風が冷たい。風が顔にあたって顔を冷やしているから冷たく感じるのでしょう。顔の皮膚に低温の風が当たるとその知覚細胞の温度が下がります。
低温を感知する細胞の膜には低温でナトリウム陽イオンを透過させるタンパク質のバルブ(TRPM8:Transient Receptor Potential cation channel subfamily Melastatin member 8)があって摂氏26℃以下になると開通し、細胞を興奮(脱分極)させます。この電気信号(活動電位)が末梢神経系から脳の視床下部を経由して視索前野の体温調節中枢に伝わると、毛細血管が縮小するなど寒冷反射が起こり、冷感が感知されます。
温度計を見ていると、顔に当たる風が、たしかに、摂氏26℃以下になると微妙に涼しいような気がします。裸に近い服装で座っている場合、エアコンの設定温度はこのくらいが気持ちいい、という人が多い。
摂氏20℃以下で風速3メートルにもなると(裸では)寒い。体感温度はかなり低く感じます。体表がいつも低温の空気にさらされれば空気の温度まで体表温度は下がる。いやでも風の存在を意識します。
台風となると、風は絶対に無視できません。風圧を感じるどころではない。身体全体が吹き飛ばされる。身の危険を感じます。気象衛星の写した雲のうずまきをみても、すごい存在感です。
風の存在は体感で感じられるだけではありません。髪が乱れる。帽子が飛ぶ。凧が揚げられる。ハンググライダーで遊べます。昔は帆船が貿易や移民や世界征服を実現しました。風は力である。現在は、風力発電ですね。風は役に立つ。ファンを回して、エアコンやパソコンや自動車エンジンから排熱できる。私達の生活にとって風の存在は大きい。
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顔に受ける風を感じます。皮膚が風圧と冷感を感じます。息を吸う時、吐くとき、鼻孔を通過する風のようなものは空気でしょう。空気は見えないけれども身体の周りじゅうにあるらしい。部屋にも充満している、らしい。それを読む。無意識に、私は。
空気を読む。空気は読める。皆さんの喋り方や表情を観察する。視線の動きを見る。身体の感覚で観察する。そうすれば空気が読めます。
人が何を感じているか、感情や思考は身体の周りの空気に滲み出てくるのでしょうか? よそ者の私が入った瞬間、部屋の空気がひやっと冷たくなった。文学的な表現ですが、実際、そう感じます。空気はそういうものなのでしょうか?
時代の空気を読む。しかし時代とともに空気は入れ替わってきます。新しい風が吹く。空気は読めても風が読めるか?
科学者でさえもそうです。一六八七年までは、アリストテレスやせいぜいコペルニクスを研究していれば科学者をやっていられました。このあと、ニュートン力学の新風がすべてを吹き払う。その後一九一六年まではニュートン力学を規範にすべてを解説していられましたが、そこで突風が吹く。相対論、量子力学を身体で感じ取る必要が出てきました。そういう空気に入れ替わって行きます。そんな空気は読みたくない、と言っても現代物理学の空気は充満しています。ブラックホールがいまや宇宙に充満して来ています。
空気とは何なのか?古代から近代初期まで、空気は、火や水とともに、世の中を作っている物質の素(element元素)のひとつである、とされていました。
啓蒙時代になってようやく、空気の科学が解明されました。
アントワーヌ・ラヴォアジエ(一七四三年ー一七九四年)が、空気が酸素と窒素の混合物であることを示しました。ちなみに、この人は死後だいぶたってから近代化学の元祖といわれるようになりましたが、富豪であり徴税請負人であったためフランス革命でギロチン台に送られて終わりました。この時代のパリ、ブルジョアへの風当たりはひどかった。そういう革命の空気は読めなかったようです。
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(71 風の存在論 begin)
71 風の存在論
風が冷たい。
「かぜがつめたい」とつぶやく。
私はなぜ、「かぜがつめたい」とつぶやいているのか?
それは単に、風が冷たいからでしょう。気温が低くて湿度が低いからでしょう。風速が大きいので、体感温度が低いからと思われます。しかしそればかりではないかもしれない。
そもそも、「かぜがつめたい」などと口に出してつぶやかなくても、さっさとウィンドブレーカーを出して着れば良い。口に出すこと自体、人に聞いてもらいたいとか、自分に聞かせたいとか、言葉の内容以前に、隠された不純な動機がある。それをつぶやくことで私は何をしたいのか?
「世間の風が冷たい。心が冷える」とまで言えば、これは社会の仕打ちに対する怨念を叫んでいるらしい、と分かります。自分が自己中でわがままなのか、社会が自分を不正に差別しているのか、両方混ざっているのか、どれかでしょう。
世間の風が冷たくないはずがないではありませんか?それが冷たいと思う事自体が、もう温かい風を遠ざけている。自分の手を顧みれば、風より冷たくなっている。ほとんど氷のようではありませんか?
閑話休題、風は身の回りの環境です。風速、風向、風力、温度、湿度。環境を冷静に客観的に観察して表現する。これは重要。実務家はそうします。科学者もそうする。まず真実をデータとして知らなければならない。これは正しい、と思われます。
しかし私たちが、実際、「かぜがつめたい」とつぶやくとき、環境を冷静に客観的に観察して表現している場合は少ない。というか、ほとんどありません。
ウィンドブレーカーを携行するのを忘れてしまった悔恨とか、エアコンを強風に設定している管理者の無神経に対する怒りとか、いつの間にか冬が来てしまった、この一年が空しくすぎていくなあ、という詠嘆とか、なにか、感情的な衝動からつぶやきを発している場合がほとんどでしょう。
風が吹けば桶屋が儲かる。つまり、逆に言えば、風が吹くかどうかなどは、たいてい、生活の現実に無関係である、ということでしょう。
しかし風はそれを受ける人間に、微妙に、主観的な感情を引き起こさせる。
Le vent se lève, il faut tenter de vivre.(二〇一三年 宮崎駿『風立ちぬ』原詩ポール・ヴァレリー 風が立つ。生きようと試みなければならない。 訳宮崎駿)
これこそ、真実です。しかし、科学はふつう、こういう真実は無視します。実務家も、たいてい無視する。
かなり特殊な状況の場合、たとえば風を当てることで人を苛立たせてその結果、自分の収入を増やす。昔の喫茶店のクーラーは強めがよくありました。風で人の感情に影響を与えようという場面は特殊ですね。
風は見えない。空気の運動である。空虚であります。気でしかない。風は、しかれども確かに、存在する。私たちにとって、風はなぜ存在しているのでしょうか?
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さて、主観が客観の中に溶融してしまう場合、芸術は、現代的な意味で、最先端に達する。一方、目に映るままの自然を受け入れてしまうため、現象を懐疑して分析し、冷徹な実験操作を繰り返す科学への強い情熱を持てない。
もしそうであるとすれば、鎖国により世界から孤立した場合、美的文化は独自性を発揮して世界最高レベルに達することはできても、科学と技術は、外国との競争のない狭い江戸社会の中に閉じ込められて、遊戯とはなっても実用を目指せず、世界文明から遅れて行ったのではないでしょうか?
宇宙を俳句の中に閉じ込めてしまうことは、科学の発展にとっては危険なことであるのか?主観は、科学のためには、あくまでも客観から切り離して科学者個人の脳の奥深くに隔離して置かなければいけないのかもしれません。それのためにヘーゲルの悩みは癒すことができなくなるとしても(拙稿24章「世界の構造と起源」)。■
(70 宇宙を俳句に閉じ込める end)
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絵画でも近代の西洋人は、対象を客観的に捉えて分析し尽くそうとしました。これに対して日本の画家は、少なくとも西洋画の導入以前は、自分の感覚や感情を投影した風物を描いています。
幕末の江戸で活躍した葛飾北斎(一七六〇年ー一八四九年)は残された作品総数が三万四千点という多作の画家です。デッサン帳として描かれた北斎漫画には三千百九十一点の人物姿態、鳥獣、虫魚、草木、建築、工芸、道具類の画像を網羅しています。筆で描ける限りの宇宙の万物を描きつくす、という情熱が見えます。
富嶽三十六景、富嶽百景、同じ地形を無限に違う時刻とアングルで描きつくす。客観的な存在としての富士というよりも、そのときの自分の感覚に写った富士を描くから延々と何枚でも描く必要があったのでしょう。
たしかに画工として生活のために描いた、という面はある。それにしても多すぎます。九十歳近くまで生きて、当時としては最長寿に達してもなお、絵を描き足りない、と言ったそうです。
ダ・ヴィンチに始まる写実主義絵画の精神は近代の科学技術の基礎を作っていきます。一方、日本で発展した絵画はむしろ、対象を客観的に描写することではなく、画家の感覚や気分を含めたその場のコンテキストに沿って、画面をデザインする。絵画に対しての画家のこの態度は、十九世紀末のヨーロッパに伝搬し、近代西洋絵画のアイデンティティの転回に至り、印象派として大発展し、現代絵画の主流をなしていきます。
客観性を深追いせず、むしろ主観性をそのまま表現して鑑賞者の共感を得る。芸術のこの方向は、印象派以降、現代では常識になっていますが、西洋では十九世紀に発生した比較的最近の発想です。写真技術の普及によって、写実絵画の実用価値が失われた時期と重なっています。
十九世紀は、客観的な科学が産業技術に応用されて大成功をおさめ、世界を変革して行くことが明らかになってきた時代です。客観的な科学は実用、主観的な芸術は非実用、と相反方向に別れて行きました。
秋深き隣は何をする人ぞ(芭蕉)
自然を感じ取り、そこに自我を表現する。主観と客観を区別しない。というよりも、むしろ、主観は客観の中に消えています。
芭蕉と同時代、オランダで、異端の哲学者スピノザは似たような思想を書いています。「人間の心を構成する観念の対象は実際に存在する延長としての身体であってそれ以外のものではない(一六七七年 バールーフ・デ・スピノザ没後出版「エチカ」)」つまり主観は体感という形の客観の一部であるから物質的客観と別のものと思う必要はない、と言っているようです。これでは物質世界を分析的に観測し操作していく科学への情熱は起こりませんね。実際、西洋哲学はスピノザを迂回して、デカルトの系譜からニュートン、ライプニッツの自然哲学そして科学へと発展していきます。
ちなみに、主観を客観から隔離しないスピノザなどの汎神論は、個人の自律を軟化させるがゆえに民主制の毒である、という見解もあります(一八四〇年 アレクシス・ド・トクヴィル「アメリカのデモクラシー」)。この思想は、俳句を好む日本文化をも批判していることになり、日本の民主主義の存在論に関係するようなところがあっておもしろい。
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