本当かと問い詰められると、本当のところは知る方法がありません、と言うのが正直な答えになる。理論でも実験観察でも実証はできない。自分以外の人間の頭の中のことは、想像することしかできませんからね。私の隣にいるA君も私と同じように世界を感じているのか、と質問された場合、私は自分がA君の頭の中に入ることを想像する。まあ、それは想像できます。でも、目をつぶって想像するだけではよく分からない。答えは出ない。私はそこで目を開けて、A君の顔をながめてみる。A君の動作を観察する。さらに会話してみます。そうすると、答えがはっきり分かる。A君も私とまったく同じように世界を感じていることは間違いない。その答えが正しいことは確信できます。しかし、問題は、それが正しいことを言葉で説明できないことです。A君も私と同じように世界を感じているに違いないだろうと確信はできる。しかし、そのことを言葉で証明することはできない。正確に説明することもできない。ただ、直感で正しいと確信できるだけです。直感で正しいと感じることと、それを言葉で説明できるかということとは違う。ここは重要なところです。
さてとりあえず、ここでは直感を認めて、A君も私と同じように世界を感じているに違いない、として先に進みましょう。
じゃあ、チンパンジーも私と同じように世界を感じているのか? ロボットはどうだ? と聞かれる。私は、チンパンジーやロボットになった気持ちで想像してみます。しかし、そういう想像は、うまくできません。私たち人間はチンパンジーやロボットにはうまく憑依できないという気がします。私がチンパンジーであるとはどういうことか? ロボットであるとはどういうことか? こういう質問文は言葉では言えても、何を意味しているのか、よく分からない。こういう質問をする人の気持ちはなんとなく分かるような気がするが、改めて意味を考えてみると、何を聞かれているのかさっぱり分からない、という質問です。
チンパンジーになったときの気持ちとか、ロボットになったときの気持ちを想像するのはむずかしいからでしょう。せいぜい人間の範疇でないと無理なようです。たとえば、年寄りの筆者が高校生の気持ちが分かるか? まあ、高校生の顔や動作を観察しながらがんばれば分かるような気がする。しかしながら、男子高校生と女子高校生とどっちが分かりやすいか? 日本のではなくて中国の高校生の気持ちなどはどうだ? といろいろ詳しく聞かれていくと、だんだん分からなくなる。結局、よく分かりません、と言って逃げたくなる。
じゃあ、赤ちゃんの内面は想像できるか? これはまさに難問。自分が一歳児だったころを思い出そうと懸命にがんばってみましょう。無理やりにつぶらな瞳をつくって「アブアブ」と言ってみる。一歳児になったつもりで、世界を見渡してみましょう。できますか? 一生懸命に赤ちゃんを育てているお母さんでも、実はむずかしい。これが本当にできるなら天才ママです。
じゃあ、認知症の老人の内面はどうだ? 家族の顔も分からなくなるらしい。新生児に戻るようなものか。自分がなったときに備えてぜひ知りたいものですが、やはり想像はむずかしい。同じ人間でも、赤ちゃんや認知症の老人の行動を観察すればするほど、大人の正常人には、その内面をはっきりとは想像できないことが分かる。
人の内面を想像することはむずかしい。できないのが当たり前ではないでしょうか? 私たちはなぜ、それができないと思ったり、できると思ったりするのか。人の内面を想像することができると思っても、できないと思っても、結局そういう話全体が全部直感を使った想像の上に作られている。この事実は重要なことです。
人の内面が分かったとしても、その分かったことは言葉で説明できるものではない。心が分かる、という話を私たちは世の中では毎日していますが、それは、そんな気がする、とか、そう言ってみたいから言う、とか、あるいは、そう言うと会話がうまくいくから言う、という程度の覚悟で言っているに過ぎない。論理をつきつめるつもりなどない感覚的な話です。こういう話はまじめにつきつめるほど、論理がぼけてくる。何を話しているのか、よく分からなくなる。結局私たちは、自分が直感で感じることしか、はっきりと知ることはできないわけです。その自分が感じることでさえも、内面で感じることは言葉ではうまく説明できません(現代哲学ではこういう話が、いわゆる主観問題、クオリア問題としてまじめに論議されている。たとえば、一九七四年 トマス・ネーゲル『コウモリであるとはどういうことか』既出、一九八六年 フランク・ジャクソン 『メリーは何を知らなかったのか』既出、一九九五年 デイヴィッド・チャーマーズ『不在クオリア、薄れ行くクオリア、踊るクオリア』既出など)。
けれども、言葉でうまく説明することができないからといって、他の人間が自分と同じように感じるはずはない、と考える必要もないでしょう。自分と同じように感じているように見える人間は、そう感じているのだろうな、と想像してよいのです。それが(拙稿の用語を使えば)うまく憑依できている、ということです。人間は皆、私と同じような内面を持っているのだろうなと感じられるから、私と同じように感じている、という考え方でもよい。直感でそう感じればそれでよい。その直感が正しいか正しくないか、という質問は、つきつめれば、意味がありません。何を根拠に正しいと言うか、という話になる。その根拠は、直感でそう感じる、と言う以外にない。それは無意識の直感です。いつの間にか、そう感じている。
意識的に想像する以前に、無意識のうちに人間の脳は、シミュレーション機構を働かせて他人の内部を自分の脳内に作り出す。拙稿の用語では、それを憑依と呼ぶことにしています。私たちは、他人に注意を向ける瞬間に、その人に憑依し、その人に乗り移って世界を感じる。それで作られる他人の内部から見た世界というものは、もちろん錯覚の世界です。じゃあ、錯覚でない、本当の他人の内部はどんな感じなのか。人間は、それを知ることができません。それを知ることができないとしても、何も問題はない。
そういうものを知る、ということはどういう意味か?その意味は実ははっきりしないのです。他人の内面。あるいは、自分自身の内面。そういうものを知る、あるいは、そういうものがある、あるかないか。そういうことは全部、意味が不明です。永久に意味不明のままで、まったく問題はない。私たちの脳が、そういうものがあるかのように感じるように作られている、という事実があるだけです。私たち人間にとっては、この世は直感でこう感じられる、というだけが確かなことなのです。
もともと群棲動物の脳にある仲間の運動との連動機構が、私たちの脳でも働いているのでしょう。仲間が走るのを視界に捉えた瞬間、身体が躍動して四肢が動き出す。全力疾走で走る仲間に追従する。群棲動物の脳には、そういう神経機構が生れつき作られている。人間もそうなのでしょう。目の前の人間が動くのを感じるだけで、その内面で活動している仮想の運動を私の脳は直感で感じます。他人がしている運動に自分の運動神経系が共鳴する,といえる。人間の脳がそうできているからです。その結果、他人も私も同時に同じ世界で運動しているという感覚を得られる。これがだれとも同じ世界を感じているという感覚になる。それを客観的世界と感じる。現実世界と感じる。その無意識の神経活動の信号を意識が拾い出して、世界を感じている自分を直感で感じる。さらにその上で、私たちは言葉を紡ぎだす。
それだけです。それしかない。そこから、ものごとの存在感が生まれる。存在感が存在を存在させている。すべての存在はこうして存在する。私たちが現実と呼んでいるこの世はこうしてできあがっている。
ごく当たり前の話に思えるでしょう? つまり、存在には何の神秘もない。この現実世界には何の神秘もありません。私たちが生きている世界はそういうものです。物質世界は、私を含めてどの人間でもこう感じるだろう、と(仲間の人間との共感の感覚と運動の共鳴とを伴って)感じられることを通じて私の前にこう現れるしか、現れ方はない。そのことを、現実という。それ以外の世界の存在のしかたなど、複雑に想像しても意味はありません。
私が五感で感じ、直感で感じているこの現実世界。仲間の人間たちの身体の動き、そしてこの私自身の身体の動き方から言葉ではなく直感で感じられるもの。私がこう感じてこう知っているこういう現れ方でない世界のあり方など、考えることの意味はない。つまり、少々きつい言い方をすれば、そういうものを考えること自体が間違いです。(拙稿の見解によれば)哲学はそうして間違えていったわけですから。
このように(仲間の人間集団の運動と共鳴している)私の神経系で感じられることで現れるしかないこの世界の中には、感じている私はありません。ここは重要なところです。
まず無意識に私の脳が身体の回りの物質の存在感を感じている。私の脳は、目で見えたり手で触れたりして感じられる物質の一部分として自分の身体の存在感を感じる。たとえば、自分の手足などが目で見えますね。それは、一番近くにある。つまり、視覚や聴覚などで感知する空間の原点にある。それでも私の脳が感じている私のその身体の中にそれらを感じている私がいる必要はありません。この世界にあるように見える私のこの人体が、その脳が、この世界を感じている私だと思い込むのは錯覚です。この世界にあるように見える私の人体は、他人の目に見える物質であり、他人の人体をモデルにして作られた私という脳内の錯覚です。この世界を感じている仕組みが、この世界の中に存在しているこの私らしい人体でなくてはならない、と思い込むことは錯覚です。
これは、知覚できるものをすべて物質世界に投影しようとする無意識の脳機構の働きです。音を感じると音源を特定する。かゆみを感じると皮膚のどこかを特定する。そのように無意識の神経機構が知覚を物質世界に投影します。知覚を引き起こす原因を物質世界の中に特定しようとする働きが、脳にはある。ものごとを感じている自分を知覚すると、脳は物質世界に置かれている自分の人体にそれを投影する。それは、他人に憑依したときに使う投影の仕方を自分自身にも使うからです。そうして作った錯覚の世界の上で人と会話することで、うまく話ができる。この錯覚の世界が現実感を持つのは、人との相互干渉、たとえば会話などが予想通りうまくできるという以外には根拠がない。しかし私たち人間は、なかなかこの錯覚が錯覚であることに気づかない。気づかないように人間の脳の仕組みができているからです。
改めてじっと考えてみれば、この錯覚が錯覚と分かる。しかし、それについて人と会話したり、言葉で語ろうしたりする瞬間、もう錯覚に気づかなくなる。人間が言葉を使う限り、この錯覚の中に埋めこまれてしまうからです。言葉を使う限り、私は私だ、ということになる。それでは錯覚の世界から逃れることはできません。
言葉というものは(拙稿の見解では)、聞き手、あるいは仮想の聞き手、としての他人に憑依することで仮想運動の共鳴を起こすことですから、話し手が聞き手と共有するこの世界の中に、述語に対応する行為の主体(主語が表わすもの)が必ずいなければならない。仮想運動の共鳴によって運動が知覚され、その運動の主体は存在感がある物質として特定される。その前提からして、世界は物質として客観的に存在し、その中に話し手も聞き手も客観的物質であると同時に運動の主体として存在しなければなりません。
物質であると同時に運動の主体である人体の間で会話がなされる。そういう錯覚で作られた世界の内側で、言葉は話されます。私たちが人間の言葉を使う限り、物質の存在を感じる私もあなたも客観的な物質として存在することになる。その物質が同時に自分の意志で身体を動かしている運動の主体である。これはおかしい。
なぜならば、物質は物質の自然法則で動くだけですから、言葉で表現されるときに、主語述語の関係で表される行為の主体にはなれないからです(脳が欲する、とか、細胞が好む、とかは比喩表現でしか言えない)。行為の主体が物質ではない、ということなら物質が主体性を持つことの矛盾は回避される。ところがそうすると、運動の原因であるはずの人間の意志や意識は物質ではないことになってしまう。運動の原因が脳という物質の活動だということならば、それは物質現象だということになる。
そういう(論理的に矛盾した)前提のもとでしか、人間は言葉を使って語り合うことはできない。言葉の話し手である私は、当然物質としてのこの身体そのものであって、同時にこの身体を動かしている主体として表現される。それ以外の私はない、ということになる。そのとき人間は、物質であると同時に、述語に対応する行為の主体であるという不思議さを持ち、その不思議な世界の内側で、私たちはいつまでも語り合い続けるしかない。
私たち現代文明の中に生きる人間は、客観的物質世界をみごとに映し出す自然言語を持っている。十数万年以前に作られた自然言語が、書き言葉の出現をきっかけとして正確に知識を語るようになった。科学に見られるように完璧に物質を描写し、さらに文学や心理学に見られるように人間の内面をも描写できるように思えるまで洗練されてきた。このように社会生活の中であまりにも役に立つものとなった結果、私たちは、自分たちの言葉が、物質でない物事をもすべて完全に言い表せると思い込んでしまっている。しかし人間の言語は、その作られ方からして、物質世界しか正確には言い表せない。物質世界を言い表している主体そのものについて語ろうとするとき、私たちの言語は、それを言い表すことができない。それなのに、人間は、自分たちの思いのすべてを言語で言い表そうとする。そこから哲学の混乱が始まる。
このことには何の神秘もありません。言語の限界をわきまえない、言葉への過信による混乱、が起こっているだけです。ここに神秘があると思うのは錯覚です。唯物論も観念論も物心二元論問題もハードプロブレムも、哲学はすべてここから間違っていったのです。
(13 存在はなぜ存在するのか? end)