哲学の科学

science of philosophy

「する」とは何か(10)

2011-09-24 | xx6「する」とは何か

私たちは予測にまず言葉を使います。リンゴが落下するとき「リンゴが落下する」と言って、それが地面と衝突して傷つくことを予測します。それは物理方程式を積分することで予測できる物質現象ではあっても、私たちは積分計算などせずに、目や耳でその現象を見聞きし、あるいはその現象を想像し、自分の身体がそのときどう反応するかを知れば、リンゴが落下してその結果どうなるかが直感で分かります。

それを言語で「リンゴが落下する」と語ることで、私たちは、その結果を予測できます。仲間の皆が「リンゴが落下する」という言葉を聞いてどう反応するか、それを知っていることで、私たちはリンゴが落下するということがどういうことなのか分かる。その予測を使って私たちは行動する。そう行動することが、リンゴが落下するということがどういうことなのかを知っている、ということです。そのように物事を予測して行動することが私たちの生活を作り、それが私たちの現実を作っている、といえます。

そうであれば、「リンゴが落下する」という言葉で表される世界、つまり何かが何かを「する」ことで物事が推移していく世界、が私たちにとっての現実であって、物理方程式の積分によって展開される科学理論の世界は、現実の背景に現れる影のようなものでしょう。

科学が描く物理方程式は現実を予測するための理論の一つではあっても、私たちが感じ取る現実そのものとはいえません。私たちの感じ取っている世界は、何かが何かを「する」ことで物事が推移していく世界です。たとえそれが拙稿の見解(拙稿19章私はここにいる」

)に述べるように、私たちの身体の反応が作り出す、いわば作られる現実ではあっても、私たちの身体にとってはそれ以外に現実はない、と言うべきでしょう。

私たち人類は(拙稿の見解によれば)、人類固有の身体反応が作り出す現実を運動共鳴により共有していて、その内部で生き、その内部で語り合い、その内部で死んでいく。科学が描く物質世界は、人類が感じ取る現実の推移を予測する理論の一つではあるが、それは結局は、人類固有の身体反応の上に作られた理論であって人類を超えて普遍的なものとはいえない。したがって物質世界が実在するかどうかに関しては、私たち人類の身体が、それ(物質世界)が実在するかのごとく反応する、という以外には根拠がない(拙稿25章「存在は理論なのか?」 )と言わざるを得ません。

「~する」という図式の言語を使って語り合っている限り、私たちの科学も哲学も世間話もすべての議論は、私たちの身体のつくりに依存した人類限りのこの現実世界の内部でしか通じない、と言わざるを得ないでしょう。

私たち人間は、物体が加速されるとき(たとえばリンゴが落ちるとき)、あるいは物事が変化するとき、それを感じ取るのに、「~する」という図式の言語を使う。その物が私たちの仲間であるがごとく、その物がその内部に私たちと同じ感情を発生しているがごとく、その物が意図をもってその運動を加速しているがごとく、私たちの身体は感じ取る。

「する」とは何か? それは私たち人間にとってのすべてである、といえます。

(「する」とは何か?  end)

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「する」とは何か(9)

2011-09-17 | xx6「する」とは何か

拙稿の見解によれば、「~する」という図式を使う私たちの日常言語(自然言語)が表現できる世界だけが現実である、ということになります。もしそうであれば科学が描くような構造を持った物質の世界は、現実そのものとは違うことになります。科学が描く物質の世界は、私たちの身体が運動共鳴することで理解できるような言語に翻訳されて初めて現実になる、といえます。

たとえば、地球重力は、それが作用してリンゴを落とすことによって現実になる。DNA分子の分離エネルギーは、それが作用して受精卵から赤ちゃんを作り出すことによって現実になる。原子炉燃料が発生する核分裂エネルギーは冷却水(あるいは周辺物質)を加熱することによって現実となる。逆にいえば、「~する」という図式を使う日常言語によって翻訳されなければ、科学が描写し予測するような物質の変化は(拙稿の見解では)、私たちがここに感じ取っているような現実と見なすことはできない、といえます。

科学が描く物質世界と私たち人間が感じ取る現実との関係は、光と影のようです。光があるから影がある。影があるから光があると分かる。物質が実在するから私たちがそれを感じ取ることができる、ともいえる一方、物質は、私たちの感性がそれがあると感じるからある、ともいえる。

どちらが光でどちらがその影かは決め付けることができません。私たちの知識が足りないからそれを決めつけることができないのではなくて、そういう問題は、そもそも問題になっていないといえます。いずれにせよ、私たちは(プラトン以来)洞窟の壁に映る影しか見ることができないし、その洞窟から脱出することは決してできない、というべきでしょう。

物質世界がすべてだとすれば(「~する」という図式を使う)私たちの言葉は意味がないし、私たちの言葉に意味があるとすれば物質世界は私たちが知ることができる物事のすべてではない(拙稿23章「人類最大の謎」 )。

物質世界を私たちが知っているのは、ふつう言葉を通してであるので、物質世界がすべてであるということはありえません。なぜならば、「~する」という図式を使う日常言語が表現できる世界が現実であると思っている私たちにとってはこの言葉の意味を説明できない科学理論による物質世界は(すべてであるどころか)特殊な狭い世界でしかないからです。一方、私たちにとっての物質世界は、日常言語で表現できるような際立った物質現象を含む日常の光景であるので、衛星搭載放射計や電子測定器でしか観測できないような、言葉で説明しても意味がはっきりとは分からないような、科学が対象とする物質現象のすべてを含むものではありません。つまり科学が描くような物質世界と、私たちがふつうの会話で話しているような世界との共通部分はあまり大きくない、ということでしょう。

それにもかかわらず私たちは自分たちが物質の世界の中で生きていると思っています。私たちの身体は細胞でできた物質であって、私たちが住んでいる環境は地球という惑星である、と思っている。そういう物質でできている世界は(拙稿の見解によれば)「~する」という図式を使う日常言語で表現できる世界、つまり私たちが仲間とともに住んでいる世界とは、かなり別の世界です。

私たちは、「~する」という図式を使う日常言語が表現できる世界に生きています。毎日、仲間とともにそういう言語で語り合い、一人で考えるときもその言葉で物事を考えている。そのように言葉を使える世界をだれとも共有できる現実と思って生きています。まさに、私たちはその世界に生まれ、その中で死んでいきます(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」 )。

この世界とは別に、科学の描くような原子や素粒子やビッグバンの世界があると思うとしても、そんなものはないと思うとしても、私たちにとってはつまるところ、どちらでも構わないわけです。

私たちの世界では、何かが何かを「する」ことによって推移していく。私たちにとっては、次の瞬間に、あるいは一時間後、あるいは明日に、だれが(あるいは何が)何をするのか、その結果何がどうなるのか、それを予測することが重要です。仲間と気持ちを通じあって、それについて語らって、それを予測し、仲間とともに予測を確認していく。そういうことに私たちの毎日の関心のほとんどが集中しています。私たちは、科学とかかわるとしても、物質現象の変化をもそうして、何かが何かを「する」ととらえて、予測に使います。

そういう予測のために私たちは物質現象に関心があるのであって、科学理論を完璧化するために物質現象について知りたいと思っているのではありません。

一部の科学者を除いては、私たち人間は、今後私たちが影響を受けると予測される何かが何かをするということにだけ興味がある。そのために科学も利用するし、科学ではない占いや皆のうわさや直感、霊感などなどいろいろな予測を使って毎日の生活に役立てています。

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「する」とは何か(8)

2011-09-10 | xx6「する」とは何か

科学の表現方法は物質現象を正確に予測することができる点で非常に優れていることは事実ですが、そのことが私たちの日常生活に直接あらわれることはほとんどありません。科学者の実験や理論の中で科学的表現方法は強力な道具となっていますが、それがふつうの人々の生活に影響するまでには実用化あるいは商品化の複雑な過程が必要です。それ以前の段階では、通常、科学の表現は日常生活では直接には感じられません。

一方、日常生活の場面で使われる日常言語は、人の行動を予測する場面で直接に強力な働きをします。人間関係の変化を予測する場合など、日常言語は簡潔に的確な表現をしますが、そこに科学を使っても全く歯がたちません。コンピュータを使って人間関係の予測計算をしようとしても、とても実用にはならないでしょう。コンピュータに人の心は分からない。コンピュータに小説を書かせることができないことは直感でも分かります。

人間の感性を計算で予測しようとする場合、仮に科学理論を駆使して方程式を全部書き出せたとしても、膨大な計算量になってしまうため結論を出すことは実質的に不可能だからです。

小説家でなくとも、私たちは日常的にやすやすと人の心を予測することができます。その場合、「彼女は嫉妬する」とか「彼は嫌がるだろう」とか短い言葉で的確に表現できます。この短い一行で描写される現象を、科学理論の方程式で書き出せたとしても数億本の連立方程式になるでしょう。それをすべて数値積分していったら計算時間が何百年もかかってしまいます。「~する」という図式を使う日常言語は、このような場面で人間行動を予測するときにその能力を最大に発揮する道具だといえます。

次世代のコンピュータ開発者は、もしかしたら、「~する」という図式を使うソフトウェアを発明してデジタル機械に埋め込むことができるかもしれません。デジタル機械は人間の動作や表情を観測してそれを「~する」という図式で表現する。デジタル機械自身、自らの動作を観測してそれを「~する」という図式で表現することもできる。その時には、コンピュータやロボットは人間関係を読み、人と心が通じ合う会話をするかもしれませんね。

人類という動物種が進化の過程で発生させた「~する」という図式の日常言語(科学用語では自然言語という)は、人類にとって実用的で素晴らしい性能を持つ道具となっています。この道具は私たち人間の行動を取り囲む環境になっています。まさに、私たち人間は、「~する」という図式を使う日常言語の内部に埋め込まれて生きています。科学が描写する物質世界などは、(科学者以外の人々にとっては)日常言語を使う場合の例示や比喩の種になる程度の役割しかない、といえます。

このことを強調した言い方をすれば、日常使われる言語とそれを支える感性が(拙稿の見解によれば)人間にとっての現実の姿であって、私たちの身体を取り巻くこの物質世界は現実の背景に現れる影のようなものだ、といえます。私たち現代人はだれもが、ここに手で触れる物質世界が科学によって描写されるような構造を持って現実に存在している、と思っていますが、そのことも結局は私たちがそういう理論を信じている、ということでしょう(拙稿25章「存在は理論なのか?」 )。

たしかに現代の科学理論が描く物質世界はその中に私たちが感じ取っている現実をうまく埋め込むことはできる。しかしそうではあっても、その理由で科学理論の描きだす世界だけが現実だ、ということはできません。他にも私たちが感じ取っている現実をうまく埋め込む理論はあり得ます。たとえば、すべては神様のなせる業である、とか、すべてはバーチャルリアリティである、とか。それらの理論の中で現代科学理論が一番シンプルである、というだけのことです(一九一二年 バートランド・ラッセル『哲学の諸問題第2章 物質の存在 既出)。

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「する」とは何か(7)

2011-09-03 | xx6「する」とは何か

私たちの身体は(拙稿の見解によれば)仲間の動作を目で見て、あるいは耳で聞いて、無意識のうちにその運動に共鳴を起こす。その運動共鳴を使って物事の変化を予測し、その結果を知って、学習し記憶する(拙稿4章「 世界という錯覚を共有する動物(5)」)。そのとき私たちは、運動共鳴を使って認知する物事の変化を「~する」という図式の言葉で表します。

逆に言えば、私たち人類は、仲間との運動共鳴によるこういう集団的な認知の仕方でしか世界を知ることができません。人間は、運動共鳴による認知を表す「~する」という図式の言葉を使って世界の変化を予測して社会生活を維持する動物に進化しました。私たちがこうして感じ取っている現実世界は、このように進化した人間の身体が集団的に作り出しているもの(表現型)である、といえます。つまり(拙稿の見解では)、この現実世界は、人間が運動共鳴によって身体を動かし、仲間と協力して集団活動を行いやすいように作られたものである、といえます(拙稿24章「世界の構造と起源」)。

私たちが感じ取っているこの現実世界は(拙稿の見解によれば)、このように「~する」という図式の言葉で表せる物事だけから作られている。逆に、そのように作られていることから、この世界は「~する」という図式の言葉で表すことができる。何事も仲間との間で運動共鳴を使って通じ合う私たち人間は、当然、こういう言語を使うことですべてに関して通じ合うことができます。そうして、そうであるから私たちは私たちの言語で世界のすべてを語ることができる、と思っています。

一方、現代科学が描く物質世界の像は、私たちの日常言語とは明らかに違うにもかかわらず、私たちが感じる日常的な現実の変化をよく予測できます。科学の予測を日常の言葉で表した言い方を私たちはよく使います。たとえば「月は月一回地球の周りを回る」といいます。当然その場合、「~する」という図式の言葉で表現されます。しかしこの言語表現では月の位置、速度の変化を正確にあらわすことができない。正確な予測には、やはり数学表現が必要になってしまいます。

「~する」という言語の図式では、時空間に連続的に広がる物質の時間的空間的に連続な変化を正確に予測することはできません。この図式では、特に際立つ変化だけを取り上げて表現することしかできないからです。たとえば「地球の周りを回る」という言葉になる。

科学の描く物質世界は時空間に隙間なく連続に広がっているにもかかわらず、私たち人間が現実の物質現象として身体で物質変化を感じ取る場合には、「あるものがあることをする」という言語の図式を使って、特に際立つ変化だけを、ピンポイントで感じ取ることしかできません。もっと正確に言えば、私たちが感覚器官を使って仲間どうしの運動共鳴を作り出すことによって共通に感じ取ることができるような物質変化しか言語では表現できません。「~する」という言語の図式にあてはめられるような変化現象。それだけが私たちにとっての現実、ということになります。

たとえば、DNA分子が周辺の分子と分離結合を繰り返して受精卵が発生分化する物質過程も、「発生分化する」という言葉だけで表現する限り、胚が胎児になり分娩される、という際立つ現象だけを、きわめておおざっぱに描写することになります。同じように「~する」という言語の図式は、「雨が降る」、「地震が起こる」、「原子炉が爆発する」など際立つ現象を小さな情報量で表現することはできるが、その現象が起こるまでの周辺の変化からの連続的な影響を定量的に表現することはできません。それを描写し現象を定量的に予測するには科学理論を数学的に展開して数値による描写を使うしかありません。

科学の対象を表現する場合、このように科学が正確に詳細に描写する世界像を、日常言語では、おおざっぱに翻訳して分かったように説明することしかできないように見えます。

確かに科学は正確に連続的に物事を表現ことが得意であるのに、日常語はピンポイントでおおざっぱな言い方しかできません。こういうと、科学的表現が優れていて日常言語の表現能力が劣っているように思われますが、その見方は実は不公平です。

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