哲学の科学

science of philosophy

生きるという生き方(4)

2012-04-29 | xx9生きるという生き方

それは楽観的だとか、希望にしがみついているとか、いうことであるというよりも、人間の身体はそういう構造になっている、ということでしょう。

こういうところから、宗教的感覚、たとえば「草葉の陰から見ている」とか「神がすべてをお見通しだ」とか、あるいはより日常感覚的な「離れていても心は通じる」とかいう感じ方が来ているといえます。これは(拙稿の見解では)宗教の教義とは関係なく人間特有の身体感覚を直感的に言い表した表現から来ています。

このような理由で、人は本当の意味で孤独にはなりきれない。孤独になれないような身体の構造になっている。どんな場面でも、人間にとっては、仲間、家族、あるいはだれか見てくれている人、そういう人々がいる世界が自分の周りにある、と思いこむようになっている、といえます。

あるいは実際は仲間から隔絶された孤独な人でも、人間の身体は、元来、トーテム、守護霊、祖先霊、神仏など呪術的宗教的感覚に包まれていて、あるいは現代人ならば、テレビ、新聞、雑誌、インターネット、携帯アプリ、など現代的擬似的な世界体験に取り囲まれていることで、自分の周りに広がっている客観的世界の安定感を感じ取ることができます。あるいはそう思いこむような身体構造になっている、といえます。

人類のこのような身体の構造は、たぶん、それが群棲哺乳類としての生活に有利であったために進化した仲間との運動共鳴機構を担う神経回路から作られている構造でしょう。言語機能を備える人類は、特に堅固な安定した客観的世界を共有することができるので、ここから自己を含む現実世界の存在感を維持することができます。

逆に人類という動物は、この現実感覚の中でしか生き続けることはできません。モグラが、自分たちが作る巣穴の中でしか生きられないように、人類は自分たちの神経系が共鳴することで作り出している現実というバーチャルな世界の中でしか生きられない身体になっている、といえます。

私たち人間は、仲間と共に認め合い共有する現実世界の中でしか生きていけないと同時に、自分がこの現実世界に生きていることをかなり重要なことと思っています。この現象は、生物学的に人類の身体、特にその神経系がこのように進化した結果であるといえますが、そればかりでもない面がありそうです。

人類は緊密な社会構造を作り出し、集団ごとに固有な文化を創り出しています。人間集団に固有なそれぞれの社会、文化がそのメンバーに生き方を教え込んでいる、という面があることは明らかでしょう。

人類の文化には人類共通の部分と地域集団に固有の部分とがあります。言語の構造と同様に、文化も人類の身体構造に依存する部分の上に、集団的に世代継承されていく付加部分があるということでしょう。

拙稿本章のテーマである、生きるという言葉の使い方、に関しても地域集団に固有な世代継承されてきた部分があるでしょう。中世以降、現代にいたる歴史時代では特に宗教の影響も強いと考えられます。

ここまでに何度か指摘したように、「生きる」という言葉は通常、生物の生物学的な生死を指して言うと同時に、人間が仲間と世界を共有している、ということを指しても言います。ふつうの会話では、この二つの意味を特に区別せずに使います。新聞、テレビ、本、雑誌などの場でも、区別は意識されません。いわゆる哲学的な問答で、「植物人間は生きているといえるか?」とか、「動物に心はあるか?」などという話題が出るような特殊な場面でだけ、二つの意味が分離されることがあります。

拙稿にとって興味があるのは、哲学問答よりも、むしろ同じ「生きる」という言葉が意識されずに多義的に使われているという事実です。

世界のどの文化でも、「生きる」という言葉は、生物学的な状態認知に関しても人間の存否に関しても区別なく使われています。この点で、おおまかには「生きる」という言葉は人類共通の使われ方をしている、という基本は認めてよいと思われます。

ではその使われ方を詳細に見ていくと、文化による違いはどうか? ほとんどの言葉の使われ方において、細かいところは、言語、方言、文化によって違います。

また実際、国や時代によって「生きる」という言葉の使い方は少しずつずれています。たとえば、人が生きるという状態を侵害する殺人罪を定義する法律など、各国で少しずつ違います。堕胎や尊厳死の認否など国や時代によって少しずつ違いがあります。どれが正しいかということとは別に、違いがあるところに文化あるいは宗教倫理の影響が表れているといえます。

当然のこととして行われている現代の法律や習慣の背景にある人々の伝統的無自覚的な慣習や民間信仰などを調べると、人間が生きる、ということをどう捉えているかに文化の違いがはっきりと読み取れます。

たとえば、未開人の堕胎、間引き、生贄、葬儀、刑罰、病気祈祷などに現代人から見ると奇怪な風習が観察されますが、これらの文化を支える感覚は現代人の文化の底流にも見つけることができます。それぞれの文化が、「人が生きる」という概念をどのような理論で支えているかを表しているとみることができます。

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生きるという生き方(3)

2012-04-21 | xx9生きるという生き方

そもそも、ある人が生きているかどうかが私たちの内部に起こす変化とはどういうものなのか? その人が生きていれば、私たちはその人とこれからどういうふうに関わるのだろうか、と思います。その人がこれからすることは何だろうか、と思うこともできる。しかしその人がもう生きていない、となると、こういうことを思うことはありません。

その人が生きていてもうすぐ会える、とか、明日会わなければならない、とかいう場合、私たちはその人と会ったときどういう関係になるのか考えます。予測します。どうしようか、とか、どうなるだろうか、とか、期待します。もうしばらくは会わないという関係ならば、あまり深く考えませんね。それでも、時々思い出してどうしているか、と知りたくなったりします。

ある人が生きているか生きていないかということは、こういうことでしょう。それはその人のことを語ったり、思い出したりする私たちの内部の問題である、といえます。

こういう使い方をするために、私たちはそもそも「生きる」という言葉を作って、長い間使っていた。そのうち意味がだんだん広がってきて、「生きる」という言葉は、生物が生存するというような意味になりました。この使い方では、「生きる」という言葉は、客観的に見て生きているかいないかを示すために使われます。この新しい言葉の使い方は、物事を客観的にあるいは科学的に正確に記述するのには便利でよかった。しかしまた人間は、自分自身をも客観的に語る必要を見出してこの語を使うようになる。そうなると、自分を含めた物事を客観的に語るにはますます便利になる反面、いわゆる自己遡及的表現からくる哲学的混乱が現れてきます。

「私が死んだら」とか「私は生きているから」とか自分について語る自己遡及的表現は、すぐに哲学的混乱を呼び起こします。この哲学的混乱を何か神秘的で深淵なものだと錯覚すると、「いのち」、「人生」、「自分の死」というような神秘的概念に思いを巡らすことが高尚な哲学のように思い込んでしまう恐れがあります。

この問題に関して拙稿の見解を言ってしまえば、これは言葉の使い方の混乱であって、神秘でも高尚でもない。「いのち」、「人生」、「私の死」というような言葉は、もともと意味が混乱するように作られてしまった不安定な概念です(拙稿7章「命はなぜあるのか?」第2部p25拙稿第3部「私はなぜ死ぬのか? )。こういう言葉を深刻に受け取ることは危ない。薄氷の上を歩くように、すぐ踏み抜いてしまう恐れがあります。

人が、生きる、というとき、私たちは問題なくその言葉を使うことができる。しかし、私が生きる、というとき、私たちはその意味をきちんと理解することはできません。

私たちが、ある人が生きていると思うということは、いずれその人に会えるだろう、あるいはその人がこれからすることを見聞きすることができるだろう、と思う、ということです。私たちが「ある人が生きている」というとき、話し手も聞き手もそう思っています。ところが、話し手が「私は生きている」といったとすると、これは奇妙な言い方に聞こえますね。しかしこれは文法的には誤りではありません。文法で形式的に説明すれば、この文は、「ある人が生きている」という文の第三人称の主語を第一人称に置き換えた文だというだけです。

実際、どんな場合に「私は生きている」という文が使われるのでしょうか?

「おーい、聞こえるか?ジョン!生きているか?」「俺は生きているよ」というような場面。マンガではよくありそうです。

「俺は生きているよ」という返事を聞いた聞き手は、ああよかった、ジョンと一緒に家に帰ることができる可能性が残っている、そうなるようにがんばろう、と思うでしょう。そう思うことが「私は生きている」という文の意味です。しかし特殊な意味ですね。注意しなければいけないことは、このような意味は、聞き手にとっての意味でしかなく、話し手にとっては変な意味になっている点です。実際、「私は生きている」というとき私は生きているに決まっているし、私が生きていないときは「私は生きている」とも何とも言うはずがないのですから、この文は話し手にとって何の情報もない。

これは独り言で「私は生きている」というときにも当てはまることです。「私は生きている」と独り言を言ってみたところで、何も意味がない。生きている私が「私は生きている」と言っているだけで言っても言わなくても何も変わらない、と思えます。つまりこの文は、これを語っても聞いても、新しいことが分かるわけではない。そうであるとすれば、「私は生きている」という文の内容は空虚なのではないか。意味はカラではないか、と思えます。

しかし、そう簡単に切り捨ててしまわないで、もう少し、この文を口にする場合の話し手の気分というようなものを想像してみましょう。

拙稿19章(私はここにいる )である小説の例を引いて書きましたが、声を失って瀕死の悪役が筆談で「私はここにいる」と書き残す。このとき、この「私はここにいる」という言葉は独り言ではあるが、それと同時に相手役、読者、あるいは世界中のすべての人間に対して叫んでいる言葉でもある。「私がこれから何をするか、それを見てくれ。私がこれからすることを、あなたと同じ人間が何かを思ってしているのだと認めてくれ」と叫んでいる、といえます。それは、もちろん、自分がそう思いたいからです。そう思うことで、自分が生きていると感じることができる。人はだれもが、死ぬ間際に、あるいは日常的にいつでも、そういう気持ちを持っている、ということでしょう。

人が生きている、という言葉は(拙稿の見解では)、人が仲間とともに客観的な世界を共有している、という意味です。これは現代人の間でよく使われている医学的生物学的な生死の概念とは違って、生きているという言葉のもともとの意味だった、といえます。医学的生物学的な生死の概念は、近代以降、科学が発展するにつれて、言葉が作られたときの元来の意味から外れていって物質現象を描写する概念になってしまった、といえます。それはそのほうが、近代あるいは現代の社会で物事を語り合い、適切に処理していくのに効率的であったからでしょう。

時代とともに言葉の意味がずれていくとしても、いずれにせよ、どの時代でも、人は仲間とともにこの世界の中にいる。自分で自分はそうだと思っています。人間は皆そうだと思っています。そう思うことで生きている。そういう生き方がふつうの人の生き方でしょう。つまりこれは、いわば、生きるという生き方です。

それで、そうでない生き方があるのか?そういう疑問が考えられるでしょう。しかし、生き方、という言葉で言ってしまった瞬間に、私たちは、仲間とともに客観的な世界を共有している、という暗黙の前提を認めてしまっています。

そうでなければ、生きるという言葉の意味が出てこない。現代人の私たちが語り合うときでも、人が生きる、というときの言葉の意味は、単に医学的生物学的な生死をいっているのではなくて、その人が何かをしている姿を仲間に見られている、認められている、という暗黙の想定があります。

互の姿を注目し合う仲間がいて、互にこれからどう動くのかを注目し合っていて、仲間のその視線を意識しながら動く場合に、人は生きている、といえます。極端な例として、まったく人の目から隔絶された空間に生息する人がいたとして、その人がしたことが他の人々から見てまったく痕跡も残らないとしたら、その人は生きていたとはいえません。その状況を本人も理解していたとすれば、自分でも生きていると思えないはずです。ただし、ふつう本人はそういう絶望的な状況でも自分の置かれた状況を正しく理解できずに、自分が今生きていることで何らかの生きた痕跡が残り、いつかだれかがそれを見つけてくれるだろうと楽観的に想像するものですから、自分が生きていないと思う人は実際、現実の人間としてはいないでしょう。

つまり、人間はどんな状況に置かれていても、たとえ絶望的な孤独状態にあっても、あるいは明らかに目前に死が迫っていても、自分がこれからしようとしていること、あるいはいま思っていることが何らかの痕跡を残していつの日かそれがだれかの目に触れるはずだ、という思いを捨てることはできません。

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生きるという生き方(2)

2012-04-07 | xx9生きるという生き方

私たちにとって知っている人が今生きているかいないか、ということは、このように、生物としてのその人の身体の生死という物質的問題とは違って、私たちの内部がどう変化しているか、という問題です。この点に注目する場合、人の生死はほかの生物の生死とは本質的に違うカテゴリーの現象である、というべきでしょう。

拙稿本章では、この問題、つまり、(生物にとってではなく)人にとって生きるとは何か、について考えてみようと思います。

現代日本語では、人の生き方、という言葉がよく使われます。さまざまな人生の選択がある、という現代的な思想が背景にあるのでしょう。身分制の江戸時代などにはあまり使われなかった言葉だろう、と思われます。その、人の生き方、ですが、やはりこの言葉も客観的な事実を言っているのではなくて、これを語っている話者の視座からその人を、特にその社会的関係を、どう感じ取れるか、という観点で語られるようです。ある人の生き方、というものはそれを語る人がそれをどう感じ取っているかについて語るものといえるでしょう。

たとえば、「A子は五人の子を育て上げた献身的な母として生きた」という記事があるとします。その記事を書いたのはジャーナリストのP氏でした。P氏は、五人の子を立派に育て上げた母親はどんなに献身的だっただろうか、と思いながらこの文章を書きました。この文章には、P氏のその気持ちが表現されています。

P氏はA子の生き方に感じるところがあって、この文を書いた。人が人の生き方について何か言葉を使って語るときは、必ずこのような共感、反感あるいは何か語り手自身の内部に呼応するようなところがでてきます。

これに対して、たとえばA子が犬だったとした場合の文章を考えてみましょう。

「A子は五匹の子犬を育て上げた母犬だった」

同じような形をしているけれども、この文の語り手は、人間の母親像を描いた前の例文とは全然違う感情をもってこの文を書いたように読めます。この文を書いた人の内部がこの文に表れているでしょうか?そんな感じはしませんね・

もっと極端に非人間的な記事。

「クレーンAは五棟の高層ビルの建築に使われた」

こうなると、書き手の内部など全然関係ないという感じです。

これらの例のように、人間の生き方についての言語表現は、物質現象のような形式で言語表現されたとしても、物質現象そのものよりもむしろ、それを記述する書き手の内部を表現するものである、といえます。

もし私たちがA子を知っているとすると、A子が生きていると思う場合と、A子がもう死んでしまった、と思うのとでは、私たちの内部がかなり違ったものになっています。逆に言えば、A子が生きているということは、A子にとって重要なことであると同時に、A子の知り合いである私たちにとってもある程度重要なことでもある、といえます。

このように、ある人が生きているか生きていないか、ということはその人の身体が医学的生物学的に生きているかいないかという事実とは別に、私たちの内部にかなり重要な変化を起こしている、といえるでしょう。その、生きているかいないかが問題になっている対象が、仮に、人間ではなくて、たとえば魚だった場合、ふつう私たちの内部に違いは起こりません。それが野に咲くタンポポだった場合など私たちの内部に何かが起こるはずはありません。

生きているかいないかが問題になっている対象が人間である場合だけ、私たちの内部にはっきりとした変化が起こる。それが「生きる」という言葉の重要な特徴です。

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