哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ死ぬのか(6)

2008-02-29 | x5私はなぜ死ぬのか

幼い子供たちが群れて遊んでいる。いつのまにか日が暮れて、家に帰る時間が来る。遊び場でのゲームの終りが宣言される。がっかりした幼児は泣きそうな顔をします。終わりということの意味が、はっきり分かっているのです。それはゲームをゲームだと理解して、それを夢中で遊んで、全身で楽しんでいたということでしょう。

(拙稿の見解では)私たち人間にとって、自分の死は何の神秘もなく、何の意味もありません。ゲームのプレイヤーにとって、自分のプレイとは何の関係もない、たとえば雷雨によってゲームが突然打ち切られる、というだけのことです。ゲームというものは、もともとそういうものなのです。バーチャルの世界でゲームは永久に続けられることになっている。しかし、ゲームというものは、どれもが、リアルな物質でできた構造の中に作りこまれたバーチャルなソフトです。たとえば、(コンピュータ内蔵)ゲーム機という物質の中にテレビゲームは作りこまれている。きれいに刈り込まれた芝生のゴルフ場の中にゴルフというゲームは作られているのです。

そのゲームが埋めこまれている物質世界の法則によって、たとえばコンピュータの故障によって、あるいは雷雨によって、ゲームは突然打ち切られる。そのことはプレイヤーがどうプレイしたかとは関係がない。まして何を思ったか、とは関係がない。ゲームが中断されることは、ゲームの中身とは何の関係もないのです。

ゲームの内部から見ると何の意味もないことが突然起こる、ということです。自分が思っている人生にとって、自分の死は何の意味もない。人が死ぬということは、物質現象としては、階段で転ぶというような、単なる偶然の小さな事故が起こることでしかない(先日、地下鉄の階段で転落して失神した人が救急隊に運ばれていくのを見ました。若い人のようでしたが、助かったかどうか分かりません)。人生というバーチャルなゲームが埋めこまれているハードウェアである物質の小さな故障で、ゲーム全体が突然崩壊する、というだけです。システム全体の崩壊というものは、いつでも、そうして起こるのです。

その人本人にとって、死といわれているものに、それ以上の深い意味はありません。自分以外の人にとってだけ、それは意味がある。自分ひとりの幸福のためだけにゲームをしていたのなら、それで一切はおしまい。それが不幸だと思うなら、人生は不幸で終わるしかない。

人間にとって自分の死は、何の神秘もなく何の意味もない。それが神秘だと思うのは錯覚です。錯覚からくる間違った理論が身についてしまっているからです。それは、自分がどこにいるか、についての間違いですね。私たちはだれもが、自分というものについて、それがこの現実の客観的物質世界の内部に存在する、今、ここにいる、と思い込んでいる。それがそもそもの間違い。自分が今この世界の中にいると思うから、死んだらどこへ行くのか、という疑問が出てきてしまう。

ボストン美術館にタヒチの楽園を描いたポール・ゴーギャンの絵があって、その左上隅に画家が、「私たちはどこから来るか?何なのか?どこへ行くか?(D'où venons-nous? Que sommes-nous? Où allons-nous?」という文字を書き込んでいる。自殺未遂の際に書いた遺書だといわれている謎のようなフレーズは、人生の深遠について語るとき、よく好まれて引用される。近代西洋人であるこの画家の言葉に代表される人生観は、古今東西を問わず人類共通の神秘感であると思われます。

しかし、拙稿の見解では、この言葉は自分の存在について人間だれもが間違えていることを、よく表わしている。その意味で興味深いフレーズです。自分というものがこの世界の中にあると思うから、「どこへ行くのか?」という疑問が出てくる。実際、自分が思っているような自分は、この世界の中にはない(拙稿12章「私はなぜあるのか?」)。この世界にある自分は他人の目で見た自分でしかない。それは、人間の一人だというだけで、不思議なことは何もない。物質現象として、生まれて死んでいく。物質が人の形に集まって、次に壊れて、分解していく。それだけです。そのことと、自分が思っているような自分は、どう消えてしまうのか、どうなってしまうのか、という疑問とは関係がありません。

拙稿の見解によれば、自分が思っているような自分は、この物質世界の中にあるのではない。この時間と空間の中にあるのではない。時間の中にないから、死ぬときとか死んだ後とかの話も意味がない。空間の中にないから、どこへ行くかとか、どこから来るかとかは意味がありません。この世を観客のように眺めているのが自分だというならば、観客はドラマの中にはいなくて外にいる。観客がいるのはドラマの中のいつだとか、ドラマの中のどこだとか、質問しても意味がない。私たちがドラマの中に見る自分のような人物は、錯覚によって自分自身だと思い込んでいる人体のひとつにすぎない。それを自分だと思うところから間違いが始まる。この人体もこの物質世界全体も、私たちが感じることの一部分であって、全部ではないからです。

この世を観察者のように眺めているのが自分だと思うならば、そういう自分はどこにもいない。それは自分ではなく、観察者の姿に共鳴する脳が作り出している錯覚です。これを、なまじまじめに考えると、観察者を観察する観察者を観察する観察者を・・・というように無限に後退する錯覚に陥る。つまりこの世界を観察している、私たちが自分だと思っているような自分は、どこにもない。どこにもないものは消えるということもない。どこにもないものがどこへ消えていくのか、という質問は意味がないのです。

私たちは死ぬ。人生はいずれにしろ、ゲームオーバーで終わる。自分ひとりの幸福のためだけにゲームをしていたのなら、それで一切はおしまいです。しかし人間は、ふつう、一人で生きているわけではない。人生は人と人との関係の中にある。一人の人生は終わっても、他の人間は生き残る。人間の集団は生きつづける。

もともと人間が、自分たちの人生というものがあると思い始めたとき、それは部族集団の中で生まれ育ち、子を産み育てて死んでいく、という役割を表わしていた。その役割を、ひとりひとりの人間は、交代しながら果たして消えていく。綿々と続くそのサイクルにそれぞれの人間が当てはめられていた。そのようにあてはめられていることを人生と言っていたのです。

家族の一人としての自分は何なのか? どの役割を果たすのか? どの役割を果たすと思われているのか? 部族の中で自分の家族は何なのか? 部族のためにどの役割を果たすのか? どの役割を果たせばよいのか? そういうことが、人生の問題だった。その役割に疑いを持たず、それになりきって懸命にがんばっていると、一日が終わり、一生が終わっていく。それが人生でした。 

人類の歴史のほとんどすべての時代、私は私たちの一部だった。私というものは、その身体も心も、家族の一部分であり部族の一部分だった。それ以外のものではなかった。歴史が進むにつれて、その部族集団(歴史上、家族集団から氏族に発展したとされる)が宗教組織になり、警察機能を持ち、軍事機構を持つようになって国家組織に発展していった。それにつれて、家族集団はスケールメリットを失って規模を縮小していく。つい最近になって最後に私たち現代人のような核家族となり、シングルとなり、大きな社会から自分自身をながめる孤立した個人を作り出していったわけです。私たちは、それを忘れてしまっている。

現代人から見ると、無知蒙昧な因習にとらわれていた封建時代の人々や、経済活動も上手にできない現代の未開国の人々は、家族集団や氏族集団に埋没して哀れむべき間違った人生を送っている。個人として自立するための自覚が足りない、と思えます。しかし、過去数万年にわたって個人が部族集団に埋没して生きてきた人生が間違いで、この百年、二百年に成功した現代文明を個人として生きる私たちの人生のほうが正しい、と言い切れるのでしょうか? 

かつて、私は私たちの一部だった。もともと、私は私たちの一部として作られている。この客観的世界とその中にある人間の心は、人間集団が共有する錯覚として作られている(拙稿第4章)。集団から独立して個人があることはできません。 つい最近の時代まで、人間の生活感覚では、集団としての私たちが現実で、個人である私というものは、夢、幻のようなものだったわけです。

人類の歴史のほとんどすべての時代、人間は部族集団の中で生きて、その中で死んでいった。生き続けなければならないのは部族集団でした。そこでは、部族が生き続けるために個人は交代する。部族にとっては、個人の誕生も死も、食事や排泄と同じような日常の生活の一部でした。そうして繰り返されるサイクルが、それぞれの人生だった。そういう意味だった人生が、現代では、個人がひとりひとり、国やマスコミが提示する大きな社会の視点から俯瞰する価値で自分の幸福をはかるものになった。そうして自分のためだけに個人のその幸福を追求することが人生、ということになっている(幸福の問題については拙稿次章と次々章で論考)。今はこの国でも、世界のどの先進国でも、個人の幸福に勝る価値は見当たらない。しかも私たち現代人は、その幸福を自分の努力で実現できると思い込んでいます。

こうなってしまった人生においては、死を考えるとき、すべての努力は無駄になるという耐え難い不条理に突き当たる。個人の幸福を追い求めるゲームは、それが追い求め得ると思い込んでいる限り、必ず、死という敗北によって終わる。ここに、現代人が抱えている深い虚無が潜んでいます。

(15 私はなぜ死ぬのか? end

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16 私はなぜ幸福になれないのか?

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私はなぜ死ぬのか(5)

2008-02-23 | x5私はなぜ死ぬのか

 筆者ですか? 筆者も物心ついた小学生のころ、大人の話に影響されたり、怖いマンガを読んだりして死の恐怖をしっかり学習しました。この歳になっても、自分の人生がここで終りと思うのはいい気持ちはしませんね、そのときがいつ来るとしても、ちょっと待ってくれとか思うだろう、という気がします。

最近、癌の疑いあり、と医師の説明を受けたときはがっくりきて、くらくらっとめまいがしました。ずっと年金を払い続けたのにぜんぜん取り戻せないのか、くやしい、生命保険をもっとかけておけばよかった、などとくよくよ思ったりしました。いつもは健康のためと節約のためをかねて駅から家まで歩いて帰るのに、その日は気が変わってタクシーに乗ってしまいました。

いくらそれが錯覚と知っていても、立体映画の画面から槍が飛んでくると、思わず身をすくめるでしょう? それがあたりまえです。進化によって作られた私たちの身体はそうなっているのですから、当然です。それでよいのです。こういう錯覚の上に作られた現実が、私たちなのですから。

人生という観点から見ると、死はその(少なくとも自分にとっては重要な)物語の終止符です。しかし、そうは言っても、終止符はただの記号であって、非常に重要な記号だということにはならない。その記号は、終わりという意味以外の意味はありません。

その終わりという意味からして、よく考えてみると、実は頼りないものです。それほど深い意味があるともいえない。そもそもこの自然の物質世界には、終わりというものはない。私たちがある物事を眺めていて、熱心にそれを注目することをやめたくなる時点を、終わりと言っている。もともと終りは自然にあるものではなくて、人間が作るものです。人間が語るものには必ず終わりがある。文には必ずピリオドがある。音楽には終止符があり、ゲームやドラマもエンディングマークが出る。終わりは、はっきりしています(「終わらない物語」という題の幻想小説がありますが、それは終わらない物語についての終わる物語のようです)。しかしゲームが終わってもドラマが終わっても、その後も、現実の物質世界は連続的に変化していく。それなのに人間は、人生には始めがあり終わりがある、と思う。それは、人間が物事をそう捉えている、ということでしょう。

人間が、毎日の自分の活動を、人生というゲームの一場面だと思っているから、それには終りがある。自然現象だと思っていれば、終わりはない。世界には終りがない。物質が物質の法則にしたがって変化していくだけです。すべては宇宙とともに始まり、宇宙がなくなるまで続くわけですね。

私たちは毎日忙しい。忙しい理由はいろいろあるが、一言でいえば、まもなく今日が終わって明日が来てしまうからです。明日の人生に備えて今日のうちに、いろいろな活動をしなければなりません。

その明日がなければ、忙しがる必要はなくなる。それは喜ばしいことではないのか? いや、どうもそうではなさそうです。自分が死ぬことを喜ぶ人はいない。私たちはふつう、死にたくないと思っている。少なくとも今日は死にたくない。このままでは死にたくない。もうしばらくは生きて、もう少しは幸せになりたいのです。

私たちが「明日になれば今日よりも自分は幸せになる」と期待できるときだけ幸せ、と感じるというならば、明日がないということはそれだけで不幸ということです。人生のゲームオーバーです。人生のゲームオーバーは、そのまま敗北ということになります。「死によって、すべての人生は敗北に終わる」という名言がありますが、そのとおりですね。人生ゲームでの目標が自分ひとりだけの幸福であれば、プレイヤーは、だれもが、死によって今までの得点をすべて失い、完全な敗北の状態で終わる以外ありえません。

三途の川には死人の服を剥ぎ取る鬼のようなお婆さん(彼女は閻魔大王の奥さんであるという説もある)がいて、どんなに立派なものを身に着けていてもだれもが素っ裸にされてしまうそうです。つまり、人生ゲームで努力してどんな得点を手にいれようとも、死ぬ瞬間にそれらはすべて剥ぎ取られてしまうのです。この世で幸せに暮らしていて、いろいろたくさんのものを持っている人ほど、それがいやで、死にたくない、と思うわけでしょう。

しかし、ある言い伝えによると、そのお婆さんに賄賂として六文銭を渡せば大丈夫、という逃げ道があるそうです。人間いつ死ぬか分からない。私たちはいつも財布に六文銭を携えている必要があります。地獄の沙汰も金次第、と言うことわざもある。何が何でも金を貯めておけばよい、金持ちになるほうが勝ち、という思想ですね。この思想の信奉者は、けっこう多い。それを実行しているかどうかは別として、現代日本人はほとんどの人が、実はこれこそ人生の現実をあらわしている、と思っているでしょう。けれども、しらけるからあえて言わない、というところがある。金権というか、強い経済力、これもまた、たしかに人間の幸福感の一面をよくあらわしている。財産あるいは社会的地位というゲームの得点が、人間にとって身体で感じる幸福感にしっかり対応していることは間違いない(幸福については拙稿次章および次々章で論じる予定)。

ちなみに、このことわざ(地獄の沙汰も金次第)は、なかなか含蓄にとんだ言葉で、筆者は、近代日本文明の偉大な哲学のひとつ、と高く評価しています。この言葉が印象深い理由は、いくつかありますが、まず地獄といわれるわけの分からない世界での、エイリアンのような閻魔とか鬼とかの不気味な謎の(中国の不思議な役人のような)存在が相手である会話であっても、言葉が通じる限りは人間界共通の経済原則が通じるはずだ、という強烈な信念。そのポジティブな世界観に伴うネガティブな人生観、つまり、人生でまじめに努力して何をなそうと、金があってそれを簡単に金で買ってしまう人にはかなわない、という暗いニヒリズム。そして同時にそのニヒリズムへの嫌悪感がある。嫌悪を感じるけれども、その現実に目をそむけて逃げる人は敗北する。自分がそれ、というのはいやだ。そういう現代人のアンビバレンスをうまくあらわしている。嫌いだけれども、しかたなく認めてそれに追従しなければならないのが現実、という人生の捉え方を教える。またさらには、市場主義経済の自律性のメリットと腐敗のリスクを教える。そして最後に、そんな現実社会のアイロニーを教える。実に教育的なことわざですね。

しかれども、愛は金で買えない(一九六四年 ポール・マッカートニー『キャント・バイ・ミー・ラブ』)。若者はいつも、そう叫ぶ。それもりっぱな真実。逆に言えば、それ以外のたいていの幸福は金で買える。だから、愛のためには金が必要だ。現代人はそう思っているわけです。

閑話休題、さて拙稿の見解では、経済価値も社会的価値も物質としては実体がない脳内の錯覚です。しかし私たちは、その錯覚を、はっきりした感情を伴ってしっかり感じる。お金が増えればうれしい。出世すれば幸福。それは、私たちの身体が、それらを感じることで現実世界を生き抜いていくような仕組みになっている、ということです。つまり人間の身体が、その錯覚を手に入れるために夢中になるように、進化の結果、作りこまれていることは、錯覚ではなく現実です。ここが大事なところです。人間の脳には、人生ゲームの得点として獲得できる経済的価値などを感情回路に入力する神経結線が、進化と学習によってしっかり作りこまれている。その獲得得点である価値、つまり幸せ、を全部剥ぎ取られるのはつらい。嫌でたまらない。想像するとぞっとする。どんなことをしてでも三途の川に近づくのは避けたい、と思う。それが、人体の正しい反応なのです。

物質世界の法則から見れば、死は何の意味もない。けれども、人間は客観的物質世界に生きるというよりも、人生ゲームの中のバーチャルな存在感の世界に生きるような身体に作られている。私たち人間が生きる世界は、客観的な物質世界ではなく、むしろ脳内の錯覚で作られたバーチャルな人生ゲームの中だ、といえる。

ところで、バーチャルとか人生ゲームとかいう言葉を拙稿は好んで使う。もちろんテレビゲームからの連想で思いついた言葉使いですが、ちょっと誤解を招く言葉でもあるので、少し説明を加えさせて下さい。拙稿は、オンラインのバーチャル世界ゲーム、つまりインターネットでつないだコンピュータシミュレーションによるバーチャルリアリティの中に参加者が自分の分身(アバター)を作って操作するゲーム、などが大流行しているから私たちはバーチャルな人生をおくるようになる、ということを言いたいのではありません。そうではなくて、むしろ逆のことを言いたいわけです。つまり、もともと人間という動物の身体が脳内にバーチャルリアリティを作り出しそれを現実と思って反応する機構になっている。こういう人間の身体の仕組みを、拙稿ではバーチャルな人生ゲームといっているわけです。したがって、言い方がややこしくなりますが、私たちの脳が集団的に共鳴することで作り出している一種のバーチャルリアリティが、実は私たちが現実と思っているこの世界がであって、ふつうの会話で私たちがバーチャルだと言っているテレビゲームなどは、人間が現実と思っているバーチャルリアリティをバーチャルに模擬したものということになる。

英語のバーチャルの語源は、実質的に同じ、という意味です。その意味でいうと、実質的に同じものに対して実質的に同じになるように作ったものは実質的に同じものである、ということですね。コピーのコピーはコピーだ、ということです。

さらに言葉の正確さにこだわると、人間が現実だと思っているバーチャルリアリティが模擬しているリアリティなるものはいったい何か、が疑問になる。ふつうに考えると、それは科学が対象とする物質世界、ということになる。しかし、科学は人間が感じることから作られている(拙稿14章「それでも科学は存在するのか?」)。科学によって作られることで、物質世界は存在することになる(拙稿6章「この世はなぜあるのか?」)。

つまり人類はもともとバーチャルリアリティの世界に生きていて、そのバーチャルを理論化することで科学を作り出し物質世界を明らかにした。その結果、私たち現代人は物質世界をリアルと思うようになったわけです。私たちは、いわば無意識のうちに、身体が感じ取るバーチャルなデータから存在感を作り出してリアルと思い、その中で生きている。まあ、ふつうの言葉使いで言うバーチャルは、そのリアルからさらにまた人工的に作られたものですね。いやどうも、ややこしい言いまわしになって、すみません。

閑話休題、死の話に戻る。人類は、遅くとも言語を使うようになって以来、バーチャルな世界に生きている。私たちは、バーチャルなそのゲームの中で得点を獲得して幸福になる以外に、幸福になることはできない。そう進化した脳を、私たちは持っている。この脳を持ったおかげで人類は大繁栄し、地球生態系の覇者になった。同時に、このような身体の仕組みのために、人間は自分の死を受け入れることができない。人類は、動物の中で唯一、自分の死を恐れる。人類の脳がそう進化した結果です。

科学が対象とするリアルな物質世界ではなく、人々の間の共感とそれにもとづくバーチャルな人間のイメージ。言葉。それらの錯覚にもとづいて現れる心の動き。それらを感じ取ることで構成される人生ゲームの中に生きる。私たちは、自分という存在感を頼りに、バーチャルな情報からリアリティを感じ取って現実感のある世界を作り出す。それが、私たち人間にとっての現実です。それに夢中になって毎日を生きる。バーチャルであるリアル、つまりリアルなバーチャル、に私たちは埋没している。

そのようにバーチャルに生きる身体を持った人類が、そうでない人類よりも、リアルなこの物質世界で実務能力を獲得し、経済的生産性の高い安定した社会をつくり、自然の中を生き残った。おかげで、その子孫である私たちが、この地球表面というリアルな物質世界を支配するようになったわけです。

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私はなぜ死ぬのか(4)

2008-02-16 | x5私はなぜ死ぬのか

閑話休題、この世における自分自身の存在感というトリッキーな感覚を、どう捉えるか?

言葉で「私は・・・」と話し始めたとき、私たちは、実は、すでに聞き手に回っている。自分が発した言葉の聞き手に成り代わって、後に続く言葉を捜し始めるわけです。声に出して話す場合ばかりでなく、声に出さずに言葉を思い浮かべるとき、あるいは文字に書くとき、パソコンや携帯電話で文字入力するとき、私たちは、はじめから自分が発する言葉の聞き手であり読み手であるわけです。言葉つなぎ遊びのように、話し手と聞き手が交代しながら言葉をつないでいく。その話し手と聞き手の両方を自分一人でやっているのですね。

(拙稿の見解では)「私は・・・」で始まる言葉を、私たちが考えるとき、たった一人で孤独に思索しているつもりであっても、私たちの脳内の状態としては、話し手、聞き手その他大勢、の仲間集団が共感しあいながら、私に関する話題について話し合いを進めている場合と同じことになる。大勢で言葉つなぎ遊びをしているわけです。そうして、私の言葉ができて、それを独り言のように聞きながら私は自分がそれを考えていた、と思う。実際にはまわりに自分以外の人間がいないとしても、脳内では無意識のうちに、仲間の人間のイメージが動き回っていて、その集団運動に共鳴して言葉が形成されてくる。人間が言葉を使うときは、いつもこの仕組みが働く。

そうだとすれば、人間どうしが共感できないような感覚については言葉で表現することはできない。つまり、私だけが感じる微妙な痛みだとか、私が私だと思っている私の存在感などは、言葉で言い表すことは不可能なのです。「私は・・・」と話し出した瞬間、自分が聞き手に回るとすると、聞き手として共感できない感覚については言葉が続かない。「私は」の次につながる言葉は、だれもが感じられることでなくてはならない。言語のそういう仕掛けから、私にしか感じられないことは言葉では言えない。

この状況は、実際に聞き手になって見れば、すぐ分かります。たとえば、言葉で「私は私だ」と言われても、何を言われているのか分からない。話し手は、聞き手が分かるものと確信して、言葉を発している。聞き手としては、話し手が、相手に伝わることを確信して何かを言おうとしていることは分かる。しかし、「私は私だ」と言われても、何を言いたいのか分からない。話し手の気持ちが分からない。聞き手である私は、話し手のあなたではないから、あなたの言っている私ではない。だから、聞き手である私がここにいる限り、話し手であるあなたは私ではなくて、こちら側の私が私だ。つまり、話し手であるあなたが聞き手である私に話しかけている限り、あなたを見ていても、私がこの私と感じられるような私としての存在感は、あなたの姿の中には感じられない。

次に、話し手と聞き手の二人とも、一人の人間の内部に入ってしまうことを考えます。私たちがふつうに一人で考えている場合は、そういうことです。一人自分の部屋で文章を書いているときもそうでしょう。このような場面でも、状況は、二人の会話の場合と同じことになる。言葉を使って考える以上、一人で考えても、脳内には聞き手が浮かんでいる。言葉を使う限り、私たちは、自分の内部にいるその聞き手に聞こえるように言葉を発する事で、言葉を考えることしかできない。それ以外の言葉の使い方はない。そうだとすると、他人に分かるような言葉だけしか使えない会話の場合と同じように、やはり言葉の限界に突き当たる。つまり、私だけが感じる感覚は、孤独な思索の場合であろうとも、言葉で表現することはできない。

言葉を使う限り、聞き手の存在を抹殺して話し手一人だけの世界を作ることはできないのです。

私が感じる私の存在感は、私にしか感じられない。今の私にしか感じられない。そしてそれは言葉で言うことができない。それが私たち人間の身体の仕組みです。

この問題は、明日の私の存在感は、私にとって、どんなものになるか、という予想にも関係している。今晩ぐっすり眠ってしまうと明日目を覚ましたときの私は、今の私とどういう関係になっているのか? 明日の私は今の私をはっきり覚えているはずですが、今の私は明日の私をはっきり想像することができない。明日になれば、それは今の私ではなくなって、明日の私になっているはずだから今は分からないのだ、ということでしょう。しかしこの私が、今の私ではなくなってしまって、今は感じられない明日の私になるとはどういうことか? 

その明日の私というのは、私の身体とまったく同一の分子構造の人体、たとえば先の実験で作った私の二体のコピー(人体Aと人体B)、が明日になったらなるものとどう違うのか? 少なくとも私以外の人は、夜じゅう寝ないで見張っていない限り、明日になったとき、この私の身体と人体Aと人体Bの区別はつきませんね。他の人にしてみれば、どれが私でもまったく同じことです。私と人体Aと人体Bの三人だけが、互いに「あいつら二人は私じゃない!」と叫んでいるだけです。

私は、過去の私が今のこの私だということを確信している。しかし、たとえば人体Aに言わせると、彼も今の自分が過去の自分と同じものだと確信している、というわけです。彼は、どうも本気でそう思っているとしかみえない。それどころか、人体Aは、「私がコピーだなんて冗談じゃない。私が本物の私で、君がコピーの人体なのだ!」と言い出す。人体Bも同じことを言うわけです。えっ、そうなのかも、とうっかり思ってしまうほうが負け、ということになります。

そうだとすると、明日の人体Aと明日の人体Bと明日の私は同じものなのか? 同じでないとしたら、どうして見分けられるのか? 

今、私の目の前に明日の私の人体があって、それをつねったら痛みを感じるならば、それは私だと思えるでしょう。しかし、今は明日の私がいないのですから、それは不可能です。そうすると、明日の私とは何なのかは、さっぱり分からない、と言うしかない。今ここにはいない明日の私を想像するということは、いったいどういうことなのか?

だいたい、こういう疑問は疑問として存在できるのか? こういう疑問はどういう意味になるのか。明日の私という観念は存在しないものの観念なのではないか?こういうことは、直感ではなんとなく分かるような気もするが、よく考えるとさっぱり分からない。質問者は何を問題にしているのでしょうか? と問い返したくなりますね。こういう話は、聞いているうちにだんだん、ばからしくなってくる。明日の私は、明日の私なのだから明日になってから考えればよい。今日からそんなことに悩んでいると日が暮れてしまうよ。と思うほうがまともそうですね。

しかし明日の予定では、私は銀座のレストランで友人たちと昼食を食べることになっています。そこへ私と人体Aと人体Bが全部現れたらどうなるのか? ちょっと心配でこのまま眠る気がしない。夜眠っているうちに、二人を消滅させて、明日は一人だけが目覚めるような仕掛けをしておくことにしましょう。三個の人体はまったく同一のものですから、残すのはどれでもよいでしょう。では人体Bだけを明日残すことにしたらどうですか? 今の私の身体と人体A、の二体は眠っているうちに抹消しておきましょうね。明日には、人体Bだけが銀座のレストランに出かけていけば、昼食会は問題なく進むでしょう。その後の私の家族との生活も、他の人たちとの予定も計画も行動もその結果も、人体Bがあれば、何の問題もなく進行するはずです。そういうことならば、いまの私としても、何も心配することはない。安心して今夜は眠れる。明日以降の世界では、どれが私か、などという問題はまったくなくなります。明日は、今の私が想像するように、私は銀座で友人たちと楽しく会食して、昨日から今日が楽しみだったが夜はよく眠れた、という話をするに違いない。それで何か、問題はありますか?

問題があると思う人は、これをウェークアップ問題と名づけて、哲学として研究してください。筆者は、まったく問題ないと思っているので、名前は付けません。

こういう問題は、裏返せば、今、私がチンパンジーになってしまったら、どう感じるか、という問題にも似ている。私がチンパンジーである、とはどういうことか? ふつう、ちゃんとした答えはできないでしょう(現代哲学としてこのテーマでの古典的な著作は、  一九七四年 トマス・ネーゲルコウモリであるとはどういうことか』既出)。まじめに考えるほどまともな答えはできないことが分かる。私の身体が手むくじゃらで、足が手のようになっているチンパンジーの身体になっていて、脳もチンパンジーの脳であるならば、チンパンジーであるとはどういうことか、私にはよく分かるでしょう。しかし実際には、私はチンパンジーの身体を持っていないので、この質問の答えになる状況をうまく想像できないのです。

私たちは、私たちが生きているこの世界の中に自分の身体があって、その身体の中に自分が入っている、と思い込んでいます。そうすると、別の身体に乗り移ってしまうことが想像できる。近所の奥さんの身体に乗り移る。総理大臣福田康夫の身体に乗り移る。チンパンジーに乗り移る。コウモリに乗り移る。明日の自分の身体に乗り移る。来年の自分に乗り移る。そうすると、どうなるのか? 実は、私たちは毎日、いつも、こういうような乗り移りを想像しながら人と話したり、一人で考えたりしているのです。

明日の自分に乗り移ることを想像するから、明日の計画が立つ。来年の自分を想像するから、今日も勉強する。死んで家のお墓に入ることを想像すると、今度のお彼岸には、お墓の掃除をしておこうかな、という気にもなります。

しかし、今ここにはない身体に乗り移った私というのは、どんな私なのか? 来年の私の腕を挙げたら、どんな具合にその腕が上がっていくのか分からない。その身体をつねって痛さを確かめることもできない。そんなことで、来年の私に、ちゃんと乗り移れるのでしょうか?

こういう疑問は、疑問に思うことが間違いなのではないか? こういう疑問は、直感では、なんとなく意味が分かるような気がする。実際、私たちは、毎日、こういうような会話をして話が通じていますね。しかし、そういうところに根本的な間違いが潜んでいるのではないでしょうか?

この問題は、この世における自分自身の存在感のパラドックスです。今の私が、今の私ではないものに乗移ったらどうなってしまうのか? ちょっと考えてみると、すごくむずかしい謎のように思えます。しかし、(拙稿の見解によれば)これは実は、言葉の使い方を間違えるために起こる混乱の問題です。話し手が「私がチンパンジーになったら」というとき、聞き手はどう受け取るでしょうか?たぶん、話し手の顔をまじまじと見ながら、「この人が今急に毛むくじゃらになって、足が手のような形になって、ウッキッキとかしか言わなくなったら、私はどう感じるのかなあ? この人の心も消えてしまって、自分が人間だったことも全然覚えていないだろうから、会話もできないだろうな」と思うでしょう。しかし、そこで聞き手が想像しているのは、単に一匹のチンパンジーの姿であって、実は今ここにいる人間である話し手とは何の関係もないものになっている。

私たちが独り言で「私がチンパンジーになったら」とつぶやくときも、まったく同じことです。独り言であろうとも、心の中で発するだけの言葉であろうとも、それが言葉である以上、(先に述べた理由で)言葉というものは他人である聞き手が感じること以外の意味はない。「私がチンパンジーになったら」という言葉は、『今の私』と『一匹のチンパンジー』という互いに無関係なふたつのものを無理やり並べてつくったものです。そういう言葉は、意味不明なのです。

独り言で「私がチンパンジーになったら」とつぶやくとき、私が想像している『チンパンジーになった私』というものは、今ここにいてそれを想像している私とは違う。全然違うものしか想像できないはずです。それは、私という言葉を間違って使っているからです。しかし、そもそも、私という言葉は、こういうふうに間違って使われやすいものです。

私が死んで死体になっているとはどういうことか? 葬儀場で死体の私が棺おけに入れられていて、皆さんがこちらを向いて焼香してくれるということは、どういうことなのか? 想像をたくましくすれば、その場面はありありと想像できる。皆さん、悲しそうな表情をしてくれる。本当に悲しいのかもしれない。しかし、そこに想像できる棺おけの中の私というものは、今の私とどういう関係なのか? さっぱり分かりませんね。分かるはずはない。今の私とは全然違う状態になっている私とは何なのか。そういう疑問は、意味があるとはいえないわけです。

さらに一年くらいたって、私が骸骨になっていて、先祖代々のお墓の中に納まっているということは、どういうことなのか? 想像できない。「お墓の中に入ったら、さびしいでしょうね」と言われても、「さあ、どうなんでしょう、私は死んで入ったことがないもので分りません。生きて入っていればさびしい、と言うか、石の下だからハサミムシなんかいそうだし、真っ暗で怖いと思うでしょうけれでも、骸骨になって入っている気分はどうなのでしょうか。何も感じるわけないと思うし、全然分りません」というのが正直な答えでしょう。

他人が骸骨になることは想像できるけれども、自分が骸骨になることは全然想像できない。骸骨になったときに、身体のどこがどう動くのか、どう動かないのか、寒いとか熱いとか感じるのか、とても感じるわけはないと思うけれども、何かを感じるのか。そういうことがさっぱり分からないからです。いい加減に想像すれば、なにか気味の悪いイメージのようなものが浮かんだりするけれども、実は、まじめに考えるほど、さっぱり分かりませんね。無理やり想像しても、その自分のイメージは、他人が想像するだろうと想像できる死体のことでしかない。それは、自分とはいっても身体が自分にそっくりなだけの他人ですね。人体Aや人体Bがどうなるかを想像することと変わらない。それでは、私がどうなるのか、どんなことを感じるようになるのか、という疑問の答えにはなっていない。

「私は死んだらどうなるのでしょうか?」と聞かれて、「間違いなく骸骨になるでしょう」と答えても変な顔をされるだけでしょう。質問者は、そういうことを答えてほしくて聞いたわけではないのですから。

つまり、いずれにせよ、私以外の人にとって、私が死ぬということはどういうことなのかはよく分かる。他人から見れば、私が死ぬということは、私の身体が骸骨になるということだ、とはっきりしている。しかし、私自身にとって、私が死ぬということはどういうことなのか? さっぱり分らない。分かるはずがないのです。こういうことは、言葉をつかって他人に説明することができない。他人が言葉で受けとって分からないことは、実は、自分でも言葉の意味が分からないのです。そもそもこういう疑問はどういう疑問なのか? こういう疑問を思いつくこと自体、おかしいのではないか? それこそがもっと大事な疑問なのではないか、と思いたくなります。

あえて答えれば、(拙稿の見解では)このような疑問は意味がないのです。実際、「私は死んだらどうなるのでしょうか?」と聞かれても、どんな答えを期待されているのか分からないでしょう? だから、さっぱりイメージが浮かばないのです。私が人体Aとして明日目覚めること、私がチンパンジーになってしまうこと、私が骸骨になってしまうこと、これらはみんな、私というものが私の身体という物質に入っていると思う錯覚からきている。私というものが、私の身体から抜け出して、別の身体に乗り移れるはずだ、と思うところからきている。それは脳の憑依機構が作る錯覚からくる想像です。この想像は、錯覚と自覚できない暗黙の錯覚からきている。この錯覚が多くの人に共有されているので、人と話しあうことで、なんとなく分かり合えるような気になる。けれども、よく考えれば、実は、だれも何も分かっていないことが分かるわけです。

脳の憑依機構は、私たちが他人を見ると無意識のうちに他人に乗り移ってその気持ちを読み取る自動的な神経活動です。私たちは、意識的には、この憑依機構のアウトプットだけを感じ取るので、人間を見ると、その身体の中にその人の心(あるいは魂)のようなものが入っている、と感じる(拙稿8章「心はなぜあるのか?」参照)。そこから、私というもの(あるいは私の魂)が、私の身体から抜け出して、別の身体に乗り移れるはずだ、と思い込むようになる。

人間の身体と心。またそこから派生する、自分の身体と自分自身との関係。物質である身体とは別に心がある、という思い。これらは憑依機構が作り出す錯覚にもとづいている想像の産物です。これらに関する疑問は、いわゆる心身問題(心身二元論、心脳問題)という哲学的な問題だとされていますが、哲学者がこういう問題をいくらまじめに考えても、実は錯覚のまわりをぐるぐるまわるだけになる。錯覚で作られた言葉に引きずられてできてくる偽の問題です。つまり、こういうことを疑問に思うことは間違いなわけです。

メメント・モリ(自分が死ぬことを想像しろ)という教えは、こういう意味不明なことを命じている。困った教えです。この教えをまじめに受け取ってしまうために、毎日、世界中で何千、何万の有為な青少年が人生を誤っていく。胸が痛みます。生死の謎だとか、自我の存在の重さだとか、自分探しだとか、こういうものに人間の身体は強い神秘感を感じるようにできている。それは確かです。しかしだからと言って、こういうものが人生で一番重要なものだと思うことは間違いです。これらは中身がない空っぽの偽問題です。こういうことを重要だと思うと、この現実世界の捉え方に関して大事なところで根本的に間違っていくのです。

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私はなぜ死ぬのか(3)

2008-02-09 | x5私はなぜ死ぬのか

要約すれば、私たちが、他人の身体が消滅するイメージから連想して自分の身体が消滅することを想像するときに、命と心を感じる錯覚の(集団的共有による)存在感覚に与えられる混乱を恐怖に結びつける学習によって、死の恐怖は作られている。この学習は、他人の身体が消滅するイメージを想像することから始まる。子供がこのような想像ができるようになるのは幼稚園から小学校低学年くらいの時期です。この時期に、子供は大人や年長の兄弟仲間などの言動を見聞きすることで死の観念を学習します。最近の子供は、リアルな人との会話ばかりでなく、テレビやゲームやマンガなどバーチャルなメディアからも大きな影響を受けていそうですね。

昔から子供は、骸骨や幽霊など、死に関するイメージに極めて感受性が強い。成長過程でこの学習がうまくいくように、人間の脳は進化したのでしょう。それは、仲間どうしの集団的共感で死の恐怖の存在感を形成し、脳の感情回路に定着させる仕組みです。人類の進化の過程で、この死の恐怖の学習が、自分の身体を守ることにつながり、それが種族の繁殖に有利に働いたからと推測できます。

死の恐怖は、人類が繁殖するためには、よくできた実用的な錯覚であるわけです。技術や社会関係を発達させ、安全で安定した生活が送れるような知識や習慣を蓄積するために役立ったはずです。抽象的な想像が恐怖という強い感情を引き起こすという点で、錯覚にもとづいた理論の集団的共有が身体感覚に結合していく、人間という動物に典型的な現象といえるでしょう。

確かに私たちは、自分の身体というものがなくなる、ということに恐怖を伴った強い神秘感を感じます。自分がなくなったら自分が感じていることはどうなるのか。今大事にしている人や物たちをどうにもできなくなる。それらがどうなってしまうのか、まったく分からなくなる。毎日の生活の土台になっている自分というものの存在感が揺らぐ。いつも頼りにしている自分の現実感がぐらぐらになってしまいますね。そういうことが不安あるいは恐怖を伴って強い神秘感を引き起こす。人間は、未知の不可解なものに対して神秘感を持つようにできている。そのような私たち人間にとって、自分の死は、最大の神秘感をもたらすものです。

しかし(拙稿の見解では)神秘感というものは、たいてい、あやしいところがある。実生活に役に立つ効果も持っているが、一方ではいかがわしい効果も持っている。神秘感は、もともと、考えても分からないものについて人間の思考を停止させ、そういうものは警戒して近づかないようにする仕組みです。脳のこの仕組みは、危険を回避し、同時に無駄な悩みを保留にして毎日の実際的な問題に取り組ませるという有益な効果を持っている。その効果が人間の生存に有益だったから人類に備わった感覚です。しかし、人間は神秘的なものについて語り合うこともする。そうするうちに変な結論に導かれてしまうことがあります。仲間がみんな同じ神秘感を共有する場合が一番あぶない。そういうときにつくられる結論は間違いが多いのですね。そうだとすれば、もしかすると、今話題にしている死に関する神秘感も、あやしいものかもしれない。私たちを間違った結論に導いているかもしれない。まあ、ここでは、そう疑って、話を進めてみましょう。

さて、死に関する神秘という問題について、拙稿の考え方で進めるとすると、まず私たちが自分というものをどう感じているか、という話からはじまる。当たり前のことですが、私たちはだれもが、自分というものについて、それがこの現実の客観的物質世界の内部に存在する、と思い込んでいます。このことは、当たり前すぎて、いつもは意識されない。

私たちが朝、目を開けると、日が射し込んでいて部屋が明るくなっている。窓を開けると空は晴れ上がっている。いい天気だ。気持ちがいい。気持ちがいいと感じているのは私だ。それが自分だと言うことは当たり前すぎて、いつもは感じていない。それでも外へ出て、近所の奥さんと「おはようございます」と挨拶を交わすとき、自分の動作がちょっと気になったりする。こういうことも当たり前すぎるから、それがどういうことか、などと私たちが思うことはありません。

こういうことは、わざわざ言うまでもない常識です。朝、家の外に出れば、近所の奥さんが歩いていて、挨拶をする。こういう常識の上に私たちは毎日を暮らしている。ところが、自分の死について考える場合、この常識が揺らいできます。私が死んでしまった朝、近所の奥さんは、やはりそこを歩いている。しかし、私はいないから、私と挨拶することはない。この客観的物質世界は永久に存在するのに、そこで私だけがいなくなってしまう。私だけがいないこの世界が続いていく。

朝が来れば、近所の奥さんは「おはようございます」と、だれかと挨拶を交わすに違いないけれども、そこに私はいない。死んでしまった私は、どこにもいない。近所の奥さんがだれかと挨拶を交わすようなこの世界が、私たち人間にとって、唯一の現実の世界です。それ以外のことは、この現実に比べれば、夢か幻でしょう。その唯一の現実の世界に私がいない、ということはどういうことなのか? そういうことを想像すると、身体が宙に浮いてしまうような不思議な感じと同時に底知れない不安を感じる。神秘感をともなった恐怖を感じるわけです。

ここでふつう、私たちは素直に死の恐怖を感じていやな気分になるわけですが、今回はそれをやめて、わざといつもより疑い深くなることにしましょう。そして、この神秘感はあやしいのではないか、と疑ってみましょう。神秘感と恐怖に取り込まれる前に、落ち着いて目を凝らして見ると、お化け屋敷の暗闇にある仕掛けが見えてくるかもしれませんよ。

さて、私たちが感じる自分という存在感は、拙稿が繰り返し述べるように、実は、この世には存在しないものの錯覚です(拙稿第12章)。だれの目にも見えるこの客観的な物質世界の中をいくら調べても、自分が感じるような自分というものはない。探しても見つからないものだから、自分探しなどという言葉が作られる。それはこの世のどこかには、けっして見つかるものではありません。この世には、他人が私と思っている私の身体があるだけで、私が私と思っている私というものはない。もともと物質世界にはない自分というものは、死んだからなくなるというものではありません。

(ここで私という一人称を使って言い換えれば)この物質世界の内部には私というものはありません。ちょっと実験してそのことを確かめてみましょう。まず、高性能の大型コンピュータを用意します。超高性能の高透過原子間力顕微鏡(今はそういうものはありませんが、将来開発されると仮定)を使って、私の脳細胞の分子構造をひとつひとつ読み出して、それをコンピュータにインストールしていく。そうすれば、私の脳のあらゆる情報はそのコンピュータの中にすっかり入ってしまう。この炭素の隣に窒素がくっついていてそれに水素がくっついている、というような立体的な分子構造のデータを全部コンピュータにインプットするわけです。かなり手間はかかりそうですが、がんばって作業を続ければ、同じように身体全体の分子構造データも全部コンピュータの中に入ってしまいます。そのコンピュータのデータから、科学の原理としては(将来開発されるはずの超高性能原子操作顕微鏡を使って)、いつでも、いくつでも私とまったく同じ脳、同じ人体を作ることができる。まあ、そういう私と同一の人体を、ここに作ったとしましょう。それを人体Aとする。ついでに同じようにもうひとつ作って、こちらは人体Bとする。

さてここに、私の身体とまったく同じ人体が二つできました。この人体Aと名づけた物質と人体Bと名づけた物質とは、まったく同じ分子構造を持った物質です。物質としては私の身体そのものです。どう見ても区別がつかない。解剖しても、顕微鏡で見ても、X線CTで測定しても、サインさせてみたり、暗証番号やパスワードをパソコンに打ち込ませたり、結婚記念日や妻の好物を言わせたり高校の校歌を歌わせてみても、その他どんな実験観察をしても、身体の分子一個一個が全部同じわけですから、どう調べても私の身体と違いはない。しかしそれで、私が私と思っている私は、そこにありますか?

人体Aの中に私はあるのでしょうか? 物質としては、それは私そのものです。私以外のだれもが、人体Aを私と思って、まったく問題はありませんね。人体Bについても同じことです。だれもがそれを私だと思って何の違和感もなく、つきあうことができる。人体B自身も、それで問題は感じないでしょう。ただ、もともとの私と人体Aだけが、それは私ではない、と言うでしょうが、そんなことは他の人にとっては問題になりません。人体Aに向かって私の借金を返してくれと言ってもよいし、人体Bに向かってそう言ってもよいのです。誠実な私としてはちゃんと返済するでしょう。人体Aも、人体Bも、私の誠実さをそのまま持っているので、ちゃんと借金は返す。そうなれば、貸した人としては二倍になって戻ってくるわけです。それでよいのでしょうか?

どうも、違うような気がするでしょう? それは私ではなーい!と叫びたくなりますね。私はまだ私の借金を返していない。もう返済済みですと言われても、返さないと気がすまない。私以外のだれもが、もう済んだといっても私にはまだ済んでいない。人体Aも人体Bも私ではない。私が私と思っている私はそこにはない。他人が私だと思っている人体があるだけです。

それは借金の記憶からアイスクリームの嗜好まで私そっくりかもしれない。しかし、それは私にとっては私の外側にある一個の物質でしかない。それは一個の人体というだけに過ぎないのですから、ふつうの物質です。それが壊れること、つまり私そっくりの人体Aや人体Bの死は、他の人間の死と比べて、物質現象としては特別に区別することはできない。

物質世界の話に限れば、人間の死といっても、アイスクリームが溶けるというような物質変化に比べて、特に変わったことではない。そうだとすれば、そこからは、自分が死ぬことを他の人が死ぬことに比べて特に怖がる理由は導けない。さらにいえば、私が死ぬことが、私のテーブルの上にあるこのアイスクリームが溶けることに比べて、どちらが重大なことだ、ということはできないわけです。それが恐怖だと感じる感情は、幼児の頃から周りの人々の態度を見て直感的に学習した結果、身についた錯覚の働きです。幼児体験による恐怖の刷り込み、トラウマ(心的外傷)、の一種といってよいでしょう。

残る問題は、私というものをどう思うか、でしょう。私にとって私というものの存在感はどういうものなのか? それは物質だけの話ではすまない。物質だけの話なら死の恐怖は錯覚の刷り込みというだけです。しかし、私にとっての私というものの存在感は、どうも物質としての私の人体の存在感とは違うものらしい。そうだとすると、そのふたつの存在感の関係はどうなっているのか?そこをよく調べる必要がありそうです。

さて、私の身体とまったく同一の(分子構造の)人体がもうひとつ、そこにあるとしたら、私にとって、その人体の存在感は私が私と思っているこちらの人体の存在感と同じものなのか? どうも、そうではないような気がしますね。私がその人体(人体Aあるいは人体B)を詳しくながめても、それが私だという感じはしないでしょうね。確かにそっくりだけれども、私はこっちにあるから、そっちは私ではない、と思うはずです。だって、私が今見える景色はこちらの人体の目玉の位置からカメラで写した画像と同じになっていて、そちらの人体の目玉の位置から写した景色ではない。それに、こちらの人体をつねると痛いけれども、そちらの人体をつねっても痛くない。こちらの人体の右手を挙げようとすれば挙がるけれども、そちらの人体の右手を挙げようと思ってもできない。

そういうことから、物質としては私の身体そのものである人体A(あるいは人体B)には、私が私だと感じている私の存在感はない。つまり、私が私だと感じている私の存在感は物質としての私の身体にあるのではない、ということです。

こんなことは、まったく当たり前のことではないか? 私は私一人しかいない、という当たり前の感覚を確認するだけだ、という読者は多いでしょう。けれども、筆者に言わせれば、ここに哲学の(さらにあえて言えば人間のすべての認識における)根本的な混乱が潜んでいる。「私はなぜあるのか」という問題(拙稿12章〔カテゴリー12既出〕のテーマ)は、なまじまじめに考えると人生の落とし穴になります。こういう場面、つまり私たちが言葉を使って、私というものの主観性と客観性を同時に表現しようとする場合があぶない。こういう言葉は、日常の言語表現であるにもかかわらず、超えてはならない言語の限界を安易に超えてしまうために、話し手をも聞き手をも混乱させる。その場合、困ったことには、話し手も聞き手も自分たちの話が混乱していることに気づかない。もし何かおかしいと気づいたとしても、それが言語の限界の問題だと気づくことは、まずありません。

この問題は、人間が使っている言語の限界の問題です。日本語ではだめだけれども英語なら大丈夫、という問題でもない。もっと深刻な、人類共通の問題です。つまり人間の脳の言語形成機構がどう作られているか、という問題になっている。それは個々の脳システムの問題であると同時に、集団として言語システムを機能させる個体間の相互作用のシステム的な問題でもある。

人間は自分が考えたことを言葉にしてしゃべる、と私たちは単純に思い込んでいますが、(拙稿の見解では)それは錯覚です。人間は、無意識に、仲間の動作と共鳴することで脳内に運動信号を発生し、無意識のうちにそれが言葉を形成する。(拙稿の仮説では)その言葉を一度運動信号として脳外に出して、言語中枢であらためて(自分の発言あるいは独り言として)聞きなおすことで、自発的に考えたと思い込む仕組みになっている。この脳機構の具体的な解明は、近い将来の科学にとって最大の課題となると予想されます。しかし、現代の科学ではこのテーマは、プロの研究者の研究対象になっていません。脳神経科学と言語学、言語心理学の研究者たちはこの問題を自分たちの研究領域の範囲内に抱えていることは自覚しているようですが、具体的な切り口が見つからないために、実際の研究現場では敬遠されています。こういう状況を批判する論者もいますが、拙稿は科学の現場を論評することには興味がないので、それにはくみしません。

さてそれより、ここから先は別の論点で話を進めることにしましょう。いずれにせよ、ものごとの根っこのさらに奥の作りに興味がある拙稿としては、どうも研究対象としては不毛といわれてプロの学者には敬遠されている領域の話を蒸し返すようになってしまいます。しかしまあ筆者としては、言い古された話は避けながらも方向は根っこを目指し、かつなるべく将来、研究が進みそうな方向の問題を取り上げていこうと思っています(言語の根底についての議論は一章を設けて後述する予定)。

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私はなぜ死ぬのか(2)

2008-02-02 | x5私はなぜ死ぬのか

そういう自然現象である死の存在と、人間の脳が死に恐怖を感じることとは、本来、何の関係もないはずです。それでも、人間の脳は、死というものを恐怖と強く結びつけて感じます。それはなぜでしょうか? 死を怖がるという脳の働きが、なにか人類の生存に有利に働いているのでしょうか?

死が怖いと考えている人は、実際、何を怖れているのでしょうか?

死のイメージとして、骸骨の絵が良く使われる。骸骨はだれかの死体です。死ぬ前は生きていた人間だったはずです。

生きている人体を見る場合、人間の脳は、他の無生物を見る場合と違う内部反応を起こす。生きている人体は、命と心を宿すかのように感じるからでしょう。この現象が死体を見る場合の(怖いとか不気味だとかの)特有な情緒反応を作り出すもとになっている。私たち人間が、骸骨など死んだ人体を見る場合、ただの石ころを見るような気持ちにはならない。骸骨を見た人間の脳は、生きた人体を見た場合にそこに心を感じる神経反応と深く関連した、特別の神経反応を起こしている。

死体は生きている人体に似ているけれども、違う。動かない。見つめている私たちを見返す視線を向けてこない。会話ができない。眠っている人も動かないけれども、それとは全然違う。死体は息をしていない。心臓が鼓動していない。顔色がおかしい。触ると土のように冷たい。肉がもげていたり破損していたりなどして見かけがおかしい。つまり、命と心が感じられない。それなのに、生きている人間のようにも見える。特にその人が生きていたとき間近に接した経験があれば、なおさらです。心の代わりに、霊魂とか妖気、のような神秘的なものがあるように見えるわけです。それが不気味に感じられる。それで命や心の存在感が揺れ動き、不安から死体への嫌悪と恐怖の感情が引き起こされる。

この現象は、そもそも人間の脳が、人間の身体を見るときに、石ころを見る場合とは違う神経活動を起こしているところからくる。人間は無意識のうちに、人体の中に命や心を見る。これはたぶん、生れつき人間の脳に備わっている仕組みの働きでしょう(この機構の生得性について、実験心理学では仮説として示唆されることがあるが脳神経科学では脳神経機構としては同定されていない)。私たちが人間を見ると、その身体の中に命と心があるように見える。石ころの中には命や心は見えませんね。私たちが人間を見るときは、無意識のうちに、相手の内面に滑り込んでその心を感じている。拙稿の用語ではこれを憑依という。憑依を起こす神経機構が人間の脳にはある。この憑依機構が自動的に働く結果、私たちは完璧に人の形をしたものを見ると、それが人のように動いて、人のように物事を感じ取っている、と感じる。無意識のうちに直感でそう感じてしまうわけです。ところが、死体を見る場合、私たちの、この無意識の憑依機構は混乱する。それは人のように見えるけれども、私たちは死体にはうまく憑依できない。ぜんぜん動かないし、視線を向けても声をかけても、反応しない。憑依しようとする無意識の神経活動は空転し、人なのか人でないのか、はっきりしないその物体の存在感は揺らぐ。

死体を見ると、まず命と心への信頼感が揺らぐ。命というものが不気味に変質して命ではなくなっている。心というものも変に変質して心ではなくなっている。この死体のどこかに、その不気味に変形した心が隠れているのではないか。死体を見ると、人間は、そういう恐怖のようなものを感じる。その恐怖が、嫌悪となり、目をそむけたり逃げ出したくなったりさせる。死体への、その恐怖と嫌悪の感情が、人間が自分の死を恐れる気持ちにつながっていくのでしょう。

しかし、死体への恐怖から、すぐに死の恐怖が導かれるわけではない点に注意が必要です。死体への恐怖は、命と心の存在感を揺るがせる。それが、自分の命と自分の心への信頼感を揺るがせる。それは不安から恐怖を引き起こす。そういう仕掛けになっている。つまり、私たちが人の命を感じ、心を分かる、ということから、それは来ている。これは逆説的なようですが、人の気持ちが自分の気持ちのように分かるということが、死の恐怖の、いわば根源です。

逆に言えば、自分の死を怖いとも何とも思わない人がいるとすれば、その人は他人の心が分からない人です。自分の心が消えてしまう死を何とも感じられないということは、人体の中に心があると感じられないということでしょう。そういう人は、そもそも他人の心を感じられない。他人の顔を見てもその気持ちが分からないはずです。仮にそういう人がいるとすれば、その人は客観的な世界モデルを持っていない(拙稿第4章参照)。そのため人間の言葉をきちんと話すことができない。人間以外の動物のように言語能力がないでしょう。言葉に似たことをしゃべるかもしれませんが、意味が通じないはずです。言葉の意味は、人の心を感じるところから作られるものだからです(言語の意味については後の章で詳述の予定)。

私たちがふつうに感じている世界の中では、命を持ち、心を持っている私というものがその中心にあって、それがこの現実といわれる物質世界の中を動いていく。今日も明日も、私はこうしたりああしたりして、この世界の中を動いていこうと思う。私たちはいつも、そう思っています。世界と自分の存在感がいつも感じられることへの信頼感から、そう思っているわけです。

ところが一方では、この、私たちがいつも感じている、世界と自分についてのこういう感じ方が、死の恐怖をもたらす原因になっています。つまり、死んでしまえばこの世界の中での明日の自分というものを想像できなくなる。そのとき私の心はどうなってしまうのだろうか? そういう存在感の混乱が、死の恐怖の芯を作っている。自分の死を想像することは、客観的物質世界の中にいつも自分の過去と未来を見ている脳内の客観的世界モデルを撹乱する。

私たち人間は、物事の存在感を共有することで、この世界が客観的に存在していると感じる(拙稿第4章参照)。仲間と共有するその客観的世界モデルを使って、現実を理解し、明日の世界を予想し、その中にある自分の姿と自分の行動を予想して生活している。それなのに、明日の世界を見ることができない。明日の世界では自分が消えてしまう。消えてどうなってしまうか分からない、と感じると、その予想用世界モデルは混乱し、今から先が予想できなくなる。そうなると、現在の自分の存在感も混乱する。そこから、すべての物事の存在感が混乱してくる。何をどう考えていいか分からなくなる。そういう場合、人間は強い困惑感と危機感を感じます。

死は自分の身体が消えることですが、それがどういうことなのか、私たち当人には分からない。実はだれにも分からない。私たちはどうしても、消えていく自分自身の存在感をはっきりとは想像できません。それで危機感は最高に高まり、強い恐怖になっていきます。

それら恐怖の基礎の上に、過去に自分が危機に瀕したときに経験した苦痛や恐怖の感情、あるいは他人の死とそれにいたる危機を自分の身に引き換えて感じる恐怖感、を学習する。それらの記憶が恐怖の感情を起こす脳内器官である扁桃体の神経活動に連絡する。この連結によって死の恐怖は強化され、連想によっていつでも活性化される。この学習は、幼稚園児くらいから小学生のころを通じて、死について語る大人や仲間の表情や言葉の響きを通して感情が共有されることで、しっかりと定着していきます。

死の学習が脳に定着すると、身体の反射的なショックや恐怖感覚を、逆に死を連想することで、増幅するようになる。たとえば、猛獣の襲撃あるいは高所からの転落、爆発的な大音響、などに恐怖を感じる反射反応は、古い時代にできた哺乳動物に共通の神経回路の働きです。一般に哺乳動物では、猛獣の襲撃などが最も強い恐怖反応を引き起こす。動物の場合、この恐怖感情は死の観念とは関係がない。ところが人間の場合は、これら身体の具体的な危険より以上に抽象的な死の観念に恐怖を感じる。身体の具体的な危険への恐怖反応は死の学習以前からあるにもかかわらず、死に至る故に怖い、と感じるようになる。「死ぬほど怖かった」という常套句があるように、私たちの常識では、実際の危険感覚から来る恐怖よりも抽象的な死の恐怖のほうが強いことになっていますね。人間以外の動物は死を感じない。したがって、動物は、痛いのは嫌がるが死の恐怖というものは感じない。動物と違って人間の場合だけ、死という抽象観念と恐怖感情とを強く連結する神経機構が学習によって作られているからです。

科学で説明される生物の死と、私たちが自分や知り合いに起こり得ることとして考えるときの死というものとは違う。全然違うといってよい。脳死や延命医療や人工生殖技術など生命倫理の問題が起こるたびにテレビや新聞では、医師や科学者が登場して、医学や生物学による生命と死の定義を繰り返し説明するが、それは、人間が感じる命、心、自分というものが失われる恐怖とは、むしろ関係がない。私たち人間は、生物学による解釈で命を感じるのではない。生物学を知らない幼稚園児でも命の意味をはっきり知っている。人間は、命の存在を、生きて動いているそのものを見て直感で感じる。理論や知識によって知るのではありません。一方、科学の説明によって表現される物質世界には、生物という物質現象はあるが、人間が直観で感じるような命、というものは存在していない。したがって物質世界には、生も死もない。生や死という錯覚を直感で感じる仕組みが人間の脳の中にある、というだけのことになります。

死の恐怖は、自分の身体がなくなるシミュレーションを、子供のころから周りの人々の態度から感じ取って身につけることによって作られる。それを扁桃体の生得的な恐怖回路に連結することで、恐怖感情が形成される。科学者も哲学者も一般の人も、ほとんどの人が誤解しているようですが、死の恐怖は客観的な物質世界を感知する経験だけからもたらされるものではない。死の恐怖は、人間の脳に特有な集団的共感により作られる錯覚の共有によるものです。この錯覚に関する恐怖感情の共鳴形成の仕組みが、私たちの忌み嫌いや、怖いもの見たさなど、死にまつわる特別の思いの正体というべきでしょう。したがって、死は客観的な経験とは、むしろ関係がない。死の恐怖は、科学とは無関係だというべきでしょう。将来、拙稿で述べている予想のように、科学が哲学と融合できるときがくれば違うでしょうが。

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