人間だれもが自分勝手であることが社会にとって実はいいことなのだ、という人はあまりいない。いや、いました。ロシア系アメリカ人の思想家アイン・ランド(Ayn Rand 一九〇五―一九八二)は、各人が自己利益を追求できる社会が最善である、と述べています(一九六四年 アイン・ランド「自分勝手の美徳 The Virtue of Selfishness」)。
このような考えは、実は昔からあって、一八世紀英国の哲学者経済学者アダム・スミス(Adam Smith 一七二三―一七九〇)は、各個人の自己利益追求が国家の富を形成する、としています(一七七六年 アダム・スミス「国富論 The Wealth of Nations」)。資本主義経済がいまのところ社会主義経済よりも繁栄しているように見えるので、この理論も正しいところがありそうな感じがします。
歴史は全体法則によってではなく各人が自分勝手に動いていくことで作られていくのであって、エリートが指導して理想的な社会を作ろうとするのは間違いだ、という考え(一九五七年 カール・ポッパー「歴史主義の貧困 The Poverty of Historicism」)もこれに近いといえます。
生物はみな利己的であるのだから人間が利己的なのは生物的本能であって当然である。これは、よく言われる理論ですが生物学的には単純すぎて説得力がありません。
生物の基礎である遺伝子は、たしかに自己増殖のみを最適化する機能から構成されていますが、生物個体は自己増殖行動に最適化されていません(一九七六年 リチャード・ドーキンス「利己的遺伝子 The Selfish Gene」)。たとえば生物界に見られる利他的行動は情報としての遺伝子の自己増殖を最適化しているといえます(一九六四年 ウィリアム・D/ハミルトン「社会行動の遺伝的進化 The genetical evolution of social behaviour I and II. 」)。
自分勝手はいけない、というモラルは、よく言われる割には、なかなか徹底されません。
どうも、多くの人は内心、実は人間だれも自分勝手なのだから、と思っているのではないでしょうか?そうであればそういう現実の上で世の中をやっていくよりしかたがない、ということになります(一五三二年 ニッコロ・マキャヴェッリ「君主論 Il Principe」)。
人間万事塞翁が馬。占いの話でもあり、運勢の話でもあり、人生のドラマでもある。本来、占いも運勢も人生もドラマも小説も、同じものなのでしょう。私たちは自分の人生をこの(塞翁のエピソードの)ようなものとして見ている。成功があり挫折がある。しかし最後にはなんとか、救いもあるだろう。
たしかに私たちが好む小説、ドラマ、物語は皆そうなっています。まず作者がそう思っているからです。そうでない作者がいた場合、ちょっとぞっとするものが見えてしまいます。
悲惨な人生に救いなんかない。幻想があるだけだ、という怖い物語。たとえば人生の幸福はマッチが燃える間だけで、一瞬に消えてしまう(一八四五年 ハンス・クリスチャン・アンデルセン「マッチ売りの少女 Den Lille Pige med Svovlstikkerne」)という童話。これが童話として子供に語られているのは、なぜでしょうか?
マッチが燃えている間は幸福だが、それは束の間だろう、という思い。逆に不運のどん底でもいつか良い日が来る、という思い。どちらも、その根拠は実はなにもありませんが、理由もなく、私たちはそう思う。その思いが物語を作り、占いを作り、人生論を作り、明日の希望を作っています。逆にそうするしかない。そういうような身体が私たちだからでしょう。■