論は、私たちの直感では受け入れがたい。そんなはずはない、と言いたくなります。この世界の在り方がおかしいのか、私がここにいるということがおかしいのか、それとも私たちの感じ方がおかしいのか? 直感は信用できないということなのか? いずれにせよ、そんなはずがあるはずがない、と思える。では、どんなはずならよいのか、という問題になる。

ここにむずかしい壁があるようです。さてそれでは、このようなむずかしそうな壁(ハードプロブレム)をどう乗り越えるか? そもそも乗り越えようとするべきなのか? ここからは、この問題に対する拙稿のアプローチを、述べてみます。

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人類最大の謎(3)

2010-07-24 | xx3人類最大の謎

どの人間が私であっても世界がこうであることはまったく変わらないはずですね。たとえば、科学の描く世界は、私がこの私でなくてもまったく変わりがない。物理法則もまったく変わりがない。世界のありさまもまったく変わりがない。私が世界を観察している観察者であってもなくても、それだけのことでは世界は変わりがない。そうであれば、世界を観察している私は、私以外のどの観察者とも区別されないはずです。

現実世界を観察している私がここにいる。この現実世界の小さな一部分であるこの私だけがこの世界を感じとっていることが分かる。私以外の人々も世界を感じとっているはずだが、それは他人の内面を推測することで分かるだけであって、実は外面を見るだけでははっきりとは分からない。この私が体感として世界を感じとっていることだけがはっきりと分かる。しかし世界を感じとっていることがはっきりと分かる人間はこの私だけだということの理由がない。なぜこの私だけが世界をはっきりと感じられるのか?世界の側から見た場合、その理由がない。

私は私だけがこれを私だと思っている。しかし、どの人間も自分を私だと思っているだけのことです。実際、どの人間が語るときも、自分のことを私と言う。それなのに、私にとっては、なぜこの私だけが私なのか? 堂々巡りのような話になる。

そうは言っても、こういう屁理屈のような話とは関係なく、私とはこの私のことだけだ、と感じる体感はなまなましくここにある。世界とそれを感じとる者(=私)の体感との関係は現実世界をいくら詳しく調べても見つかりません。ここに大きな謎があります。

こういう不可思議な謎を含んでいる限り、この世界は私と特別の関係を結んでいるのではないか? あるいは私はこの現実世界にとって特別の存在なのではないのか? 私と世界との関係については、こういう錯覚が生まれてきそうなところがあります(拙稿19章「私はここにいる―私と世界とのいかがわしい関係」)。

おみくじを引いて現実世界が私に何をしてくれるのか占う。ギャンブルやゲームに賭ける。神様が私を見捨てていないかどうか、たしかめたい。現代のマネーゲームもひいてはビジネスも、こういうところがある。また古くは、祈祷や呪術や魔術、縁起、タブーなどが現れてくるところだったのでしょう。現代人がいう希望、期待、願望というものも、それら古いものから派生している、とみることもできそうです。

世界は私だけに特別の配慮をしてくれてもよさそうではないか? 超越的な神秘の存在が現実に働きかけて、私の願いを聞いてくれないだろうか? 私たちが無意識のうちに抱えている、正当な理由のないこのような気分が、現代でも人生を動かしているし、ひいては世界経済を動かしている、もしかしたらこれは、人間にとって、しばしば意思決定のよりどころであるのかもしれない、と思えます。

一方、冷静に身のまわりを見渡せば、私が何者であるかそして私が何を願っているか、ということとは何の関係もなさそうに、目の前にある世界はまさに客観的現実として動いている、ように見える。ここにあるこの現実世界は、だれが感じとるかにかかわりなく、同じ現実世界であるはずです。この現実世界の中にある私のこの身体も、他のどの人体とも同じように客観的にここにある。そうであるとすれば、この現実世界をいくら詳しく調べても、私とはこの世界にとって特別な何かだ、という結論は得られない。この私の身体の中にだけ何か神秘的なものがいるという客観的証拠は見つからない。物質であるこの身体が何か神秘的な超越的なものにつながっているという理屈はありえない、と思えます。

「私が私だ(私が世界を感じていることを感じられるのは私だけだ)」と叫んでも、人間ならだれでもそう言うでしょうから、この私が世界の中心の私である証拠にはならない。「私が私の右手を上げようとすれば、ほら、私のこの右手が上がるから、いま右手を上げている人間が私だ」と言っても、やはり、だれでもそう言うだろう、ということになってしまう。

しかしまた一方、私は現実にここにあるこの私の身体の中にいる、としか思えない。

このように私たちは、目の前のここには、私とは関係なく客観的現実の世界があり、それを感じとっているこの自分はこの客観的現実の中にある自分の身体だとしか感じられない。つまり「世界は、はっきりとここにあるし、私は、はっきりとその中にいる」(拙稿19章11)。

これはあたりまえではないか、と思える。常識ですね。私たちは、毎日、これがあたりまえと感じて暮らしています。皆がそう思ってうまく暮らしているのだからそれでいいではないか、という現実主義がある。それはそれで納得がいきます。

私たちは毎日、現実の問題にかかわるだけで十分忙しいし、実際、今すぐになんとかしなければならないこと以外に気を回している暇はない。それに、こういう現実主義こそが人々の共感を得て、その共感のうえで、人々との話が通じるし、まじめに付き合ってもらえるわけです。結局、現実世界にしっかりはまりこんで懸命に走っている人間がえらい。私たちにとって関心を持つべきものは、今すぐすること、今すぐできること、それ以外にない。関心を持つべきことは、目の前のこの現実の中にしかない。そう思える。そう思いたい。という気持ちはいかにも現実的です。常識といってよいでしょう。

しかしながら、拙稿で何度も繰り返し述べているように、この常識的な感じ方はおかしい(たとえば拙稿19章「私はここにいる―私と世界とのいかがわしい関係」)。論理的に無理があります。特に、この世はそもそもどういう仕掛けで動いているのかとか、この客観的現実の根底はどうなっているのかとか、大自然はどういう仕組みでできているのか、などということに興味を持ってまじめに調べようとすると、この常識のおかしなところにひっかかる。そのため、近代科学が始まっていらい、まず科学者と哲学者がこれにひっかかり、それにつられて宗教家、文学者、社会思想家、倫理学者、心理学者、その他もろもろの理論家がひっかかっていきました。

コペルニクスの地動説(一五四三年 ニコラウス・コペルニクス 『天球の回転について』既出)以来の近代哲学の混乱は、まさにここから来ています。まず、デカルト1596 ?1650)の「我思う、故に我あり(一六三七年 ルネ・デカルト方法序説』既出)」がここから来ている。近代から現代に連なる大哲学者たち、カント(1724-1804)ウィトゲンシュタイン(1889-1951)ハイデッガー(1889-1976)も、存在に関する問題をいろいろ議論していますが、最後にはやっぱり大きな謎が残る、というようなことを書いています。現代の科学者を悩ましているクオリア心脳問題も意識(拙稿9章)や自由意志(拙稿10章)の問題もここから来ています。

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人類最大の謎(2)

2010-07-17 | xx3人類最大の謎

なぜ人間は他の動物と違って、客観的な世界の中に客観的に自分の姿を見てとるのか? それは(拙稿の見解では)、私たちが、仲間の目で見て世界はどう見えるか、仲間から自分がどう見えるか、客観的に自分は何をしているように見えるのか、常にそれを予測しその予測に対応して行動を形成するような身体になっているからです。それは、拙稿の見解によれば、人類が、仲間の人間と協力してきわめて緻密な社会集団を作ることにより効率よく食料を獲得し脳の大きな手間のかかる子を確実に出産養育して繁殖することに成功した動物だからです(拙稿22章「 私にはなぜ私の人生があるのか」)。

人間が世界を見てとる身体的な仕組みがそうしてできあがったとすれば、この世界の物事が私たちにとって分かりやすく、記憶したり予測したり言葉で語り合ったするのにとても便利に仕分けられているわけが納得できます。この世はなぜこうであるのか? 世界の分節化はいかになされているのか? 存在するものたちはなぜこのように存在しているのか? それは(拙稿の見解によれば)こういう理由なのでしょう。

なぜこんな話をするかというと、この話に、本章のテーマを展開するための大事なヒントが隠されているからです。どうも(拙稿の憶測では)、私たちの身体のここらへんの仕組みに、人類最大の謎を解くカギがありそうです。

さて、人間は自分が客観的世界の中にいることを知っている。そして(科学を理解していれば)客観的世界にあるものはすべて物質だと知っている。その物質である自分がなぜ感情や理性や自我や意志を持っているのか? 脳がそれらを作り出しているとも思える。しかし物質は客観的に観察できる物質現象しか作り出さない。一方、私が感じている自分のこの感情や理性や自我や意志は客観的に観察できる現象ではない。脳を解剖しても(顕微鏡を使っても)それらを目で見ることはできない。科学を理解すればするほど、この不思議さは深くなってきます。 

近代科学が始まったころからずっと、哲学者や科学者は、この問題には悩まされています。現代では、むしろ哲学者よりも科学者が悩んでいる。現代の哲学者はこういう問題にはプロですから、古典を解説する仕事として割りきってしまう。あるいはクリエィティブに仕事する場合は、流派ごとにさっさと細かく専門化して、書きやすい論文を書くことに忙しい。一方、科学者は論理に強いわりには哲学にはアマチュアなので、自分内部の問題として悩むことになります。

現代科学は、物質世界については、どこまでも詳しく説明できるかのように見えます。いまや生命の謎も、科学の理論で完全に説明できそうです。さらにもう少しで、人間の精神さえも脳の物質現象として説明しつくせるかのようでもある。しかし、最も簡単な質問において現代科学はつまづく。今はなぜ今なのか? ここはなぜここであるのか? 世界を観察しているこの私はなぜこの私なのか? 

物理学の用語で方程式の境界条件という。観察対象を特定するこの条件値は物理法則によっては与えられない。今はこの今であって、ここはこのここである、という事実は事実であるからというしかない。科学理論をいくら精緻に研究してもこの答えは決して出ない。この問題に気づいている科学者は、哲学にその意味の解明を期待するしかないのです。

たしかに科学では説明できないのに、私たちは、今はこの今であって、ここはこのここである、ということを確信しています。そして世界を感じとっているのはこの私だ、と確信している。では、私たちはなぜ今は今で、ここはここだと思っているのか? なぜ、世界を観察しているのはこの私だと思っているのか? このとき私たちの脳神経系はどのような状態になっているのでしょうか?

現代の脳科学の知見からは、自分が客観的現実世界の中にいるという感覚は、脳幹、大脳基底核、頭頂葉、前頭葉などの神経活動の連携によって起こるらしいことが分っています。科学者の側からは、現代脳科学の先端的仮説を援用して哲学古来の存在の謎を解明すること(つまりデカルト二元論を一元化すること)が可能になるという主張もあります(一九九四年 アントニオ・ダマジオデカルトの誤謬:感情、理性、および脳』既出、二〇〇三年 アントニオ・ダマジオスピノザを探して:喜び、悲しみと感じる脳』既出)。

ちなみに、人類に備わる客観的現実感を表現する脳神経機構に関して拙稿の見解では、動物が空間を動き回るときに身体の向きと位置の変化を周囲の風景から割り出す仕組みから進化したと考えます。また目の前の世界が現実であるという感覚は、私たちが仲間と共有する集団的視座に憑依して世界を見るという人類特有の憑依機構を利用して行われているとする仮説を採用しています。これら理論については拙稿の他の章に詳述してあるのでご参照ください(拙稿9章「私はここにいる」など)。

脳神経科学の知見にもとづく現実感、存在感の理論は、本章のテーマとして取り上げている哲学的謎が現れる身体機構を推測する点で重要です。

しかし、脳神経科学からのアプローチだけで、この問題が解明できるという考え方は(拙稿の見解によれば)、やはり無理があるでしょう。科学は、結局は、客観的世界を観察にもとづいて言葉を使って理論化することしかできません。科学者が自分の脳をいくら詳しく観察して理論化しても、それは他人の脳を観察することとまったく同じことになってしまいます。科学の理論からこぼれ落ちるこの私自身の感覚と感情は、そのしかたでは拾えません。人間の主観による現実感覚の意識を科学理論として表現することは先端物理学の超ひも理論よりむずかしい、という見解もあります(二〇〇六年 ニコラス・ハンフリー赤を見る:意識の研究[邦訳: ニコラス ハンフリー (著) 赤を見る?感覚の進化と意識の存在理由 ])。

私たち人間は、広い世界の中に多くの人々がいて、そのうちの一人として自分のこの身体がある、と思っている。実際、世界はどこまでも大きくて、その中に多くの人々がいて、そのうちの一人として自分のこの身体がある、つまりこの客観的世界の中に自分はいる、と思っていますね。そう思っていない人はまずいません。もし仮にそう思っていない人がいるとすれば、そういう人は赤ちゃんや認知症の老人や人間以外の動物と同じように言語が理解できない。人類の言語は、(拙稿の見解によれば)客観的世界の共有を下敷きにして作られているからです拙稿8章「私はなぜ言葉が分かるのか」)。

世界は、今ここにこのように客観的に現実としてあって、その中に多くの人々がいて、そのうちの一人として自分がいる。私の目の前にこのようにあってその中を私が動きまわっている客観的現実。これは私が目で見て手で触っているばかりでなく、全身で感じとっている存在です。はっきりとここにあって、私がそれを感じようと感じるまいと、関係なく、この現実世界は存在している、としか思えません。これは私だけでなく人間ならばだれもが同じこの現実世界を感じている、と思えます。

そのことと、私のこの身体がこうしてこの現実世界全体を感じとっているということとの関係から謎が立ちあがってくる。あるいは、もっと長々と正確にいえば、私がそれを感じようと感じるまいと関係なくこの現実世界ははっきりとここに存在している、ということと、私のこの身体だけがこうして体感でこの現実世界全体を感じとっているということとの関係からこの謎は立ちあがってくる。私が見るところ、世界は私の周りに広がっている。私は世界の中心にいて世界を感じとっている、ように思える。

しかしそう思う一方、私以外のどの人間も私と同じように世界を感じとっているはずです。そうに違いないと思えます。そうであれば、この現実世界とそれを感じとっている人間との関係は、どの人間にとっても同じということになる。そうであれば、なぜ私はこの私なのか?他のどの人間が私であってもおかしくないはずではないでしょうか? 実際、どの人間が語るときも、自分のことを私と言う。それなのに、私にとっては、なぜこの私だけが私なのか? 

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人類最大の謎(1)

2010-07-10 | xx3人類最大の謎

(23 人類最大の謎  begin)

23 人類最大の謎

私はなぜ今ここに生きているのだろうか? 

今はなぜ今なのか? ここはなぜここであるのか? 私はなぜこの私なのか? 存在の謎というか、この世で最大の謎というか。

この社会で私の人生がどうか、という細かい具体的な問題ではなくて、私がどの人間だとしても、今ここにいるということがどういう意味なのか、私が今ここにいて、この世をこうして感じとっているということは、どういうことなのか? 

これはこの世で一番重要な、人類最大の問題である、という考え方がある。宗教や哲学はこういう考えから出てきた。一方、こういう大きすぎるような抽象的な問題は、実はたいてい、どうでもいいことである、というニヒルな考え方もある。筆者の考えに近い。まあ、それぞれ、それなりにもっともな考え方です。

いずれにしろ、すぐ答えがでるはずはないし、万一、うまく話が進んだとしても、それは実生活にはまったく役に立たない話でしょう。生活者的観点からいえば、どうでもいいことです。しかし、一方まじめに考えれば、たしかにこれは、謎といえば謎です。すごい謎だといえる。たとえば小学生のように純粋な頭で考えれば、かなり不思議な感じがするだろうということは、大人の筆者でも、想像できます。その観点からは、最高に不思議ともいえる。最高に不思議だということにすれば、これは、人間が感じる最大の謎のひとつと言ってもよいのではないでしょうか?

まあ、筆者個人としては、いま鼻風邪を引いているのかあるいは花粉症なのか、いずれにしろくしゃみが止まらないとか、あるいは寝間着のままで昼までこうしていては妻の機嫌を損ねてまずいだとか、目の前の問題のほうが重要だと思えますので、なかなか人類の一人としてこの世で最大の謎を考える気にはならない。しかしまったく考えないということでもありません。忙しい現代人の中では、どちらかといえば考えるほうといえるでしょう。

こういうことを考えるほうがえらいと言う人がいますが、そうではないでしょう。逆に考えないほうがえらいと言う人もいますが、これも違うでしょう。しかしながらいずれにせよ、どちらがどうえらいかという話題については、拙稿の興味からは、実は重要な問題であると思われるので、この章の中でゆっくり考えてみようと思います。

さて、なぜ人間は哲学をするのか、などという話をこうして書き連ねている筆者としては、人間がこういうとほうもなく大きな、大きすぎる謎を不思議だと感じるという事実に興味がある。この謎は、実に大きいけれども実生活には役に立ちそうもない。しかし大きいといえば実に大きい。大きいというだけで面白いとはいえる。哲学の大問題とも言われている。しかし大きすぎると思われているために、現代ではこれを職業的に扱っている哲学者はあまりいない。かえってアマチュアが興味を持つ話題になっているようです。

世界とは何か?自我とは何か?存在とは何か? もしこれが人類最大の謎であるとするならば、もちろん、簡単に解けるはずがない。図書館に行けば、ギリシャ哲学から現代哲学まで古今の哲学書、思想書が山のように積まれている。たとえば、伝統的哲学では、このような問題は形而上学に分類されている。

かつて哲学が華やかな学問であったころ、形而上学は哲学のそのまた核心に迫る学問であるといわれて、たいへん人気がありました。形而上学に関連する哲学テーマについては、これを第一哲学と呼んだアリストテレス(BC三三〇年頃 アリストテレス形而上学』)以来、今日までに何十万という著作論文が世界中で書かれています。今日でも、まじめに哲学を考える人々にとっては、形而上学という言葉は、もっとも高尚な学問をあらわす、という印象を持たれているようです。さて、そんな誇り高い伝統を持つ学問領域に対して拙稿ごときが、今から何かを書いたとしても、うまくいって古典の下手な焼き直しにしか見えないでしょう。だれも読んでくれない。

そこで、視点をすこしずらして、解けない問題をどう考えるか、という話にすり替えてみましょう。いわば形而上学の形而上学あるいはメタ形而上学の話として書いてみる。これなら、なんとか読んでもよさそうな話が書けるかもしれませんね。

さて、私はなぜ今ここに生きているのだろうか? その答えはさておくとして、これがなぜ問題になるのか? 私たちは、なぜこれを大いなる謎だと思うのでしょうか? そしてそれをなぜ考えようとするのか? あるいはなぜ考えようとしないのか? こういうことを考えるほうがえらいのか、考えないほうがえらいのか? 本章では、そこらへんのところを調べてみることにします。

まずは問題の背景を見まわしてみましょう。

拙稿本章のテーマは、拙稿の第一部や第二部、第三部などで述べたいくつかの話題、たとえば「人間はなぜ哲学をするのか?(拙稿3章)」とか、 「存在はなぜ存在するのか?(拙稿13章)」とかいうたぐいの議論を延長したものとみなせるでしょう。これらは、形而上学に含まれる存在論(二〇〇三年 バリー・スミス『存在論』既出)といわれる分野に分類される議論ですが、正確にいえば、存在論そのものというよりも、存在論はなぜ存在するのか、という問題にあたります。存在論の存在論。メタ形而上学、メタメタフィジックスというような議論になるでしょうか? 

ちなみに拙稿は哲学用語はなるべく使わない方針なので、以後もこれまでと同じように、形而上学とか存在論など哲学で使われる専門的な概念にはかかわらず、ふつうの言葉だけで進みます。たとえば存在とか感覚とかいう言葉も哲学用語ではなくて、ふつうに使う意味で使います。ただやむを得ずに作った(たとえば憑依などという)拙稿独自の造語がいくつかあります。それらは拙稿の基本概念であると同時に、ふつうの言葉で表現すると長くなりすぎるので、しかたなく導入したものです。ハイパーリンクで索引できるようになっていますので、どの文脈でどう使われているかをお読みいただければ分かりやすいはずです。どうぞご利用ください。

さて、私たち人間は、目や耳など身体の感覚器でいま感じとっているこの場の場面ばかりではなく、過去や未来、あるいは別の場所、別の視点、あるいはさらに想像上の別の状況が現実の延長として存在することを想像できる(二〇〇八年 ニラ・リーバーマン、ヤーコフ・トロープ『此処と今を超越することの心理学』既出)。人間以外の動物はこれができない。拙稿本章の議論では、この点が大事なヒントになります。

私たちが感じるこの世のすべて、つまり客観的現実世界全体は、(拙稿の見解によれば)私たちの脳に備わっている憑依機構が作動することで作られる。私たちは、目が覚めているときはほとんどの場合、仲間の視座に憑依して仲間(他者あるいは社会)の運動感覚との共鳴を下敷きにして身の回りの環境を認知している。その仕組みで私たちは、無意識のうちに世界を仲間の視点から見ている。当然、私たちは、私たちが仲間の視点から感じとっている世界の一部分である自分の身体を自分だと思っている。

人間以外の動物は(拙稿の見解によれば)憑依機構を備えていないので、仲間(他者)の運動感覚や感情がはっきりつかめない。人間が仲間との運動感覚の共鳴によって作られる客観的世界の存在を感じられるのに対して、人間以外の動物たちはそれを感じられないはずです。つまり人間以外の動物には、客観的現実世界というはっきりしたものはない。

人間は、仲間の視点から見えるはずの世界をはっきりと感じとってそれを客観的現実と思っている。その中にはっきりとあるように感じられる自分の姿をいつも知っている(拙稿12章「私はなぜあるのか」)。私たちは、はっきり目が覚めているときは、自分が何をしているか知っています。特に、警戒して神経が高ぶっているときほど、しっかり客観的に自分を見ています。

私たちは、ふつう目が覚めているときはいつも、よほど何かに注意を集中して(我を忘れて)いるとき以外は、いつも他人から見た自分を知っている。それだけ人間は無意識のうちに人の目を気にして生きている、といえます。このことを私たちは、自意識がある、といっています。人間以外の動物には、自意識はない。人の目を気にしない赤ちゃんや認知症の老人にも自意識はない。

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私にはなぜ私の人生があるのか(15)

2010-07-04 | xx2私にはなぜ私の人生があるのか

このように考えてくると、現代人が自分や家族の人生がどうだとか、どうなるかとかを、いつも真剣に考えていることは当然である、と思えます。明日の自分や家族の人生に関心を持たないような身体を持つ人々は、手間のかかる大きな頭脳を持った子の育児を遂行することができないため子孫を残せず消えていった、という推論が得られるからです。

ですから私たちが他の動物と違って、「幸せな結婚をしたい」とか「出世したい」とか「金持ちになりたい」とか「子供を幸せにしたい」とか「収入が減ったら困る」とか「歳を取るのは嫌だ」とか「死ぬのは怖い」とか、何年も先の人生の問題を悩むことは、まさに、私たちが、これほど頭脳が大きい身体を子孫に引き継いでいく動物である以上、逃れようがないことなのです。

以上の拙稿の仮説が正しいとすれば、人生保持機構は、家族や仲間の視点から

見てとれる将来の自分たちの姿を(存在感を伴う現実として客観的に)想像して、その想像に対して自分の身体がどう反応するかを感じとることで、現在の自分の行為を形成する機能としてできあがっているはずです。

たとえば生まれた子供と暮らす自分の姿を想像することで身体が暖かくなって心地よいと感じとった場合、子供を作る行為はポジティブに評価されて、促進される。その想像が心地悪く、背中がひんやりする感じがする場合は、ネガティブな反応が起こって、忌避される、という具合でしょう。これが人生保持機構の働きです。

人生保持機構は過去に対しても働きます。家族や仲間の視点から

見てとる過去の自分の姿を(存在感を伴う現実として客観的に)回想したときに引き起こされる自分の身体の反応を感じとって、現在の行為に反映する。たとえば親孝行せねばな、とか、兄弟や仲間を助けてやろう、とかいう(考えや)行為が起こる。

大事なことは、未来や過去のこれらの想像や記憶が存在感を伴う現実世界で起こることであり、また起こったことだ、と感じられるところです。それが現実であると感じるということは、拙稿の見解では、身体がそれに反応して動く、ということと同じことです。逆にいえば、自分の身体がそれに反応することを感じとるとき、私たちはそれを現実という。つまり、人間の身体は、過去の自分や未来の自分を思い描くことで、動物の身体が目の前の現実に対して反射運動を起こすのと同じように、反射的に動く。人間以外の動物は人生保持機構を持たないので、

過去の自分や未来の自分を思い描くことができない。つまり人間以外の動物は、目の前でいま起きている物事以外に反応することができない。

たとえば、自分が産んだ子が腕の中にいれば、サルはこれを抱きしめる。人間も同じです。けれども、サルは、過去に出産の経験があるとしても、まだ次の子を産んでいないときにこれから産むであろう子が腕の中にいると想像してこれを抱き締めることを想像することはしません。ところが、育児の経験を持つ人間は、そういう想像をすると、腕の筋肉がわずかに動いて想像上の赤ちゃんを抱こうとするように運動神経系が活動する。内分泌線も産婦のような活動をする。このとき、その人はかわいい赤ちゃんを抱くことを考えている。こういう働きが、人間の身体にはある。

私たちの身体は(拙稿の見解では)、客観的現実がこれからどう変化するか予測して、その予測結果に反応して運動の準備が起こり、自律神経系が活性化され、内分泌腺が活動する。つまり人間は、現在の状況にしか反応しない他の動物と違って、将来の予測に反応して現在の身体活動が起こるようになっている。何日も先の、何年も先の、将来に起こるであろうと予測される物事に対して、まるで今起こっていることのように身体が反応する。こういう場合(拙稿の見解では)私たちは、自分は考えている、と思う。予測の精度は事後の経験と照合して評価学習される。こうして予測の精度は学習によって向上していく。子供より大人が、若い人より老人が、現実的なのはこのためでしょう。

考えることを重ねていくと、過去を教訓として未来をよく予測することができる。現在のその時その場だけの状況に具体的に対応するばかりではなく、遠い目標を定めて広い時間空間の中で自分がおかれた状況を予測し、それに身体を応答させることができる(二〇〇八年 ニラ・リーバーマン、ヤーコフ・トロープ『此処と今を超越することの心理学』)。つまり人間は、想像した状況に対応して自分の身体を反応させることで、物事を的確に予測できる。この働きによる行動のコントロールが、私たちが理性といっているものにあたる、といえます。

一方、サルが目の前の子を抱く、というようなその時その場だけで作動する反射運動の連鎖による行動の発現を、私たちは本能という。とすれば、本能といわれるものの働きが現在感覚器が感知する目の前の現実だけに反応するのに対して、理性といわれるものの働きは過去から未来へかけての広い時空の中での、客観的に予測される仮想の現実に対応する、といえる。ここで客観的な仮想の現実というのは、自分の感覚感知だけでなく、むしろ仲間の視点に憑依して見た世界の予測から感じとれる現実、ということです。

いずれにせよ、動物はふつう身体がおかれている環境の中で、現在の身体が受けている感覚にだけ対応する。未来を予測して対応する場合もないことはないが、それはこれから数秒、あるいは数分、あるいは長くても数時間後に起こる変化です。動物にとってその数秒あるいは数時間は、現在の瞬間をそのまま拡張したものといえます。イヌなどは投げられたフリスビーがどこに行くか予測して走っていきます。現在の身体が受けている感覚から数秒後の状況変化を予測して、それに素早く対応するような能力を持っている、といえるでしょう。

人間の場合、この予測は、現在の身体状態から予測される直近の状況変化ばかりでなく、むしろ現在の身体状態から座標を変換して、仲間の視座に憑依

することで得られる客観的な時空間における遠い未来あるいは過去の自分の姿を対象として行われる。その場合、現在の行動は、その遠い未来あるいは過去の予測ないし想起に対応して形成される長期にわたる目標を持った計画行動の一環としてなされる。

現生人類は、この能力によって緻密な社会を形成して、脳の大きい子供を確実に育成するシステムを完成した。その結果、きわめて柔軟かつ効率的に地球上の多様な環境に対応して拡散し増殖した、と考えられます。

つまり(拙稿の見解では)私たち人類は、脳の中で仲間に憑依し、

仲間の視座から見た客観的な時空間における将来の自分たちの姿がおかれる状況を見てとって、その将来状況が現実としていま目の前にあるかのように身体が反射的反応を起こすことで思考し、行動している。

その仲間の視座から見た自分の姿を感じながら、過去を想起し未来を予測する。私たちはそれを自分の人生だと思っている。人類が脳の中に作りだしたこの仕組みが人生保持機構です。その結果、人類は緻密な社会を作り上げ、環境適応の能力がいちじるしく向上して地球上で大繁栄した。その子孫である私たちは、この人生保持機構を祖先から受け継いでいる。これがいま、私たちがそれぞれの人生を持ち、懸命にそれを生きていることの理由といえるでしょう。

人生。日本語でも中国語でも人生という字を使いますが、英語ではライフという。ドイツ語ではレーベン。フランス語ではヴィー。イタリア語ではヴィタといいます。英語では生命と人生、両方とも同じライフです。英語に限らず西洋語では生命と人生は同じ言葉です。日本語でも生き様というように同じ語感ですね。生あるものが生を生きる様は人生と同じ、という考え方をする。つまり、私たち人間は、人間以外のものであっても、命あるものは人生保持機構を持っている、と直感する。むしろ人生保持機構を持っているように見える存在を「命がある」と思う。

科学者でないふつうの人々は、虫でも鳥でも動物はみな、人生保持機構を持っている、と素朴に考えています。幼稚園児が「虫さんは、はやく大きくなりたくて、いっしょうけんめい、葉っぱを食べているの」というとき、大人もその通りだと感じる(拙稿7章「命はなぜあるのか)。記憶能力も予測能力もない生物が計画的行動をするということは、論理的には明らかに間違いですが、ふつう人々はそんなことは気にしない。生物観、動物観は、科学者とそうでない人とはかなり違っています。そういうふつうの人の直感に根ざしている人生という観念は、人類の世界認知の仕組みをよく表現しているといえます(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」)。

ギリシア神話によると、神様に作られた最初の女性パンドラは、開けてはいけないと言われた箱を開けてしまう。たちまち、あらゆる災難と苦痛がその中から飛び出てきて、世界中に広がってしまった。最後に「希望」だけが残った。人類に贈られた人生という箱の話なのでしょう。

(22 私にはなぜ私の人生があるのか? end)

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