私たちは予測にまず言葉を使います。リンゴが落下するとき「リンゴが落下する」と言って、それが地面と衝突して傷つくことを予測します。それは物理方程式を積分することで予測できる物質現象ではあっても、私たちは積分計算などせずに、目や耳でその現象を見聞きし、あるいはその現象を想像し、自分の身体がそのときどう反応するかを知れば、リンゴが落下してその結果どうなるかが直感で分かります。
それを言語で「リンゴが落下する」と語ることで、私たちは、その結果を予測できます。仲間の皆が「リンゴが落下する」という言葉を聞いてどう反応するか、それを知っていることで、私たちはリンゴが落下するということがどういうことなのか分かる。その予測を使って私たちは行動する。そう行動することが、リンゴが落下するということがどういうことなのかを知っている、ということです。そのように物事を予測して行動することが私たちの生活を作り、それが私たちの現実を作っている、といえます。
そうであれば、「リンゴが落下する」という言葉で表される世界、つまり何かが何かを「する」ことで物事が推移していく世界、が私たちにとっての現実であって、物理方程式の積分によって展開される科学理論の世界は、現実の背景に現れる影のようなものでしょう。
科学が描く物理方程式は現実を予測するための理論の一つではあっても、私たちが感じ取る現実そのものとはいえません。私たちの感じ取っている世界は、何かが何かを「する」ことで物事が推移していく世界です。たとえそれが拙稿の見解(拙稿19章「私はここにいる」 )に述べるように、私たちの身体の反応が作り出す、いわば作られる現実ではあっても、私たちの身体にとってはそれ以外に現実はない、と言うべきでしょう。
私たち人類は(拙稿の見解によれば)、人類固有の身体反応が作り出す現実を運動共鳴により共有していて、その内部で生き、その内部で語り合い、その内部で死んでいく。科学が描く物質世界は、人類が感じ取る現実の推移を予測する理論の一つではあるが、それは結局は、人類固有の身体反応の上に作られた理論であって人類を超えて普遍的なものとはいえない。したがって物質世界が実在するかどうかに関しては、私たち人類の身体が、それ(物質世界)が実在するかのごとく反応する、という以外には根拠がない(拙稿25章「存在は理論なのか?」 )と言わざるを得ません。
「~する」という図式の言語を使って語り合っている限り、私たちの科学も哲学も世間話もすべての議論は、私たちの身体のつくりに依存した人類限りのこの現実世界の内部でしか通じない、と言わざるを得ないでしょう。
私たち人間は、物体が加速されるとき(たとえばリンゴが落ちるとき)、あるいは物事が変化するとき、それを感じ取るのに、「~する」という図式の言語を使う。その物が私たちの仲間であるがごとく、その物がその内部に私たちと同じ感情を発生しているがごとく、その物が意図をもってその運動を加速しているがごとく、私たちの身体は感じ取る。
「する」とは何か? それは私たち人間にとってのすべてである、といえます。
(「する」とは何か? end)