たとえば、今年七十五歳になりとっくに隠居生活というべき筆者の人生ですが、三食を食べて散歩してあるいはテレビを見て夜になれば寝ることで一日が過ぎていきます。朝起きて空腹を感じる、というか、習慣で朝食を食べる。トースターに食パンを一切れ入れてスイッチを押します。
トースターがあるから私はトーストを食べるのか?コーヒーメーカーがあるから私はコーヒーを沸かしているのか?
いや、私がトーストを食べるためにトースターがある。あるいはコーヒーを沸かすためにコーヒーメーカーがある。と私は実は思っています。
これらを使うことで無事に朝食が済み、次に靴を履いて散歩に出かけることができます。この靴はだいぶ前に買って毎日履いているので少々くたびれていますがまだ使える。むしろ足になじんで履き心地がよろしい。
この靴を履いて(去年からはマスクもつけて)外出することが私の人生を作っている、というよりも、今日外出するという私の人生の一日がこの靴の存在を作っている、ともいえます。
私はなぜ靴を履いて外出するのか?裸足で外をスタスタあるいていると救急車が来て認知症病院に入れられてしまうからです。あるいは人が見ていないうちに道を散歩できたとしても足の裏が痛くなって毎日は続けられないからです。
まあ、人に聞かれればそう答えるものの、実際に玄関で靴を履くときにそんなことは考えていないようです。何も考えずにいつの間にか靴を履いている。あるいはこの靴にしようと選ぶ時も、なぜ履き物を履かなければいけないか、という問題は頭に浮かんでいません。
この場合、靴一般が存在しているのではなくて、いま履こうとしているその具体的な靴が存在しています。
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(79 物事と人生の関係について begin)
79 物事と人生の関係について
この世にある物事と自分の人生とは何の関係があるのか?
だれでも一度は考えることがあるでしょう。
明治の賢人も三〇歳のころ、宇宙と人生の構造についての独自の形而上学的な考察から自分の思想を形成したようです。
空を劃して居る之を物といひ、時に沿うて起る之を事といふ、事物を離れて心なく、心を離れて事物なし、故に事物の変遷推移を名づけて人生といふ(一八九六年 夏目漱石「人生」)
民法第八五条 この法律において「物」とは、有体物をいう。
「有体物」の意味は法律で、物理的に空間の一部を占めて有形的存在をもつ物のことです。たしかに漱石の言うように、空を劃していれば有体物です。
漱石の著作本は有体物ですが著作品の内容は無体物で所有権の対象ではなく著作権の対象である、となっています。小説家の人生にとって著作権は有体物である本よりも重要でしょう。宇宙の星々は有体物ですが天文学者でない普通の人の人生にとってはそれほど重要なものではありません。
自然科学の立場でいえば天体を構成する水素とヘリウムの核融合はこの宇宙の根源である、となりますが、私たち毎日の人生との関係でいえば核融合などより、ここにあって手に触れ目に見えるランチのおいしさや財布に入っているお札の数のほうが重要です。
今ここにあるものだけが私たちにとって重要であって、その重要さそのものが存在感を作りそれがこの世界を作り私たちの人生を作っている、といえます。たとえば次のような考え方です。
すなはち現実界の「物」は、かやうに何かの点で人間との聞に接点をもってゐるのであって、この接点において物が「物」として生きるのであり、ここに生活世界の物の本質があるのである。それと同時にまた、人聞の行為の本質的なものが、物との交渉を通じてこの接点において覗きみられるのである。(一九七一年 結城錦一「物とは何か : 物の人間学的粗描」)
あるいは拙稿の見解:この世界にある物事は、結局は、私たちの生活にその物事が必要だから存在している。その物事がそのように存在すると思うことによって私たちの身体がうまく動いてじょうずに生きていくために、それは存在している。その物事がそのように存在すると思うことによって私たちが仲間と通じ合い協力しあってうまく生活していくために、その物事はだれにとっても同じように客観的に存在している。(拙稿25章「存在は理論なのか」)
こういう考え方をすれば、物事が人生を作っているというよりも、人生が物事を作っている、とみることができます。
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日本という物語(二〇〇三年 船曳建夫「日本人論再考」)はいつまで語られ続けるのか?賞味期限が近付いていないでしょうか?
日本人は特別な人々か?たしかに特別ではあるかもしれない。しかし特別であっても、それはどの国の人々もそれぞれ特別である、という程度に特別なだけではないのでしょうか?
幕末以来、欧米列強の脅威におびえながらそれから目をそらさず対等の国際的地位を目指して努力し続けたこの国民国家は、百五十年かけて目標を大きく超え最高に豊かな先進国となりました。それは間違いなくまことに立派な達成です。しかし勝利を勝ち取った者はその瞬間、当然競争の目的を失う。苦境を脱し勝ち抜くことがアイデンティティであった集団は勝った後何をモティベーションとして生きていくのか?
日本人という集団がどうであるかという話はもうよいのではないか?しばらくは今の幸せを楽しんでいたい、と思うのではないでしょうか?
私たちが、もしそう思えるようになってしまっているとすれば、日本人論は売れなくなる。だれも真剣に語ろうとはしなくなります。おもしろいジョークであってマンガ(二〇〇八年 日丸屋秀和「ヘタリア Axis Powers」など)として楽しめるものであり続けるとしても。■
(yy78 日本人論の理論の理論 end)
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かつて日本人全体の集団意識を高揚し、国民を叱咤激励して欧米に対抗する姿勢を保たせることが日本人論の大きな役割でした。その時代は過ぎ去ったようです。
現代の日本人にとっての危険も不安も願望も欧米先進国の人々が抱えている問題と同質となりました。少子高齢化、所得格差、勤労意欲の減退、イノベーションの停滞、挑戦意欲の喪失、退屈倦怠 等々(拙稿75章「現代を生きる人々」)。すべて欧米人にとって深刻な問題です。
もしそうであるならば日本人というくくりでこのローカルな集団を概念化してその特徴と能力を論じるよりも、現代人の問題、現代先進国の問題、いずれは地球人類全体の課題という枠で論じるほうが説得力を増すようになってきているでしょう。
拙稿本章では日本人論というこの国のある種、特有な国際感覚について、その根底にあるらしい理論に注目してみました。
日本人は特殊な人々であるのか?宗教があるのかないのか?マルキシズムが好きなのか嫌いなのか?戦争が大嫌いなのか?大好きなのか?損得以外は関心がないのか?それとも実現しない理想を語ることが好きなのか?種々の日本人論が今でもあるようです。
日本人は和を尊ぶ、という説は本当か?日本人は集団主義か個人主義か(二〇一八年 高橋 正 英語英文学研究)?実態は単純な理論で割り切れないと分かってきました。
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現代の日本は間違いなく西洋先進国の一角を占めて安定しています。資本と技術を外国に移転することで富を得ています。実績の知的水準も高い。
自然科学系のノーベル賞受賞者の数は米国に次いでいます。科学論文評価も高い(2020年ネイチャーインデックスの大学ランキングではハーバード、スタンフォード、MIT、東大、オックスフォード、ケンブリッジ、中国科学技術大、北京大の順)。現代科学技術の基礎となる発明発見で日本人によるものは多い(青色レーザー、緑色蛍光タンパク質 、fMRI、IPS細胞、QRコード、福井関数、リチウムイオン電池など国内知名度は低いが世界的な貢献)。
スポーツもときどき世界一の選手を出す。事故や犯罪は少ない。高精度な生産品の品質は、価格は別として、いまでも世界一です。
日本人の達成度は、総じては世界一ではありませんが、かなり上層を占めていることは間違いありません。
この状況では、かつての欧米への劣等感も薄まっているでしょう。かといって新興の中華系諸国に対しては、過去にあった蔑視はほとんど消えているものの、逆転して劣等感を持つところまでは行っていないでしょう。
かつて強烈に感じ取っていた欧米先進国から排除され搾取されることの恐怖は消えています。アジアの近隣国がライバルになりあがってきたことに別種の緊張感は出てきているもののそのために感情的な自己意識が引き出されることはないようです。
欧米諸国に対しても中国他非西洋の新興国に対しても日本人であることが自分たちの弱点、ないし問題点であるとは感じていない。もちろん逆に日本人であることに優越を感じてもいません。自国はまあまあきちんとした国だ、くらいの自己評価のようです。
そのようである今日、国民共通の感情を下敷きにして日本人全体を論じようとする日本人論は迫力を欠いてきます。
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