哲学の科学

science of philosophy

エゴイズムな人々(2)

2017-11-25 | yy60エゴイズムな人々


人間だれもが自分勝手であることが社会にとって実はいいことなのだ、という人はあまりいない。いや、いました。ロシア系アメリカ人の思想家アイン・ランド(Ayn Rand 一九〇五―一九八二)は、各人が自己利益を追求できる社会が最善である、と述べています(一九六四年 アイン・ランド「自分勝手の美徳 The Virtue of Selfishness」)。
このような考えは、実は昔からあって、一八世紀英国の哲学者経済学者アダム・スミス(Adam Smith 一七二三―一七九〇)は、各個人の自己利益追求が国家の富を形成する、としています(一七七六年 アダム・スミス「国富論 The Wealth of Nations」)。資本主義経済がいまのところ社会主義経済よりも繁栄しているように見えるので、この理論も正しいところがありそうな感じがします。
歴史は全体法則によってではなく各人が自分勝手に動いていくことで作られていくのであって、エリートが指導して理想的な社会を作ろうとするのは間違いだ、という考え(一九五七年 カール・ポッパー「歴史主義の貧困 The Poverty of Historicism」)もこれに近いといえます。

モラルとしては、しかし、昔から、自分勝手はダメだ、といっています。これもそう言う必要があるからではないのか?
自分勝手ばかりがまかり通ると、社会は無秩序状態、無政府状態になってごろつきや暴力団がはびこり、住民も武装して自警しなければならなくなります。七人の侍(一九五四年 黒澤明)の世界です。保安官を雇っても平和には程遠く、軍隊と警察を持つしっかりした政府が必要でしょう。
軍隊と警察を持つ政府といっても独裁政権のような武力と権威主義だけで統治しても貿易も産業も発展しません。複数政党国会や民法や刑法を持つ近代国家だけが現代産業を維持できることは現実を見れば明らかです。マルクス主義エリート官僚独裁の政府で経済が成功している国もありますが、政治的に不安定で永続できるとは思われていないようです。
現代、まあまあ成功している先進国は、民主政治で自由経済です。そこでは自己利益追求はよいが、不満な集団が怒り出さないように、また弱者が悲惨な生活に陥らないように、法とモラルのシステムを補完して、あとは自由にすればよろしい、ということになっています。








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エゴイズムな人々(1)

2017-11-18 | yy60エゴイズムな人々

(60 エゴイズムな人々 begin)




60 エゴイズムな人々


エゴイズム、利己主義、ジコチュー、わがまま、自分勝手。
世の中、自分勝手な人ばかりで困る。自分だけ幸せになろうとしている。そうではなくて、皆をハッピーにするためにがんばる人がえらい。とよく言われます。

生物はみな利己的であるのだから人間が利己的なのは生物的本能であって当然である。これは、よく言われる理論ですが生物学的には単純すぎて説得力がありません。
生物の基礎である遺伝子は、たしかに自己増殖のみを最適化する機能から構成されていますが、生物個体は自己増殖行動に最適化されていません(一九七六年 リチャード・ドーキンス「利己的遺伝子 The Selfish Gene」)。たとえば生物界に見られる利他的行動は情報としての遺伝子の自己増殖を最適化しているといえます(一九六四年 ウィリアム・D/ハミルトン「社会行動の遺伝的進化 The genetical evolution of social behaviour I and II. 」)。

人間以外の動物の利己的行動は今現在の欲求に従うだけだが、人間の場合は数か月あるいは数年以上先に備えて社会的経済的資産を獲得維持しようとするものだから際限がない貪欲につながる(一六五一年 トマス・ホッブズ「リヴァイアサン Leviathan」)といわれます。

自分勝手はいけない、というモラルは、よく言われる割には、なかなか徹底されません。
どうも、多くの人は内心、実は人間だれも自分勝手なのだから、と思っているのではないでしょうか?そうであればそういう現実の上で世の中をやっていくよりしかたがない、ということになります(一五三二年 ニッコロ・マキャヴェッリ「君主論 Il Principe」)。

自分勝手はいけないことであるが、見破られなければ、自分だけは利己主義で行こうと思っている人(拙稿47章「偽善する人々」)。だれもが利己主義者なのは当然で、弱肉強食で正直に行けばよいのだと思っている人(拙稿33章「現実に徹する人々」)。いろいろいますが、利己主義が社会全体にとって害をなす、と思っているところは共通です。

自分勝手な行動をする人はいつもする。自分勝手はいけないことであるが自分はいけないことを遠慮せずやってしまうのだ、それでいいのだ、と思っている人(開き直り型)。これが多い。あるいは自分の行動を自分勝手かどうか、全然気が付かない人(気づかない型)。これも多い。
新幹線の席で長々電話する人。比較的短い場合は開き直り型でしょうね。ものすごく長い場合は気づかない型で、かなりおかしい人です。もしかしたら相手がいないのに独り言で空電話をしているのかもしれない。
電車の中でだれでも、実は、自由に電話ぐらいしたい。それを我慢しているのにルールを破る人がいると、皆が共有している平和で温和な空間が壊れます。自分勝手によって皆の大事な共有物を破壊するものはエゴイストと呼ばれる。二酸化炭素垂れ流し、地球環境汚染もこれです。











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塞翁が馬について(8)

2017-11-11 | yy59塞翁が馬について


人間万事塞翁が馬。占いの話でもあり、運勢の話でもあり、人生のドラマでもある。本来、占いも運勢も人生もドラマも小説も、同じものなのでしょう。私たちは自分の人生をこの(塞翁のエピソードの)ようなものとして見ている。成功があり挫折がある。しかし最後にはなんとか、救いもあるだろう。
たしかに私たちが好む小説、ドラマ、物語は皆そうなっています。まず作者がそう思っているからです。そうでない作者がいた場合、ちょっとぞっとするものが見えてしまいます。
悲惨な人生に救いなんかない。幻想があるだけだ、という怖い物語。たとえば人生の幸福はマッチが燃える間だけで、一瞬に消えてしまう(一八四五年 ハンス・クリスチャン・アンデルセン「マッチ売りの少女 Den Lille Pige med Svovlstikkerne」)という童話。これが童話として子供に語られているのは、なぜでしょうか?
マッチが燃えている間は幸福だが、それは束の間だろう、という思い。逆に不運のどん底でもいつか良い日が来る、という思い。どちらも、その根拠は実はなにもありませんが、理由もなく、私たちはそう思う。その思いが物語を作り、占いを作り、人生論を作り、明日の希望を作っています。逆にそうするしかない。そういうような身体が私たちだからでしょう。■





(59 塞翁が馬について end)





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塞翁が馬について(7)

2017-11-04 | yy59塞翁が馬について


たとえば人生における深刻な挫折。どう考えても立ち直る方法はない。もう二度とまともな人生を歩むことはできない。こういう場合、おみくじを引いてみます。大吉、苦難間もなく去るべし。そうであればうれしい。そういうこともないとは限らない。気を取り直して、今できることをこつこつと進めよう、と思います。
楽観主義ともいえます。根拠のない楽観主義。なんとかうまくいくだろうさ、と思うことです。
まったく希望がない状況に追い込まれるとき。絶望的状況ですね。そのまま死んでしまう、あるいはどこまでも悪いほうへ行くのでしょうか?実際にはそういうことも多々あるでしょう。しかし私たちはそう思いたくない。
逆転のチャンスがあるはずだ。逆転まで行かなくても、何とか生き延びられないものか、と思う。しかし、ダメなときはダメですね。
ふつうダメなとき、ダメといって欲しくない。それでもダメといわれると、がっかりしますが同時にすでに納得しているところもある。人生の真実を見せられたような気もしてしまいます。

鎌倉若宮大路のわきにある柔術教室の看板にラテン語箴言が書いてありました。Carpe diem。今日を生きるべし。明日を思うな。
しかし、人間はこれができない。これができる者は人間ではありません。言葉をしゃべらず、仲間の空気を読まない。人間として生きていない(拙稿22章「私にはなぜ私の人生があるのか」)ということになります。








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