それは楽観的だとか、希望にしがみついているとか、いうことであるというよりも、人間の身体はそういう構造になっている、ということでしょう。
こういうところから、宗教的感覚、たとえば「草葉の陰から見ている」とか「神がすべてをお見通しだ」とか、あるいはより日常感覚的な「離れていても心は通じる」とかいう感じ方が来ているといえます。これは(拙稿の見解では)宗教の教義とは関係なく人間特有の身体感覚を直感的に言い表した表現から来ています。
このような理由で、人は本当の意味で孤独にはなりきれない。孤独になれないような身体の構造になっている。どんな場面でも、人間にとっては、仲間、家族、あるいはだれか見てくれている人、そういう人々がいる世界が自分の周りにある、と思いこむようになっている、といえます。
あるいは実際は仲間から隔絶された孤独な人でも、人間の身体は、元来、トーテム、守護霊、祖先霊、神仏など呪術的宗教的感覚に包まれていて、あるいは現代人ならば、テレビ、新聞、雑誌、インターネット、携帯アプリ、など現代的擬似的な世界体験に取り囲まれていることで、自分の周りに広がっている客観的世界の安定感を感じ取ることができます。あるいはそう思いこむような身体構造になっている、といえます。
人類のこのような身体の構造は、たぶん、それが群棲哺乳類としての生活に有利であったために進化した仲間との運動共鳴機構を担う神経回路から作られている構造でしょう。言語機能を備える人類は、特に堅固な安定した客観的世界を共有することができるので、ここから自己を含む現実世界の存在感を維持することができます。
逆に人類という動物は、この現実感覚の中でしか生き続けることはできません。モグラが、自分たちが作る巣穴の中でしか生きられないように、人類は自分たちの神経系が共鳴することで作り出している現実というバーチャルな世界の中でしか生きられない身体になっている、といえます。
私たち人間は、仲間と共に認め合い共有する現実世界の中でしか生きていけないと同時に、自分がこの現実世界に生きていることをかなり重要なことと思っています。この現象は、生物学的に人類の身体、特にその神経系がこのように進化した結果であるといえますが、そればかりでもない面がありそうです。
人類は緊密な社会構造を作り出し、集団ごとに固有な文化を創り出しています。人間集団に固有なそれぞれの社会、文化がそのメンバーに生き方を教え込んでいる、という面があることは明らかでしょう。
人類の文化には人類共通の部分と地域集団に固有の部分とがあります。言語の構造と同様に、文化も人類の身体構造に依存する部分の上に、集団的に世代継承されていく付加部分があるということでしょう。
拙稿本章のテーマである、生きるという言葉の使い方、に関しても地域集団に固有な世代継承されてきた部分があるでしょう。中世以降、現代にいたる歴史時代では特に宗教の影響も強いと考えられます。
ここまでに何度か指摘したように、「生きる」という言葉は通常、生物の生物学的な生死を指して言うと同時に、人間が仲間と世界を共有している、ということを指しても言います。ふつうの会話では、この二つの意味を特に区別せずに使います。新聞、テレビ、本、雑誌などの場でも、区別は意識されません。いわゆる哲学的な問答で、「植物人間は生きているといえるか?」とか、「動物に心はあるか?」などという話題が出るような特殊な場面でだけ、二つの意味が分離されることがあります。
拙稿にとって興味があるのは、哲学問答よりも、むしろ同じ「生きる」という言葉が意識されずに多義的に使われているという事実です。
世界のどの文化でも、「生きる」という言葉は、生物学的な状態認知に関しても人間の存否に関しても区別なく使われています。この点で、おおまかには「生きる」という言葉は人類共通の使われ方をしている、という基本は認めてよいと思われます。
ではその使われ方を詳細に見ていくと、文化による違いはどうか? ほとんどの言葉の使われ方において、細かいところは、言語、方言、文化によって違います。
また実際、国や時代によって「生きる」という言葉の使い方は少しずつずれています。たとえば、人が生きるという状態を侵害する殺人罪を定義する法律など、各国で少しずつ違います。堕胎や尊厳死の認否など国や時代によって少しずつ違いがあります。どれが正しいかということとは別に、違いがあるところに文化あるいは宗教倫理の影響が表れているといえます。
当然のこととして行われている現代の法律や習慣の背景にある人々の伝統的無自覚的な慣習や民間信仰などを調べると、人間が生きる、ということをどう捉えているかに文化の違いがはっきりと読み取れます。
たとえば、未開人の堕胎、間引き、生贄、葬儀、刑罰、病気祈祷などに現代人から見ると奇怪な風習が観察されますが、これらの文化を支える感覚は現代人の文化の底流にも見つけることができます。それぞれの文化が、「人が生きる」という概念をどのような理論で支えているかを表しているとみることができます。