なぜ「世界は、はっきりとここにあるし、私は、はっきりとその中にいる」のか?
この問題は、あまりにも神秘的だから神の存在と関係があるという考えも出てくる。この世界の存在理由がよく分からないのは、それが神様によって作られたからだ、というような理論がでてきます。実際、近代の西洋哲学では、形而上学は神の存在をめぐる議論から発展してきました。東洋の哲学でも、昔から無窮とか無我とかの概念が最も重要なものとされていて、その謎は深すぎて人知の及ぶところではない、という考え方などがあるようです。
古今東西の哲学者たちがこれを根源の謎といっているのであれば、本章のタイトルとして採用した「人類最大の謎」というおおげさな表現も、まあまあ許されるでしょうね。
問題はこうです。
いまここにある現実の世界は、現実であるからして、だれにとっても同じものです。というか、現実はただ一つ、いま私が目の前に見ているここにあるこの現実しかない。だから現実といわれる。そうであるならば、この現実はだれが観察しても同じものでしょう。
この現実世界に私はいる。そうであれば「世界は、はっきりとここにあるし、私は、はっきりとその中にいる」ということです。ところがこの話には破れ目があります。その破れ目は私の身体です。
ある人がここにあるこの私の身体を観察する。だれが観察してもこの私の身体は、客観的現実としてのひとつの物質です。この身体をいくら観察しても、生きたまま脳や内臓のすみずみ、、それら細胞の分子構造にまで解剖して顕微鏡で見ても、この身体は一つの人体であって、他の人体とあまり変わりがない。私のこの人体を観察しても、他の人体を観察して分かることしか分からないはずです。
この身体が、この私がいま感じていることを感じているかどうかは、客観的現実としては観察できない。私だけは私がいま感じていることを感じているということが体感で分かりますが、私以外のだれも私の身体が感じていることを体感としては感じられないでしょう。こういう場合、私にしか感じられないことは客観的現実とはいえない。だれもがそれが存在することを感じとれる場合に限って、それを客観的現実ということになっているからです。
このように、客観的現実世界をいくら調べても、物質であるこの私の身体がいまここでこの現実を感じているこの私だ、という私のこの体感自体を客観的に観察することはできない。私以外のだれもそれを観察できないものは、客観的現実とはいえないのではないか。そうであるとすれば、私が感じている私というものは客観的現実世界の中にはっきりといるとはいえない、という結論になります。
つまり「世界ははっきりとここにあるし、私ははっきりとその中にいる」という考えは間違いです。そうであるとすれば、「世界がはっきりとここにある」ということが間違いなのか、あるいは「私がはっきりとその中にいる」ということが間違いなのか、あるいはその両方とも間違いなのか、どれかでしょう。
この人類最大の謎を、どう考えたらよいのか? すぐには解けそうにないことはたしかですね。しかしここであきらめてしまっては話は終わってしまうので、拙稿としては、あきらめずに進める方向を考えてみます。そこで、この謎はなぜ解けそうにないのか、あるいはそもそもこの謎はどういう謎になっているのか、をまずは見ていこうと思います。
もう少しくわしく、この謎の作られ方を調べてみましょう。
まず「世界は、はっきりとここにある」ということはどういうことなのか?どんな場合でも、そういうことであるのか、あるいはそうではないこともあり得るのか、そこからして疑ってみることにします。
はっきりとここにある、とはどういうことか? それがだれにとっても客観的な現実であるということでしょうか? もしそうであるとしても、まず客観的現実というものは、本当にだれにとっても同じものなのでしょうか?
たしかに、人間ならだれもが「世界は、はっきりとここにある」と思っているに違いない、と思える。しかし、今ここにあると感じられる世界が現実の本物の世界だ、と思えるという状態は、私の内部の状態であるから、私が今これが世界だと思っているものが他の人が世界だと思っているものと同じだという証拠はない。私が、他の人も私が世界だと思っているものを世界だと思っているだろうと思っているだけで、それがそうであるという証拠はない。それを確かめるために他の人に質問してみてもだめです。
だれかをつかまえて、世界ははっきりとここにあると感じているかどうか、質問してみましょう。すると人間だれもが「私は『世界ははっきりとここにある』と感じている」と言うでしょう。しかしその言葉の形は同じであるけれども、それぞれの人が感じている世界が同じ一つのものである、という証拠は、どこにもありませんね。
それどころか、それぞれの人が感じとっている世界は、それぞれその人だけが感じているものであって、互いに同じものであるかどうかを調べる手段はないのではないでしょうか? たしかに言葉で語りあえば話は通じる。「この現実がここにあるよね」ということでだれもが納得します。
しかしそれぞれの人は、その人だけが感じている現実を感じてそう言っているのではないか? つきつめれば、私以外の人が現実世界について何を語っていようとも、その人が私が感じているこの世界を感じているかどうかは分からない。言葉でどう言おうとも、永久にそのことは分からない。私が感じているこの世界を私以外のだれかが感じているということはないのかもしれない。それを否定することができない。そうであるとすれば、今ここにあるこの現実世界をこのように感じられるのは、つきつめれば私だけかもしれない、ということになる。
たとえば、ここにあるこのリンゴの赤さをこのような鮮やかさの赤だと感じるのは、私だけではないだろうか? 他の人も「本当にそのリンゴは鮮やかに赤いね」と言うけれども、その赤さが私がいま感じている赤さと同じであるという証拠はどこにもない(これを哲学ではクオリア問題という)。こういうように、この世界がこのような世界であると感じていることがたしかな人間は、私だけだ、ということになる。
もしそうであれば、他の人と違って私だけが、今ここにあるとなまなましく感じられるこの現実世界の存在の証人となるわけだから、その点において私は世界の中にたくさんいる他の人とは違って、私がいまここに感じとっているこのなまなましい現実世界が存在するための特別の関係者ということになる。そうだとすると、私はこの世界の内部にはいない。なぜならばこの世界の中にいる人はみな物質として同じような作りだから、私だけが世界と特別の関係を持つことはできないはずだからである。したがって、この世界を感じとっているに違いないことがはっきりしているただ一人の人間であるこの私が、ほかの人間たちと一緒に区別なくこの世界の中にいるということはおかしい、という結論に行きつく。
こういうふうに考えていくと、「世界がはっきりとここにある」ということは間違いであるかもしれないし、さらに「私がはっきりと世界の中にいる」ということは、おそらく間違いだ、ということになる。
しかしこの結論は、私たちの直感では受け入れがたい。そんなはずはない、と言いたくなります。この世界の在り方がおかしいのか、私がここにいるということがおかしいのか、それとも私たちの感じ方がおかしいのか? 直感は信用できないということなのか? いずれにせよ、そんなはずがあるはずがない、と思える。では、どんなはずならよいのか、という問題になる。
ここにむずかしい壁があるようです。さてそれでは、このようなむずかしそうな壁(ハードプロブレム)をどう乗り越えるか? そもそも乗り越えようとするべきなのか? ここからは、この問題に対する拙稿のアプローチを、述べてみます。