言葉で言うということは、だれかに聞いてもらうことを前提としていますから、その聞き手と共有できると感じられる物事について言っていることになります。独り言を言うときも自分という聞き手に聞いてもらうことを前提に言っている、といえます。どんな場合でも、言葉をしゃべる限り、聞き手を想定している。つまり言葉で言いあらわす物事は、仲間と共有できる物事です。逆に言えば、仲間と共有できる物事しか言葉では言いあらわせない(一九五三年 ルードウィッヒ・ウィトゲンシュタイン『哲学探究』)。言語というものの限界です(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」)。言い換えれば、人間が言語を使う場合、私たちは、だれもが同じように感じられる物事についてだけ正確に語ることができる。
言葉として語るものが、はっきりと仲間と共有できているとき、その言葉ははっきりと存在する物事を表します。逆にいえば、物事がはっきりと存在するということは、それをどう感じるかを、はっきりと仲間と共有できているということです。こういう場合、適切な言葉を選ぶことによって、いくらでも正確に語ることができます。目の前のリンゴについて話すときなどそうです。話し手がリンゴを見て感じることを聞き手も同じように感じている。リンゴを見て感じることを二人は共有しています。
しかしだれも見たことがない果物について話すときなどはどうか? 百年に一度くらいしか実らないといわれる竹の実について友達と話してみましょう。どんな味か? というか、どんな形なのか? だれも知らない。
「見たことないけど、竹の実、おいしいかな?」「え、竹に実がなるの?」というような会話になって、お互いの頭の中でその言葉の内容がどういうふうに存在しているのか、さっぱり分からない。しかしそれでも、友達どうしの会話は続いてしまいます。「口裂け女」の怪談を聞いて、夜道でそれに出くわしたら怖いな、と思う。実はその口裂け女とは何なのか、話し手も聞き手もさっぱり分かっていない。それでも、話はうまく伝わっていく。友達どうし楽しく会話することができる。
言語というものはそれ自身閉じた空間を作ってしまう性質があるようです。ある言葉の架空の存在感を周りの言葉が作り出して相互に存在を支えあう。それはその場かぎりで通じ合う架空の存在感であることも多い。それでも会話中はかなりしっかりした存在感と感じられます。比喩を使ったり、たとえ話をしたり、まあそんなものだ、ということにしてしまったり、いろいろなテクニックで私たちは、よく分からない話も、お互いに、分かったことにしてしまいます。それらの架空の存在感によって、二人の会話は閉じた仮想空間を作ってしまう。それが人間の言語の特徴であり、それができるから(拙稿の見解では)、言語は便利に使われている。
言葉を使うとき、話し手と聞き手は、語られたものの実体から離れて、言葉でできた仮想の空間に入っていく。人間の脳神経系は(拙稿の見解では)、言語をこのように作り出すようにできています。言葉が持つこの作用のために、言葉の間だけでしか存在できない物事までが存在感を持ってしまいます(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」)。話し手が自分の内面について言葉で語るとき、ふつう聞き手はなかなか話し手が言葉にして語る話し手の内面の物事を正しく共有することはむずかしい。しかし私たちの日常では、こういう会話が案外簡単に行われていてそれらはたいてい簡単に通じていくかのようです。「あなたが言っている口裂け女の怖さというのはどんなものなのか、私には全然分からない」と言い返す人はふつう少ない。それは会話というものが、多くの場合、協調を主な目的としておこなわれているからでしょう。しかし実際は、お互いの内面にあるものを感じとることは簡単ではない。
私たちが互いにだいたいは理解できるとしている互いの内面の物事は、実は、もうすでにそれは本当の内面ではない。仲間と共有できるように加工してしまった内面です。話し手が「私の悲しみ」と言ったときにすでに、話し手は聞き手の受け取り方を想像して言葉を作っている。話し手は、本当の「私の悲しみ」というものが何かはさておいて、聞き手が理解してくれるような「私の悲しみ」を想像してそれで会話を組み立てていく。それは、はじめから会話用に加工された表現です。そのときの「私の悲しみ」という言葉で表現できるものは私の中にある本当の悲しみではない、ということですね。このことから考えると、私たちの本当の内面は言葉で言い表わせない、ということになる。確かに、言葉では言い表せないそういうものも、私たちの内面にたくさん存在すると思えます。
そういうような、目には見えなくて、しかも言葉でいうこともできないようなもの。私たちの身体がいつのまにかそれらに反応することでばくぜんと感じとれるそういう存在感は、言葉で言えるものよりも、実はずっと多いようです。私たちはふつうそれと気づかないけれども、目に見えず言葉でも言い表せないが身体の奥で感じとれる物事は、はるかに多い。むしろ目で見えたり言葉でいえたりする物事は、氷山の一角より小さい、と思えます。一方、言葉で人々と語り合ったり、書いたり読んだり、あるいは一人のときでも、言葉で考える限り、言葉でいえない物事は無視されてしまう。それらは本当に無視してよいものなのだろうか? そういうところから(拙稿の見解では)存在の謎が立ち現われてくる。
しかしここで拙稿として注意しておきたいことは、たとえ私たちの内面の感情や気分や欲望や意志であっても、それらは、私たちがそれを意識する限り、実は仲間の視点から感じられるものになってしまっていることです。たとえ、言葉で言い表せなくても、それが私たちの内面にあると思ったと同時に、それは仲間に共有されるものになっている。自分の内面にあるものを自分の内面にある、と意識した瞬間にそれは存在感を持つ。存在感を持つということは(拙稿の見解では)、それは仲間に共有されているものに支えられている。仲間に共有されることができる物事から類推できるものとしての存在感を持っています。
それらはだれにも知られない私だけのものであると同時に、だれにも分かる人間の内面のものという存在感として作られています。逆にいえば私たち人間は、実は自分の内面であろうとも、仲間とまったく共有できない物事が存在すると思っていない。何かが存在すると私たちが思うとき、それは必ず仲間にも分かるものであるはずです。存在の必要十分条件として、存在感の仲間との共有、がある。
自分の内面にあって、言葉でいえるものは意識できるものです。独り言であろうと、言葉にできることは、意識できている。さらに、言葉でいえないようなものであっても、それが内面に存在すると思うときは、それは自分以外の人にも分かるはずだと思える。自分の内面には、言葉でいえないようなものがたくさんある。それらははっきり意識できないが、瞬間瞬間に、ぼんやりと感じることはできる。つまり仲間と共有できる物事です。
私たちの外面に存在すると思われる物質世界も、人々の心や社会のありさまも、また私たちの内面に存在すると思われる自分の心や感情や感覚も、すべて存在すると思われるものは、その存在感を仲間と共有することができる。あるいは、共有できるはずだと確信できます。それら存在すると思われるものすべては、前に述べた、すべてを含む大きなものの中に含まれます。
すべてを含む大きなものは、そのほかに、仲間と共有することができるはずがないと思われるような微妙な感覚、瞬間の感覚、私がいつのまにか感じているらしい何か、というようなものを相当たくさん含んでいると思われます。ただ、私たちの身体は、言葉にできる物事や目に見える物事あるいは仲間と共有できると思われる物事などの存在感をきわめて強く感じとるので、それら以外の物事は、はっきりとは意識できない。記憶もできない。
しかしそれら意識できない物事は、私たちの身体の働きに大きな影響を与えている。そこから違和感が出てくる。拙稿の見解では、そこに存在の謎が湧き出てくる(存在感の)裂け目がある。
目の前のここにはっきりとあるように感じられる客観的世界も、その中にはっきりといるように感じられる私自身も、それらすべてを感じているように思える私自身も、すべては私の身体の自然な働きから立ち現われてくる。
この客観的現実世界がなぜこのようにはっきりと立ち現われるのか? この客観的現実は、なぜだれが感じても同じように感じとれるのか? それは現実がはっきりと存在するからだ、とふつうは思えますね。しかしその現実の存在感自体は、私たちの身体が作り出している。それは(拙稿の見解では)私たち人類の身体が、仲間の視座から見える、あるいは仲間とともに感じられる、あるいは、ともに感じられるであろう物事だけをはっきりと現実として認め、それ以外に感じたことを抑えて、仲間の視座から見て現実と感じられる物事にだけ強く反応して動くようにできているからです。
このように仲間と認識を共有して感じられる物事に、それと気づかないうちに、ほとんど自動的に強く反応して動く身体を、私たちは持っています、たとえば、仲間が見ている物事に自然に視線が向いてしまう。そのように、自動的に動いてしまってから、その自分の動きを自分で感じとって、私たちは物事の存在感を感じる。それはいつのまにか感じているので、私たちは自分の身体がそう動いてそれを感じているとは気がつかない。ただ五感に映る物事を客観的な現実感を伴ったしっかりした物事の存在感として感じる。身の周りの物事の存在感を感じると、それが世界の存在感となって、同時にそこから、自分がその現実を感じとっている、という現実感覚が現われてくる。
人間は、仲間の視線が行く先をいつも知っていて、一緒にそれを見ようとする。それが目の前のものであろうと、語られたものであろうと、想像上のものであろうと、仲間が注目する物事をすぐに感知して動作を協調させることができる。私たちはそういう身体を持っています。
それは人類が、仲間と緊密な社会を作り、その中で仲間と協調し協力して、よりよく生き抜いていくために適応して進化させた身体機構なのでしょう。私たち人間は、仲間の目で見て世界はどう見えるか、仲間から自分がどう見えるか、客観的に自分は何をしているように見えるのか、常にそれを予測しその予測に対応して、無意識のうちに、すばやく全力を集中して行動を形成するような身体になっています。
その予測と結果との誤差を記憶して学習し予測機構(脳神経系の予測計算アルゴリズム)を修正する。私たちの身体のそのような働きが(拙稿の見解では)意識といわれるものを作っている、といえます(拙稿9章「意識はなぜあるのか?」)。この予測機構を使って、仲間の視線の中を、仲間とともに自分たちの身体がどう動いていくかをいつのまにか身体で感じとる。そのとき感じとった自分たちの動きを、私たちは物事の存在感として認知している。つまり私たちは(拙稿の見解では)、身体の動きに働きかけてくる物事の存在感を、自分たちの身体運動として内部表現している、といえます。こうして私たちの内部に身体運動を引き起こす外部因子としての物事の存在感を感じとることで、私たちはそれを客観的現実世界の存在だと思っています(拙稿21章「私はなぜ自分の気持ちが分かるのか?」)。
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