哲学の科学

science of philosophy

世界の構造と起源(3)

2010-10-30 | xx4世界の構造と起源

幼稚園から小学校に通うころの子供たちは、自分の身体の内側で起こることと外側で起こることの違いに気がつく。視覚と聴覚と触覚で感じられる身体の外の物事は、皆が同じものを感じとっている。つまり世界は客観的に存在している。

身体の外の物事は、自分の身体の移動や姿勢と関係なく同じ場所にあり、関係なく変化する。身体の外の物事は、いま自分の目で何が見えるかとか、耳で何が聞こえるかとかと関係なくそこにあり、関係なく変化する。自分が身体の内側で感じる願望や苦楽の感覚や感情と無関係に変化していく。

その外の現実の世界とは別に自分が内面で感じとり、あるいは想像する自分だけの世界があって、それは自分しか感じられないものらしい、と思うようになる。また同時に、仲間も自分と同じように身体の内側と外側で物事を感じているのだろうな、と感じるようになる。他人が内面で感じとり、あるいは想像する世界は直接は感じられないけれども、それを自分の知識経験に照らし合わせて想像できる、と思うようになる拙稿19章「私はここにいる」。幼稚園児くらいからこのことは分かるようになり、小学生になると、身体の内面と外面を使い分けて自分の行動を操作するようになります。

さらに中学生、高校生と成長していくにつれて、人々が身体の外の世界をどう感じているかが分かるようになり、同時に、自分も皆とまったく同じ世界を身体の外に感じている、と確信するようになります。つまり客観的な世界がここにある、という現実の存在感を持ち、その中で自分を動かすようになります。それは人々の動作や言葉から読みとれるばかりでなく、テレビや新聞や書籍などから得られる理論や図式や画像イメージとして理解できるようになります。

こうして子供は人々と共有できる現実世界の理論を習得していきます。家の周り、学校、自分の町、地理、地球、宇宙、と身の回りから広がっている世界の理論が身についてきます。この世界の理論模型を使うと人々と同じものを共感できると感じられるので、自分の視覚や触覚で感じられる目の前の物質世界とこの理論模型の物質世界が同質のものとして連続的につながっている、と思えるようになってきます(一九九六年 スーザン・カリー、エリザベス・スペルク『科学と核知識』既出)。 つまり、いま目で見ているもの、手で触っているものを、瞬時に、現実世界という理論の中に埋め込んで認知することができる。たとえば自分がいま触れているこのパソコンという物質は、人々が話す現実世界、テレビで言われている現実世界、あるいは科学で理解できる現実の物質であって、この現実の物質は現実の地球の一部分であり、同時に現実の宇宙の一部分である、と思えるようになります。

ところで、科学の理論が説明する宇宙と私たちが日常的に触れている身の周りの世界とは、同じものなのでしょうか? 身の周りの物事も科学が扱う宇宙や物質世界もだれもが同じようにその存在を感じることができる。しかし、それらがまったく同じものであるかどうかは問題があります。

たとえば、私たちが身体の直感で感じる時間と空間の広がりは、科学が使う時間空間と同じものなのか? 同じ、という気もするが、ちょっと違うような気もしますね。なにか違和感があります。身体の内側と外側の関係からくる違和感に似ている。この辺の問題は、現代哲学の対象にもなっています(一九二九年 エドモンド・フッサール「デカルト的省察」、一九九四年 浜渦 辰二「フッサールから見たカント空間論」)。つまり、なかなかの難問です。

科学が使う空間の概念は、いわゆる幾何学空間です。ふつう科学ではデカルト座標系で表わされる三次元ユークリッド空間を使う。ただし相対論物理学ではアインシュタイン方程式を記述する非ユークリッド幾何学を使います。いずれにしても、数学で厳密に定義された幾何学空間の中で科学を記述していきます。科学者はこのような空間が、実際に私たちが住んでいるこの世界の空間と同じだ、と信じています。もちろん、科学者でないふつうの人も科学者が正しいと思っている。つまり、この世界にあるすべての物は、いろいろな物差し、巻尺とかマイクロメーターとかレーザー測定機とか測位衛星などで図れば、三次元の幾何学的な位置関係が分かるはずだと思っています。

しかし、幼稚園児は幾何学も知らない。二次元も三次元も分かりません。それでも、自分の身体が動きまわれる空間の性質はよく知っています。かくれんぼをしているうちに迷子になることはめったにありません。公園の遊歩道にそって走っていくよりも芝生を横切ったほうが速い。背より高い塀でもジャンプすれば向こうがどうなっているか見える。運動と空間のそういう関係法則を幼稚園児は身体で知っています。

幼稚園児は、身体を動かすことによって、身体が動き回る現実の空間はいかなる構造を持っているのかを知る方法を身につけている。子供ばかりではなく、大人の空間認知も(拙稿の見解では)実は幼稚園児の空間感覚を下敷きにしている。つまり人間にとって主観的な空間構造は、身体運動の経験によって認知されている、ということです。

科学で使う空間概念のはるか以前に、人間にとっては、このような身体運動による空間の生成が原初的に存在している、という現代哲学があります(一九四五年 モーリス・メルロポンティ知覚の現象学』既出、二〇〇四年 デイヴィッド・モリス『空間の感知)。拙稿の見解では、このような身体運動による空間認知を下敷きにして、人間は仲間との運動共鳴を利用して共有できる客観的世界における空間認知を作り出している(拙稿19章「私はここにいる)。

たとえば、節足動物や脊椎動物などは、なぜ左右対称の体型を持つのか? これらの動物は(拙稿の見解では)、三次元の空間の内部で正確に運動できるように左右対称形をしている。これら左右対称動物は、身体移動運動を極座標系における位相群として計算処理する神経回路を進化させることで身体が置かれている三次元の空間表現を生成する、と考えられます。

人類は、さらに運動共鳴を利用して、これを仲間と共有できる相対空間として表現することで三次元ユークリッド幾何学の空間表現を獲得しているらしい。歴史時代になって数学が出現したことでそれを図や文章や数式で表現できるようになり、そこから科学で使う空間概念が作られたと考えることができます。

時間に関しても似たような考えをすることができます。

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世界の構造と起源(2)

2010-10-23 | xx4世界の構造と起源

客観的世界は、だれが見ても同じ世界です。いつどこでだれが、どういうことを思いながら見ても同じ。男が見る世界と女が見る世界は違う、とかいう比喩的な表現がある。見る目が違う、という言い方もある。そうは言いながらも私たちは、ここにはっきりと存在する客観的世界を前提にしてそう言っている。

客観的な現実世界がここにある。幼稚園のころにこれに気が付いて以来、私たちはこの現実の中に住み続けています。死ぬときまで、たぶんここに住み続けるのだろう、と思っています。幼稚園児の観点は、大人になっても死ぬまで変わらない、といえます。

世界についてどんな話をだれがしようとも、私たちは、目の前のここにはっきりと存在する現実世界を前提にして話す。それが常識です。宗教も哲学も科学もずっとそうしてきたし、今もそうしています、

このことにだれも疑問は持ちません。拙稿本章の場合は、しかしここに疑問を持つことから始める。世界は、なぜ、だれが見ても同じに見えるのか? 世界はなぜ、このようにここにあるのか? 世界の構造はなぜこうなっているのか? あるいは、なぜ私たちはこの世界に住んでいるのか? あるいは、なぜ私たちにはこの世界がこうなっているように見えるのか? その起源はどう考えられるのか? こういうようなことを話題にしようとして、拙稿本章を書き始めているからです。

世界はなぜ、だれが見ても同じに見えるのか? 世界はなぜ、このように、ここにあるのか? それはふつう、世界が実際にここにこうあるからだ、と思えますね。現実がこうだからこうだ。それでこの話はおしまいになります。しかし、そう言っておしまいにしてしまうのは、拙稿としてはおもしろくない。というより、この章で書くことがなくなってしまいます。そこで、世界が実際にこうあるからだ、と思う前に別の考えを導入してみましょう。

人間は世界という錯覚を共有する動物である(拙稿4章世界という錯覚を共有する動物)という考え方に立てば、人間の身体がこうなっているから世界はこうある、となる。人間はだれでも身体の構造が同じだから世界はだれが見ても同じに見える。私たちがチンパンジーの身体を持っていれば、世界は今見ているものとは違っているでしょう。コウモリの身体を持っていれば、もっと違っているような気がする(一九七四年 トマス・ネーゲルコウモリであるとはどういうことか』既出)。ロボットの身体を持っていれば、またさらにもっと違っているでしょう。では、どう違うのか? それはさっぱり分からない。これは、どうやっても分からないことです。

チンパンジーの身体を持っていない動物がチンパンジーの身体を持っていると仮定した場合にどうなのか、という質問は(拙稿の見解では)質問になっていない(拙稿13章「存在はなぜ存在するのか?(7)」、拙稿15章「私はなぜ死ぬのか?(4)」)。

なんとなくチンパンジーの気持ちが想像できるような気がするけれども、それは錯覚でしょう。私たちは人間でないものを人間に見立ててその気持ちを想像することが得意です。というか、好きです。幼稚園児はモンスターになった気持ちで空を飛ぶふりをする(一九八七年 アラン・レズリー『ふりと表現:心の理論の起源』既出)。そのとき世界はモンスターから見た世界になっている。しかしそれで幼稚園児は何か新しいことが分かるのか?

モンスターになった幼稚園児は、結局はこの世界のことしか分からない。それはその子の身体の限界です。人間は人間の身体が分かることしか分からない。とにかく私たちは人間の身体を持っていて世界をこう感じられる、ということしか知らない。私たちには、それしか分かりません。

このような見解を持つ拙稿としては、人間以外の身体が感じることを無理やり想像することはあっさりあきらめます。そこで、ではなぜ人間の身体を持っている動物にとって世界はこうなっているのか、という問題に関心が移っていきます。

生まれたばかりの赤ちゃんは、耳が聞こえて目が見えても、何が聞こえて何が見えているのか分からない。見聞きした物事とは無関係に、モゾモゾあるいはバタバタと身体を動かす。ときには見聞きしたものに反応するように身体を動かすけれども、何が見えたか何が聞こえたかに関係なく何か刺激を受けたことをきっかけに身体を動かす、というような具合です。数週間くらい成長すると、見聞きした刺激の種類に対応して身体を動かすようになります。赤ちゃんのその動き方は、しかしながら、見聞きしたものが何であるか判断してからそれへの対策を考えて行動に移す、ということではありません。

身の周りで起こる物事を見聞きすると、無意識のうちに、いつの間にか身体が動いていく。周りの人の動きにつられて身体が動いていく。真似する。真似するといっても、赤ちゃんは真似しようと思って真似するわけではない。人の動きを理解して真似しているわけではない。自分が真似しているとも思っていない。いつの間にか身体が見たものをなぞっている、その動きが真似しているように見える、という具合でしょう。

大人の場合でも、人々がいっせいに向こうを見ると自分の身体も目玉もそちらに旋回して同じものを見つめる。こういう場合、周りの人々の運動と自分の運動とが共鳴している、といえます。そのものがあるからそれを見ようとするのではない。それを見るように目玉が旋回するからそれが見えてしまう。そこでそれがある、ということを感じる。

このように目玉がそれを見つめるからそれがある、と分かる。つまり、物事の認知とは、自分の身体が人々の身体の動きにつられて、その物事に対応して動くこと(拙稿の用語では運動共鳴という)によって発生する、といえます。

人間集団の中での毎日のこういう運動共鳴の経験が(拙稿の見解では)、幼児の脳の中に、人間を含めた物事のイメージ、存在感、概念、そしてさらにそこから派生して物質世界全般の客観的な存在感を作り出していきます。

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世界の構造と起源(1)

2010-10-16 | xx4世界の構造と起源

(24 世界の構造と起源  begin

24 世界の構造と起源

パリのオルセー美術館にあるその油彩画は、「世界の起源」と題されている。ギュスターヴ・クールベの悪名高いその作品の実物を、残念ながら筆者は見たことがありません。以前、家族と行ったときはなかった。仮に展示されていたとしても、日本人の筆者としては家族の前でじっくり見るわけにはいかないでしょう。一人で美術館に行くほどの興味はありませんが、もちろんインターネッ上の画像は、検索してしっかり見ました。よく見ると、しみがいっぱいついていますね。まあ、それだけの絵ですが、ジャック・ラカンがかつて所有していたと聞くと、哲学的な意味を考えたくなる。

人が世界を生むのか? 世界が人を生むのか?

人を作ることで世界は始まるのか? あるいは、人を作るために世界は始まるのか?

世界という語は、もともと仏教経典の漢訳から来ていますが、現代日本語では英語のワールドと同じ意味で使われています。西洋語では、ワールドは昔からフランス語のモンド、ラテン語のムンドゥス、ギリシア語のコスモス、と同じ意味で使われている。もともとは、彼岸にたいしての現世とか、混沌に対する秩序とかいう意味から派生したと考えられています。

つまり昔から人々は、現実としてここにあるこの世界は、何かもっと大きな全体構造の一部分としてここにあるものと思っていたようです。その大きな全体構造は目に見えない、手で触れない、感覚器官では捕らえられない。ここにはない別の世界を含む。それは、ずっと遠い高いところにある別の世界を含むようでもあり、あるいははるか昔にあった別の世界を含むようでもあるので、人知では、はかり知れない。

そのはかり知れない大きな全体構造の中にある一部分だけが今ここに目で見える現実世界であって、人間はその狭い範囲だけしか理解できない。昔の人は、そう思っていたようです。天国と地獄とか、創世記とか末世とか最後の審判とか、この世を含む大きな全体はそう区切られているらしい、と思われていた。宗教の教義にはそういう世界観が反映されています。

一方、世界と似たような意味の宇宙という言葉があります。日本語の宇宙は、英語のユニバースと同じ意味で使われている。宇宙は世界と違って、ふつうそれより大きな構造の一部分とはされていない。宇宙は天文学の対象として観測されるもので、太陽系とか、銀河系とか内部構造を持っているが、宇宙自身がより大きな構造の一部とはされていません。宇宙は科学の対象のすべてであって、いわゆる物質とエネルギーのすべてから成り立っている、とされているからです。

さて、拙稿本章では、世界の構造と起原について考えてみたい。このテーマのような、いわゆる哲学的考察といわれるたぐいの文章を書く場合、ふつう、世界とは何か、構造とは何か、と分析的に定義していくところから始めます。しかし拙稿ではそうしません。拙稿としては、語の定義をなるべく限定しない方針をとっています。本章でも、世界も宇宙もそのまま、ふつうの使い方で使います。その上で、世界の構造はどうなっているのか? 世界の起源は何であるのか? というすなおな、単純な興味にしたがって考えていきましょう。

世界の構造を考えるにあたって、拙稿としては、科学や哲学を参考にはしますが、それらで使われている理論を出発点にはしません。ふつうの常識を出発点にします。科学や哲学の理論を出発点にしてしまいますと、ふつうの本と似たようになってしまって、おもしろくないという事情もありますが、それよりもちょっと深い理由もあります。それは言葉の問題です。

科学や哲学は、きちんとした定義にもとづいて専門用語を使います。漢語やラテン語を転用して限定された用語を作る。あるいは略語を作る。あるいはふつうの語をかっこ書きして特殊な用語に使う。そうすることで、専門家の間で効率的に正確な議論ができるという利点がある。しかしこの方法には欠陥もあります。言葉を専門語として意味を限定することによって、言葉がふつうに使われてきた場面での身体的な感覚や感情が消えてしまいます。そのため(拙稿の見解では)、私たちの言語や世界認識が根源とするところの泥臭い地面が消えてしまう。抽象的な言葉が空中で回転するだけで地面に着地できない、という事態が起こる。これが(拙稿の見解では)科学の人間性からの乖離と、哲学の空論化を引き起こしている一因とも考えられるからです。特に、本章のテーマのようにすっきりした見通しができそうもない難問に対しては、なまじ専門用語に頼って攻める作戦はうまくいきそうにありません。そこでこういう場合、素人考えに徹して、ふつうの言葉遣いの感覚からはじめてみよう、ということにします。

さて、そういう方針で、私たちのありふれた日常感覚から世界の構造を見てみましょう。たとえば、幼稚園児の観点で見てみる。

発達心理学の研究によれば、幼児は四歳前後で、自分とは違う人の観点や信念や欲望などを予測できるようになる。いわゆる心の理論を身につけると考えられています(一九八七年 アラン・レズリー『ふりと表現:心の理論の起源』)。

仲間の視座から世界を見ることができるようになると、世界は客観的になります。つまり世界は、自分が何を思っているかと関わりなく、そこにある。仲間の人間も、自分が何を思っているかに関わりなく、自分とは別のことを思って行動している、という認識を持つようになります。ここで(拙稿の見解では)心の理論の獲得と同じくらい大事なことは、幼稚園児がこのとき、客観的世界の存在感を身につける、という点です。

動物は経験から、身の周りの物事の変化と自分の運動との関係を、刺激と反応、あるいは操作と結果という関係で学習し、規則性を身につけていきます。人間の幼児も同じです。しかし、人間の幼児は、幼稚園に入るころから、客観的世界が存在することを理解する。人間以外の動物は(拙稿の見解では)それができません。

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人類最大の謎(14)

2010-10-09 | xx3人類最大の謎

私たちは、世界が存在するからそこに私が存在してこの身体を持っている、と思っています。しかし実は(拙稿の見解によれば)逆であって、個々の身体が社会集団を形成することでうまく生存繁殖できるように人間の神経機構に世界を存在させる仕組みが進化した結果、私たちは世界がこのように存在すると感じるようになった。その後、社会集団の内部で個々の身体が自我意識を持って自律的に動くことで社会が活性化される仕組みが(拙稿の見解によれば)世界を存在させる神経機構とは別個に進化した別の神経機構によって実現された結果、人間の身体の中には私というものを存在させる仕組みができた、と推測できます。

もし私たちの内部がこういう仕組みになっているとするならば、世界を存在させる神経機構と私を存在させる神経機構とは別の機構であるので、同時に働くことはない。論理的には互いに矛盾するが、同時に働くことがないので、矛盾は不都合を起こさないでしょう。ネッカーキューブのように、二つの認知パターンが互いに競合し合って交互に意識に上ってくる、ということはあるのかもしれません。

いずれにしろ、私たちは、世界が存在することと私が存在することとが同時に起こっても、ふつう矛盾を強くは感じません。そういう私たちの感性にもとづいて作られている人類の(自然)言語も、矛盾を感じないように作られています。

その結果、「存在する」、あるいは「ある」という言葉が作られ、「私」あるいは「私は思う」という言葉が作られている。すなおに言葉を使っている限り、世界がこのようにはっきりと存在していることはあたりまえであるし、またここに私がはっきりと存在していることもあたりまえである、と思えます。

このようにして世界の存在と私の存在が導かれるとすれば、存在というものがこうして作られる、あるいはこれが存在の起源である、という言い方ができることになります。ここからさらに話を進めて、このような存在の作られ方以外に世界が存在していることの意味はないしまた私が存在していることの意味もない、という考え方を取ることもできます。この考え方を採用するとすれば、拙稿本章のテーマとして取り上げた存在の謎(世界と私が同時に存在することの矛盾)は、消滅してしまいます。

拙稿がここで提唱するこのような存在に関する考え方には、なじめない人が多いでしょう。これは直感に反する考え方です。私たちは、日常生活でいつも、目の前に見えるこの現実を唯一の本当の現実と認めて行動しているわけですから、これが私たち人類の身体に特有の神経系の仕組みによって作られたものであるとは思えません。

地面は不動で堅固なものであるように見えるけれども実は不動でも堅固でもないと思ってしまったら、一歩も歩けないでしょう。もちろん歩くときは、地面は不動で堅固なものであるという体感を持たなければなりません。地球が宇宙空間に浮かんでいるとか、量子力学方程式の解の安定性によって物質の形状は維持されているとか思う必要はありません。

地面は堅いものであるという直感を信じて、私たちは地面を歩いています。ふつうそれで問題はない。ただ、直感による素朴な体感を別の場面で固執すると話が混乱する。宇宙ステーションや太陽や電子がどう動くかを考えるときは、足元の地面の体感に固執すると、物理学に慣れていない人は混乱するでしょう。おなじように、私たちが体感で感じるこの世界の客観的現実は、ふつうの日常生活での行動の基準としては完璧に頼りになりますが、自我意識など内面の感覚と組み合わせると、論理的には成り立たない。これは、直感によって現実を感じとる私たちの身体システムの限界といえます。

それにもかかわらず、現実は現実としてはっきりとここに存在している。そうとしか思えませんね。それは、私たちの身体が、人類の生存環境の中でうまく生存し繁殖し、その身体を子孫に伝えるという実用的な目的のために必要かつ十分なものとして作られているからです。存在の謎(世界と私が同時に存在することの矛盾)はそこから来る。これは私たちの身体のこのような造りからくるものであって、この世の神秘というものではありません。この謎はたしかに底知れない神秘と感じられる。しかしその神秘感も含めて(拙稿の見解では)、この現実世界も、この私も、すべて存在するものは私たちの身体で作られている。

この現実世界も、この私も、私の自意識も、私たちの身体が(集団としての運動共鳴によって)それをそうあると感じとるからそうある。そうであれば、この世界それ自身も、世界を表現している言語も、科学も、哲学も宗教も、すべては進化の産物である私たちの身体がそれを受け入れることで成り立っている、といえる。そうであるとすれば、存在の謎という神秘的なものは存在しません。存在するものはすべて、人類の(集団として運動共鳴する)身体が作りだしたものであるからです。存在するものたちの間で互いに矛盾が起きるとしても、それは、それらの矛盾があっても困らないように私たちの身体ができているからです。

それらの矛盾も含んで、すべての存在は、集団として(運動共鳴によって)それらを作り出すように私たちの身体ができているから存在する、といってよいでしょう。

私たちは一緒に同じものを感じ合う。ゆえにすべては存在する。

彼はこう言いたかったのではないでしょうか? それをあの啓蒙時代の雰囲気の中で言おうとしたために、彼は、その後の混乱を招いたあの悪名高いフレーズを書き残してしまったのかもしれません。

(23 人類最大の謎  end

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人類最大の謎(13)

2010-10-02 | xx3人類最大の謎

こういう私たちの現実感覚と自意識、つまり世界を感じている自分を感じるその感じ方そのものが、私たちの社会をじょうずに作っている。逆に言えば、社会をうまく作れるような現実感覚と自意識が私たち人間の身体に発達した、といえる。私たちの身体はそう感じることでうまく社会を維持していけるように、進化によってうまく作り上げられている、と見ることもできる。その結果、私たちは仲間とともに、仲間と同じように、物事をこう感じている。

それは、人間の脳神経系機構が、自然淘汰により人類の生存環境(特に社会形成)に適合して進化したことで実現した、と考えられます。つまり、自分は進化の産物として発生した単なるモノではないと思い込むような、この人間特有の自意識自体が、(緻密な社会を形成するなどにより)生存繁殖に有利に働くために定着した物質的な進化の産物である、というパラドクシカルな進化心理学理論もあります(二〇〇六年 ニコラス・ハンフリー意識進化論にとってアキレス腱かそうでもない』)。ジョークに使えそうですね。

私たちは、ふつう人生の大部分の時間を、家族や仲間と共に暮らし続ける。人類の生存システムはそういう環境に適応して進化した。人類のその環境では、だれともつながれないような、底知れない孤独感を感じる場合は多くない。若年ではたまにしかない遭難事故や身体障害、あるいは極度の社会的疎外が起こる場面において、あるいは老年の末期にしばしば起こる孤独な生活において、あるいは自分の死をはっきりと意識するとき、私たちが底知れない孤独感におちいることでうまく生きることができないとしても、それは集団としての繁殖を阻害しないので人類の進化に影響しない。

多くの環境で有利に働き、まれな環境で不利に働くDNA配列(遺伝形質)があっても、そのまれな場面が起こることによって繁殖が損なわれる確率が十分に小さければ、そのDNA配列は淘汰されにくい。さらにそのDNA配列が別の場面では有利に働くとすれば、その配列は子孫にしっかり伝わっていく。人間に備わっている世界認知と自我認知の両立矛盾、つまり拙稿の用語でいうところの存在の謎は、そういうDNA配列によって作られる脳神経機構にもとづいているのでしょう。

存在の謎(世界と私が同時に存在することの矛盾)は、(拙稿の見解によれば)哲学の大問題というよりも、生物現象としてはよくあるような生態システムの瑕疵のひとつです。この場合は人類の脳神経系機能と社会形成との複合システムにある瑕疵といえます。人が、死や老いや病気や極度の社会的疎外などを感じることできわめて強い孤独感におちいる場合を除いては、この瑕疵は発現しない。孤独の中でなおかつ客観的現実を見つめその中にいる自分を深く見つめる場合に、この存在の謎という人類生態システムの瑕疵が、個人の中に、不安感を伴ってはっきりと立ち現われてくる。

かつて人類が暮らしていた原始生活環境では、家族親族一族郎党とともに人々は同じ物事を感じとり同じ行動をとって毎日を忙しく過ごしていた。死や老いや病気や社会的疎外など現代人を孤独に追い込む出来事があっても、過去の人類の生活環境ではそれらは共同体の集団生活という人類の生態システムの内部に吸収されることで受け入れられていたでしょう。そこでは孤独を感じる機会はほとんどなかった。家族や部族共同体が崩壊しつつある現代では、マスメディアを介して国家や民族が古来の共同体に代わる擬似共同体の機能を提供している可能性もあります。それでも、極度に孤独な人は多くなってきている。そこにこの人類システムの瑕疵である存在の謎が、現代的な疎外感や絶望感、ニヒリズム、モラルハザード、暴力、偽科学など、新しい装いをまとって現われてくる隙があるかもしれません。

群棲動物の個体が群れからはぐれた場合、あわてて群れに戻ろうとするような行動をとることが観察される。進化心理学の多くの理論では、群れからはぐれている個体はその状況を認知して不安を感じることで捕食者に襲われる危険を回避するような行動が進化した、としている。ここから霊長類において仲間集団への復元力を担保する機構として孤独感覚が進化したという理論ができている。

拙稿の見解によれば、存在の謎を感知する現生人類では、孤独感は単に集団への復元機構を働かせるだけでなく、現実世界への違和感を生じさせることで自我意識を確立する作用を持っている。たとえば、人は自分の死を認知することで社会に対応する自我概念を維持しているといえます(拙稿章「私にはなぜ私の人生があるのか?拙稿15章「私はなぜ死ぬのか?」)。孤独感からくる不安と違和感を伴う苦痛は、このように自意識を確立する作用によって人類の緻密な社会を構成し維持する機能を担っている、と考えることができます。

客観的現実世界の存在感と、すべてを感じている自我の存在感と、互いの存在を認め合っている人間社会の存在感と、私たちが感じとるこれらの存在感はそれぞれが強烈に存在していながら互いに他の存在と矛盾するところがある。拙稿本章がテーマとするこの人類システムの瑕疵は、存在の謎を生み、強い自意識を生み、緻密な人類社会の成立に寄与し、さらに歴史的には宗教や哲学を生み、それが科学と経済の土台を作ってきました。

人間に哲学的な謎をかけ、形而上学を混乱させて悩ませる元凶という意味で、拙稿ではこの問題を人類最大の謎とよび、また人類進化の瑕疵であるとしましたが、実生活では、けっこう役にも立っているではありませんか? 私たちはこの瑕疵を忌み嫌ってその殲滅をめざすべきなのでしょうか? たとえばデカルト二元論の一元化を目指す哲学者のように、理性の名誉にかけて、人類最大のこの謎を解かなければいけないのでしょうか?

私はなぜ今ここに生きているのだろうか、という疑問は、たしかに私たちの直感に訴える。まれにはその直感を過敏に受け取って、哲学的煩悶におちいる人もいるでしょう。しかし、その直感も、人類が環境に適応するように進化した結果、身に付けたものだといえる。私と世界が同時に存在する謎。その私、あるいは自意識、というものも、それが存在することが人間の社会をうまく形成するために必要だったから、人類の脳神経系がそれなりの機能に進化した結果、存在することになった、といえる。また客観的物質世界というものも、それが存在しないと私たちが協力して生活するために困るから、別の神経機能が進化した結果、存在している、といえる。

物質も世界も、それがはっきりと存在していると私たちが感じとるほうが人々が協力して自然環境の中での集団生活において物事を集団的にコントロールするために便利である、という事実がある。さらにまた、現実世界の理論的予測システムから発展した近代現代の科学も、それが存在するとだれもが思うことで、それを使って人々が世界観を共有できるということと実用の科学技術を生みだすということで、生活に大いに役立ち、たいへん便利なものになっている、といえる。

つまり私たちの心というものも、あるいは私という自我意識そのものも、また現実世界というものも、あるいは現実にともなう理論的予測システムである科学も、(拙稿の見解によれば)そのような便宜的な必要性によって存在している、と考えることができます。

存在する者たちは、みな(拙稿の見解によれば)、そのような事情で人類の生活に必要であるから存在している。もちろん、私たちの直感ではそれらは当然のごとく厳然として客観的に存在している、としか思えません。しかしあるものが存在しているとき、それはそれが本当に存在している、と私たちだれもが思うから存在している。そして、そう思うような身体を私たちが持っているからそう思うのだと考えれば、それはそう思うことが人類の生存に必要であるから私たちがそう思うような身体を持っている、といえます。そうであれば、すべての存在する者たちは、そういう理由で存在することができるし、それだけの理由で存在することができる。

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