幼い子供たちが群れて遊んでいる。いつのまにか日が暮れて、家に帰る時間が来る。遊び場でのゲームの終りが宣言される。がっかりした幼児は泣きそうな顔をします。終わりということの意味が、はっきり分かっているのです。それはゲームをゲームだと理解して、それを夢中で遊んで、全身で楽しんでいたということでしょう。
(拙稿の見解では)私たち人間にとって、自分の死は何の神秘もなく、何の意味もありません。ゲームのプレイヤーにとって、自分のプレイとは何の関係もない、たとえば雷雨によってゲームが突然打ち切られる、というだけのことです。ゲームというものは、もともとそういうものなのです。バーチャルの世界でゲームは永久に続けられることになっている。しかし、ゲームというものは、どれもが、リアルな物質でできた構造の中に作りこまれたバーチャルなソフトです。たとえば、(コンピュータ内蔵)ゲーム機という物質の中にテレビゲームは作りこまれている。きれいに刈り込まれた芝生のゴルフ場の中にゴルフというゲームは作られているのです。
そのゲームが埋めこまれている物質世界の法則によって、たとえばコンピュータの故障によって、あるいは雷雨によって、ゲームは突然打ち切られる。そのことはプレイヤーがどうプレイしたかとは関係がない。まして何を思ったか、とは関係がない。ゲームが中断されることは、ゲームの中身とは何の関係もないのです。
ゲームの内部から見ると何の意味もないことが突然起こる、ということです。自分が思っている人生にとって、自分の死は何の意味もない。人が死ぬということは、物質現象としては、階段で転ぶというような、単なる偶然の小さな事故が起こることでしかない(先日、地下鉄の階段で転落して失神した人が救急隊に運ばれていくのを見ました。若い人のようでしたが、助かったかどうか分かりません)。人生というバーチャルなゲームが埋めこまれているハードウェアである物質の小さな故障で、ゲーム全体が突然崩壊する、というだけです。システム全体の崩壊というものは、いつでも、そうして起こるのです。
その人本人にとって、死といわれているものに、それ以上の深い意味はありません。自分以外の人にとってだけ、それは意味がある。自分ひとりの幸福のためだけにゲームをしていたのなら、それで一切はおしまい。それが不幸だと思うなら、人生は不幸で終わるしかない。
人間にとって自分の死は、何の神秘もなく何の意味もない。それが神秘だと思うのは錯覚です。錯覚からくる間違った理論が身についてしまっているからです。それは、自分がどこにいるか、についての間違いですね。私たちはだれもが、自分というものについて、それがこの現実の客観的物質世界の内部に存在する、今、ここにいる、と思い込んでいる。それがそもそもの間違い。自分が今この世界の中にいると思うから、死んだらどこへ行くのか、という疑問が出てきてしまう。
ボストン美術館にタヒチの楽園を描いたポール・ゴーギャンの絵があって、その左上隅に画家が、「私たちはどこから来るか?何なのか?どこへ行くか?(D'où venons-nous? Que sommes-nous? Où allons-nous?)」という文字を書き込んでいる。自殺未遂の際に書いた遺書だといわれている謎のようなフレーズは、人生の深遠について語るとき、よく好まれて引用される。近代西洋人であるこの画家の言葉に代表される人生観は、古今東西を問わず人類共通の神秘感であると思われます。
しかし、拙稿の見解では、この言葉は自分の存在について人間だれもが間違えていることを、よく表わしている。その意味で興味深いフレーズです。自分というものがこの世界の中にあると思うから、「どこへ行くのか?」という疑問が出てくる。実際、自分が思っているような自分は、この世界の中にはない(拙稿12章「私はなぜあるのか?」)。この世界にある自分は他人の目で見た自分でしかない。それは、人間の一人だというだけで、不思議なことは何もない。物質現象として、生まれて死んでいく。物質が人の形に集まって、次に壊れて、分解していく。それだけです。そのことと、自分が思っているような自分は、どう消えてしまうのか、どうなってしまうのか、という疑問とは関係がありません。
拙稿の見解によれば、自分が思っているような自分は、この物質世界の中にあるのではない。この時間と空間の中にあるのではない。時間の中にないから、死ぬときとか死んだ後とかの話も意味がない。空間の中にないから、どこへ行くかとか、どこから来るかとかは意味がありません。この世を観客のように眺めているのが自分だというならば、観客はドラマの中にはいなくて外にいる。観客がいるのはドラマの中のいつだとか、ドラマの中のどこだとか、質問しても意味がない。私たちがドラマの中に見る自分のような人物は、錯覚によって自分自身だと思い込んでいる人体のひとつにすぎない。それを自分だと思うところから間違いが始まる。この人体もこの物質世界全体も、私たちが感じることの一部分であって、全部ではないからです。
この世を観察者のように眺めているのが自分だと思うならば、そういう自分はどこにもいない。それは自分ではなく、観察者の姿に共鳴する脳が作り出している錯覚です。これを、なまじまじめに考えると、観察者を観察する観察者を観察する観察者を・・・というように無限に後退する錯覚に陥る。つまりこの世界を観察している、私たちが自分だと思っているような自分は、どこにもない。どこにもないものは消えるということもない。どこにもないものがどこへ消えていくのか、という質問は意味がないのです。
私たちは死ぬ。人生はいずれにしろ、ゲームオーバーで終わる。自分ひとりの幸福のためだけにゲームをしていたのなら、それで一切はおしまいです。しかし人間は、ふつう、一人で生きているわけではない。人生は人と人との関係の中にある。一人の人生は終わっても、他の人間は生き残る。人間の集団は生きつづける。
もともと人間が、自分たちの人生というものがあると思い始めたとき、それは部族集団の中で生まれ育ち、子を産み育てて死んでいく、という役割を表わしていた。その役割を、ひとりひとりの人間は、交代しながら果たして消えていく。綿々と続くそのサイクルにそれぞれの人間が当てはめられていた。そのようにあてはめられていることを人生と言っていたのです。
家族の一人としての自分は何なのか? どの役割を果たすのか? どの役割を果たすと思われているのか? 部族の中で自分の家族は何なのか? 部族のためにどの役割を果たすのか? どの役割を果たせばよいのか? そういうことが、人生の問題だった。その役割に疑いを持たず、それになりきって懸命にがんばっていると、一日が終わり、一生が終わっていく。それが人生でした。
人類の歴史のほとんどすべての時代、私は私たちの一部だった。私というものは、その身体も心も、家族の一部分であり部族の一部分だった。それ以外のものではなかった。歴史が進むにつれて、その部族集団(歴史上、家族集団から氏族に発展したとされる)が宗教組織になり、警察機能を持ち、軍事機構を持つようになって国家組織に発展していった。それにつれて、家族集団はスケールメリットを失って規模を縮小していく。つい最近になって最後に私たち現代人のような核家族となり、シングルとなり、大きな社会から自分自身をながめる孤立した個人を作り出していったわけです。私たちは、それを忘れてしまっている。
現代人から見ると、無知蒙昧な因習にとらわれていた封建時代の人々や、経済活動も上手にできない現代の未開国の人々は、家族集団や氏族集団に埋没して哀れむべき間違った人生を送っている。個人として自立するための自覚が足りない、と思えます。しかし、過去数万年にわたって個人が部族集団に埋没して生きてきた人生が間違いで、この百年、二百年に成功した現代文明を個人として生きる私たちの人生のほうが正しい、と言い切れるのでしょうか?
かつて、私は私たちの一部だった。もともと、私は私たちの一部として作られている。この客観的世界とその中にある人間の心は、人間集団が共有する錯覚として作られている(拙稿第4章)。集団から独立して個人があることはできません。 つい最近の時代まで、人間の生活感覚では、集団としての私たちが現実で、個人である私というものは、夢、幻のようなものだったわけです。
人類の歴史のほとんどすべての時代、人間は部族集団の中で生きて、その中で死んでいった。生き続けなければならないのは部族集団でした。そこでは、部族が生き続けるために個人は交代する。部族にとっては、個人の誕生も死も、食事や排泄と同じような日常の生活の一部でした。そうして繰り返されるサイクルが、それぞれの人生だった。そういう意味だった人生が、現代では、個人がひとりひとり、国やマスコミが提示する大きな社会の視点から俯瞰する価値で自分の幸福をはかるものになった。そうして自分のためだけに個人のその幸福を追求することが人生、ということになっている(幸福の問題については拙稿次章と次々章で論考)。今はこの国でも、世界のどの先進国でも、個人の幸福に勝る価値は見当たらない。しかも私たち現代人は、その幸福を自分の努力で実現できると思い込んでいます。
こうなってしまった人生においては、死を考えるとき、すべての努力は無駄になるという耐え難い不条理に突き当たる。個人の幸福を追い求めるゲームは、それが追い求め得ると思い込んでいる限り、必ず、死という敗北によって終わる。ここに、現代人が抱えている深い虚無が潜んでいます。
(15 私はなぜ死ぬのか? end)