私たちが私といっているものは(拙稿の見解では)、座敷わらしのようなものです。暗い座敷の奥に知らない子供が黙って座っている。神秘的ですね。たぶん、はじめはだれかが幻影を見たのでしょう。皆が、それはいる、と言い合っているから、それはいることになる。しかし、「座敷わらしはここにいる」という言葉もおかしいし、「座敷わらしはここにいない」という言葉もおかしい。子供がそれを言っているなら、かわいいところがある。けれども、いい大人がまじめな顔をしてそんな言葉を言ったら、聞いたほうはぞっとしますね。その不気味さ、というか、おかしさ、を無視して、まじめに語り合えば語り合うほど、話はおかしくなる。
私という言葉も同じ。私はここにいる、といってもおかしいし、私はここにいない、といってもおかしい。「私」という代名詞はトリッキーです(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」)。そもそも、話し手を指す一人称代名詞が使われるようになったのは、はじめは、会話の便宜のためだったでしょう。エゴ・スム・カエサル(我はシーザーなり)というときのエゴ(ラテン語の我)は、単に今発言している人物を指し示すために使われる記号です。
一人称代名詞がはじめて発明されたころは、だれもむずかしいことは考えなかった。話し手が話し手自身のことを言っている場合に一人称代名詞を使うと、聞き手の側は「この話し手は話し手自身のことを言っているな」と分かりやすくて便利です。だから、話し手は聞き手に間違いなく分かってもらう便宜のために一人称代名詞を使っていた。それが始まりのはずです。その一人称代名詞が、いつのまにか、私たち現代人が考えるようなむずかしい自我(エゴ)を意味するようになってしまった。それは、社会が発達すると、そうなる。私たちは、社会の中で他人を操作し、自分を操作しなければならない。そういう操作の対象を捉える概念として自我は便利です。その便宜のために、自我概念は今のように発達したのでしょう(拙稿12章「私はなぜあるのか?」)。
そうなると、自我というものはだれにも通じる概念になります。自我というものは、客観的なものとして人間だれもの内部にあることになる。人間は、一人一人が、それぞれの私である。それぞれのエゴを持っている。個々の人体という物質は、それぞれのエゴの入れ物である、となる。実際、このことは、人間に関するまったくありふれた事実である、と受け取られています。
それは、文明が進み、物質現象に関する知識が蓄積され、自然の法則が理解され、社会が発展し、言葉を使う理論が発展すると起こる。自分たちの知識と理解力に自信を持った人間は、目で見える客観的物質世界の存在感をますます強く感じるようになる。
目に見える物質世界は、四方八方に無限に広がっている。いつでも、どこでも、目に映るものは物質世界である。それはいつでも、だれもがよく知っている整然とした自然法則にしたがって動く。そうなると、人間は自分たちが感じるすべては、この客観的物質世界の中にある、と思うようになる。当然、自分というものもこの物質世界の中にある。人がそれを見て私だと思っている物質としての私の肉体が私だ、ということになってくる。それは人がそう思うというよりも、自分自身がそう思うのだ、と私たちは思う。
この肉体だけが自分だということになると、当然、その中に私の感情も意識も意志も自我も、全部入っていることになる。これは当たり前の考えです。当たり前であると同時に、この考えは、とても便利です。こう思うことで、私たちは自分の身体をうまく操ることができる。また、他人がその身体をうまく操っている様がよく分かる。
そういうことから、この考えは、生活にとても便利で実用的です。しかし、ちょっと気になることは、この考えが生活にとても便利だということと、私たちが、それを当たり前だと思うこととは関係があるのではないか、というところです。
まず、この私の肉体は単なる物質です。科学が解明した物質の自然法則だけにしたがって変化している。そういうものは、すべて、いずれは壊れて崩壊していく。そういう物質である身体をいくら詳しく観察しても、解剖しても、私の主体性、感情、意識、意志、自我、のようなものは見つからない。それは物質を感知する器官である目や耳で感知できるものではなくて、身体の奥深いところでだけ感じ取れるものだからです。それが神秘だ。哲学の大問題だ、となってくる(拙稿12章「私はなぜあるのか?」)。
たとえば、私の身体を動かしているのは私だ、と私たちは思っている。その私というものは、物質であるこの身体のどこにあるのか分からない。物質は物質の法則だけで動く。念力で動くわけはありません。ところが実際、私たちは、自分の身体は自分の念力で動くと思っている。自分が自分の身体を動かす。自分が思うように自分の身体は動く。当たり前すぎて気がつかないが、ここでも論理は破綻している(拙稿11章「欲望はなぜあるのか?」)。現代哲学のはじまりから、私の身体を動かしているものは私なのか、この身体を動かしているその私とは何か、というこの問題は魚の骨のようにのどに引っかかっていた(一八九四年 ジョン・デューイ『原因としての自我』)。
このような問題は、(拙稿の見解によれば)私たちが「世界ははっきりとここにあるし、同時に、私もはっきりとここにある」と思い込んでいるところからくる。これは(拙稿の見解によれば)錯覚です。便利で実用的であるけれども、錯覚です。地面は平らで太陽は毎朝、東から昇る、と感じるのと同じような、実用的な錯覚です。この、私という錯覚がどこからくるのか? そこを、もう少し詳しく調べてみましょう。まあ、かなり手ごわい問題らしいですが、結論を急がずに、そろそろと慎重に進めましょう。
さて、私たちは、客観的物質世界の中にある物(対象物質)の存在感を感じるとき、(拙稿の見解によれば)まず無意識のうちに仮想の仲間集団に乗り移っている。私たちは、仲間の集団運動に連動する運動共鳴の神経回路を使って、(無意識のうちに)群行動として集団の視線でその対象物質を注目する。私たちの脳内のシミュレーションの上では、仮想の仲間集団が、その物(対象物質)を注目し、それに乗り移ってその動作をなぞり、あるいはそれ(対象物質)に動作を加えるために身体を使って身体運動を起こす。
その集団的な運動形成が共鳴して私たちの身体の仮想運動が形成される。この(仮想の上での仮想になる)仮想運動の形成は無意識で行われる。私たちはそれを、自分の身体の筋肉や分泌腺や自律神経の緊張とその体性感覚へのフィードバック信号で感知する。感知された仮想運動のこの感覚を、私たちは、その対象物質の客観的な存在感として認知する。さらに、視覚聴覚など五感から入ってくる外部環境の遠隔受信信号を、その(対象物質の)存在感にあらためて貼り付けることで、その対象物質から自分の受ける感覚(視覚や聴覚)を、私たちは自覚する。
こうして、(拙稿の見解によれば)私たちは、私たちの身体の外部に存在する客観的物質世界を私たちが私たちの目や耳で感知している、という理論を(無意識のうちに)作り出し皆で共有する(拙稿第4章「世界という錯覚を共有する動物」)。
世界の中の物はいろいろある。
人間にまったく関係ない物、ふつう関係がなさそうな物。星、石ころ、草、アリンコ。ごみ、壊れたベンチ。そういう物は、ふつう目に入らない。存在しないと同じです。
きれいな花、おいしそうな実がなっている植物。道端に落ちている一万円札。私のパソコン。紙を切りたいときのはさみ。出かけたいときの自転車。乗車予定の新幹線。こういうものは目に入る。それを触ったり、摘んだり、使ったりする。人間がするそれらの動作の(仮想の仲間の群運動と共鳴する)仮想運動として、身体がその物の存在感を受け入れる。私たちは、身体でそれらの存在を感じ取ります。
犬や猫、パンダやハトなど動物。これは自分がそれに乗り移って、視線を動かしたり走ったり飛んだりしたらどんな感じか、想像できる。その想像の(仮想の仲間の群運動と共鳴する)仮想運動が動物の存在感を作る。こういう物も、一目見るだけで、無意識のうちに、身体でその存在を感じ取れます。
近所の奥さんとか、日本の総理大臣とか、アメリカの大統領とか、人間。こういうものには、自然に乗り移ってその気持ちが分かる。すぐ憑依できる。というか、実物や映像を見た瞬間、私たちは無意識に憑依している。うわさを聞いたり、新聞に書かれた記事を読んだりするだけで、その人物に憑依できる。その人物がその身体をどんな気持ちで動かすか、その視線をどう動かして何を見るか、その口をどう動かしてどんな言葉を吐き出すか、これからどこへ行こうとしているか、その(仮想の仲間の群運動と共鳴するその人物内部の)仮想運動がよく分かる。私たちは、無意識のうちに自分自身の身体がそれに反応することで、それを感じ取っているからです。
それから、最も身近なものとして、自分の身体がある。これはもちろん、物質です。手や足が見える。鏡に映せば、顔が見える。大きな鏡なら全身が見える。あれ、ちょっと太ったかな、と思っても、それは間違いなく自分だと思える。写真やビデオでも、自分の身体が見える。自分がしゃべっている声が聞こえる。録音した声はちょっとおかしく聞こえるけれども、人に言わせれば、それが本当の私の声だ、という。たしかに、自分のこの人体は、一人の人物であり、動物であり、生物であり、物質の塊だということがよく分かる。私たちは、こういう場合もまた、仲間の集団運動の対象(視線の対象など)として、自分自身の身体を客観的に感じ取っている。つまり、(拙稿の見解によれば)私たちは、自分の身体であっても、(実在の、あるいは仮想の)仲間の集団運動との運動共鳴によって、その存在感を感知する、そして、それによって自分の存在を認知しています。
私たちは、(拙稿の見解によれば)こういうふうに、客観的物質世界の中で感じられるいろいろの物を、それにひきつけられて無意識のうちに反射的に動き出す私たちの脳の仮想運動機構、あるいは、仲間との運動共鳴機構を使って、その存在感を無意識に感じ取っている。「世界ははっきりとここにある」と思う私たちの感じ方は、このような仕組みでできている。