幼稚園から小学校に通うころの子供たちは、自分の身体の内側で起こることと外側で起こることの違いに気がつく。視覚と聴覚と触覚で感じられる身体の外の物事は、皆が同じものを感じとっている。つまり世界は客観的に存在している。
身体の外の物事は、自分の身体の移動や姿勢と関係なく同じ場所にあり、関係なく変化する。身体の外の物事は、いま自分の目で何が見えるかとか、耳で何が聞こえるかとかと関係なくそこにあり、関係なく変化する。自分が身体の内側で感じる願望や苦楽の感覚や感情と無関係に変化していく。
その外の現実の世界とは別に自分が内面で感じとり、あるいは想像する自分だけの世界があって、それは自分しか感じられないものらしい、と思うようになる。また同時に、仲間も自分と同じように身体の内側と外側で物事を感じているのだろうな、と感じるようになる。他人が内面で感じとり、あるいは想像する世界は直接は感じられないけれども、それを自分の知識経験に照らし合わせて想像できる、と思うようになる(拙稿19章「私はここにいる」)。幼稚園児くらいからこのことは分かるようになり、小学生になると、身体の内面と外面を使い分けて自分の行動を操作するようになります。
さらに中学生、高校生と成長していくにつれて、人々が身体の外の世界をどう感じているかが分かるようになり、同時に、自分も皆とまったく同じ世界を身体の外に感じている、と確信するようになります。つまり客観的な世界がここにある、という現実の存在感を持ち、その中で自分を動かすようになります。それは人々の動作や言葉から読みとれるばかりでなく、テレビや新聞や書籍などから得られる理論や図式や画像イメージとして理解できるようになります。
こうして子供は人々と共有できる現実世界の理論を習得していきます。家の周り、学校、自分の町、地理、地球、宇宙、と身の回りから広がっている世界の理論が身についてきます。この世界の理論模型を使うと人々と同じものを共感できると感じられるので、自分の視覚や触覚で感じられる目の前の物質世界とこの理論模型の物質世界が同質のものとして連続的につながっている、と思えるようになってきます(一九九六年 スーザン・カリー、エリザベス・スペルク『科学と核知識』既出)。 つまり、いま目で見ているもの、手で触っているものを、瞬時に、現実世界という理論の中に埋め込んで認知することができる。たとえば自分がいま触れているこのパソコンという物質は、人々が話す現実世界、テレビで言われている現実世界、あるいは科学で理解できる現実の物質であって、この現実の物質は現実の地球の一部分であり、同時に現実の宇宙の一部分である、と思えるようになります。
ところで、科学の理論が説明する宇宙と私たちが日常的に触れている身の周りの世界とは、同じものなのでしょうか? 身の周りの物事も科学が扱う宇宙や物質世界もだれもが同じようにその存在を感じることができる。しかし、それらがまったく同じものであるかどうかは問題があります。
たとえば、私たちが身体の直感で感じる時間と空間の広がりは、科学が使う時間空間と同じものなのか? 同じ、という気もするが、ちょっと違うような気もしますね。なにか違和感があります。身体の内側と外側の関係からくる違和感に似ている。この辺の問題は、現代哲学の対象にもなっています(一九二九年 エドモンド・フッサール「デカルト的省察」、一九九四年 浜渦 辰二「フッサールから見たカント空間論」)。つまり、なかなかの難問です。
科学が使う空間の概念は、いわゆる幾何学空間です。ふつう科学ではデカルト座標系で表わされる三次元ユークリッド空間を使う。ただし相対論物理学ではアインシュタイン方程式を記述する非ユークリッド幾何学を使います。いずれにしても、数学で厳密に定義された幾何学空間の中で科学を記述していきます。科学者はこのような空間が、実際に私たちが住んでいるこの世界の空間と同じだ、と信じています。もちろん、科学者でないふつうの人も科学者が正しいと思っている。つまり、この世界にあるすべての物は、いろいろな物差し、巻尺とかマイクロメーターとかレーザー測定機とか測位衛星などで図れば、三次元の幾何学的な位置関係が分かるはずだと思っています。
しかし、幼稚園児は幾何学も知らない。二次元も三次元も分かりません。それでも、自分の身体が動きまわれる空間の性質はよく知っています。かくれんぼをしているうちに迷子になることはめったにありません。公園の遊歩道にそって走っていくよりも芝生を横切ったほうが速い。背より高い塀でもジャンプすれば向こうがどうなっているか見える。運動と空間のそういう関係法則を幼稚園児は身体で知っています。
幼稚園児は、身体を動かすことによって、身体が動き回る現実の空間はいかなる構造を持っているのかを知る方法を身につけている。子供ばかりではなく、大人の空間認知も(拙稿の見解では)実は幼稚園児の空間感覚を下敷きにしている。つまり人間にとって主観的な空間構造は、身体運動の経験によって認知されている、ということです。
科学で使う空間概念のはるか以前に、人間にとっては、このような身体運動による空間の生成が原初的に存在している、という現代哲学があります(一九四五年 モーリス・メルロポンティ『知覚の現象学』既出、二〇〇四年 デイヴィッド・モリス『空間の感知』)。拙稿の見解では、このような身体運動による空間認知を下敷きにして、人間は仲間との運動共鳴を利用して共有できる客観的世界における空間認知を作り出している(拙稿19章「私はここにいる」)。
たとえば、節足動物や脊椎動物などは、なぜ左右対称の体型を持つのか? これらの動物は(拙稿の見解では)、三次元の空間の内部で正確に運動できるように左右対称形をしている。これら左右対称動物は、身体移動運動を極座標系における位相群として計算処理する神経回路を進化させることで身体が置かれている三次元の空間表現を生成する、と考えられます。
人類は、さらに運動共鳴を利用して、これを仲間と共有できる相対空間として表現することで三次元ユークリッド幾何学の空間表現を獲得しているらしい。歴史時代になって数学が出現したことでそれを図や文章や数式で表現できるようになり、そこから科学で使う空間概念が作られたと考えることができます。
時間に関しても似たような考えをすることができます。