哲学の科学

science of philosophy

人類最大の謎(14)

2010-10-09 | xx3人類最大の謎

私たちは、世界が存在するからそこに私が存在してこの身体を持っている、と思っています。しかし実は(拙稿の見解によれば)逆であって、個々の身体が社会集団を形成することでうまく生存繁殖できるように人間の神経機構に世界を存在させる仕組みが進化した結果、私たちは世界がこのように存在すると感じるようになった。その後、社会集団の内部で個々の身体が自我意識を持って自律的に動くことで社会が活性化される仕組みが(拙稿の見解によれば)世界を存在させる神経機構とは別個に進化した別の神経機構によって実現された結果、人間の身体の中には私というものを存在させる仕組みができた、と推測できます。

もし私たちの内部がこういう仕組みになっているとするならば、世界を存在させる神経機構と私を存在させる神経機構とは別の機構であるので、同時に働くことはない。論理的には互いに矛盾するが、同時に働くことがないので、矛盾は不都合を起こさないでしょう。ネッカーキューブのように、二つの認知パターンが互いに競合し合って交互に意識に上ってくる、ということはあるのかもしれません。

いずれにしろ、私たちは、世界が存在することと私が存在することとが同時に起こっても、ふつう矛盾を強くは感じません。そういう私たちの感性にもとづいて作られている人類の(自然)言語も、矛盾を感じないように作られています。

その結果、「存在する」、あるいは「ある」という言葉が作られ、「私」あるいは「私は思う」という言葉が作られている。すなおに言葉を使っている限り、世界がこのようにはっきりと存在していることはあたりまえであるし、またここに私がはっきりと存在していることもあたりまえである、と思えます。

このようにして世界の存在と私の存在が導かれるとすれば、存在というものがこうして作られる、あるいはこれが存在の起源である、という言い方ができることになります。ここからさらに話を進めて、このような存在の作られ方以外に世界が存在していることの意味はないしまた私が存在していることの意味もない、という考え方を取ることもできます。この考え方を採用するとすれば、拙稿本章のテーマとして取り上げた存在の謎(世界と私が同時に存在することの矛盾)は、消滅してしまいます。

拙稿がここで提唱するこのような存在に関する考え方には、なじめない人が多いでしょう。これは直感に反する考え方です。私たちは、日常生活でいつも、目の前に見えるこの現実を唯一の本当の現実と認めて行動しているわけですから、これが私たち人類の身体に特有の神経系の仕組みによって作られたものであるとは思えません。

地面は不動で堅固なものであるように見えるけれども実は不動でも堅固でもないと思ってしまったら、一歩も歩けないでしょう。もちろん歩くときは、地面は不動で堅固なものであるという体感を持たなければなりません。地球が宇宙空間に浮かんでいるとか、量子力学方程式の解の安定性によって物質の形状は維持されているとか思う必要はありません。

地面は堅いものであるという直感を信じて、私たちは地面を歩いています。ふつうそれで問題はない。ただ、直感による素朴な体感を別の場面で固執すると話が混乱する。宇宙ステーションや太陽や電子がどう動くかを考えるときは、足元の地面の体感に固執すると、物理学に慣れていない人は混乱するでしょう。おなじように、私たちが体感で感じるこの世界の客観的現実は、ふつうの日常生活での行動の基準としては完璧に頼りになりますが、自我意識など内面の感覚と組み合わせると、論理的には成り立たない。これは、直感によって現実を感じとる私たちの身体システムの限界といえます。

それにもかかわらず、現実は現実としてはっきりとここに存在している。そうとしか思えませんね。それは、私たちの身体が、人類の生存環境の中でうまく生存し繁殖し、その身体を子孫に伝えるという実用的な目的のために必要かつ十分なものとして作られているからです。存在の謎(世界と私が同時に存在することの矛盾)はそこから来る。これは私たちの身体のこのような造りからくるものであって、この世の神秘というものではありません。この謎はたしかに底知れない神秘と感じられる。しかしその神秘感も含めて(拙稿の見解では)、この現実世界も、この私も、すべて存在するものは私たちの身体で作られている。

この現実世界も、この私も、私の自意識も、私たちの身体が(集団としての運動共鳴によって)それをそうあると感じとるからそうある。そうであれば、この世界それ自身も、世界を表現している言語も、科学も、哲学も宗教も、すべては進化の産物である私たちの身体がそれを受け入れることで成り立っている、といえる。そうであるとすれば、存在の謎という神秘的なものは存在しません。存在するものはすべて、人類の(集団として運動共鳴する)身体が作りだしたものであるからです。存在するものたちの間で互いに矛盾が起きるとしても、それは、それらの矛盾があっても困らないように私たちの身体ができているからです。

それらの矛盾も含んで、すべての存在は、集団として(運動共鳴によって)それらを作り出すように私たちの身体ができているから存在する、といってよいでしょう。

私たちは一緒に同じものを感じ合う。ゆえにすべては存在する。

彼はこう言いたかったのではないでしょうか? それをあの啓蒙時代の雰囲気の中で言おうとしたために、彼は、その後の混乱を招いたあの悪名高いフレーズを書き残してしまったのかもしれません。

(23 人類最大の謎  end

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人類最大の謎(13)

2010-10-02 | xx3人類最大の謎

こういう私たちの現実感覚と自意識、つまり世界を感じている自分を感じるその感じ方そのものが、私たちの社会をじょうずに作っている。逆に言えば、社会をうまく作れるような現実感覚と自意識が私たち人間の身体に発達した、といえる。私たちの身体はそう感じることでうまく社会を維持していけるように、進化によってうまく作り上げられている、と見ることもできる。その結果、私たちは仲間とともに、仲間と同じように、物事をこう感じている。

それは、人間の脳神経系機構が、自然淘汰により人類の生存環境(特に社会形成)に適合して進化したことで実現した、と考えられます。つまり、自分は進化の産物として発生した単なるモノではないと思い込むような、この人間特有の自意識自体が、(緻密な社会を形成するなどにより)生存繁殖に有利に働くために定着した物質的な進化の産物である、というパラドクシカルな進化心理学理論もあります(二〇〇六年 ニコラス・ハンフリー意識進化論にとってアキレス腱かそうでもない』)。ジョークに使えそうですね。

私たちは、ふつう人生の大部分の時間を、家族や仲間と共に暮らし続ける。人類の生存システムはそういう環境に適応して進化した。人類のその環境では、だれともつながれないような、底知れない孤独感を感じる場合は多くない。若年ではたまにしかない遭難事故や身体障害、あるいは極度の社会的疎外が起こる場面において、あるいは老年の末期にしばしば起こる孤独な生活において、あるいは自分の死をはっきりと意識するとき、私たちが底知れない孤独感におちいることでうまく生きることができないとしても、それは集団としての繁殖を阻害しないので人類の進化に影響しない。

多くの環境で有利に働き、まれな環境で不利に働くDNA配列(遺伝形質)があっても、そのまれな場面が起こることによって繁殖が損なわれる確率が十分に小さければ、そのDNA配列は淘汰されにくい。さらにそのDNA配列が別の場面では有利に働くとすれば、その配列は子孫にしっかり伝わっていく。人間に備わっている世界認知と自我認知の両立矛盾、つまり拙稿の用語でいうところの存在の謎は、そういうDNA配列によって作られる脳神経機構にもとづいているのでしょう。

存在の謎(世界と私が同時に存在することの矛盾)は、(拙稿の見解によれば)哲学の大問題というよりも、生物現象としてはよくあるような生態システムの瑕疵のひとつです。この場合は人類の脳神経系機能と社会形成との複合システムにある瑕疵といえます。人が、死や老いや病気や極度の社会的疎外などを感じることできわめて強い孤独感におちいる場合を除いては、この瑕疵は発現しない。孤独の中でなおかつ客観的現実を見つめその中にいる自分を深く見つめる場合に、この存在の謎という人類生態システムの瑕疵が、個人の中に、不安感を伴ってはっきりと立ち現われてくる。

かつて人類が暮らしていた原始生活環境では、家族親族一族郎党とともに人々は同じ物事を感じとり同じ行動をとって毎日を忙しく過ごしていた。死や老いや病気や社会的疎外など現代人を孤独に追い込む出来事があっても、過去の人類の生活環境ではそれらは共同体の集団生活という人類の生態システムの内部に吸収されることで受け入れられていたでしょう。そこでは孤独を感じる機会はほとんどなかった。家族や部族共同体が崩壊しつつある現代では、マスメディアを介して国家や民族が古来の共同体に代わる擬似共同体の機能を提供している可能性もあります。それでも、極度に孤独な人は多くなってきている。そこにこの人類システムの瑕疵である存在の謎が、現代的な疎外感や絶望感、ニヒリズム、モラルハザード、暴力、偽科学など、新しい装いをまとって現われてくる隙があるかもしれません。

群棲動物の個体が群れからはぐれた場合、あわてて群れに戻ろうとするような行動をとることが観察される。進化心理学の多くの理論では、群れからはぐれている個体はその状況を認知して不安を感じることで捕食者に襲われる危険を回避するような行動が進化した、としている。ここから霊長類において仲間集団への復元力を担保する機構として孤独感覚が進化したという理論ができている。

拙稿の見解によれば、存在の謎を感知する現生人類では、孤独感は単に集団への復元機構を働かせるだけでなく、現実世界への違和感を生じさせることで自我意識を確立する作用を持っている。たとえば、人は自分の死を認知することで社会に対応する自我概念を維持しているといえます(拙稿章「私にはなぜ私の人生があるのか?拙稿15章「私はなぜ死ぬのか?」)。孤独感からくる不安と違和感を伴う苦痛は、このように自意識を確立する作用によって人類の緻密な社会を構成し維持する機能を担っている、と考えることができます。

客観的現実世界の存在感と、すべてを感じている自我の存在感と、互いの存在を認め合っている人間社会の存在感と、私たちが感じとるこれらの存在感はそれぞれが強烈に存在していながら互いに他の存在と矛盾するところがある。拙稿本章がテーマとするこの人類システムの瑕疵は、存在の謎を生み、強い自意識を生み、緻密な人類社会の成立に寄与し、さらに歴史的には宗教や哲学を生み、それが科学と経済の土台を作ってきました。

人間に哲学的な謎をかけ、形而上学を混乱させて悩ませる元凶という意味で、拙稿ではこの問題を人類最大の謎とよび、また人類進化の瑕疵であるとしましたが、実生活では、けっこう役にも立っているではありませんか? 私たちはこの瑕疵を忌み嫌ってその殲滅をめざすべきなのでしょうか? たとえばデカルト二元論の一元化を目指す哲学者のように、理性の名誉にかけて、人類最大のこの謎を解かなければいけないのでしょうか?

私はなぜ今ここに生きているのだろうか、という疑問は、たしかに私たちの直感に訴える。まれにはその直感を過敏に受け取って、哲学的煩悶におちいる人もいるでしょう。しかし、その直感も、人類が環境に適応するように進化した結果、身に付けたものだといえる。私と世界が同時に存在する謎。その私、あるいは自意識、というものも、それが存在することが人間の社会をうまく形成するために必要だったから、人類の脳神経系がそれなりの機能に進化した結果、存在することになった、といえる。また客観的物質世界というものも、それが存在しないと私たちが協力して生活するために困るから、別の神経機能が進化した結果、存在している、といえる。

物質も世界も、それがはっきりと存在していると私たちが感じとるほうが人々が協力して自然環境の中での集団生活において物事を集団的にコントロールするために便利である、という事実がある。さらにまた、現実世界の理論的予測システムから発展した近代現代の科学も、それが存在するとだれもが思うことで、それを使って人々が世界観を共有できるということと実用の科学技術を生みだすということで、生活に大いに役立ち、たいへん便利なものになっている、といえる。

つまり私たちの心というものも、あるいは私という自我意識そのものも、また現実世界というものも、あるいは現実にともなう理論的予測システムである科学も、(拙稿の見解によれば)そのような便宜的な必要性によって存在している、と考えることができます。

存在する者たちは、みな(拙稿の見解によれば)、そのような事情で人類の生活に必要であるから存在している。もちろん、私たちの直感ではそれらは当然のごとく厳然として客観的に存在している、としか思えません。しかしあるものが存在しているとき、それはそれが本当に存在している、と私たちだれもが思うから存在している。そして、そう思うような身体を私たちが持っているからそう思うのだと考えれば、それはそう思うことが人類の生存に必要であるから私たちがそう思うような身体を持っている、といえます。そうであれば、すべての存在する者たちは、そういう理由で存在することができるし、それだけの理由で存在することができる。

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人類最大の謎(12)

2010-09-25 | xx3人類最大の謎

人間社会が効率化され、言語が発達して、人々の間で物事の見方、感じ方が広く共有されるようになると、客観的現実世界の存在感がきわめて強く共有されるようになります。そうなると、ここまでに述べてきたように、人間が感じとる自意識と客観的現実世界の認知との間の矛盾がはっきりしてくる。神話や宗教がうまく世界を説明していられる時代は、それでも矛盾は覆い隠されてきました。トーテムやタブーや祟りや妖怪や精霊を使って物事を説明できている間は、人々は安心して生きていられる。しかし近代にいたって、科学がひろく認められるようになると、客観的物質世界の存在感は極度に強まってきます。

世界は日常言語で説明されている限り、私たちの直感で理解できる範囲にある。日常言語は、主体客体、意志意図、存在感、自他認知、というような私たちの直感を使って、だれもが世界を共有することで成り立っているシステムだからです(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」)。しかし現代科学はそういうシステムではない。現代科学は私たちが直感にもとづいて(主体客体、意志意図、存在感、自他認知、などの認識の上で)日常言語を使いこなすことで操作できるシステムではなく、高性能な望遠鏡や顕微鏡で測定した膨大な数値データを抽象的な幾何学と計算手続きによって操作しなければ理解できないシステムになっています。そのため、科学を理解する人々は、日常言語の感覚とはかけ離れた客観的物質世界の存在感を獲得していて、それが本物の世界である、と考えるようになります(拙稿14章「それでも科学は存在するのか?」)。

日常言語で私たちが語り合っている物事は俗世間のいい加減な存在についての話であって、真に実在する世界は科学の描く物質現象でしかない、という考えが時代とともに強くなってくる。

そういう考えを持つ現代人は、客観的物質世界だけが実在する、という唯物論的考え方におちいる。物理学を理解する人々はさらにその傾向が強い。物理法則に従う物質・エネルギーの変遷だけがすべてを説明するという物理主義におちいる。さらに二十世紀に入ってから、進化論と分子生物学および脳神経科学の発展による生命・人体の物理現象への還元理論が完璧になってくると、科学の世界像から締め出される人間の感性や自我意識の意味づけが浮き上がってしまう。そうなると、世界を意識している自分とは何か、意識とは何か、という存在の矛盾に悩むことになります。科学者ばかりでなく、宗教を信じられない人々、不治の病気や障害をかかえて自分の身体の存在感に悩む人々、あるいは老齢になって死を恐れる人々、あるいは、社会から疎外されたと思い込む人、あるいは世の中は嘘ばかりと思う人、あるいは人生に懐疑する人々、など、この世の中での自分と自分の身体の在り方の意味をうまく理解することができずに苦しむことがある。そこに、存在の謎(世界と私が同時に存在することの矛盾)が苦しみを伴って、はっきりと湧きあがってくる。

世界と私が同時に存在することの矛盾について、ふつうの生活場面でふつうの人はそれに気づかない。気づかなければ、この矛盾は合理性の瑕疵あるいは生活上の支障としては表れない。人生という機構は、この瑕疵があってもふつうは支障なく働くようにできています。しかし人の人生では、たまにですが、この瑕疵が苦痛を引き起こすときがある。人生のあるときに、周りの人と通じない気持ちになるときです。世界をともに感じとる仲間がいないとき、人との接触がまったくなくなるとき、きわまりない孤独を感じるときです。逆に言えば、孤独に伴う苦痛は人生のこの瑕疵からくるといえます。

だれでも、自分が死ぬときを考えると孤独感に悩むでしょう。一人だけ難病にかかってしまったとき、あるいは年をとって子供が出ていき、同年代の配偶者も友人も皆死んでしまったとき、あるいは失業、左遷などで仕事仲間から落ちこぼれるとき、離婚や死別によって配偶者や家族を失い一人だけで生きなければならないとき、故郷や実家を遠く離れ帰ることができないとき、人はさびしくてたまらなくなります。しかし若く健康な人はしばしば孤独にはなっても、底知れない孤独感に悩むことは少ない。たとえば、外国に一人で暮らすとき、失業などで社会から極度に疎外されたときなどの場面が考えられますが、新聞、雑誌やテレビや携帯電話やインターネットやコンビニや宅配便などが普及した今日など、ふつうに暮らしている若い人にはそれほどの孤独はあまり起こりそうにありません。

人はふつう、一人だけでは生きていない。仲間とともに暮らし続けることができる人々が経験しなくてすむような孤独感が問題です。そのような孤独な状況におちいった人だけが、本章のテーマである存在の謎をはっきりと感じる。

逆にいえば、人はきわめて強い孤独感を感じない限り、客観的現実世界と自分の存在矛盾に疑念を持たずに生きていける。現実世界と自分との関係に関する疑念は、深い孤独感に落ち込んだ人だけが感じる謎だ、ということができます。

存在の謎から発生したと思われる宗教や哲学が、死や老いや病気や社会的疎外と親近性があるのはそのためでしょう。また多くの宗教や哲学が出家や隠遁や瞑想を奨励していることも、孤独の問題と関係がありそうです。孤独な環境を故意に作ることによって、存在の謎を顕在化し神秘化することが宗教や哲学の使命であると思われているのかもしれません。

タヒチの楽園を描いたポール・ゴーギャンの絵に、「私たちはどこから来るか?何ものなのか?どこへ行くか?」という文字が書かれています。画家の(自殺未遂に際して書き残した)遺書だといわれています(拙稿15章(6)「私はなぜ死ぬのか?」)。拙稿本章のテーマである存在の謎が、南海の孤島で孤独に芸術と格闘していた画家の懊悩のうちに浮かび上がってきた、と推測できます。

私はなぜ今ここに生きているのだろうか、という疑問が孤独の深淵から湧きあがってきます。この謎を感じとる直感は(拙稿の見解では)、存在の謎(世界と私が同時に存在することの矛盾)からくる違和感です。

共に語り合う仲間とともに世界をしっかりと共有している限り、私たちはこの違和感をあまり意識することはない。理論的には矛盾があることを理解しても、それに違和感を感じたり、つらいと感じたりすることはありません。しかしふつうまれにしか起こりませんが、これが身体に響くように感じる場合がある。たとえば共に語り合う仲間がまったくいなくなったとき、自分がこの現実世界の中に存在することの違和感は耐え難いものとなり得る。

だれも私を必要としない。だれも私を見ていない。だれも私の存在に気づかない。私が今ここに生きているということを知っているのは私だけだ。だれもそれを知ってくれない。これからも決してだれにも知られることはない。だれにも知られずに私は死んでいき、その後には何も残せない。それでも私はここにいる。私はこの現実世界の中にいる、という孤独な叫びに私たちは共感できる(拙稿19章「私はここにいる」)。

人間は、だれもが次のように直感しているようです。

私はモノではない。命がある。心がある(拙稿8章「心はなぜあるのか?」)。タマシイを持っている、私という存在は、客観的世界の一部分である客観的な物質現象にすぎないのではない。私は冷徹な科学が示すような物質世界の中で進化の産物でできあがった物質現象などではない、私は私だ、という思いに私たちは共感できる。

人のこういう思いに共感できるからこそ、私たちは人間には心があると感じられる。だれもがタマシイを持っていると感じられる。私以外の人々もとうぜん私と同じようにこの客観的世界を感じとっていることを感じとることができる。それが(拙稿の見解では)客観的世界の存在感を成り立たせている(拙稿13章「存在はなぜ存在するのか?」)。それがこの現実世界を現実と感じさせています。私たちに心があるからこそ、客観的な現実世界がある、と思えます。

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人類最大の謎(11)

2010-09-18 | xx3人類最大の謎

私たち人類の身体は、仲間の視座から見えるであろう物事だけをはっきりと現実の存在として認め、それ以外に感じたことを抑えて、仲間の視座から見て現実と感じられる物事にだけ強く反応して動くようにできている。この仕組みで(拙稿の見解では)、私たちは自分の内面とは無関係に存在すると感じられる客観的世界を感じとることができる(拙稿6章「この世はなぜあるのか?」拙稿13章「存在はなぜ存在するのか?」)。こうして仲間と同じように「世界がはっきりとここにある」と感じることができれば、私たちは仲間と共通の現実世界を共有してうまく協力できる(拙稿4章「世界という錯覚を共有する動物」)。

一方この仕組みとは別の仕組みとして、人間は仲間の身体の動きを見て、その中に心というものがあると感じる神経機構を持つ(拙稿8章「心はなぜあるのか?」)。その神経機構を働かせて、それを自分の身体に適用することで自分の身体の中にも心があると感じられる。それが自我の存在を作り出す(拙稿12章「私はなぜあるのか?)。その仕組みで「私がはっきりと現実世界の中にいる」と感じることができれば、現実世界の中で私自身の身体をうまくコントロールしてじょうずに生きていくことができる。

二つの仕組みは、それぞれの場面で、私たちが生きていくために便利に働く。それぞれの場面で必要な存在感を作り出す機構です。それぞれの機構がそれぞれの場面で稼動した場合のメリットは十分大きいので、この両方が同時に稼動するというまれな場合において論理的に矛盾が起きることのデメリットは無視してよい。こういう事情で(拙稿の見解では)人類の脳神経系は、存在の謎(世界と私が同時に存在することの矛盾)を作り出し、それを放置し続けるように進化してきた、と推測できます。

ちなみにこの謎の放置は、逆説的に、ある面では人類にラッキーに働いた、と見ることもできます。たとえば、人類の進化が放置してきたこの謎のおかげで、人間には神秘感を伴った自意識が生まれ、自分の人生を重要だと思う感情が生まれ、そこから自尊心や帰属意識や倫理観が作られたと考えられます。その結果、それぞれの個人が仲間の中での自分、社会の中での自分というものを論理的に操作できるようになり、人間関係を安定させ、義理人情や契約や商取引を成立させ、社会構造をより強固にすることに役立った。歴史時代になると、論理的な言語使用が発達して世界の存在の謎が自覚されるようになり、それが神話を作り宗教や哲学や倫理の発達を促し、それらが結局は科学や経済や法律や国家を作り出したことで、それなりに現代の社会を支えている、と見ることができます。

さて、ここまでの検討で、本章で取り上げた問題の周辺がだいたい整理できました。

存在の謎(世界と私が同時に存在することの矛盾)は、人類のふつうの生活において、それほど実害があるものではない。さらにいえば、それが謎であり続けることで人類に多少の利益をもたらすものでもある。そのためそれが謎であり続けるほうが有利であったから、謎であり続けた。つまり、人類の進化の過程で、この謎を消滅させるように神経系が変化することができなかった、またはその必要もなかった、ということでしょう。

拙稿本章は、存在の謎はなぜ謎であるのか、という設問を立てて議論を進めてきましたが、ここで、一応の結論に到達しました。

つまり、存在の謎は、それが謎であることによって人類に害をもたらすことがほとんどなく、逆にいくらかの利益をもたらすという働きを持つがゆえに、いまも謎であり続けているのです。

実際、世界は、はっきりとここにあるし、私は、はっきりとその中にいる。当たり前ではないか、と思える。私たちは毎日これが当たり前と感じて暮らしています。こう感じていることで、毎日、ほとんど問題はない。実際まったく問題はないといえる。周りの人々は皆これが当たり前として生きている。それでだれとでも話が通じる。まったく問題はない、と思えますね。逆に、これが当たり前だと皆が思っていないと、困ったことになります。

拙稿の見解では、まさにここに謎にアプローチするためのカギがある。毎日、私たちが周りの人々と一緒に暮らしていく場面で、この謎は放置されたままでうまく働いている、といえる。実際、この謎は無視されている。むしろこれが無視されていないと私たちは困ってしまう。

私たちは互いに「世界ははっきりとここにあるし、私ははっきりとその中にいる」と思っているから話が通じ合って、お互いに何を思っているのか分かるのです。ここにあるこの世界があるのかないのかよく分からないとか、私がその中にいるのかいないのかよく分からないとかいうことを、多くの人が問題にしだしたら、とたんに、私たちは毎日、何を話せばいいのか分からなくなる。世界は、はっきりとここにあるということでないと、私たちは困ってしまいます。また、私が世界の中にいるということでないと、さらに私たちは困ってしまうのです。

あるものがこの世に存在している場合、それが存在しないと、人間どうし一緒に暮らしていくために困る、という事情がある。たとえば、食べ物。食べ物がないと私たちが困るからそれは存在している。仮に私たちがロボットだったら、世の中に食べ物などありませんね。たとえば、命。命が存在していないと私たちは困ります。生きているのか死んでいるのか分からなくなってしまいます。戸籍制度も年金制度も葬式も死刑も消滅してしまいます。しかし仮に私たちがロボットだったら、世の中に命などありません。私たち人間が、こういうような社会を作ってうまく生きていくために必要だから、食べ物や命がこの世にある、といえます。

つまり人間がうまく社会を作って生きるために必要だから(拙稿の見解では)命は存在している(拙稿7章「命はなぜあるのか?」)。それがないと私たちが困るからそれは存在している。この世に存在するものは、それが存在していないと私たちが困るから存在しているものが多い。いや、拙稿の見解では、存在するものはすべてこういう事情によって存在しているといえる(拙稿13章「存在はなぜ存在するのか?」)。

こういう、いわば便宜主義を使いこなすことで、私たちは毎日つつがなく暮らしている。そのものが存在していると思い込むほうがうまく生き抜いていかれるようなものは存在していると思い込むことで、とにかく、とりあえず現実を生き抜いていく。つまりそれが、人間にとって、そのものが存在している、ということです。現実主義というか、いい加減主義というか、ちょっと自己欺瞞のようにも思える。そういうところが私たち人間の生き方、というか、生物一般の生き方にはあるのですね。

この世において、あるものは人間生活におけるある便宜のために存在している。別のものは人間生活における別の便宜のために存在している。その二つのものが同時に存在することは論理的に矛盾する場合がある。それでも、私たちが生活の場でその矛盾に気づかなければ問題はない。あるいは気づいても気にしなければよい。たまたまよけいな事に気づいた人がいて、その矛盾について語り始めたとしても、多くの人がそういう人を無視すれば問題ありません。

たとえば、神棚と仏壇が同じ家にあっても、かまわない。たとえば、うどんとスパゲッティが同じ皿に盛ってあって、醤油とミートソースを混ぜたものがかけてあってもかまいません。だれも気にしなければ、それでよいではありませんか?またたとえば、身体と心、あるいは物質と精神が両方ともこの世に存在しても、たいていの場合はかまわない(拙稿8章「心はなぜあるのか?」)。さらに言えば、現実というものはひとつだけでなく、いくつもあってもかまわないのです(拙稿19章「私はここにいる」)。

物質も精神も、それぞれ人間の生活に必要だから存在している。リンゴの赤さもA君の心も、世界も私も、同じように、それぞれ私たちの生活に役に立つから存在している、といえます。そもそも(拙稿の見解では)、物事が存在するということは、それが存在すると感じとるように人間の脳神経系が進化したからだといえる。それが存在すると感じとることが、人間が生きていくために、特に人々が緊密な社会を作って気持ちを通じ合わせ、言葉を共有して、協力して生活するために有益だったから、それの存在感を感じとるように私たちの脳神経系が進化したと考えられます。

しかし、その後、人類の文明が急発展すると、このことがいくつかの不都合を引き起こしてきます。

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人類最大の謎(10)

2010-09-11 | xx3人類最大の謎

たとえば、机の上にリンゴがある。その机をはさんで私はA君と向き合って座っている。A君はリンゴに視線を向けて、手を伸ばそうとする。そのA君の動作を見て、私もリンゴに視線を向け、つい手を伸ばしそうになる。このときなぜ私がリンゴに手を伸ばそうとしているのか、実は、私は知らない。それでも私の手が伸びそうになっていることが私には分かる。A君の手が私より先に伸びていく。私はA君がリンゴを目的として手を伸ばしていることがよく分かる。A君と私のそれらの身体運動を感じとることで、そこから私たちが手を伸ばす目的物として、リンゴの存在感が私の中に現われてくる。そうなることによって(拙稿の見解では)、リンゴは現実として、客観的に、ここに存在することになる。

ところで、本章で問題にしている存在の謎というテーマについてですが、そもそもこういう話は、毎日忙しく暮らしているふつうの人には、なかなかぴんと来ないテーマと思われますね。

本章の冒頭で人類最大の謎であるとしましたが、その存在の謎、つまり「私はなぜ今ここに生きているのだろうか? 今はなぜ今なのか? ここはなぜここであるのか? 私はなぜこの私なのか?」という疑問には、実際、ほとんど興味がない人が多い。

こういうことを問題にしている人は、哲学好きというか、ちょっと少数派の変わった人たちである、ということもできる。そういう人たちがえらい、ということはいえませんが、そうでないほうがえらいというわけでもない。では、どちらがえらいのか? ここまで書いてきてしまった拙稿としては、ここまで読んでくれた読者のためにも、この問題が好きな人のほうがえらい、といいたくなってきますが、そこは抑えましょう。まあ、哲学者たちはたいてい、存在一般について抽象的に語ることがえらい、と言っているようですが、それは立場からの発言に聞こえてしまいますね。実際、抽象的な一般知識よりも具体的な実際知識のほうが重要だ、という哲学もあって、拙稿として冷静な立場をとれば、こちらがもっともらしいと思います(一八九〇年 ウイリアム・ジェームス 心理学の原理)。

そういうことで、拙稿としては、本章のテーマなどぴんと来ないという多数派の味方をすべきなのですが、公平に言って、そうもいえないところがあります。それはこれから述べるように、存在の謎など無関係であるはずの多数派の人々も、現代では、しばしばこの謎に巻き込まれてあぶない目に合う可能性が大きいからです。このことはすぐ後で述べます。

いずれにせよ、なぜ多くの人は本章のテーマである存在の謎にぴんと来ないのか? この点にも、拙稿の見解では、このテーマを考えるヒントがあります。

目に見えるこの現実世界が存在するすべてであって、私たちが感じるものはすべてそこからきている、とふつう私たちは思っています。宗教を深く信仰している人々を除けは、私たちのふつうの毎日の生活では、存在するすべてはこの現実世界以外にありえない、と思えますね。これはいかにも理性がある現代人らしい感覚ですが、この現代感覚は、この後述べるように(拙稿の見解では)、実は宗教を信じすぎる人たちに比べて、どちらがあぶないともいえないくらい、あぶないところがある。

このような日常感覚では、本章のテーマである存在の謎は無視されています。たとえば物質である身体と物質でない心とは、実は、両立しないのではないか、という哲学上の問題がある。しかし、そういうことは毎日の生活では問題にならない。そういうことが生活の支障にならないように、私たちの感性は、そういう論理矛盾には適当に鈍くできているからです(拙稿8章「心はなぜあるのか?」)。

机の上にリンゴが一個あります。その机をはさんで私はA君と向き合って座っている、とします。

ここにはっきりと客観的な現実世界がある。この世界の中にはっきりとこのリンゴがある。このリンゴの前にA君が座っている。私もA君も、私たちがこれから、このリンゴを話題にしてさりげない会話を開始するであろうと思っている。A君はたしかにこのリンゴを見ている。A君はたしかにこのリンゴがとても赤いと感じている。実際、このリンゴはとても赤い。A君もまた、私がリンゴを見ていると感じている。A君は私がたしかにこのリンゴがとても赤いと感じていると思っている。実際、このリンゴはとても赤い。こういうとき「このリンゴはとても赤い」という言葉が私の口から発声される。

現実世界のありさまは(拙稿の見解では)、身体運動に伴って現れる。あるリンゴがとても赤いという現実は、「このリンゴはとても赤い」と発声するという身体反応にともなって、私たちの間に立ち現われてくる。これは、(拙稿の見解では)私たちの身体が、仲間の視座で見た物事に反応して動くようにできているからです。私の身体のこの運動反応によって、A君の心の存在感もA君の心の中にあるリンゴの赤さの存在感も、そこから立ち現われてくる。

A君の心の存在感とA君の心の中にあるリンゴの赤さの存在感。それぞれがはっきりと存在すると感じとることで、私はA君と同じ現実世界を共有し、A君と話が通じていく。こういうことを繰り返すことで、私はA君と仲良く付き合う気持ちになっていく。私の中でA君は、間違いなく同じ人間どうしであり、仲間だということになっていく。こうして私はA君と、最後には緊密に協力していく間柄になる。逆に言えば(拙稿の見解では)、私たちの身体はこうして、私がA君と仲良く仲間として協力し合うようになるために、このリンゴはとても赤いというA君と共有できる物事の存在感を客観的な現実として感じとることができるようになっている、といえます。

私は、ここにいるA君がたしかにこのリンゴがとても赤いと感じていると感じとることで目の前のリンゴが間違いなくとても赤い、ということを現実だと感じとるような身体を持っている。と同時に、目の前にいるA君の身体の中にはA君の心が入っていることも現実だと感じる。そのA君の心の中にあるリンゴの赤さを現実と感じる。さらにここにいる私がこのリンゴの赤さや、A君の心を感じている、と思っている。こういう場合、私は、このリンゴの赤さが存在することを信頼できると同時に、A君の心が存在することも信頼できる、と思う。これらの全部が同時に現実だと思う。

しかしここで実は、矛盾がでてくる。拙稿でここまでに述べたように、物質の存在感と心の存在感が同時に成り立つことは矛盾であるということが分かっています(拙稿8章「心はなぜあるのか?」)。

リンゴの赤さの存在感とA君の心の存在感。この二つが同時に存在することには矛盾がある。しかし矛盾に気づかないか、気づいても無視できれば、私たちの協力はうまくいく。こういう場合、いくつかの存在感の間に、哲学的考察によるいくらかの矛盾があっても、うまく人間どうしの協力が成り立つメリットにくらべれば、そのデメリットは無視できる。人類にとって(拙稿の見解では)、仲間としっかり協力して健康な子孫を育て上げることが重要であって、哲学がうまくいくかどうかはあまり重要ではない。

リンゴの赤さのことでA君と認め合って協力がうまくいけば、それでよい。リンゴの赤さは存在する。A君には心があるということを私とA君の双方が認め合ってA君と通じ合うことで二人の協力がうまくいけば、それでよい。A君の心は存在することになる。リンゴの赤さとA君の心と両方が存在するということが、哲学的に矛盾なく説明できるかどうかは、あまり重要ではない。

人類の生存にとっては、客観的と思える世界がはっきりとここに存在するように思えて、その中にいるように思える人々とそれを共有することで自分たちの心が通じあえるように思えて、かつ実際にその結果、仲間の皆とうまく協力しあって子供を産み家族を養っていければそれでよいのであって、よほどていねいに検討しなければ見つからない哲学的な矛盾などはあってもなくてもかまわないのです。人と通じ合えなければ私たちは生き残れない。哲学がうまく作れなくても生き残れる。

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人類最大の謎(9)

2010-09-04 | xx3人類最大の謎

言葉で言うということは、だれかに聞いてもらうことを前提としていますから、その聞き手と共有できると感じられる物事について言っていることになります。独り言を言うときも自分という聞き手に聞いてもらうことを前提に言っている、といえます。どんな場合でも、言葉をしゃべる限り、聞き手を想定している。つまり言葉で言いあらわす物事は、仲間と共有できる物事です。逆に言えば、仲間と共有できる物事しか言葉では言いあらわせない(一九五三年 ルードウィッヒ・ウィトゲンシュタイン哲学探究』)。言語というものの限界です(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」)。言い換えれば、人間が言語を使う場合、私たちは、だれもが同じように感じられる物事についてだけ正確に語ることができる。

言葉として語るものが、はっきりと仲間と共有できているとき、その言葉ははっきりと存在する物事を表します。逆にいえば、物事がはっきりと存在するということは、それをどう感じるかを、はっきりと仲間と共有できているということです。こういう場合、適切な言葉を選ぶことによって、いくらでも正確に語ることができます。目の前のリンゴについて話すときなどそうです。話し手がリンゴを見て感じることを聞き手も同じように感じている。リンゴを見て感じることを二人は共有しています。

しかしだれも見たことがない果物について話すときなどはどうか? 百年に一度くらいしか実らないといわれる竹の実について友達と話してみましょう。どんな味か? というか、どんな形なのか? だれも知らない。

「見たことないけど、竹の実、おいしいかな?」「え、竹に実がなるの?」というような会話になって、お互いの頭の中でその言葉の内容がどういうふうに存在しているのか、さっぱり分からない。しかしそれでも、友達どうしの会話は続いてしまいます。「口裂け女」の怪談を聞いて、夜道でそれに出くわしたら怖いな、と思う。実はその口裂け女とは何なのか、話し手も聞き手もさっぱり分かっていない。それでも、話はうまく伝わっていく。友達どうし楽しく会話することができる。

言語というものはそれ自身閉じた空間を作ってしまう性質があるようです。ある言葉の架空の存在感を周りの言葉が作り出して相互に存在を支えあう。それはその場かぎりで通じ合う架空の存在感であることも多い。それでも会話中はかなりしっかりした存在感と感じられます。比喩を使ったり、たとえ話をしたり、まあそんなものだ、ということにしてしまったり、いろいろなテクニックで私たちは、よく分からない話も、お互いに、分かったことにしてしまいます。それらの架空の存在感によって、二人の会話は閉じた仮想空間を作ってしまう。それが人間の言語の特徴であり、それができるから(拙稿の見解では)、言語は便利に使われている。

言葉を使うとき、話し手と聞き手は、語られたものの実体から離れて、言葉でできた仮想の空間に入っていく。人間の脳神経系は(拙稿の見解では)、言語をこのように作り出すようにできています。言葉が持つこの作用のために、言葉の間だけでしか存在できない物事までが存在感を持ってしまいます(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」)。話し手が自分の内面について言葉で語るとき、ふつう聞き手はなかなか話し手が言葉にして語る話し手の内面の物事を正しく共有することはむずかしい。しかし私たちの日常では、こういう会話が案外簡単に行われていてそれらはたいてい簡単に通じていくかのようです。「あなたが言っている口裂け女の怖さというのはどんなものなのか、私には全然分からない」と言い返す人はふつう少ない。それは会話というものが、多くの場合、協調を主な目的としておこなわれているからでしょう。しかし実際は、お互いの内面にあるものを感じとることは簡単ではない。

私たちが互いにだいたいは理解できるとしている互いの内面の物事は、実は、もうすでにそれは本当の内面ではない。仲間と共有できるように加工してしまった内面です。話し手が「私の悲しみ」と言ったときにすでに、話し手は聞き手の受け取り方を想像して言葉を作っている。話し手は、本当の「私の悲しみ」というものが何かはさておいて、聞き手が理解してくれるような「私の悲しみ」を想像してそれで会話を組み立てていく。それは、はじめから会話用に加工された表現です。そのときの「私の悲しみ」という言葉で表現できるものは私の中にある本当の悲しみではない、ということですね。このことから考えると、私たちの本当の内面は言葉で言い表わせない、ということになる。確かに、言葉では言い表せないそういうものも、私たちの内面にたくさん存在すると思えます。

そういうような、目には見えなくて、しかも言葉でいうこともできないようなもの。私たちの身体がいつのまにかそれらに反応することでばくぜんと感じとれるそういう存在感は、言葉で言えるものよりも、実はずっと多いようです。私たちはふつうそれと気づかないけれども、目に見えず言葉でも言い表せないが身体の奥で感じとれる物事は、はるかに多い。むしろ目で見えたり言葉でいえたりする物事は、氷山の一角より小さい、と思えます。一方、言葉で人々と語り合ったり、書いたり読んだり、あるいは一人のときでも、言葉で考える限り、言葉でいえない物事は無視されてしまう。それらは本当に無視してよいものなのだろうか? そういうところから(拙稿の見解では)存在の謎が立ち現われてくる。

しかしここで拙稿として注意しておきたいことは、たとえ私たちの内面の感情や気分や欲望や意志であっても、それらは、私たちがそれを意識する限り、実は仲間の視点から感じられるものになってしまっていることです。たとえ、言葉で言い表せなくても、それが私たちの内面にあると思ったと同時に、それは仲間に共有されるものになっている。自分の内面にあるものを自分の内面にある、と意識した瞬間にそれは存在感を持つ。存在感を持つということは(拙稿の見解では)、それは仲間に共有されているものに支えられている。仲間に共有されることができる物事から類推できるものとしての存在感を持っています。

それらはだれにも知られない私だけのものであると同時に、だれにも分かる人間の内面のものという存在感として作られています。逆にいえば私たち人間は、実は自分の内面であろうとも、仲間とまったく共有できない物事が存在すると思っていない。何かが存在すると私たちが思うとき、それは必ず仲間にも分かるものであるはずです。存在の必要十分条件として、存在感の仲間との共有、がある。

自分の内面にあって、言葉でいえるものは意識できるものです。独り言であろうと、言葉にできることは、意識できている。さらに、言葉でいえないようなものであっても、それが内面に存在すると思うときは、それは自分以外の人にも分かるはずだと思える。自分の内面には、言葉でいえないようなものがたくさんある。それらははっきり意識できないが、瞬間瞬間に、ぼんやりと感じることはできる。つまり仲間と共有できる物事です。

私たちの外面に存在すると思われる物質世界も、人々の心や社会のありさまも、また私たちの内面に存在すると思われる自分の心や感情や感覚も、すべて存在すると思われるものは、その存在感を仲間と共有することができる。あるいは、共有できるはずだと確信できます。それら存在すると思われるものすべては、前に述べた、すべてを含む大きなものの中に含まれます。

すべてを含む大きなものは、そのほかに、仲間と共有することができるはずがないと思われるような微妙な感覚、瞬間の感覚、私がいつのまにか感じているらしい何か、というようなものを相当たくさん含んでいると思われます。ただ、私たちの身体は、言葉にできる物事や目に見える物事あるいは仲間と共有できると思われる物事などの存在感をきわめて強く感じとるので、それら以外の物事は、はっきりとは意識できない。記憶もできない。

しかしそれら意識できない物事は、私たちの身体の働きに大きな影響を与えている。そこから違和感が出てくる。拙稿の見解では、そこに存在の謎が湧き出てくる(存在感の)裂け目がある。

目の前のここにはっきりとあるように感じられる客観的世界も、その中にはっきりといるように感じられる私自身も、それらすべてを感じているように思える私自身も、すべては私の身体の自然な働きから立ち現われてくる。

この客観的現実世界がなぜこのようにはっきりと立ち現われるのか? この客観的現実は、なぜだれが感じても同じように感じとれるのか? それは現実がはっきりと存在するからだ、とふつうは思えますね。しかしその現実の存在感自体は、私たちの身体が作り出している。それは(拙稿の見解では)私たち人類の身体が、仲間の視座から見える、あるいは仲間とともに感じられる、あるいは、ともに感じられるであろう物事だけをはっきりと現実として認め、それ以外に感じたことを抑えて、仲間の視座から見て現実と感じられる物事にだけ強く反応して動くようにできているからです。

このように仲間と認識を共有して感じられる物事に、それと気づかないうちに、ほとんど自動的に強く反応して動く身体を、私たちは持っています、たとえば、仲間が見ている物事に自然に視線が向いてしまう。そのように、自動的に動いてしまってから、その自分の動きを自分で感じとって、私たちは物事の存在感を感じる。それはいつのまにか感じているので、私たちは自分の身体がそう動いてそれを感じているとは気がつかない。ただ五感に映る物事を客観的な現実感を伴ったしっかりした物事の存在感として感じる。身の周りの物事の存在感を感じると、それが世界の存在感となって、同時にそこから、自分がその現実を感じとっている、という現実感覚が現われてくる。

人間は、仲間の視線が行く先をいつも知っていて、一緒にそれを見ようとする。それが目の前のものであろうと、語られたものであろうと、想像上のものであろうと、仲間が注目する物事をすぐに感知して動作を協調させることができる。私たちはそういう身体を持っています。

それは人類が、仲間と緊密な社会を作り、その中で仲間と協調し協力して、よりよく生き抜いていくために適応して進化させた身体機構なのでしょう。私たち人間は、仲間の目で見て世界はどう見えるか、仲間から自分がどう見えるか、客観的に自分は何をしているように見えるのか、常にそれを予測しその予測に対応して、無意識のうちに、すばやく全力を集中して行動を形成するような身体になっています。

その予測と結果との誤差を記憶して学習し予測機構(脳神経系の予測計算アルゴリズム)を修正する。私たちの身体のそのような働きが(拙稿の見解では)意識といわれるものを作っている、といえます(拙稿9章「意識はなぜあるのか?」)。この予測機構を使って、仲間の視線の中を、仲間とともに自分たちの身体がどう動いていくかをいつのまにか身体で感じとる。そのとき感じとった自分たちの動きを、私たちは物事の存在感として認知している。つまり私たちは(拙稿の見解では)、身体の動きに働きかけてくる物事の存在感を、自分たちの身体運動として内部表現している、といえます。こうして私たちの内部に身体運動を引き起こす外部因子としての物事の存在感を感じとることで、私たちはそれを客観的現実世界の存在だと思っています(拙稿21章「私はなぜ自分の気持ちが分かるのか?」)。

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人類最大の謎(8)

2010-08-28 | xx3人類最大の謎

拙稿の見解としては、私たちの身体の外部の物質現象や仲間の人間から受け取る化学物質、エネルギー、情報あるいは感覚信号と身体の内部を駆けめぐる神経信号あるいは化学物質による信号が互いに干渉し影響し合って互いを変化させ、その結果が、さらにまた身体内外で互いを変化させ合って混ざり合うことで作りだすこのような諸々の存在感から、この現実世界は私の前に立ち現われてくる。それは私たちの外側に客観的現実世界を写しだすと同時に私たちの内側に自分の内面と感じられるものを作りだしている。

特に(拙稿として強調したいところは)私たちが仲間の身体の動きを目で見て、仲間の身体が出す音を耳で聞くことによって、それが一瞬の断片的なものであっても、それと意識しないうちに、いつのまにか反応する自分自身の身体内部の動きから来る信号を感じとることによって、客観的現実世界の存在感が立ち現われてくる。仲間が何を感じているか、その顔の表情を見て、その言葉を聞いて、書いたものを読んで、あるいは印刷物、新聞、ラジオやテレビで人々の動作や発言を見聞きして、私たちはそこに現実の存在感を感じる。私たちはそれを私ひとりが感じるというよりも、仲間としての集団的視座から見た、だれもが同じように感じられる客観的な現実世界があること、その存在感として感じとる。そのとき私たちは、現実の世界がここに客観的に存在している、と感じる(拙稿6章「この世はなぜあるのか?」)。

逆に、世界がここに客観的に現実として存在している、と感じられる場合、仲間(他者)も同じ世界を感じている、と感じられる。ふつう、これはいつのまにかそう感じているので、私たちは自分がそれをそう感じていることにはっきりとは気づかない。つまり私たちは(拙稿の見解によれば)、仲間も同じ世界を感じていると感じられるとき、それを仲間がそう感じていると自分が感じているとは気づかずに、ただ世界がここに客観的に存在していると感じる。私たちが客観的世界を感じるときはいつもそういう仕組みで感じている。もしそうであるとすれば、この仕組みによって、私たちの直感では、この現実世界を感じとっている人間が自分ひとりだけだとは決して思えないはずです。つまり私たちは、暗黙のうちに、だれもがこの世界を同じように感じとっている、と感じている。そのとき、そしてそのときに限って、(拙稿の見解によれば)私たちはこの現実世界が客観的に存在していると思う。

私たち人間は、自分を含めただれもがこの世界を自分と同じように感じとっている、と感じている。たとえば、人間の言語は(拙稿の見解によれば)、だれもがこの世界を同じように感じとっている、と感じる(私たちの身体に備わっている)仕組みを土台にして作られているシステムです(稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」)。たとえ一人でいるときに独り言をいうとしても、そのとき私たちはすでに、仲間のだれもがこの世界を同じように感じとっている、と感じながら独り言をしゃべっている。このことからも分かるように(拙稿の見解によれば)、私たちは目が覚めているときはいつも、この仕組みで、自分が(目に見えるここにだれもいないとしても、どこかにいるはずの)仲間とともに客観的世界の中にいる、と思っています。

こういう仕組みによって(拙稿の見解によれば)、私たち人間は、だれにとっても世界は同じものとしてただ一つ存在する、と思っている(拙稿4章「世界という錯覚を共有する動物」)。まずそう思っていれば、人々とうまく付き合っていかれる。話が通じる。言語が理解できる。仲間と協力して生活していけます。逆に、仲間とうまく協力して生きていくためには、仲間の皆がここにあると思っているらしいただひとつの客観的現実世界の中に、自分もいると思いこむ必要があります(拙稿12章「私はなぜあるのか?)。仮にそう思わないような脳神経系を持った人がいたとしても(拙稿の見解によれば)、そういう人は子孫をうまく残せないでしょうから、そういう神経構造は私たちの間に生き残っていないはずです。

ちなみに拙稿とは観点が少しずつ違いますが、人間が自分の身体や仲間の身体を介して世界を捕らえることでこの世界が現れる、という考え方は、現代哲学や現代心理学の理論にも出てきています。たとえば現代哲学では、主体でありかつ客体である私たちの身体がそれに働きかけることによってこの世界は知覚として現われてくる、という考え(一九四五年 モーリス・メルロポンティ知覚の現象学』)、あるいは、世界は共同体による共有によって認識される、という考え(一九七九年 リチャード・ローティ哲学と自然の鏡』)などが提唱されています。また、最近の発達心理学では、五か月児は特定の慣れ親しんだ物体の存在を脳の短期記憶(ワーキングメモリー)機構に保持することから発展して一般的な物体の存在について理解していく、という理論の検証がおこなわれています(二〇〇五年 ジャン・シンスキー、宗像優子『親近性が探索を育てる:幼児は隠し物探しで好奇心を反転する』)。

古代から近代までの哲学と科学では、現実世界が存在していることは当然の前提であると考えられていました。それに対して二十世紀以降の現代の哲学では、このように、現実世界の存在は私たちの身体を介して現れてくる、という考えがかなりひろく取り入れられてきているようです。このことは、拙稿本章のテーマである存在の謎を検討するための大事なヒントになっています。

自分が目の前に感じ取っている現実を、ただひとつの現実だと思う私たちの身体の仕組み。あるいは、私の身体を私だと思う私たちの身体の仕組み。こういう話を考える場合(拙稿の見解では)、私たちが感じとる存在感、ということが重要でしょう。日本語で存在感という語は、ふつう人物の権威や威厳の大きさを表現したいときに「A君は存在感がある人だ」というような使われ方をします。拙稿では、この語感をもう少し広げて、字の意味どおりに使うことにします。つまり、人物に限らず物事が単に存在するという単純な感覚を表すことにします。つまり、そこにそのものが存在するように思えるという感覚のことを、そのものの存在感、といいます。

ふつうは、物が存在するからその存在感(存在菅でなくて)が感じられるわけですね。菅首相が存在するからその存在感が感じられる。その人の存在感が、もう少し大きくてもよさそうなのにそれほど感じられないときに、私たちは、あの人は存在感がない、という。いずれにせよ、菅首相が総理官邸の中に存在することはたしかなことです。しかし、物が存在しないのに、存在感だけが感じられる場合もある。たとえば幽霊が怖いと思うときなど、実体がない存在感を恐怖の対象として感じています。

もう少し科学的な話としては、たとえば、ーキューブというダマシ絵があります。ネッカーキューブとは、斜めから見下ろした立方体を十二本の稜線だけで表現した線図です。立方体を右斜め前方から見下ろした図に見えるが、しばらく凝視していると、突然、左斜め前方から見上げた図に見えてくる(二〇〇〇年 谷部好子、藤波努『3次元物体の認知過程における主体的操作の特徴について-ネッ カーキューブ操作行動に見られた共通点』)。網膜に映っている画像信号はまったく変化していないのに、脳内の存在感だけが変換してしまう。つまり、世界は変化してしまうのです。現実が一つしかないならば、これはありえないことです(拙稿19章「私はここにいる(18)」)。ネッカーキューブの存在感は、ただひとつの現実を反映したものではない。似たような効果を持つダマシ絵には「アヒルかウサギか?」とか「右回り?左回り?」なんていうものもあります。これらは、私たちの身体が感じとる存在感が現実世界をそのまま正しく反映するものではない、という例証といえます。

私の身体の外側の客観的世界に何かが存在している、また私の内面で何かが起こっている、そこに何かがあるように感じられる、あるいは、何かが起こっているように感じられる、そしてそれはあれだ、という感覚が存在感です。それらのうちのあるものは、だれでもそう思っていると思われる。つまりその存在感を仲間と共有できると感じられる。残りのものは仲間と共有できるとは感じられない。私たちは、そのうちで、仲間と共有できると感じられる存在感をあらわすものを、現実に存在する、と感じる。仲間と共有できない存在感をあらわすものを、自分の内面と感じる。

目の前に広がっているこの客観的物質世界は、仲間と共有できると感じられる存在感を持つものですから、現実に存在すると感じられます。人々の身体の中にあると感じられる心といわれる何かも、仲間と共有できると感じられるある程度の存在感を持つものですから、ある程度は存在すると感じます。一方、私の鼻腔内の痒さとか、いつまでも寝巻きでいるから妻に嫌われているらしいという不安とか、私の人生の小ささとか、XX君と関係したことの体験からくるむかつきとかは、仲間と共有できない存在感を持つものですから、自分の内面にあると感じられる。

しかしこの内面にあると感じられる存在感には注意が必要です。実際、自分の内面にあると感じられるものも、それなりに存在する、といってよいでしょうか? ふつう私たちはそういうものも「(私の心の中に)・・・がある」と言いあらわしますね。ここは(拙稿の見解では)重要です。

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人類最大の謎(7)

2010-08-21 | xx3人類最大の謎

私にとって私の身体が私に感じさせてくれるものは、目で見えたりカメラで撮影できたりするものばかりではない。カメラに写る私のヌード写真やMRI画像や電子顕微鏡データばかりでなく、目に見えずカメラで写せない私の感覚や感情や気分がある。五感と内部体感。気分として身体の内部の感覚で感じられるものや、感情として身体の変化で感じられるものがある。たとえば内臓や体内各部の筋肉や関節や分泌腺や血管からくる緊張や弛緩の微妙な感覚、全身の重さ、あるいは空気の重さ軽さ、連想や経験や記憶からよみがえってくる過去の出来事の体感や存在感、想像する将来に起こりそうな物事の存在感、それらの重さそして軽さのようなものが感情や気分を伴って感じられることがある。それ以外に、私の身体からそれがきているとは感じていないけれども私の身体が動くたびに身体の内部から発生している断片的な種々の信号や存在感を、私はいつの間にか受け取っている。

たとえば、まぶたの重さとか、頭の表皮のつっぱりとか、鼻腔を通過する空気の摩擦とか、動脈を通過する血液の圧力変動とか、また血圧や酸素濃度や血糖濃度などは内分泌系や神経系を介して体中に信号を送っている、それら体内を駆けめぐる種々の化学物質や神経信号は体内の各所で感知されてそれがまた神経系や筋肉や分泌腺を動かしている。私たちは、ほとんど、そういう体内の動きを直感ではつかめません。たとえば首を動かす時に連動して目玉が回旋する慣性力とか、消化管の蠕動とか、それら体内のきわめて微妙な信号が断片的にいつも私の体感に届いているはずですが、それをそれと意識することはまず不可能です。それらは意識できないにもかかわらず(拙稿の見解では)、目や耳など五感からの感覚信号および連想や知識や経験や記憶と組み合わされ混ざり合って、私たちが自覚する自分の感覚や感情や気分や、さらに世界の物事についての認知を形成している。

たとえば、おなかが減っているときは、食べ物がおいしそうに見える。言葉で言えば、私がその食べ物をおいしそうと思っているかいないかというおおまかな状況は通じるけれども、実際どのように、またどの程度、私がその食べ物をおいしそうだと思っているのか、その微妙なニュアンスは、私以外の人には分からない。

食べ物のおいしさに限らず、結局は、あらゆる物事の生の感触は私にしか分からない、と思える。すがすがしいくちなしの香りで気分がよくなるとか、遠くからかすかに聞こえるピアノの旋律が耳に心地よくて口ずさみたくなるとか、夕食に食べたネギラーメンのおいしさが口中に残っているとか、私の人生の小ささを思って肩の力が抜けるとか、きのう会ったXX君とかかわりあいになるとろくなことがないと思うとむかつくとか、外人に話しかけられてもそれが何語かも分からないので困惑して横を向きたくなるとか。自分の身体の外からくるようでもあり中からくるようでもあると感じられる諸々の断片的な信号や判定や反射的行動や存在感を、私たちはいつのまにか感じ取っている。それらはあるときは夢のようでもあり、また別のときは生々しい現実世界の部分をなす物事や私の内面にある個々の感覚のそれぞれの属性であるとも感じられます。いずれにせよ、それがもともとはどこからくるかといえば、身体内外からくる種々の切れ切れの信号を感じとって私たちの身体が無意識のうちに、私の奥にしまい込まれている諸々の経験や感覚を想起したり、連想したり想像したり、あるいは反射的行動を起こしたりすることで現われてくる。

そういう目に見えない諸々の存在感を、私はいつのまにか感じとっているけれども、私以外の人は、私がいま何をどう感じ取っているのかを体感することはできない。言葉でいくらじょうずに説明しても、私の内面の感覚をそのまま感じとってもらうことはできないでしょう。そういう言葉の限界を私たちはよく知っています。言葉の限界は、私と他の人との間の共感の限界から来ている。その共感の限界は、結局は、私が身体で感じられることを、私以外の人は直接感じられない、という単純な事実から来ている、といえます。

重要なことは、それらの存在感を私だけが感じられて、他の人はそれらを感じられないだろうと思えることです。私がいま思っていることは、ふつう、人には分からないはずです。言葉で正直に言わない限り分からないでしょう。言葉で言わなくても、表情や動作に表れる場合もある。しかしあまり正確ではないでしょう。ふつうは、なかなか他人には分からない。思っているだけのことは、結局、本人以外には分かりにくい。

同じように身体の中で感じていることも他人には分からないのがふつうです。くしゃみが出そうなときの鼻腔の痒さだとか、あくびが出そうなときの倦怠感だとか、よだれが出るときの空腹感だとか、そのときの私の微妙な生々しい感覚を、私以外のだれが分かるか? そればかりではなく、私がいま感じているくちなしの香りのかぐわしさとか、かすかに聞こえるピアノの旋律のはかなさとか、夕食に食べたネギラーメンのおいしさとか、私の人生の小ささとか、XX君と関係したことの体験からくるむかつきとか、その生々しい感覚を、私以外のだれが分かるでしょうか? 

私が自分の内面として感じとっている感覚や感情や気分ばかりでなく、目や耳で感じとっている客観的世界にある物事の生々しい実感も私以外の人には分からないと思われます。たとえば、ここにあるこのリンゴの鮮やかな赤い色は、言葉では完全に正確には言い表せない。百聞は一見にしかず。そのものを見ないと色の鮮やかさは分かりません。いや、たとえ、目で見たとしても、私とあなたが同じ色を感じるかどうかは分からない。色について言葉を交し合うことで共感できたとしても、同一の感覚を共有しているかどうかは分かりません。同じであると、証明する方法がない。このことを現代哲学では、クオリア問題と呼んで問題にしています。拙稿の見解では、この問題は実は問題のように見えるだけで問題になっていない偽問題です。このことは本章でもだんだんと述べていきます。いずれにせよ、これらの私だけが感じているのかもしれないという気がする物事の生々しい存在感は、現実感覚や自意識の感覚にもニュアンスとしても織り込まれているようです。しかしこれらのものは、カメラで写すことはできない。つまり私以外の人には感じとることができません。

それら私だけが感じとっている諸々の存在感は、他の人がそれをそのまま私とまったく同じように感じられない限り、どうしても客観的に観測できない。どのようにしても客観的に観測できないものは物質現象ではない。物質現象でないものが客観的現実世界の一部分である私の身体の中に、はっきりとあるというのはおかしい、という論理になります。

これら諸々の存在感は、しかしながら、私自身は、それらが自分の内面、心の内側にそれが存在している、と感じる。あるいは別の場合は、しばしば、それらが客観的世界の状態として存在しているように感じる。たとえば、私たちは夕焼けの美しさにさびしさを感じることがある。また別の場合は、夕焼けに自然の偉大さを感じる。そのような存在感は、たしかに、私がそれを感じているとき私以外の人が私と同じものを感じているかどうかは分からない。同じようなことを感じているだろうな、とは思えるが、それが同じものだと判断できる証拠はない。しかし、いずれにせよ、それらの存在感は、すべてを含む大きなものの一部である、とはいえる。

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人類最大の謎(6)

2010-08-14 | xx3人類最大の謎

さてその大きなものとは、神様でないとすると、何でしょうか?

仮に、私たちが感じとっているこの世界全体も、またこの世界に含まれているようでもあるがもしかしたら含まれていないかもしれない私というものも、それらすべてがずっと大きい何ものかの中に作りこまれている、としましょう。その大きなものが何かは分からない。私たち自身はそれを感じることができない。そのすべてを作りこんでいる大きなものは、形式的に表現すれば、私が感じるすべて、ということになるが、その全体がどういうものなのかは直感では感じとれない、ということになります。その全体がどういうものなのか、分かる方法はなさそうです。こういう場合、拙稿としては、とりあえずは、それに名前をつけたり定義したりしようとがんばるのはやめて、部分的でよいからその特徴を書き出してみることにします。

その大きなものの全体は、私たちの直感で感じとれないけれども、その部分のいくつかは感じとれる。まず、ここにあるように感じられるこの世界が、その一部分です。宇宙全体もその過去も未来も全部その大きなものの一部分ですね。この私の身体も、もちろん、その大きなものの一部分です。また、この身体の中にあると思われる私自身の心も、たぶん、それの別の一部分でしょう。それらの部分は重なっているかもしれないし、重なっていないかもしれません。その重なり具合は、後で調べていきましょう。

さらに、その大きなものの断片的な部分として思いつくものを書き並べてみましょう。まずは、私がよく気づかないうちに私の身体からときどき立ち現われてくるいろいろな感覚や感情などでしょう。くしゃみをしたり、あくびをしたり、よだれを流したり、眠ったり、目覚めたりする私の身体の動きの大部分を、実は、私はよく知らない。いつの間にか身体が動いているらしい,としか分からない。しかしそれらの動きから私はいろいろな感覚や印象や記憶を受け取っているらしい。それらもまた、ここでいう大きなものの一部分でしょう。

また目に見えたり耳に聞こえたり身体に触ったりする身の周りの物によって私の身体に起こる感覚を私は感じている。これらも大きなものの一部分というべきでしょう。さらに、それらの物事や人々の動きを見たり聞いたり匂いをかいだりしたときに、私の内部でなにか感情あるいは気分のようなものが立ち上がってくるように思えますが、それが何かはたいてい分かりません。そのままに過ごしてしまうが、しばらくしてふたたび関係がありそうな気分になったりする。それは思い出しというか、連想というか、想像というか、私自身よく自覚できないうちに私の気分や感情に影響している。そして、物事を見たり聞いたり触ったり、それらを思い出したり、連想したりするときに、それらが収まっている空間と時間、それらとの関係で私が感じる私の身体の形や動きやそれらから受ける反作用などが、同時に浮かび上がってくる。

目をつぶっていても分かる私の身体。そこから前後左右上下に広がる空間。今と過去と未来を流れる時間。私の周りの人々のありさま。家族と私。友人、仲間、知り合い。その小さな社会。お金。私の家計のやりくり。子供の将来。昔の思い出。時代の流れ。それらに伴う感慨と感情。ふつうはたいして気にしているわけではないが、いつも繰り返し私の中のどこかに浮かんでくる物事たち。自分がそれらをはっきり感じているかどうかもよく分かっていない。しかしそれらの動きの中から、ときどき断片的に世界が立ち現われ、人々の心が立ち現われ、人々が感じていることがまた私の中のどこかに現われ、さらにそこから私の別の感情が立ち現われ、それらが組み合わされて私というものが立ち現われてくるのではないか? それらもまた、ここでいう大きなものの部分部分であるといえるでしょう。

また、私たちが持っている知識のすべても、正しいものも正しくないものも、ひっくるめて、それらがこの世にある、というとらえ方をすれば、それらも、大きなものの一部分である、となります。百科事典に載っている事柄、地理、歴史、あらゆる学問知識、図書館や博物館や官庁に保管されている知識と情報、インターネットの中にある世界中のあらゆる情報、すべてここでいう大きなものの一部分ということになる。人間が理解し得るあらゆる概念、知識は(正しいものも正しくないものも)すべてそれに含まれる、となります。

さらに、人々が物の価値というものを知っているということから、世界中の物事の価値というものがあります。それらもまた、すべてを含む大きなものの一部分でしょう。カレーライスの価値とか、金閣寺の価値とか、銀座鳩居堂前の土地の価値とか、人の命の価値とか、それらもこの世に存在する物と考えれば、この大きなものの一部といえます。会社の株価とか、ドルや円の価値とか、いろいろな経済価値などもそれぞれそれなりに存在している、と考えれば、それも大きなものの一部です。

さらに、私たちが知っている言語、日本語とか、英語とか、そういうものも存在するといえる。地球上に数千種くらいあるといわれる古今東西の人間の言語のほとんどを私は知らないけれども、それらの言語のおかげでたぶん私も何らかの影響を受けているということを考えれば、それらもそれなりに存在している、と言うべきでしょう。それらの言語で書かれた文章も同じような意味合いで存在しているといってよい。古代サンスクリット語で書かれていた古代インドのリグヴェーダとか、古代中国語で書かれていた孔子の論語とか、村上春樹の1Q84とかは、本という物質としても存在しているが、同時にテキストとしても存在している。さらにその文学的内容も存在している、といえる。また実数や虚数など数学的なシステムも、抽象的な存在ではあるが、間違いなく存在している、といえる。足し算、掛け算、算数や位相幾何学は存在している。いろいろな文字や記号は存在している。コンピューター言語もプログラムも存在している。歌や踊りや演劇や音楽は存在している。野球やサッカーや将棋やパチンコなどゲームは存在している。法律や契約も存在している。人々の間の暗黙の貸し借りや義理人情や人気度や風評なども、あいまいさはあるが、それなりに重要なものとして存在している、とすべきでしょう。それらはそれを使いこなす人々とともに存在している。人々がそれを使いこなすことによって存在している、といえます。そういうものたちは、すべてここでいっている大きなものの一部分です。

また、ごく少人数のプロフェッショナルだけが身につけているむずかしいスキルや知識体系も私たちがその存在を知っていたり、それから影響を受けていたりすれば、それは存在するといえるので、もちろん大きなものの一部になります。たとえば、心臓手術の手法だとか、ジェット旅客機の操縦法だとか、パソコンの設計だとか、アニメの作り方だとか、癌特効薬の分子設計だとか、関数解析だとか、中央銀行の為替介入だとか、水爆の作りかただとか、宇宙年齢の計算法だとか、オーケストラの指揮だとか、スケートの四回転ジャンプだとか、です。

思いつくままにだらだらと、脈絡もなく分類もせずに書き連ねてみました。まあこのくらい書けば、大きなものに関するイメージができてくるでしょう? すべてを含む大きなものの内容ですから、まじめに書いて行けばいつまで書いても終わりません。さらに書き出したそれぞれの物事についても具体的に例を挙げていけばいくらでも挙げられる。こういう具合でよければ、どこまでも書き続けることができます。しかしながら読者はもちろんでしょうが筆者も、だんだん退屈してきますね。結局いくらこういう部分的な話を書き出しても、大きなものの全体はさっぱり分かりません。

いくら語り続けても終わらない。終わらないどころかますます分からなくなりそうです。大きなものの話をするということは、しょせん不可能なことなのです。もしだれかがそれを分かりやすく語れるとしたら、それは間違いを語っているからです。それは分かっていますが、それでも拙稿が大きなものの話を続けているのは、私たちがそれがあると思っているからです。何もかもを含んでしまう大きなものがある、と私たちが思っている、ということが拙稿本章のテーマである存在の謎に重要なヒントになると思われるからです。

客観的現実世界、物質、私の身体、そして私が感じるもの、私の直感、私の意識、そういうものたちをすべて含んでいる大きなものがある。さらにそれに含まれているのか含まれていないのかよく分からないような、私が思っている私というものがある。これらの存在は互いに矛盾する。たとえば客観的世界が存在するとすれば私が感じるもの、私の直感、私の意識というものは存在できない(拙稿9章「意識はなぜあるのか?」)。また客観的世界が存在するとすれば私が思っている私というものは存在できない(拙稿12章「私はなぜあるのか?」)。これらの存在の矛盾から(拙稿の見解では)本章のテーマである存在の謎は立ち上がってくる。なぜならば、すべてを含む大きなものについて、あるいはその一部分である私について、あるいはまた別の一部分である客観的世界について、私たちはどう考えているのか、私たちはなぜそういうものがあると思うのか、それが(拙稿の見解では)、存在の謎を作っているからです。

すべてを含む大きなものは、形式的にいえば、私が感じるもののすべてです。まず、私が感じるもののすべて、というこの形式的な言い方を考えてみましょう。

すべてを含むもの、という表現形式が矛盾を感じさせるところがあります。すべてを含むものは自分自身をも含むのか、という疑問に似たような疑問を呼んでしまうところがある。私が感じるもののすべてを含むものは感じている私をも含むのか? 感じている私は感じられるものを含むのではないのか、という形式的な疑問が出てくるでしょう。つまり、感じるものすべてという場合、それは私のこの身体の内部でそれらを感じている、ということではないか? この身体の目や耳など感覚器官を通じて受信した情報を脳で感じとるということではないか? ふつうそう思えます。そうであるならば、私が感じるものは私の身体の内部にある。私の身体というものは世界の一部分だから、世界の一部分である私の身体が世界全体を含む大きなものを内部に含んでいるというのはおかしい、という反論が出そうです。

たしかに、客観的な物質としての私の身体は客観的世界の一部分です。ここにある目に見える私の身体は、私の他、どの人でも、はっきりと見ることができる。必要とあれば(だれも見たくないでしょうけれども)ヌードになってカメラで撮影して画像データとして記録することもできる。高精細MRIで体内のあらゆる断面を撮像することもできる。さらにいざとなれば、体内のどの細胞でも精細穿刺で採取してあらゆる分子構造を電子顕微鏡で調べることだってできる。それは私の身体が物質であり、客観的世界の一部分であるからには当然そうでしょう。

さてそれでは、私の身体を構成するすべての細胞の活動状態とさらにその内部の分子構造とエネルギー状態がデータとして記録されたとしましょう。だれもが、それを、私を観察して分かることのすべてだと思うでしょう。しかし私にとって私は、それだけではない。私の身体を観察すればだれでも知ることができるような物質現象だけではない。私が私だと感じるものはそれだけではない。私にとって私は、私だけが感じられて他のだれにも感じることができない私の内面を私に感じさせてくれる。

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人類最大の謎(5)

2010-08-07 | xx3人類最大の謎

まず、このむずかしそうな謎、つまり世界と私が同時に存在することの矛盾について、拙稿の見解をまとめておきましょう。

ここまでに述べてきたように、西洋哲学ではこの問題を中心に啓蒙時代から哲学の近代化がはじまり、現代哲学に続いています。デカルト1596 ?1650)の「我思う、故に我あり(一六三七年 ルネ・デカルト方法序説』既出)」がそのスタートポイントであり、そこから近代の哲学と科学がともに生まれてきたとされます。二十世紀に入り、現代科学が相対性理論、量子力学、宇宙論、素粒子論、分子生物学、情報科学、脳神経科学、と発展するにしたがって、この哲学的問題は、哲学者の間で、あるいは科学者の間で、主観と客観の関係論、現象学、独我論、心身問題、心脳問題意識問題クオリア問題、ハードプロブレム、など形を変えて、繰り返し議論されてきています。

この問題は、近代哲学以前に歴史上の文献をさかのぼればアリストテレスの形而上学以来めんめんと続いてきていると言えるようです。それより昔のことは完全な文献の形で残されていないので歴史としてさかのぼれないわけですが、たぶん、言語の発生と同じくらい古くから人類が悩んできた問題なのでしょう。その意味で、たしかに人類最大の謎といえますが、なかなか解決の糸口が見つからない。なぜか? それは、拙稿の見解では、私たち人間がこの問題を考えるとき、いつも考え方を間違ってしまうからではないでしょうか? それにはそれなりの理由があるはずです、拙稿では、そうであると仮定したうえで、それなりの理由を調べていくこととします。

まず、私たちがこの問題をふつうに考えるとき、どういう道筋を通ってどのような結論に行きつくのでしょうか? その道筋をチェックしながら、たどっていくことにしましょう。

私たちは、だれもが同じように感じとれるただ一つの現実世界がここに存在しているように思っているけれども、それが本当だという証拠はない。私たちはよく、これが本当であることの証拠として、私がこのようにはっきりとこの現実世界を感じとれるからこれは存在している、という考えを持つが、それはだめでしょう。私がそれを感じとるということだけが、この世界の存在の根拠になってしまっています。このことは、私がこの世界の内部にいるただの人間であるとすればおかしい。ただの人間である私ひとりだけが世界の存在を証明するような特権を持つはずがない。そうであるとすれば、世界を感じとっている私が世界の内側にいるふつうの人間であるとすることはおかしい。言いかえれば、私は世界の外側にいなければおかしい。

もしそうであって、私がこの世界の外側からこの世界を感じとっているからこの世界が存在すると分かるのだとすれば、この世界は人間だれもが同じように感じとれる世界であるのかどうかはあやしい。私の目の前にあるこの世界、いまここにあるこの世界を、私以外のだれかが私が感じているこのとおりの世界に感じとっているかどうかを確かめる方法はない。たぶんそうだろうと思えるけれども、そうであると決めつけることはできない。つまり、この世界はだれにとっても同じ客観的なものとしてはっきりと存在していると言いきることができない。

以上をまとめれば、次の結論を得る。

世界をこのように生々しく感じている私がはっきりと客観的世界の中にいるという説明はできない。また私がはっきりと世界を感じていると仮定すれば、この世界がだれに対しても同じように客観的にはっきりとここにある、ということはいえない。

ゆえに、客観的世界と私が同時に存在するとする考え方には矛盾がある。つまり「世界は、はっきりとここにあるし、私は、はっきりとその中にいる」という考えは間違いだというしかない。

これで、問題(世界と私が同時に存在することの矛盾)が、はっきりしたのですが、拙稿としては、この問題に関して、なぜ私たちがそれを謎と感じるのか、という観点で調べてみたい。

まず、この世界をこのように生々しく感じている私は、この世界の中にいるとはいえない、というところから出発してみましょう。

それではもし、私が私だと思っている私がこの世界の中にいるものではないとすれば、それはどこにいるのか? それを探してみましょう。それを探すには、私自身とこの世界とを同時に含み、さらにその他のすべてを含むような、何よりも大きなものを見つける必要があります。しかしまず、この世界全体よりも大きい、そんな大きなものがあるようには思えません。

そんな大きなものがもしあるとしても、直感ではとても感じとれないはずです。筆者などがいくら修行して瞑想で感じとろうとしてもだめでしょう。それが人類最大の謎である以上、人間に感じとれるような生易しいものではないと思えます。そう言ってしまうと、しかし、話は進まなくなってしまいます。そこで、拙稿としては、とりあえず話を進めるために、とにかくそういう大きいものが仮にある、として進みましょう。

何もかもを含む大きなもの。そういう、直感ではよく分からない大きなものについて、どう考えればよいのか?このような問題意識は昔からありました。西洋では科学が進むにつれて、この問題から近代哲学が始まっています。精神と物質、自我と客観的世界の存在の矛盾。それらすべてを大きな神の存在に包み込もうとする考えが近代哲学のはじまりとされています。

不可解な謎を神様のせいにすれば話はすぐおわってしまいます。拙稿としては神様に登場願わずに、もうすこし先まで進める方向を探っていきます。

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