哲学の科学

science of philosophy

存在はなぜ存在するのか(7)

2007-12-29 | x3 存在はなぜ存在するのか

本当かと問い詰められると、本当のところは知る方法がありません、と言うのが正直な答えになる。理論でも実験観察でも実証はできない。自分以外の人間の頭の中のことは、想像することしかできませんからね。私の隣にいるA君も私と同じように世界を感じているのか、と質問された場合、私は自分がA君の頭の中に入ることを想像する。まあ、それは想像できます。でも、目をつぶって想像するだけではよく分からない。答えは出ない。私はそこで目を開けて、A君の顔をながめてみる。A君の動作を観察する。さらに会話してみます。そうすると、答えがはっきり分かる。A君も私とまったく同じように世界を感じていることは間違いない。その答えが正しいことは確信できます。しかし、問題は、それが正しいことを言葉で説明できないことです。A君も私と同じように世界を感じているに違いないだろうと確信はできる。しかし、そのことを言葉で証明することはできない。正確に説明することもできない。ただ、直感で正しいと確信できるだけです。直感で正しいと感じることと、それを言葉で説明できるかということとは違う。ここは重要なところです。

さてとりあえず、ここでは直感を認めて、A君も私と同じように世界を感じているに違いない、として先に進みましょう。

じゃあ、チンパンジーも私と同じように世界を感じているのか? ロボットはどうだ? と聞かれる。私は、チンパンジーやロボットになった気持ちで想像してみます。しかし、そういう想像は、うまくできません。私たち人間はチンパンジーやロボットにはうまく憑依できないという気がします。私がチンパンジーであるとはどういうことか? ロボットであるとはどういうことか? こういう質問文は言葉では言えても、何を意味しているのか、よく分からない。こういう質問をする人の気持ちはなんとなく分かるような気がするが、改めて意味を考えてみると、何を聞かれているのかさっぱり分からない、という質問です。

チンパンジーになったときの気持ちとか、ロボットになったときの気持ちを想像するのはむずかしいからでしょう。せいぜい人間の範疇でないと無理なようです。たとえば、年寄りの筆者が高校生の気持ちが分かるか? まあ、高校生の顔や動作を観察しながらがんばれば分かるような気がする。しかしながら、男子高校生と女子高校生とどっちが分かりやすいか? 日本のではなくて中国の高校生の気持ちなどはどうだ? といろいろ詳しく聞かれていくと、だんだん分からなくなる。結局、よく分かりません、と言って逃げたくなる。

じゃあ、赤ちゃんの内面は想像できるか? これはまさに難問。自分が一歳児だったころを思い出そうと懸命にがんばってみましょう。無理やりにつぶらな瞳をつくって「アブアブ」と言ってみる。一歳児になったつもりで、世界を見渡してみましょう。できますか? 一生懸命に赤ちゃんを育てているお母さんでも、実はむずかしい。これが本当にできるなら天才ママです。

じゃあ、認知症の老人の内面はどうだ? 家族の顔も分からなくなるらしい。新生児に戻るようなものか。自分がなったときに備えてぜひ知りたいものですが、やはり想像はむずかしい。同じ人間でも、赤ちゃんや認知症の老人の行動を観察すればするほど、大人の正常人には、その内面をはっきりとは想像できないことが分かる。

人の内面を想像することはむずかしい。できないのが当たり前ではないでしょうか? 私たちはなぜ、それができないと思ったり、できると思ったりするのか。人の内面を想像することができると思っても、できないと思っても、結局そういう話全体が全部直感を使った想像の上に作られている。この事実は重要なことです。

人の内面が分かったとしても、その分かったことは言葉で説明できるものではない。心が分かる、という話を私たちは世の中では毎日していますが、それは、そんな気がする、とか、そう言ってみたいから言う、とか、あるいは、そう言うと会話がうまくいくから言う、という程度の覚悟で言っているに過ぎない。論理をつきつめるつもりなどない感覚的な話です。こういう話はまじめにつきつめるほど、論理がぼけてくる。何を話しているのか、よく分からなくなる。結局私たちは、自分が直感で感じることしか、はっきりと知ることはできないわけです。その自分が感じることでさえも、内面で感じることは言葉ではうまく説明できません(現代哲学ではこういう話が、いわゆる主観問題、クオリア問題としてまじめに論議されている。たとえば、一九七四年 トマス・ネーゲルコウモリであるとはどういうことか』既出、一九八六年 フランク・ジャクソン 『メリーは何を知らなかったのか』既出、一九九五年 デイヴィッド・チャーマーズ『不在クオリア、薄れ行くクオリア、踊るクオリア』既出など)。

けれども、言葉でうまく説明することができないからといって、他の人間が自分と同じように感じるはずはない、と考える必要もないでしょう。自分と同じように感じているように見える人間は、そう感じているのだろうな、と想像してよいのです。それが(拙稿の用語を使えば)うまく憑依できている、ということです。人間は皆、私と同じような内面を持っているのだろうなと感じられるから、私と同じように感じている、という考え方でもよい。直感でそう感じればそれでよい。その直感が正しいか正しくないか、という質問は、つきつめれば、意味がありません。何を根拠に正しいと言うか、という話になる。その根拠は、直感でそう感じる、と言う以外にない。それは無意識の直感です。いつの間にか、そう感じている。

意識的に想像する以前に、無意識のうちに人間の脳は、シミュレーション機構を働かせて他人の内部を自分の脳内に作り出す。拙稿の用語では、それを憑依と呼ぶことにしています。私たちは、他人に注意を向ける瞬間に、その人に憑依し、その人に乗り移って世界を感じる。それで作られる他人の内部から見た世界というものは、もちろん錯覚の世界です。じゃあ、錯覚でない、本当の他人の内部はどんな感じなのか。人間は、それを知ることができません。それを知ることができないとしても、何も問題はない。

そういうものを知る、ということはどういう意味か?その意味は実ははっきりしないのです。他人の内面。あるいは、自分自身の内面。そういうものを知る、あるいは、そういうものがある、あるかないか。そういうことは全部、意味が不明です。永久に意味不明のままで、まったく問題はない。私たちの脳が、そういうものがあるかのように感じるように作られている、という事実があるだけです。私たち人間にとっては、この世は直感でこう感じられる、というだけが確かなことなのです。

もともと群棲動物の脳にある仲間の運動との連動機構が、私たちの脳でも働いているのでしょう。仲間が走るのを視界に捉えた瞬間、身体が躍動して四肢が動き出す。全力疾走で走る仲間に追従する。群棲動物の脳には、そういう神経機構が生れつき作られている。人間もそうなのでしょう。目の前の人間が動くのを感じるだけで、その内面で活動している仮想の運動を私の脳は直感で感じます。他人がしている運動に自分の運動神経系が共鳴する,といえる。人間の脳がそうできているからです。その結果、他人も私も同時に同じ世界で運動しているという感覚を得られる。これがだれとも同じ世界を感じているという感覚になる。それを客観的世界と感じる。現実世界と感じる。その無意識の神経活動の信号を意識が拾い出して、世界を感じている自分を直感で感じる。さらにその上で、私たちは言葉を紡ぎだす。

それだけです。それしかない。そこから、ものごとの存在感が生まれる。存在感が存在を存在させている。すべての存在はこうして存在する。私たちが現実と呼んでいるこの世はこうしてできあがっている。

ごく当たり前の話に思えるでしょう? つまり、存在には何の神秘もない。この現実世界には何の神秘もありません。私たちが生きている世界はそういうものです。物質世界は、私を含めてどの人間でもこう感じるだろう、と(仲間の人間との共感の感覚と運動の共鳴とを伴って)感じられることを通じて私の前にこう現れるしか、現れ方はない。そのことを、現実という。それ以外の世界の存在のしかたなど、複雑に想像しても意味はありません。

私が五感で感じ、直感で感じているこの現実世界。仲間の人間たちの身体の動き、そしてこの私自身の身体の動き方から言葉ではなく直感で感じられるもの。私がこう感じてこう知っているこういう現れ方でない世界のあり方など、考えることの意味はない。つまり、少々きつい言い方をすれば、そういうものを考えること自体が間違いです。(拙稿の見解によれば)哲学はそうして間違えていったわけですから。

このように(仲間の人間集団の運動と共鳴している)私の神経系で感じられることで現れるしかないこの世界の中には、感じている私はありません。ここは重要なところです。

まず無意識に私の脳が身体の回りの物質の存在感を感じている。私の脳は、目で見えたり手で触れたりして感じられる物質の一部分として自分の身体の存在感を感じる。たとえば、自分の手足などが目で見えますね。それは、一番近くにある。つまり、視覚や聴覚などで感知する空間の原点にある。それでも私の脳が感じている私のその身体の中にそれらを感じている私がいる必要はありません。この世界にあるように見える私のこの人体が、その脳が、この世界を感じている私だと思い込むのは錯覚です。この世界にあるように見える私の人体は、他人の目に見える物質であり、他人の人体をモデルにして作られた私という脳内の錯覚です。この世界を感じている仕組みが、この世界の中に存在しているこの私らしい人体でなくてはならない、と思い込むことは錯覚です。

これは、知覚できるものをすべて物質世界に投影しようとする無意識の脳機構の働きです。音を感じると音源を特定する。かゆみを感じると皮膚のどこかを特定する。そのように無意識の神経機構が知覚を物質世界に投影します。知覚を引き起こす原因を物質世界の中に特定しようとする働きが、脳にはある。ものごとを感じている自分を知覚すると、脳は物質世界に置かれている自分の人体にそれを投影する。それは、他人に憑依したときに使う投影の仕方を自分自身にも使うからです。そうして作った錯覚の世界の上で人と会話することで、うまく話ができる。この錯覚の世界が現実感を持つのは、人との相互干渉、たとえば会話などが予想通りうまくできるという以外には根拠がない。しかし私たち人間は、なかなかこの錯覚が錯覚であることに気づかない。気づかないように人間の脳の仕組みができているからです。

改めてじっと考えてみれば、この錯覚が錯覚と分かる。しかし、それについて人と会話したり、言葉で語ろうしたりする瞬間、もう錯覚に気づかなくなる。人間が言葉を使う限り、この錯覚の中に埋めこまれてしまうからです。言葉を使う限り、私は私だ、ということになる。それでは錯覚の世界から逃れることはできません。

言葉というものは(拙稿の見解では)、聞き手、あるいは仮想の聞き手、としての他人に憑依することで仮想運動の共鳴を起こすことですから、話し手が聞き手と共有するこの世界の中に、述語に対応する行為の主体(主語が表わすもの)が必ずいなければならない。仮想運動の共鳴によって運動が知覚され、その運動の主体は存在感がある物質として特定される。その前提からして、世界は物質として客観的に存在し、その中に話し手も聞き手も客観的物質であると同時に運動の主体として存在しなければなりません。

物質であると同時に運動の主体である人体の間で会話がなされる。そういう錯覚で作られた世界の内側で、言葉は話されます。私たちが人間の言葉を使う限り、物質の存在を感じる私もあなたも客観的な物質として存在することになる。その物質が同時に自分の意志で身体を動かしている運動の主体である。これはおかしい。

なぜならば、物質は物質の自然法則で動くだけですから、言葉で表現されるときに、主語述語の関係で表される行為の主体にはなれないからです(脳が欲する、とか、細胞が好む、とかは比喩表現でしか言えない)。行為の主体が物質ではない、ということなら物質が主体性を持つことの矛盾は回避される。ところがそうすると、運動の原因であるはずの人間の意志や意識は物質ではないことになってしまう。運動の原因が脳という物質の活動だということならば、それは物質現象だということになる。

そういう(論理的に矛盾した)前提のもとでしか、人間は言葉を使って語り合うことはできない。言葉の話し手である私は、当然物質としてのこの身体そのものであって、同時にこの身体を動かしている主体として表現される。それ以外の私はない、ということになる。そのとき人間は、物質であると同時に、述語に対応する行為の主体であるという不思議さを持ち、その不思議な世界の内側で、私たちはいつまでも語り合い続けるしかない。

私たち現代文明の中に生きる人間は、客観的物質世界をみごとに映し出す自然言語を持っている。十数万年以前に作られた自然言語が、書き言葉の出現をきっかけとして正確に知識を語るようになった。科学に見られるように完璧に物質を描写し、さらに文学や心理学に見られるように人間の内面をも描写できるように思えるまで洗練されてきた。このように社会生活の中であまりにも役に立つものとなった結果、私たちは、自分たちの言葉が、物質でない物事をもすべて完全に言い表せると思い込んでしまっている。しかし人間の言語は、その作られ方からして、物質世界しか正確には言い表せない。物質世界を言い表している主体そのものについて語ろうとするとき、私たちの言語は、それを言い表すことができない。それなのに、人間は、自分たちの思いのすべてを言語で言い表そうとする。そこから哲学の混乱が始まる。

このことには何の神秘もありません。言語の限界をわきまえない、言葉への過信による混乱、が起こっているだけです。ここに神秘があると思うのは錯覚です。唯物論も観念論も物心二元論問題ハードプロブレムも、哲学はすべてここから間違っていったのです。

(13  存在はなぜ存在するのか? end) 

14 それでも科学は存在するのか?

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存在はなぜ存在するのか(6)

2007-12-22 | x3 存在はなぜ存在するのか

物質の中に物質でないものがあるということはおかしいから、それらを混同した話は意味がない、ということになる。ところが、「脳は物質だから物質でない心が入っているはずがない」と言うと、「じゃあ心はどこにあるんだ。ふしぎだ。神秘だ」と言われます。しかしこのことは神秘ではない。なんでもないことです。このことを神秘と感じることは錯覚です。それを神秘と感じるように人間の脳が作られているということと、それが神秘だということとは違う。天動説が間違っていたように、人間の直感は間違う。

人間は心の存在に神秘を感じる。人の心というものは、犯しがたい尊厳を持っているように感じられますね。それは間違いありません。私たちのだれもが、そういう感覚を持っています。人間の脳はそう感じるようにできている。けれども、その感覚は錯覚です。その錯覚を頼りに「人間の心には神秘が存在する」と主張することは、間違った考え方です。

人間は、この物質世界が客観的に存在しているように感じる。同時に、この物質世界に無数にある人体それぞれに、それぞれの心が入っているように感じる。自分にも心があり、それが周りの世界を感じて、自分のこの身体を動かしているように感じる。人体という物質、脳という物質の内部に、心という目に見えないものがある、ということに神秘を感じる。

筆者も直感では確かにそう感じます。しかしこういうことは全部、脳が感じる錯覚です。こういう錯覚を感じるように人間の脳は進化してきた。この仕組みが人類の生存と繁殖に有利だったからです。この仕組みを使って、人類はじょうずに仲間と協力し、言語を作り、社会を作って繁栄してきた。

ところが最近、この数千年くらいのことですが、人間が哲学のようなことを思いつくようになってから、困ったことが起きた。直感で感じるこの錯覚の存在感をそのまま受け入れて、物質世界は実在し精神も実在する、として論理的に考えを進めると心身二元論になる。身体は確かに存在し、同時に心も確かに存在する、ということになる。

身体は物質だから物質ではない心に影響を与えることはできない。心は物質ではないから物質である身体に影響を与えることはできない。互いに無関係な存在だということになる。身体が死んでも心は残るはずだ、とか、心が身体を動かすことはできないはずだ、とかいうことになる。この世には互いにまったく無関係な物質と精神と両方が存在する、というおかしな話になってしまう。

この矛盾は昔から問題にされていましたが、科学が発展するほど、かえってますます不可解な謎に思えるようになってしまいました。最後まで科学が解けない問題だろう、ということで、今では現代哲学の中心的なテーマといわれるようになっています(たとえば一九八九年 コリン・マクギン『心身問題は解けるのか?』)。認知科学や脳科学などを研究している科学者の間でも、ハードプロブレムホムンクルス問題、クオリア問題、ゾンビ問題など種々の切り口でこの問題が提起されていますが、どれも現代科学が解明できそうもない絶望的にむずかしい謎とされています。

一方、哲学などに興味のないふつうの人々の生活感覚では、物質と精神と両方が存在することは当たり前です。日常の常識として、それはそれでよい。経済も科学も社会も、こういう現実感覚(心身二元論)を持ったふつうの人々によって、毎日、問題なく動かされている。物質は間違いなくここにあって、科学が明らかにする自然法則にしたがって変化するだけだし、一人一人の人間にはそれぞれの心があって、それの働きで人間は動いている。それは当たり前すぎて、何とも思わない。それがふつうの現実感覚というものです。

しかし先に述べたように、この現実感覚は、厳密に論理をつきつめると矛盾していることが分かる。そこで哲学者や科学者など論理に敏感な人々は、そこに神秘を感じてしまう。たとえば、自分がふつうの物質でしかない、とか、自分がいつか死んでしまう、とかいうことの意味が、考えれば考えるほど、さっぱり理解できない。それを神秘と感じる。そうすると、この生き生きとした現実はいったい何なのか、物事を感じている自分というものの存在感が揺らぐ。あるいは、目の前の現実の存在感が揺らぐ。そこに恐怖や不安を感じる。立派な科学者が、ふつうの人以上に、こういうところに神秘を感じている。

旧来の哲学は、このことを神秘だと教えてきました。しかし(拙稿の見解によれば)それは間違いです。

 こういうことは、人類の言語ができたころの大昔、十数万年前の素朴な原始人たちには神秘ではなかった。つい百年くらい前まで世界各地に残っていた狩猟採集社会の人々にとっても、物質と精神の両方が、たぶん、問題なく共存していたはずです。そこには、むずかしい哲学はなかった。宗教の教義もなかった。

 ところが、農耕社会が作られ、文明が文字を発明し、さらに技術が都市社会を作ってしまった最近のこの数千年の、つまり有史以降の、知識人たちが、物質と精神の非整合を見つけてしまった。それを神秘と感じるようになった。雄弁な人たちが、それを、大変な問題なのだといって人々に語り続ける。それで宗教の教義ができ、哲学ができた。宗教や哲学が提起するこの神秘の謎を、理性によって解こうとして科学ができてきた。ところが、科学が自然を解明すればするほど、心の謎は深まるばかり。現代の私たちにとっても、こういう話は、ますます神秘的に思えるわけです。

この現象は、人類が存在感覚(存在感の錯覚を共感する感覚)を身につけて使いこなしてきたいきさつを観察することで、よく理解できます。

脊椎動物が数億年かけて進化した結果、哺乳動物の脳は体外の物質現象や体内の神経活動に起因する神経信号を感知して、ものごとの存在感を感じ取れるようになった。人類を含む哺乳動物の脳においては(拙稿の推測では、たぶん大脳基底部で)ものごとを識別する神経活動が起こり、それらを存在するものごととして記憶できるようになる。人類の場合は、さらに仲間の人間が感じる存在感を互いに共感し、動作や発声や表情などの運動を共鳴できるようになった。人類は、だれもが同じように感じられるその存在感の錯覚を共有してうまく利用し、信頼感を持って安定してそれらを使いこなせるような言語体系を開発し、その上に能率のよい社会を作った。

人類の言語の原型が作られたのは十数万年以上前と推定される。言語は、存在感の共有を固定する働きを持っているため、人々の間で世界の物事は安定して存在できるようになった。その働きで、言語は人類の生存適性を飛躍的に高め、人類の棲息地は地球全体に拡大した。

そこまではうまくいったが、その後、言語による存在感の固定は破綻する。最近数千年くらい前から、文明が作られ、哲学や科学というものが作られて、存在感と言語体系の矛盾を見つけてしまったことによる。

自然が行き当たりばったりに進化した結果としてできあがった脳の仕組みは、どうしても全体としての整合に欠ける。数百万年かけて、原始人類の脳が進化して存在感覚を共有化する神経機構を獲得してくるとき、後の時代で人間が哲学や科学のような論理的なものを始めることは問題にされるはずがない。つまり、人間の脳は、まじめに哲学されると矛盾が見えてしまうように進化してしまった。特に、存在感という感覚がそれであり、それにもとづいて作られた言語体系がそれです。人間は物質世界に存在感を感じ取ってその共感を共有し、それの上に言語を作り、さらにその上に科学を作る。同時に人の心にも存在感を感じ取ってその共感を共有し、それの上に言語を作り、さらに心の理論を発展させる。科学と心は別々の理論を作っていき、統合することができません。哲学者や科学者たちは、その矛盾を心身二元論の神秘と感じてしまう。

人間の脳は、すばらしい性能で人の心を読む。人でないものの心まで読む。ベテランの漁師は海の色を読み、魚群を見つける。達人の相場師はマーケットの気配を読み取る。その神経機構の設計を、コンピュータを使って実現することは、天才プログラマーでも無理でしょう。人間は驚異的な精度で仲間の心を読む。仲間が感じる錯覚を共感する。共感するものの存在感を、すばらしい速度で学習し、体得する。そうして仲間で共有するその錯覚は、確固として存在することになっていく。これほど確固として存在感を感じさせるものは、物質と同じように存在しているとしか思えない。そういう感覚を持つことは、人間が仲間とともに社会的に生きるために重要な能力だったのです。進化が設計した脳が発揮する機能は、神秘的と感じさせます。人間が持つ、存在感を共有する能力。その能力にもとづいて作られた人類特有の仕掛け。たとえば、社会組織、あるいは言語。そもそも人間がものごとの存在を感じられる、ということ。それを感じられるということを感じられる、ということ。そして人の心の動きが分かる、ということ。それらの事実が存在すること自体、たしかに神秘的です。

しかしそれは、一億円の宝くじに当たってしまった人が抱く神秘感のようなものでしょう。宝くじに当たった人が、「一億円のくじに当たるためには、その朝シナモンティを飲めばよい」などと自分の体験を書いた本を読んで、自分も朝のシナモンティを実行すれば一億円が当たると思うのは、まったくの間違いでしょう。ただし、書いた人は本気でそう信じている。魔法のシナモンティは、その人にとって、はっきりとこの世に存在するのです。一億円(または三億円あるいはそれ以上)の宝くじをあてた人が本を書けば、必ずその魔法のティについて語るはずです。人類のだれもが一億円よりずっと当選確率の低い(人体の設計図である)DNA配列(ヒトゲノム)のくじを引き当てているのですから、それから作られた人体そして脳の性能の神秘的すばらしさに酔うのは当たり前でしょう。人間にとっては、魔法の命、魔法の心、魔法の自分、がはっきりとこの世に存在するのです。

今日もM銀行の入り口の宝くじ売り場には「出ました!一億円。億万長者!」という派手な張り紙が掲げてあります。おじさんおばさんが列を作っています。宝くじが売り出されれば、だれかに一億円が当たり、その人は自分の特別な人生の神秘感に酔い、その神秘の答をその朝あの魔法のシナモンティを飲んだからだ、と思い込む。魔法のDNA配列(ヒトゲノム)によって神秘を感じさせるような脳を備えた身体を与えられてしまった現生人類がする哲学や宗教は、そのシナモンティの神秘について畏敬の念を語る。一億円が当たってしまえば、そう思いこむほうがあたりまえです。しかし、シナモンティと一億円が関連しているという考えは、間違いなのです。

この間違いに気が付けば、哲学の諸問題は堂々巡りから脱出できます。

私たちは物質世界が客観的に存在するように感じる。同時に私たちは物質世界にはない感情や「他人の心、自分の心、・・・」というような錯覚の存在感も感じる。

その物質世界の中に私の身体があるように感じる。というか、疑いようもなく、ある、と思っている。その身体の中の物質としての私の脳がその物質世界を感じているように感じる。これはたぶん、脳に関する知識と経験からそう感じるのでしょう。

また周りの人間の動きを見て、周りの人も私も同じように、物質世界にはない感情や他人の心、自分の心というような脳内だけの錯覚も感じる機構を備えていると感じる。

そういうことは神秘でもなんでもない。ただ私たちは直感で仲間の人間の内面の存在とその動きの存在感を感じるし、それによる共感によって物質世界の客観的な存在感を感じます。同時にその物質世界の存在感に基づいて、物質としての私たちの脳の機構を科学的に推測すると、直感でそう感じるだろうと思われる神経機構がそこにあることは理解できる、ということです。

私以外の人間が、本当に私と同じように世界を感じているかどうかを、私は直接に知ることができません。でもそう感じているに決まっている、と私は直感で感じます。人の動作を見たり発言を聞いたりすると、私に内面があるのと同じように彼らにも内面があり、私が内面で感じるのと同じように彼らも内面で感じているはずだ、と直感で感じるからです。また生物としての人間は全員ほぼ同じDNA配列(ゲノム)から作られていますから、科学の理論で考えても、(入力が同じ場合)システムの内部構造がシステムの状態を規定する。つまり、同じ内部構造の物質システムである他人と私の身体と脳は、それが置かれている物質世界の状態に対応して同じような運動や生理学的活動をするだろうと推測できます。ここから心の理論ができる。つまり、人間はだれでもが物事を同じように感じるだろう、という気がするわけです。

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存在はなぜ存在するのか(5)

2007-12-14 | x3 存在はなぜ存在するのか

昔から、ふつうの人も、宗教家も哲学者も、魂、正義、あるいは神、あるいは自我、という大事そうなものについて熱心に話し、それを相手に認めさせようとして、「存在」と言う言葉を強調する。「それ(たとえば、魂)は存在する、間違いなく、あるのだ」と言う。それを言う人は、実はその場合、「それ(たとえば、魂)は、ほら、あなたも私も一緒に目の前に見えるように感じるだろう。触ると手触りがありそうに感じるだろう。私らがどう動くかとか、どう考えるかとかと、関係があるような気がするよね。ね、分かるだろう?」と聞き手に共感を求めている、ということです。そういうとき私たち人間は、「ある」、「存在する」、という言葉を使う。

「机がある」と言うとき、私一人だけが机を認めているのではなく、その言葉の聞き手も引き込んで、机を感じている仲間に入れようとしている。同じように、「バラの美しさがある」という言い方を使うと、私だけがバラの美しさを感じているわけではなくなる。聞き手も仲間に引き込んで、一緒に、バラの美しさを感じさせよう、という気迫が出ています。「悲しいものがある」というとき、「私は悲しい」と思っているだけではない何かがある。聞き手を引きずり込んで仲間として悲しい気持ちを共感させ、共有したい、という誘惑の気持ちが込められている。

存在感を感じさせるものは、存在する、そこにある、という考え方で世界を捉えていくと、世界はとても分かりやすくなる。たとえば、ものごとに名をつけ、言葉で世界を言い表すことができる。それが、当たり前と思える。実際、私たちは、そう思っていますね。だから、こうして言葉を通じさせることができる。

物質も人間の内面も、とにかくあるものはある。だれもがそれを同じように感じているはずだ。それらは、だれもがよく知っている決まりきった法則で動いている。物質は物質の法則で動く。人間は物質の法則が複雑に絡み合ってできているらしい生物学的、神経学的な人体の法則で動く。運命などには超自然的なところもあるかもしれないが、それらはそれなりにその超自然的な法則があって、それで動いているのだろう。理性のある現代人は、そう思っています。

それらの法則をよく知り、利用して世界を操作していくことができる。そうしてうまく生きていく。それが現代人の生き方だ。そういうことになります。この場合、何よりも重要なことは、存在する物事に関しては、自分だけでなく、どの人間も同じことを感じて同じように行動するはずだ、と思えることです。それが、その物事が現実に存在する、ということの意味です。その基準で、現実を正確に見抜く。現実の状況を見抜ければ、人々の行動をかなり正確に予測することができる。それで、現実の物事に関しては、人々と話が通じ合い協力することができる。この能力は人類以外の動物にはありません。人類だけが、存在という感覚を仲間と共有して使いこなせる動物だからです。

ちなみに現在の脳神経科学では、存在感を発生するこの脳の機構は解明されていません。拙稿の予想では、たぶん、この機構は、感覚刺激に対応する運動準備(身体運動の実行計画形成)のための(無意識の)神経活動によって大脳皮質(および小脳)で発生する神経信号が大脳基底部(大脳基底核視床扁桃体)の神経回路に送信されて感情を誘発する神経活動に対応しているのでしょう。

いずれにせよ、人類という動物は、存在感の感知機能を仲間と共有し、それを使いこなすことで、身の回りの世界や仲間の行動の変化をかなり正確に予想する。他の動物のように瞬間の反射行動だけに頼ることなく、(無意識のうちに)過去の経験を思い出し、今後のことを予測して、落ち着いて計画的に行動する。成人した人間は、存在感を持って感知した世界の経験から現実の変化を予測する(無意識の、暗黙の)理論を身につけています(石は触ると固い、とか)。

そういう理論を身に着けることで、成人した人間には、世界の物事の基本的な法則がはっきり明瞭に分かっている。世界がどうなっているか、現実がよく分かる。自分がこれから何をすれば良いかも、よく分かる。これは、大人の人間が、現実の物事を把握する存在感の感知機能を身につけているからです。進化によって洗練されたこの存在感感知機能は、人間の行動を生存繁殖によく適応させている。この存在感(という錯覚)を生み出す脳の仕掛けを群集団として共有したことで、(拙稿の見解によれば)人類は全地球を制覇しました。

しかし、人類のその優れた存在感覚の共有機構が、(拙稿の見解では)現代文明にとっては、ミスマッチを引き起こしている。現代人が神話から脱却して獲得した現代的な常識としての世界観と人間観は、存在感覚に起因するこの矛盾の上に成り立っている。その矛盾は日常的な常識の誤謬にとどまらず、急速に発展した科学の基礎に埋め込まれて、大げさに言えば、現代人の知識の基盤を危うくし、同時に哲学の混乱を招いています。

「あるように感じられるものはとにかくある」という素朴な考えがいけませんね。だれもが、なんとなく、それがあるように感じられたとしても、それがあるかどうかとは別の話だ、と考えなくてはいけない。人間の直感では、それを区別しにくい。しかし、違うものとして区別できなければ、存在の矛盾から逃れられません。

物質でないものを目で見る事はできない。命、心、自分、そういうものは、人間にとってとても大事なものですが、物質ではなく脳内の錯覚です。その錯覚が人々の間で共鳴することができて、共有される場合、それは言葉に表わされ、「それはある」とされる。しかし、それらはこの世の内部にはありません。この世は、物質だけからできているからです。物質のことは、カメラで写すことができるし、言葉で語ることができる。しかし物質でない、この世にはないものについては、言葉に語られることがあっても、(自然に作られた人間の言葉では)正確に語ることができない。絵にもかけない。文学や詩や歌や音楽では表わせるような気もしますが、実は表わせない。つまり、物質に対応しない錯覚は、みんなで共有できたとしても正確に表すことはできない。

物質でないものは、自然に作られた人間の言葉で、その存在をうまく語ることは不可能なのです。それらは、まったく語れないということではない。なんとか語れるような気はする。比喩的な言い方を使って観念として抽象的に語ることができる。ところが、その方法では、けっして正確には語れない。比喩は物質現象を例えにして、抽象的な観念を表現し、聞き手の共感を求める。それしかできない。それらは、結局は、物質世界の上に作られる模型でしかありません。自然に作られた人間の言葉は、だれの目にも見えて人類に共有された物質世界の上に作られているからです。

物質でないものでも、自然に作られた日常の言葉を使わずに、数学のように、人工的に設計された言葉を使えば、正確に語ることができる場合がある。抽象的に定義された言葉の間の関係をきれいに定型化することによって、この世にはない抽象的な空間におけるその架空の存在について論理的には完璧に語ることができる。かつて哲学の一派は、それを目指して完璧な論理を追求しました。数学を理想としてそれを手本にしたわけです。しかしそうして作られた哲学は、専門家以外には難解で、しかも実生活とは無関係な空理空論になっていく。それらは、正確になればなるほど、形式的には完璧になり、同時に物質世界からも日常の人間の感情からも浮き上がった内容の空虚な抽象になる。数学や論理学がその内容を正確に表現するためには、逆説的ですが、具体的な現実の空間や物質世界との関係を断たなければならない。なまじ物質世界に片足を置いたままで、部分的に抽象化した理論は現実との矛盾が見えてしまう。徹底的に現実から足を離して浮き上がる、つまり数学のように、その根拠を宙に浮かすことによってのみ、抽象が完全になり矛盾ない理論を作れるわけです。

命、心、自分・・・そういうものが、物質として見つからないこと。そういうものが、私たちの内部でどのように発生するのか分からないこと。それらが何者であるかを正確に言葉で捉えることもできないこと。それは科学が未熟だからではない。哲学が未発達だからでもない。まして、それらが神秘なものだからでもない。そういうものたちの存在を正確に捉えることは、もともと無理なことなのです。そういうものたちは物質ではありません。初めから物質ではなかったのですから、この世界の中に見つかるわけはない。そして、この物質世界にないものを、言葉で正確に語れるはずはない。

この物質世界は人間が感じるものの一部であって、全部ではない、というだけのことです。命、心、自分・・・そういうものについて人間が感じる熱い存在感を、物質世界は部分的にしか受け止めることはできない。それらは感じられるけれども、物質ではない。何も神秘はない。人間の脳は、物質を視覚や聴覚や触覚で感知できると同時に、物質には対応しないそういう錯覚の存在感をも感じるようにできている、というだけです。

物質ではないそういう脳内の錯覚については、漠然とは共感できるものの、それをだれもがはっきりと共感し完全に相互理解できるような手段を、私たち人類は持っていない。人間の言葉はテレパシーではありませんから、直接、脳から脳へその内部状態を伝播させることはできない。目に見える自分達の身体を動かし、表情を駆使し、声色や身ぶり手ぶりや言葉を工夫し、互いに目に見える物質を例えに使って、想像や類推や比喩で、脳から脳へあいまいに共感を伝達する。会話やしぐさの交換によって互いの運動と感覚を不完全に共鳴させる。そうして、不完全な共感にもとづく相互理解を作っていくことができるだけです。

「命、心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義、・・・」、こういう(観念的な)ものの存在感を人間は、目の前の物質や他人の人体の動きを見聞きすることで、暗黙の共感を通じて、直感で明らかに感じとる。言葉の使い方を、それが使われる場面の文脈から経験で感じ取る。子供たちは、そういう学習によってこれらの存在感を身につけていくわけです。それらは、人間が生きるためにとても大事なものです。でも、この目の前に客観的に存在する物質世界の中を探しても、そういうものは直接には存在しない。人間の脳は、こういうものを存在するものと錯覚して、目の前の物質や人体に重ねて映し出す。脳はそういう仕掛けになっている。特に自分の人体に投射します。人体に命という錯覚を重ねて見る。他人の頭蓋骨の中に心という錯覚を見る。自分の頭蓋骨の中に自分の意識と意志という錯覚を見る。

けれどもそれは私の脳がそれらを感じるように働くというだけで、目の前の物質や(他人や自分の)人体の中に、命や心や意識や自我というような、そういう神秘的なものが物質として入っているのではない。こういう心や自我というものがそれの物質の内部にあるように私の脳が感じるということと、実際に物質としてそこにあるということとは別のことです。

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存在はなぜ存在するのか(4)

2007-12-08 | x3 存在はなぜ存在するのか

ガリレオに反対した人々は、地動説を受け入れたら直感とあまりにも矛盾するから頭がおかしくなってしまうだろう、と怖れました。足元がぐらついてくる不安を感じたのでしょう。足元の地面が時速千七百キロメートルで自転していて、しかも時速十万七千キロメートルの超高速で太陽を巡って宇宙空間を移動していくのですから立っていることさえできないではないか、と思ったのです。しかし天動説から地動説に考えを切り替えても、実際、日常生活で人間の直感が困ったことになったわけではありません。それどころか宇宙ステーションに乗り込んで地球の周りを飛び回っていても、人間の頭はおかしくもなんともならないのです。

地面が不動ではなくても、心配するほどのことはない。この世に存在などがあるかないかに、こだわることはないのです。この物質世界が存在しているという証拠はないが、まるで本当に存在しているように感じられる。自分だけではなく、人間はだれもが同じようにこの世界の存在を感じていると感じられる。その存在感は間違いなく存在する。人間のだれもがそれを共有している。それに神秘はない、それだけを知っていれば何も問題はない、存在とは何かなど、永久に知る必要はない、そういう疑問は意味がない、という考えをとっても何も不都合はありません。しかもこうすれば、余計な神秘感に悩まされることもなくなるわけです。 

私たち人間はだれもが、物質世界のしっかりした存在感を感じる。人間は自分だけでなくだれもが、この同じ世界を感じている、と感じる。他人が身体を動かし、身の回りの物質に触れたり、避けたり、持ち上げたりしているところを見れば、物質の運動の法則が直感で分かる。これは他人の身体の動きが、無意識のうちに自分の運動形成回路に共鳴しているから、その運動を感じられるのでしょう。こうして無意識に他人の運動を感じることで、私は、他人がこの私の感じる物質世界を同じように感じていることを、直感として感じる。この世界の物事の動き方を身体の感覚として分かるわけです。

拙稿第4章(世界という錯覚を共有する動物)で述べましたが、私が他人とそれを共有していると感じることができるからこの物質世界は客観的に存在すると感じられる。こうして、世界は存在しているかのように感じられる。このところだけが、私たちが立つことのできる足場ではないでしょうか?この世が存在しているということではなくて、存在しているかのように感じられる、ということ。言い方が少し違うだけのようですが、重要なところです。ここを間違えると、すぐ混乱に落ち込んでしまう。注意が必要です。

同じように、人間は他人の心も感情も感じる。目と耳で、人のその表情や動作や声を見聞きして、その人の内面を無意識に直感的に感じ取るのです。目に見えない他人の内面で動いているらしいそういうものたちもまた、客観的に存在するかのように感じられる。その存在感を心と呼ぶ。心といえば、あの存在感のことか、とだれにでも通じる。自分以外の人間のだれとも、その存在感を共有できるからです。しかも人間にとっては物質よりも心のほうが心に響く。つまり心が一番大事です。

しかし、そういう他人の内面は、直接目で見たり手で触れたり、カメラで撮ったりはできない。つまり他人の表情や運動や言葉など、外側に出てくるものを見聞きした自分の視覚と聴覚からの情報で間接的に感じるほかはない。直接手にとって見たり触ったりはできない。つまり本当のところはよく分らないのです。人間は、他人の運動を見聞きして、自分の運動と感覚を無意識に自動的にそれに共鳴させるけれども、それは完全にはできない。他人の感覚を、大体は共感できるけれども、完全に共感することはできない。ここは重要なところです。

通勤バスの中で携帯電話を使っているビジネスマンがいます。携帯の使用は禁じられているのに、困った人です。「田村さんにお願いしてもよろしいでしょうか。お願いしますよ。はい。はい」と言っている。いかにも、よくありそうなビジネスの話をしているらしい。電話の向こうに田村という人がいるようです。男か女かは分かりません。でも、ビジネスマンの態度やしゃべり方から、間違いなく田村さんは、どこかの会社で電話を取っているのでしょう。こういうとき、田村さんなる人物は存在している、と私たちは直感で感じています。

ところが、よく見たらその男は携帯電話を持っていなくて、空手で電話するふりをしていました。迫真の演技です。手元をよく見なければ、だれでも彼が携帯電話を使っているとしか思えません。しかし、それが分かった瞬間、私たちは気持ち悪くなって、そのバスから逃げ出したくなる。その男が、頭がおかしくて、架空の相手と話していることがはっきりしたからです。もう、田村さんは存在しない。つまり、私たちにとって「田村さんが存在する」ということは、こういうことなのです。

もともと、バスの中で携帯電話の使用が禁じられている理由は、相手が存在しないようにも思えるような会話を近くの人がしていると、私たちが不快に感じるところから来ている。乗り物に乗り合わせた見ず知らずの他人には、もしかしたら頭がおかしいかもしれないと思わせるような行動は、なるべくして欲しくない。不安になってしまいますからね。

私たちは、他人の態度を見たり言葉を聴いたりして、その人の内面を認識している。それは無意識に自動的にしてしまう。「私は不幸だ」と言って、泣いている人を見ると、かわいそうな気持ちになる。彼女の目から涙が、はらはらと流れている。私が涙を流したときは本当に悲しい経験をしたときだった。その感じを思い出す。それで、この人も悲しい気持ちになっているらしいな、と感じる。タマネギの汁が目に入って涙が出ているとは、ふつう思いません。本当は、タマネギなのかもしれない。ハンカチにタマネギの汁をしみこませて顔に近づけ、泣いているふりをしているのかもしれません。天才的に演技がうまい人なのかもしれない。彼女の涙が本物かどうか、彼女の言葉が本物かどうか、本当のところは分からない。でもその涙を見て本物だと思い込み、彼女の悲しさを感じる私の気持ちは本物です。彼女の中に本当に悲しみがあるかどうかには疑いがありますが、私の中には、疑いなく悲しみが発生している。

私の前で涙を流している人は、本当に悲しいのか? その人の脳の中に、本当に悲しさが存在するのかどうか? 当たり前の話のようでもあり、神秘的な話でもあるような気もする。こういう質問の意味は、実は、はっきりしません。形は立派な質問文で、だれもがそういうことを言いそうだし、それを言うときの気分はかなりはっきり分かる。しかしこの質問は、実は意味がはっきりしていない。というか、(拙稿の見解では)無意味と言える。これは哲学的な質問だからです。こういう質問には、気をつけなければならない。こういうことを無邪気に質問してしまうところから、哲学の間違いが始まる。間違った哲学に惑わされたくなければ、この質問はしてはいけない質問の類です。(拙稿の見解では)こういうことを神秘と思うことから、哲学が間違っていくのです。

目に見えない脳の中だけで起こっているらしいことは、なんとなく他人とも分かり合えるような気がすることもあるけれども、本当は分かり合えないような気もする。そういう頼りないところがあります。人間どうしの相互理解の、その根本的な頼りなさを無視してしまえば、いくらでも難しい哲学が作れるし、立派な心理学も作れます。

しかし物質ではないものの存在感は、物質の存在感とは、確かさのレベルが違う。人間の内部には、たとえば「悲しさ」というものが存在する、と言ってみたい。だれもが賛成してくれるでしょう。むしろ、それを認めない人は変人です。認めないでがんばると、毎日がとても不便なことになる。でもその話の確かさについては、改めて考えると、だれも実は自信がないはずです。「悲しさ」というものがこの世に存在することの確かさのレベルは、物質である涙やタマネギが存在することに比べると圧倒的に頼りない。「悲しさ」はカメラに写らない。涙やタマネギはカメラに写ります。

その違いはだれも認めるでしょう。それを強調すれば、物質ではないものの存在感は、物質の存在感とは区別できる。心の中にあるもの、人間の内面、主観、そういうものは物質として目に見えない。手で触れない。本人だけが直接感じられる。

その本人でさえも、自分の身体のどこで「悲しさ」を感じているのか分からない。自分の「悲しさ」は、目には見えない。耳にも聞こえない。手で触れない。匂いも味もしない。涙が口に入ってきてしょっぱかったりはします。結局、自分の「悲しさ」でも、直接の五感では感じられない。脳のどこにあるか、はっきりとは分からない感情回路が感じているらしい、と思われるだけです。

客観と主観。一方はだれでもが感じられる。他方は、その人自身しか感じられない。両方とも存在感はある。私たちは、どちらの存在感を感じても、無意識に身体が反応します。たとえば、もっと知りたくなる。怖くなる。逃げたくなる。あるいは好きになったり嫌いになったりする。同時にその感情と一緒にそのことを記憶する。それで、それがあると感じる。ここは同じです。しかし、だれとも共有できる物質的存在感と、人間の内面にあるものを感じる存在感とは、明らかに違う。その違いを人間は、客観とか主観とか、外界とか内面とか、現実とか心の中とか、言うようになったのです。

目に見えない人間の内面は、神秘的なところであるような気がする。逆に、だれの目にも見えるこの現実の物質世界は、当たり前すぎて神秘感がない。それを私たちは、あまり意識せずに、使い分けている。人間の内面がなぜあるのか?物質でできた外界がなぜあるのか?私たちが感じるものごとが、なぜ内面と外界に分けられるのか?ふつうそんなことは、考えることがありません。人間には内面があり、それとは別に、外界がある。それは当たり前だ、と人間はだれもが思っています。しかし、拙稿の考えでは、内面と外界を安易に分けて考える常識に問題がある。

(拙稿の見解では)人間の内面と外界は別のものではない。どちらも存在感があるから、人間はそれらが確かにあると感じる。それが、だれの目にも見えるかどうか、手で触れるかどうか、というところで内面と外界は区別されている。人間の言語がそうできている。存在する、ある、という言葉は、内面のものと外界のものとを区別したり、区別しなかったり、はなはだあいまいに使われる言葉です。拙稿の見解では、こういう言葉の使い方のあいまいさから、人間の世界観、人生観、自我意識、そして哲学の混乱が始まる、と考えます。

言葉があいまいだからけしからん、と筆者は言いたいわけではありません。人間の感じる存在感がそうなっているから、言葉がそうなっているのでしょう。ただ、これを文字に書き表すときや、哲学論議に使うときには、もう少し気をつけるべきだった。

存在するという言葉を使うと、そのもとになる存在感覚は自分の身体から離れて、外界の客観的世界に属してしまう。「悲しさ」のような、せっかく私の内部に発生した生暖かい秘密の大切なものが、「悲しさがある」という言葉にすることによって、私の内部から流れ出て行って、だれもがはっきりと目に見える外部の物質たちの間にあることになってしまう。

さかんに、それをしてしまったのが、過去の言語技術者たちです。まず書き言葉が現れたことによって、言葉は身体の外に押し出され始めた。口で「悲しい」と言っているうちは、まだそれは身体で表わされている感情表現の一部分になっている。ところが、それを文字に書いてしまうと、身体から離れる。書き言葉は、書いた瞬間に読まれるのではなくて、ずっと後の時間に、書いた人が見えないところで、それは読まれる。書いたものは残る。人体は変化し続けて、やがては消滅していきます。書いたものは身体の外に残り、書いた人の身体から独立して存在していくように思えますね。言葉は、書くことで身体の外に出て行く。さらに、読むことで、さらに身体の外に出て行く。その言葉が、さらに書かれ、読まれ、書かれ、読まれていく。そのたびに、人間の身体から遠く離れていく。特に古代ギリシアから由来する西洋哲学は、近世に至って、ますます言葉を身体から外へ押し出してしまいました。

筆者は、物質として存在しないものは無視すべきだ、と言っているのではありません。存在しないのに人間が存在感を感じるものは、それだけ人間にとって大事なものだからそれを感じる。命、心、意識、欲望、苦痛、愛、憎しみ、言葉、財力、お金、社会的地位・・・、こういうものは物質よりも大事と感じられる。だから大事なのです。強い存在感がある。こういうものを感じとることで人間は社会を作り、毎日の人生を生きていく。それを感じられないようなら、生きている甲斐もありません。

しかし、それらの存在の根拠を物質世界の中に見つけようとしても無理です。それらは目に見えるものではないから、物としては見つけられない。じゃあ、書物の中になら見つかるのか?偉い先生の論文や講義の中になら見つかるのか?人との会話の中になら見つかるのか?どれもだめです。言葉に期待しても無理なのです。哲学や文学に期待しても無理です。(拙稿の見解では)物質世界の中に見つけられないものを言葉で間違いなく言い表すことは不可能だからです(数学の正確性が例外的に見えることについては後述)。

もちろん科学に期待してもさらに無理です。科学こそ、目に見える物事だけから作られている。科学者が脳をいくら研究してもだめです。脳を徹底的に観察すれば、意識が見つかるのか?「悲しさ」が見つかるのか?バラの美しさが見つかるのか?

どれも無理ですね。バラの美しさを感じるときに活動する神経機構は見つかるでしょう。ですが、バラのその美しさ自身はけっして見つかりません。言葉の世界にそれを求めても無理です。美しいという言葉は美しいですか?バラという字は美しいですか?バラの美しさは、バラ自身にもなく、それを言い表す言葉の中にもなく、それを感じている私の中にしかない。過去の哲学者の著作をいくら読んでも、真実は見つかりません。バラをバラバラに、いくら切り刻んでも、原子間電子顕微鏡で分子構造を読み出しても、バラの美しさは取り出せない。それは、物質としてのバラの中にあるのではなく、バラを見ている私の感覚の中にあるからです。

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存在はなぜ存在するのか(3)

2007-12-01 | x3 存在はなぜ存在するのか

では改めて、この机が、いつでもだれの目にも見えるならばそれは存在する、と言うことにしましょう。これを仮に、存在の第一ルールと呼びます。

『存在の第一ルール:それが、いつでもだれの目にも見えるならばそれは存在する、と言う』

この方法で目に見える物質は全部存在できます。それから、目に見える物質たちから理論的に存在を証明できる物質、原子、電波、素粒子などは確かに存在することにしましょう。つまり、存在の第一ルールで存在すると言えるものから理論的に存在が導けるものは存在する、と言う。これを仮に、存在の第二ルールと呼ぶ。

『存在の第二ルール:存在の第一ルールで存在すると言えるものから理論的に存在が導けるものは存在する、と言う』

 さてここで、物質世界の中にあるのかどうかはっきりしないもの、もののけとか、心とか、愛とか、憎しみとか、私の借金、とかはどうなるのでしょうか。存在の仲間に入れてよいものかどうか。困りますね。拙稿での議論の流れから考えると、こういうものは存在しないと言いたい。だれが見ても、どう見ても確かにそこに存在する場合には存在という語を使うとしても、そうでない場合にも存在という語の使用を許してしまうと、けじめが付かない。哲学の混乱は収まらなくなる、という心配があります。

 では、ここで存在の第三ルールを作りましょう。第一と第二のルールで、それが確かに存在すると言える場合以外は、存在するとは言わないことにするわけです。ふつうの言い方とすこしずれてきましたが、ここでは、仮にそうすることにして、進んでみましょう。話を進めていくうちに、あまりおかしくなるようなら、この言葉使いをやめればよいわけです。とりあえずここでは、議論を単純にするために、こういうルールにします。

 『存在の第三ルール:第一と第二のルールで、それが確かに存在すると言える場合以外は、それが存在するとは言わない』

 

 さて改めて、今作った三個の存在のルールを書き並べてみましょう。 

『存在の第一ルール:それが、いつでもだれの目にも見えるならばそれは存在する、と言う』

『存在の第二ルール:存在の第一ルールで存在すると言えるものから理論的に存在が導けるものは存在する、と言う』

 『存在の第三ルール:第一と第二のルールで、それが確かに存在すると言える場合以外は、それが存在するとは言わない』

私たちが感じる物事に、仮に、この三個のルールを使ってみるとどうなるか?

まず物質はすべて存在する。素粒子から宇宙までこの物質世界はすべて存在する。生物はすべて、人間はすべて、存在する。もちろん、私の身体も脳も存在する。一方、心、意識、欲望、苦痛、愛、憎しみ、そういうものは存在しないこととなる。脳の中で生じる錯覚だということになります。

錯覚に関しては、それがあると感じる感覚、錯覚による存在感覚、を生み出す神経機構が人間の脳の中に確かに存在する。それは哺乳類の古い神経機構を下敷きに進化した扁桃体周辺の神経回路でしょう。その神経機構は、確かに物質で構成された仕掛けとして、すべての人間の脳に存在する。しかしその機構が「存在する」と感じるものは必ずしも存在しない,と言える。したがって、心、意識、欲望、苦痛、愛、憎しみ、そして私の借金は、必ずしも存在しない。目に見えないものは錯覚ですね。それは錯覚を感じる神経機構の働きで生じるだけなわけです。

まあしかし、錯覚だから重要でない、借金は返さなくてよい、などということを言うつもりはありません。そんなことを言ってしまうと、今後一切、だれも私にお金を貸してくれなくなりますからね。私たち人間にとっては、むしろ物質世界全体よりも、心や愛や信用のほうがずっと重要です。これらが存在しないなどと言い張っていると、生きることがたいへん不便になります。だれとも、話は通じない。というか、人に対してどうふるまったらよいか、自分でも分からなくなります。ですから人間が人間として社会に生きる以上、これらが存在しないと強弁することは、やはり無理というものです。

そこで筆者は、言い方を工夫して、哲学の混乱を最小限に食い止める方法を考えてみました。たとえば、「心がある」と言わないで「心を感じる」と言う。「愛が存在する」と言わないで「愛を感じる」と言う。「悲しいものがある」と言わないで「悲しい」と言う。こう言うように、存在という言葉を安易に使うことを避ける。そうすれば、とりあえず、かなりの場面で混乱を避けられそうです。

しかし、もう一度よく考えてみると、事態はそう甘くはない。だいたい、言葉遣いというものは、簡単に変えられるものではありません。私たちが毎日使っている慣用の言語表現を勝手に制限することを提案しても、世間で相手にされるはずがない。第一、その前に、自分が舌をかんでしまいそうです。それに、「心がある」、「愛がある」、「悲しいものがある」という言い方のニュアンスは、筆者が思っているよりも、ずっと深いところがありそうです。伝統的でもある。よく分からずに切り捨ててしまってよいものか。不安がある。そういえば「不安である」と「不安がある」は同じではないでしょう。不安があると不安である。こういう微妙なニュアンスは、(駄洒落ではあるが)少なくとも文学的な価値観からは捨てがたいものがある。特に「悲しいものがある」とか「つらいものがある」とかは、だれが発明した表現か、詩的で味がある言い方で筆者は好きですね。「借りたものがある」とか「返さなければいけないものがある」とかいう言い方は、いかにも散文的だし、筆者はあまり好きではありませんがね。

それが物質でなく目に見えず手で触れないものであることを知っているからこそ、人々は、比喩を使ってそれが物質であるかのように扱いたいのでしょう。だれもが、それが物質ではないことを知っていながら、比喩を使ってそれが物質であるような言い方をし、それで互いに言葉のイメージをはっきりさせて会話を成り立たせる。

こういう言葉のテクニックを、人間は大昔から使ってきた。「心が暖かい」とか「腹が黒い」とか「命を奪う」とか、「不安が広がる」とか、「信頼関係が壊れる」とか、「借金の重み」とか、私たちは物質でないものについて、まるでそれが物質であるかのように扱って話す。物質を動かす。物質を感知する。人間が共有できるその身体感覚を比喩に使って、物質でない錯覚を言い表す。このことは、人間の言語というものが、まず物質にかかわる運動と感覚を直接そのまま表わすことから始まり、次に物質でなくても共感できる錯覚を見つけ出してそれを言葉で名づけていったことを示唆しています。同時に人間は、それらが物質のように運動するという比喩を使って語り合った。それらがあたかも目に見え、身体に関する直接の運動と感知の対象である物質であるかのように語り合うことから、人間の間に物質でないものの錯覚の存在感が共有されていった。

その錯覚の共有によって、集団の中に協力ができ、人間関係ができ、社会ができていった。比喩というテクニックは、人間社会の基盤としての言語のその、系統発生個体発生を示しています。ちなみに現代の認知言語学でも、人間の世界認識における比喩の重要性が認められている(一九八〇年 ジョージ・レイコフ、マーク・ジョンソン『生きる糧としての比喩』)。

 比喩やたとえ話など、言語技術を駆使した言葉遣いが発展してくると、社会生活には大いに便利な半面、言語の使い手である人間の世界認識が、自分たちが作ったはずの言語に引っぱられてしまう現象が起きる。言語環境で育つ人間は、比喩から来る錯覚の存在感を物質の存在感と混同して世界を認識していく。逆にいえば、その混同が人間関係と社会現象の認識に役に立つ。人間について語る場合、社会について語る場合、比喩が不可欠です。権威ある学者も、ジャーナリストも政治家も、比喩や錯覚を大いに利用して語る。現代でも、マスコミや教育など公共の場で言葉が使われるたびに、錯覚の存在感は世の中に浸透していきます。ここから哲学的な認識の混乱、あるいは感情的な人間観、自我意識の混乱、などが発生します。ですから、感性にぴったりくる優れた比喩表現こそ、危険が大きい。たとえば「世間は冷たい」、「地球は泣いている」、「日本の未来は暗い」・・・こういう言葉は青少年の世界認識に深く影響する。そのような言葉は注意が必要です。教育上は濫用しないように気をつけるべきでしょうね。

 「肩がこるのは日本人だけ」という日本では有名な謎がありますね。多くの日本人が毎日悩んでいる、ありふれた自覚症状が、日本以外の国にはまったくない、という。世界中で日本人だけが格段に人間関係で苦労しているから異常に肩が緊張するのだ、という説が唱えられたりしておもしろいのですが、まあ、そういう説は、世界をよく知らない人が言っている場合が多い。こういうものは、言葉の問題でしょう。肩こりという言葉がない国に肩こりはない。その特別な痛みを表現する言葉を知らなければ鈍い痛みは自覚できない、というだけでしょう。医者に訴えればショルダーストレインとか言ってくれるかもしれない。そんな医学用語など素人は覚えません。町で毎日話す会話に、肩こりという言葉が頻発するのは、日本だけのようですからね。肩こりの存在が先か、肩こりという言葉の存在が先か? 鶏と卵とどっちが先? 

 もし仮に、存在という語を持たない国があったら(実際そんな国はありませんが)、そこに住む人々には、世界は存在しない。自分も存在しないはずです。人類がはじめに言葉を作ったときから、存在しないものは存在しないとすればよかった。まあ、今から人為的に言葉を変えることはふつうできない。無理やり変えるのは特によくない。軍隊という言葉を禁止しても、軍隊のようなものはなくならない。それに関する言葉を使うときに変な緊張感が残るだけですね。存在すると言われるものは存在するとして、その言葉の使い方に気をつければよいわけです。

 そういうわけで、長々と述べましたが結局、存在という言葉は、だれもが、それが存在するような気になって使っているという場合、それは存在する、ということにするとして使うしかない、という結論です。ふつうの使い方とほとんど同じですね。存在に関して先に言葉使いの三ルールなどを仮に決めましたが、それにこだわることは、もうやめましょう。ふつうの使い方でいきます。確かに存在するように思えるときは、確かに存在するという。存在するかどうかはっきりしない場合は、話の流れによって、存在するといったり、存在しないといったりする。拙稿では、そういうふうに使います。ただし、「存在」という語は、ふつうに、あいまいに使うとしても、そのあいまいさには危険が潜む。そのことに十分注意して使うことにしましょう。

 言葉でなんと言おうと、存在しているものは存在している。それを人間が確かめられるかどうかと関係なく存在しているものは存在している、という直感が人間にはある。これは生きていくためにもっとも大事な直感です。これは、感覚入力情報を受け取ると反射的に運動信号を発生する動物共通の古い神経機構から来る直感でしょう。ここに実際にあるものたちは存在しているとしか思えない、というその感覚こそが、存在感、現実感(リアリティなどと最近はいう)という脳の機能です。この世は目に見えるように存在している。感じられるように存在している。信じているように存在する。この世界は、そのように間違いなく実在している、現実に存在している、という感覚が私たちの中にあります。それはかつての天動説のように、だれもがそうとしか思えない自明の真理のように感じられます。

 しかし天動説に固執していては、科学は進歩しなかった。存在の問題に関しても、この地面は不動ではないかもしれない、と考えてみましょう。間違った直感の上に足場を置いていることに、私たちはなかなか気づかないのかもしれない。もしそうだとすれば、その足場を不動と思い込んでいる限りは、既存の哲学がずっとそうだったように物心二元論問題心身問題あるいはその現代版のハードプロブレムホムンクルス論、クオリア論、ゾンビ論など)の周りを堂々巡りするだけになってしまいます。

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存在はなぜ存在するのか(2)

2007-11-22 | x3 存在はなぜ存在するのか

筆者はどうも存在という言葉が、あまり好きではありません。存在、なんて存在しないのじゃないか? 存在なんて、いい加減な、ぞんざいな言葉なのじゃないか、と思えてしまう。

「今朝は晴れていて気持ちがいい」と言いたいときに、「今朝が存在してかつ晴れが存在しているので気持ちの良さが存在する」と言い換えることはできますが、素直な言い方とは思えませんね。 あるいは、「今朝と共に晴れがあり、そして気持ちの良さがある」とも言い換えることもできそうですが、どうですか? つまらない言葉遊びのような気がしませんか?

 存在という言葉は、いい加減で頼りないけれど、存在感という言葉は存在感がある。ふつうの人は、存在論などという言葉はあまり使わないけれど、直感で感じる存在感は頼りにしていて、それに導かれて毎日の行動をしている。

 「彼女は存在感がある」というと、何を言いたいか、すぐ分かりますね。

つまり人間は、哲学理論以前に、直感で感じる存在感をもとに目の前の物質や人物が、今その場所に幻覚ではなく現実に存在し、自分や他人など人間の感覚に映り、自分や他人の運動作用にきちんと反応し、また干渉し、影響する、と思っている。

自分が感じる存在感と他人が感じていると感じられる存在感が組み合わさって、人間は物の存在を感じている。窓の外にいる子供が「きゃあ、ミミズがいる!」と叫ぶのを聞けば、聞き手の脳は自動的に子供の目に映っているミミズの存在感を感じる。

人間が感じる物の存在感は、自分だけがその物の存在感を感じていると感じるよりも、だれもがその存在感を感じている、という集団的感覚が先にある。それがそのまま、その物の実在感になっています。

物の存在を感じる人間の脳のそういう機構、つまり主観的な言葉でいうところの存在感、それがすべての存在の根拠でしょう。目に見える現実の物質も、そして目に見えない錯覚などすべての存在も、存在感を感知する脳のその機構が働くことによって存在していると思えるのです。

私が目の前に見ている物質たちは客観的に存在しているらしい。私以外の人間らしくみえる物質、つまり他人も、私と同じような構造の人体という物質らしいから、彼らも私と同じように周りの物質たちが存在しているらしいと感じているらしい。あらゆる経験が、その感覚と矛盾しないから、この物質世界は、私の主観とは独立に客観的に存在しているらしい、と理屈ではなく直感で私は感じる。

このことは、自分が身体を動かしていろいろな角度から周りの物質を見回し、手で接触することでいつでも確かめられる。さらに周りの人々の行動を見聞きしたり、その人たちと会話したりすることから、毎日毎日の経験でますます直感的に確信できる。こうして、物質世界は私の主観とは別に客観的に存在できる。これ以外に、客観的物質世界の存在のしかたはありません。

目の前の物質を指して、「○○がある」と言うとき、まず○○は私たちの日常的な経験側にしたがう物質として、いくつかの条件を満たしている。

(○○としては、たとえば、読者のパソコン、一万円札、一円玉、地球、近所の奥さん、あるいは日本の総理大臣、などを思い浮かべてください。)

つまり○○は空間のどこかに位置していて、立体的な輪郭を持っていて、周りのものと同じように何色かの光を反射している。触れば温かさや、堅いか柔らかいか分かる。重心は静止しているか滑らかに動く。瞬きをしている間になくなってしまったり、数が増えたり、形や大きさが激変してしまったりすることはない(筆者の一万円札は瞬く間に消えるし、一円玉はいつの間にか殖えるが)。○○が何かに接触すれば、運動は相手の影響を受けて変化する。つまり、相手にぶつかって止まったり、跳ね返ったり、減速したりする。何にも接触しなければ、○○の動きは変化しない。

観察者が目玉や頭を動かしても、内心の念力で祈り倒しても、その影響で○○が動くことはない。逆に私たちが経験でよく知っている物質の運動法則だけで○○は動いていく。○○は、だれがどの位置から観察しているかに関係なく私たちのだれもが良く知っている現実の法則にしたがって動き変化する。だれが見ても、同一時点では同じ形に見えて、同じ動き方をするように見える。

こういう場合、私たちは○○の存在感を感じ「○○がある」と思い、聞き手に向かってそれを指差しながら「○○がある」と言う。あるいは、動作でそれを示す。そのときの聞き手の目つきを見れば、その人が私と同じように○○の存在感を感じていることが確認できる。そういう場合○○は、たしかに、客観的に、存在するわけです。

○○の存在感は、瞬時に、それに適切に対応する私たちの反射的な行動を引き起こし、それと同時に、感情ラベルを添付されて記憶に蓄えられる。近所の奥さんと会ったら(反射的に)挨拶する、とかです。こうすることで私たちは、ふたたび同じ存在感を感知したときに、ますますじょうずに適切な行動が取れるようになる。

ものが存在する、ということはこういうことです。逆に言えば、こういうこと以外に、存在の神秘的な意味などはありません。

こうして存在するもろもろの物質はすべて、私の視線の方向や私の関心とは無関係に、そこにある、ということを認めることができる。それを認めると、私の身体から前後左右上下に、目の前から無限遠方にまで、ここにも、あすこにも、そこらじゅうに存在する無数の物質を認めることができる。ということは結局、この世、つまりこの物質世界が存在できることになるわけです。

この感じ方は、私の感じ方という以前に、すべての人の感じ方だと分かっています。西洋の近代哲学者たちも、世界の存在を前提する前に経験で感知できるものから考えを始めるべきだ、として古典哲学の存在論と分かれて近代の観念論を作っていきました(一七八一年 イマニュエル・カント純粋理性批判』{既出})。

こういうふうに人間は、自分が感じるというところから身の回りに広がる物質世界を認めると同時に、他人もそう思っていることを確認する。そしてそこにある物質を、会話の相手と一緒に認めることができることを確認する方法として「○○がある」という言葉を作ったのではないでしょうか? 物質世界の中に物質として○○がある、ということと、「○○がある」という言葉があることとは、互いに支えあっている。話し手が「○○がある」という言葉を発したのに対して聞き手がうなずいた瞬間に、客観的世界の中に○○が出現し、会話の聞き手と話し手は対称的に同じその世界の中に立って○○を見つめていることになる。つまり聞き手と話し手は、お互いに相手の鏡像になり、同一の内部構造を持っていて、いつでも交換可能でなければならない関係になる。それと同時に聞き手も話し手も、このひとつの世界の内部にあることとなって、これから共に○○という存在に対応して行動していくことになる。

動作や指差しや視線や言葉を使って、「物が存在している」という感覚が人間どうしで通じ合えると、物質世界についての共有する経験を会話で表現し、知見を交換できる。そしてそれはだんだんと伝承的知識になり、書物に書かれ、学問として科学に発展していく。

科学は、こうして出来上がってきたのでしょう。誰もが同じように目や手で感じられる物質を測定して数量で表わし、その量的変化の法則を方程式で表わす。そうすると、目の前の物質は確かに、どれもどんな場合でも、だれが観察しても、物理化学の方程式による予想通りに変化する。そういう意味で、目の前の物質は科学が表現するように存在している、と感じられる。

しかし物質の世界にはないもの、「命、心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・」、などを相手に格闘したい哲学者やこういうものから作品を発想する文学者などとしては、物質を出発点にはできません。物質世界にはないこれら抽象概念がだれでも自明に理解できるはずだ、という前提で議論を始めてしまう。その言葉を相手がどう思っているかは確かめようがないのに、それは存在するに決まっているものとしてどんどん話を進めてしまう。文学に限らず言葉を使う仕事では、言葉は通じるものと前提して、どんどん使ってしまう。確かに、ふつうはそうすることが正しい。強引に自信を持ってどんどん使ってしまうことで、それらの言葉は相手に通じるようになる。この方法は強力です。逆に言えば、実体を指差せない以上、そうする以外にこれらの言葉を相手に分からせる方法はないのです。そうすることで、言葉で言っているものはしっかりと存在するかのように思えてしまう。人間の言葉は、そういう働きを持っているから、これほど簡単に通じていくのです。

しかし、言葉をうまく使うことで物質ではないものが存在するかのように思えてしまうかどうかと、目の前の物質が存在するかどうかとは、レベルの違う話です。混同してはいけません。

脳内の存在感という感覚にしか根拠がない「存在」という概念を出発点にして、ものごとを哲学しようとしても、結局は挫折する。

そうだとすれば、「存在」という言葉は、物質世界で指差せるものだけに限定して使うべきでしょうか? 議論を分かりやすくするためにはそうかもしれませんね。まあしかし、いままで自由に使ってきた言葉を勝手に制限することなどできない。言葉使いに関して拙稿の方針は、むしろ自由主義、つまり、あいまいな言葉はあいまいなまま使う。「存在」に関しても、拙稿では、世間で使われているあいまいな言葉使いをそのまま使っていくことを原則にします。

さてその上で、拙稿では、物質も物質でないものも全部ひっくるめて、この世に存在などは存在しないのではないか、と疑ってみる。存在とは人間の脳が感じる錯覚の一種だ、と決め付けてみるわけです。少々過激ですが、この決め付けがうまく成功すれば議論はかなり単純化できるはずです。

では少々過激に聞こえても躊躇せず、それで進めてみます。目の前の物質も私の身体も含めて、皆さんが存在すると思っているあらゆるものは存在しない、と言いきってみる。まあとりあえず、そこから出発してみましょう。

まず、借金の取立てに来た人が話を始めた瞬間をとらえて「そんなことよりも、まず、この机は存在するのだろうか」と言ってみましょう。「この机は私が見てもあなたが見ても、どう見ても確かにここに存在するように感じられます。しかし、本当に存在しているのでしょうか? さらに疑問なことは、私の借金というものは、この机と同じような意味で存在できるかということなのです」と暗い顔をして深刻な声で言いましょう。取立人は、顔色を変えて帰っていくでしょう。とりあえず、しばらくは返さなくてすむかもしれませんよ。

昔からこういう哲学議論はありました(一七一〇年ジョージ・バークリー人知原理論{既出}など)が、過去の偉大な哲学には深入りせず、さっと流してみましょう。

まず、現実にそこにあるとしか思えない目の前の物質(たとえばこのパソコン)も、存在しない、ということにしましょう。目の前に物がある、という考えは意味がない、ということにします。そこにそれがある、と感じさせるような存在感が錯覚として脳内に存在するだけだ、とするわけです。つまり、万物は存在しないのに存在するかのように感じられる。その存在感を与える原因となる物理学的な法則は存在するとしても、その法則がバーチャルではなくリアルに存在するかどうかを、人間は結局のところ知ることができない。限りなくリアルらしい、というところまでは言える。しかし絶対にリアルだ、ときめつけることができない。つきつめるほど、リアルもバーチャルも、意味があいまいになってくる。こうなると、何を言っているのか、よく分からなくなってきます。

だから、存在するとかしないとかを、むずかしく議論することは空しくなってくる。ただ目の前の物質世界はどう見ても存在する、としか感じられません。この世は、あまりにももっともらしく存在しています。あらゆる物理現象、生命現象、人間行動が、複雑に関連しながらも経験的な法則に完璧に従って実在しているとしか感じられない。疑いようがない自然さで動いている。このリアルさは、けっしてバーチャルとは思えない。だいたい、そっくりにリアルなバーチャルを作るのは大変ですから、この世界全体がそれだとは、とても思えない。こんなに複雑精巧に作られたバーチャルはありそうにない。この世界を見かけだけの、実在しないバーチャルな幻影だ、と強弁するのはつらい。そんな説明をしようとすると、話が複雑になりすぎる。強弁はあきらめて、これは存在すると言ってしまうほうが、話はまったく簡単になる。

ですからここは素直になって、その物質が確かに存在するように感じるときその物質は存在する、と言うことにすればよいのです。まず言葉を整理するためだけの意味で、そういう言い方を使いましょう。この場合、存在するということの意味は単純です。存在するようだ、と言える場合、それは存在することにする。これ以外にむずかしい意味を考える必要がない。

これで議論は単純になった。

 目の前のそこにある物質は、私が見てもだれが見ても、どう見ても確かにそこに存在するように感じられますから、とりあえず存在する、という言い方をすることにします。これで(語の使い方を改めただけですが)現実の物質世界が存在することになりました。

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存在はなぜ存在するのか(1)

2007-11-17 | x3 存在はなぜ存在するのか

(第三部 私はなぜ死ぬのか? begin

(サブテーマ:13 存在はなぜ存在するのか? begin

第三部 私はなぜ死ぬのか?

13  存在はなぜ存在するのか?

ここまで、存在するとか存在しないとかいう言葉を何回も使って話を進めてきましたが、存在するという言葉自体に問題がありそうですね。

このへんに、哲学が間違う最大の原因があるのではないでしょうか? 筆者の考えでは、哲学者たちが「○○が存在する」とか「いや存在しない」とかいう議論を始めるとき、もう半分は間違っています。さらに議論が盛り上がって、哲学者も文学者も科学者も入り混じって、みんなが「××が存在する、しない」という話が楽しくてしかたなくなってきたら、もう議論は、ほとんど全部間違っているのです。「意識は存在する、しない」とか、「命が存在する、しない」、「主体的存在が・・・」とか言い出したら、もう駄目です。温泉旅行での宴会の終わりみたいにめちゃめちゃな話が飛び交うだけになります。

人間は、そもそも「存在」という言葉をきちんと使いこなすことができないのではないでしょうか? もしそうだとしたら、まず、存在などという存在は存在しないのではないか、と疑ってかかるほうが、まだ間違える恐れが少ない。

昔から存在論という哲学があって(現代哲学のよい例としては、たとえば、二〇〇三年 バリー・スミス『存在論』)、存在という言葉に関しては、真剣なむずかしい議論がされてきました。ここでは「存在」という語に対して、哲学で使われてきたむずかしい意味はとりあえず脇に置いておいて、ふつうに世間で使う意味で考えてみます。

ただふつうの人がこの言葉を使うときでも、気をつけないといけない場合がありそうです。

中国語でも日本語でも英語でも、人類の使うどの言語でも、「存在する」、「ある」という言葉はもっとも使われる述語です。「私はここにいます」とか「トイレはどこにありますか?」とか「破産したときの保証はありますか?」とか、「存在する」、「ある」を述語にする言葉を使わなければ日常生活はできません。しかし「私は何のためにこの世に存在しているの?」とか、「私の幸せはどこにあるの?」とか、自分の内面や人生を考えたいときなどには、この言葉は無邪気に使っていてはいけないような気がしますね? それを考えてみましょう。

何かが存在する、というのはどういうことでしょうか?

なぜ人間は「○○が存在する」、「○○がある」と思うのでしょうか? そのとき人間の脳の神経機構はどう動いているのでしょうか? それは人間以外の動物とどう違うのでしょうか?

人間以外の動物は、「○○がある」と思うでしょうか? たぶん思わないでしょう。動物は、そこに食べ物があれば「ある」などと思わないで、すぐ食いつきます。猛獣がいるのを見つけると「いる」などと思わないで、すぐ後ろを向いて逃げます。

そのほうが素早く行動できて、生き残りやすいでしょう。「ある」とか「いる」などとわざわざ思うのは、時間とエネルギーの無駄です。動物が何かを感じる場合、その知覚信号に対してどう運動すべきかは、たいていはっきりしています。そういう場合、知覚信号を感じてから「それがそうある」などと余計なことを考えないで、そのまま決まっている通り直接行動すればよいわけですからね。神経系のハードウェアとして、生まれる前から、そういう回路を造り込んでおけばよいわけです。

そこに机があっても、動物は机というものの存在など感じないでしょうね。「そこに机がある」などということを感じるための神経活動に時間とエネルギーを使うのは、生存のためには無駄なばかりか損です。動物は、机という目の前の障害物を反射的に迂回するだけです。動物の内部では、その迂回運動の神経信号という形で、その障害物、つまり机、は表現されているだけです。

例外的な動物は、人間です。机を見て、「そこに机がある」と思い、後で思い出して「あそこに机があったよ」などと、仲間に伝える動物は人間だけです。

たとえば目の前のこの机は存在する、と私は感じる。間違いなく存在するとしか思えない。目で見えるし、手で触れるし、持ち上げようとすれば重い。こういうとき人間の脳は、直感で、それが現実に存在すると感じるように作られている。それから私が、ふと身体の向きを変えて窓の外を見たとします。それでも視界の外れにさっき見た机が存在していることはしっかり分かっている。顔に日が当るのを避けるために、窓を向いたまま私が後ずさりしても、ふつう、机にぶつかってお尻を痛くしてしまうようなことはありません。

私たち人間の脳の中には、目に映っていてもいなくても、自分の身体とその周り三百六十度、自分の周りにどういう物体が存在しているかという世界の情報がしっかり保たれている。しかも、言葉で「ここに使えそうな机がある」と叫んで窓の外にいる仲間に、相手の目に見えない物体の存在感を伝えることができる。人間は自分だけではなく他の人にも当然分かるものとして、目の前の世界を客観的に見ている。仲間の人間のだれかに見えるはずの世界を自分の脳内に再構成して、客観的な世界像を作り、そこに机があると思う。これは仲間と運動を共鳴させ、感覚を共感して集団行動をとるために進化した人類特有の脳機構の働きです。その共鳴と共感の機能で、人間は物事の存在感を客観的に感じ取れるのです。

赤ちゃんが育っていく過程で、物事の存在をいつごろからつかめるようになるのか。よい実験例があります。一歳児後期(生後二十二月)の発達検査実験です。被験者の幼児は、濡れていないオモチャ(ぬいぐるみ)を見せられた後で隣の部屋に移動させられる。そこで、実験助手の女性から「オモチャに水がかかってびしょびしょになっちゃった」という説明を受ける。それから元の部屋に戻り「さっき見たオモチャはどれ?」と聞かれると濡れていない同型オモチャではなく、水に濡れた状態になったオモチャ(ぬいぐるみ)のほうを指摘できる、という実験結果が報告されている(二〇〇七年 ガネア、シュッツ、スペルク、ドローシュ『見えないものを考える:幼児、言語使用による心的表現の更新』)。このように言語を使って物の存在を感知する能力は、他の動物にない人類特有の機能です。

脳が、現実の客観的物質世界の存在感を感じているとき、脳画像撮像装置で見れば、辺縁系扁桃体から海馬周辺の覚醒時に活動する神経回路網が活性化している。運動神経が活動するとき、この扁桃体から海馬、視床側坐核あたりの神経回路網が、感知した物体を計算に入れて自分の身体の運動形成を調整するようです。

主観的には、その運動調整過程を物体の存在感として記憶していく。この運動調整の機構は哺乳類に共通と思われる。この機構を下敷きに物体の存在感が形成される。特に、視覚を駆使して樹林の枝から枝へ跳び回る霊長類で、物体を認知するこの機構は大きく発達した。

さらに、群生活をする霊長類は、周辺空間に位置する物体を集団的に認知する機構を発達させた。これは、運動を集団的に連動させる脳機構を下敷きにしていると考えられる。物体を認知する運動調整過程の記憶機構と集団連動機構との連結による(たぶん類人猿特有の)この脳機構が、物質世界を客観的に認知する人間の神経活動の基盤になっているようです。

現生人類はこの機構をさらに発展させて、憑依した他人の視座に乗り移り、そこから世界を見ることによって自分たち集団全体の運動を予測する。その運動に干渉する現実の物質を集団的に感じ取り、自分だけの主観的な感覚から独立して存在するように感じられる確固とした物質世界の客観的な存在感を獲得している。そして他人の行動を理解する。つまり運動の共鳴によって、他人が周りの物質とどう関わるかを他人の内部から仮想体験する。拙稿の見解によれば、人間はその方法で、他人の心の存在感と同時に身体周りの物質の存在感を獲得している。

ではなぜ、物質の存在感を感じる機構が、人間に備わっているのか?脳に物体の存在感を生成するしくみは、たぶん哺乳類共通の神経機構でしょう。哺乳動物の脳神経系に記憶される物体の存在感は、対象の特徴によって分類され、条件反射によって食いつくとか、逃げるとかの身体運動を引き起こすと同時に、感情回路に導かれて好悪などの感情ラベルを貼り付けられて記憶される。人間の場合、自分自身との関係を含めた世界モデルの中での位置づけによって感情ラベルの貼り付けがされるようです。その記憶学習は、後の行動の基準を作っていきます。

以上の考察は、現在の科学で説明しようとしても仮説の域を出ませんが、筆者は、近い将来、神経系の詳細な観察が可能になったとき、この機構は実証されるだろうと予測しています。脳神経科学と情報科学の現状を見ると、容易にブレークスルーがくるとも思えませんが、こういうものはある時点で一挙に全体像が解明されるものと楽観したい。筆者の予想では、かなり楽観的といわれそうですが、今世紀中にそれがあるような気がします。

存在はなぜ存在するのか。これが、科学的な意味でのその答え、ということになるでしょう。存在という語は神秘的な響きがありますが、それも、まもなく科学の対象になってくるわけです。

 

存在の問題に対して、旧来の哲学は非常にむずかしく考えてきました。存在はすべての根本だ、すべては存在から始まる、と哲学者たちは思ったのでしょう。たとえば、「認識論と存在論の相補性」とか、「主体としての私が認識する現象を最も単純化して説明できる理論としての世界の存在」というような言い方で議論を発展させてきた。存在が実体か、それともそうではなくて認識が実体か、などという議論もあった。現代に近くなると、「存在は存在しない」(一九二七年 マルティン・ハイデッガー存在と時間』)という言葉も使われています。

二十世紀後半以降の現代哲学では、何が実体か、などという不毛の議論は避けて論理の整合性を追求することに興味が移っていく。しかし、そういう現代風のアプローチでも、この世の存在の神秘性を説明することはなかなかうまくいかないようです。 

確かに、この世がこんなふうに存在してここに自分がいる、ということをふしぎ、神秘、と思う人は多いでしょう。しかし、その気持ちは「存在」という言葉の響きに引っ張られている。 「我あり」という言葉を思い浮かべるから、「私がここにいるのだ」という気がするわけでしょう? それで自分の存在を不思議と感じてしまう。その前に、私たち人間はなぜ「○○がある」と思うのか、そっちを調べるほうが先ではないでしょうか?

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