哲学の科学

science of philosophy

私はここにいる(6)

2008-12-27 | x9私はここにいる

私たちが私といっているものは(拙稿の見解では)、座敷わらしのようなものです。暗い座敷の奥に知らない子供が黙って座っている。神秘的ですね。たぶん、はじめはだれかが幻影を見たのでしょう。皆が、それはいる、と言い合っているから、それはいることになる。しかし、「座敷わらしはここにいる」という言葉もおかしいし、「座敷わらしはここにいない」という言葉もおかしい。子供がそれを言っているなら、かわいいところがある。けれども、いい大人がまじめな顔をしてそんな言葉を言ったら、聞いたほうはぞっとしますね。その不気味さ、というか、おかしさ、を無視して、まじめに語り合えば語り合うほど、話はおかしくなる。

私という言葉も同じ。私はここにいる、といってもおかしいし、私はここにいない、といってもおかしい。「私」という代名詞はトリッキーです(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」)。そもそも、話し手を指す一人称代名詞が使われるようになったのは、はじめは、会話の便宜のためだったでしょう。エゴ・スム・カエサル(我はシーザーなり)というときのエゴ(ラテン語の我)は、単に今発言している人物を指し示すために使われる記号です。

一人称代名詞がはじめて発明されたころは、だれもむずかしいことは考えなかった。話し手が話し手自身のことを言っている場合に一人称代名詞を使うと、聞き手の側は「この話し手は話し手自身のことを言っているな」と分かりやすくて便利です。だから、話し手は聞き手に間違いなく分かってもらう便宜のために一人称代名詞を使っていた。それが始まりのはずです。その一人称代名詞が、いつのまにか、私たち現代人が考えるようなむずかしい自我(エゴ)を意味するようになってしまった。それは、社会が発達すると、そうなる。私たちは、社会の中で他人を操作し、自分を操作しなければならない。そういう操作の対象を捉える概念として自我は便利です。その便宜のために、自我概念は今のように発達したのでしょう(拙稿12章「私はなぜあるのか?」)。

そうなると、自我というものはだれにも通じる概念になります。自我というものは、客観的なものとして人間だれもの内部にあることになる。人間は、一人一人が、それぞれの私である。それぞれのエゴを持っている。個々の人体という物質は、それぞれのエゴの入れ物である、となる。実際、このことは、人間に関するまったくありふれた事実である、と受け取られています。

それは、文明が進み、物質現象に関する知識が蓄積され、自然の法則が理解され、社会が発展し、言葉を使う理論が発展すると起こる。自分たちの知識と理解力に自信を持った人間は、目で見える客観的物質世界の存在感をますます強く感じるようになる。

目に見える物質世界は、四方八方に無限に広がっている。いつでも、どこでも、目に映るものは物質世界である。それはいつでも、だれもがよく知っている整然とした自然法則にしたがって動く。そうなると、人間は自分たちが感じるすべては、この客観的物質世界の中にある、と思うようになる。当然、自分というものもこの物質世界の中にある。人がそれを見て私だと思っている物質としての私の肉体が私だ、ということになってくる。それは人がそう思うというよりも、自分自身がそう思うのだ、と私たちは思う。

この肉体だけが自分だということになると、当然、その中に私の感情も意識も意志も自我も、全部入っていることになる。これは当たり前の考えです。当たり前であると同時に、この考えは、とても便利です。こう思うことで、私たちは自分の身体をうまく操ることができる。また、他人がその身体をうまく操っている様がよく分かる。

そういうことから、この考えは、生活にとても便利で実用的です。しかし、ちょっと気になることは、この考えが生活にとても便利だということと、私たちが、それを当たり前だと思うこととは関係があるのではないか、というところです。

まず、この私の肉体は単なる物質です。科学が解明した物質の自然法則だけにしたがって変化している。そういうものは、すべて、いずれは壊れて崩壊していく。そういう物質である身体をいくら詳しく観察しても、解剖しても、私の主体性、感情、意識、意志、自我、のようなものは見つからない。それは物質を感知する器官である目や耳で感知できるものではなくて、身体の奥深いところでだけ感じ取れるものだからです。それが神秘だ。哲学の大問題だ、となってくる(拙稿12章「私はなぜあるのか?」)。

たとえば、私の身体を動かしているのは私だ、と私たちは思っている。その私というものは、物質であるこの身体のどこにあるのか分からない。物質は物質の法則だけで動く。念力で動くわけはありません。ところが実際、私たちは、自分の身体は自分の念力で動くと思っている。自分が自分の身体を動かす。自分が思うように自分の身体は動く。当たり前すぎて気がつかないが、ここでも論理は破綻している(拙稿11章「欲望はなぜあるのか?」)。現代哲学のはじまりから、私の身体を動かしているものは私なのか、この身体を動かしているその私とは何か、というこの問題は魚の骨のようにのどに引っかかっていた(一八九四年 ジョン・デューイ原因としての自我

このような問題は、(拙稿の見解によれば)私たちが「世界ははっきりとここにあるし、同時に、私もはっきりとここにある」と思い込んでいるところからくる。これは(拙稿の見解によれば)錯覚です。便利で実用的であるけれども、錯覚です。地面は平らで太陽は毎朝、東から昇る、と感じるのと同じような、実用的な錯覚です。この、私という錯覚がどこからくるのか? そこを、もう少し詳しく調べてみましょう。まあ、かなり手ごわい問題らしいですが、結論を急がずに、そろそろと慎重に進めましょう。

さて、私たちは、客観的物質世界の中にある物(対象物質)の存在感を感じるとき、(拙稿の見解によれば)まず無意識のうちに仮想の仲間集団に乗り移っている。私たちは、仲間の集団運動に連動する運動共鳴の神経回路を使って、(無意識のうちに)群行動として集団の視線でその対象物質を注目する。私たちの脳内のシミュレーションの上では、仮想の仲間集団が、その物(対象物質)を注目し、それに乗り移ってその動作をなぞり、あるいはそれ(対象物質)に動作を加えるために身体を使って身体運動を起こす。

その集団的な運動形成が共鳴して私たちの身体の仮想運動が形成される。この(仮想の上での仮想になる)仮想運動の形成は無意識で行われる。私たちはそれを、自分の身体の筋肉や分泌腺や自律神経の緊張とその体性感覚へのフィードバック信号で感知する。感知された仮想運動のこの感覚を、私たちは、その対象物質の客観的な存在感として認知する。さらに、視覚聴覚など五感から入ってくる外部環境の遠隔受信信号を、その(対象物質の)存在感にあらためて貼り付けることで、その対象物質から自分の受ける感覚(視覚や聴覚)を、私たちは自覚する。

こうして、(拙稿の見解によれば)私たちは、私たちの身体の外部に存在する客観的物質世界を私たちが私たちの目や耳で感知している、という理論を(無意識のうちに)作り出し皆で共有する拙稿第4章「世界という錯覚を共有する動物」)

世界の中の物はいろいろある。

人間にまったく関係ない物、ふつう関係がなさそうな物。星、石ころ、草、アリンコ。ごみ、壊れたベンチ。そういう物は、ふつう目に入らない。存在しないと同じです。

きれいな花、おいしそうな実がなっている植物。道端に落ちている一万円札。私のパソコン。紙を切りたいときのはさみ。出かけたいときの自転車。乗車予定の新幹線。こういうものは目に入る。それを触ったり、摘んだり、使ったりする。人間がするそれらの動作の(仮想の仲間の群運動と共鳴する)仮想運動として、身体がその物の存在感を受け入れる。私たちは、身体でそれらの存在を感じ取ります。

犬や猫、パンダやハトなど動物。これは自分がそれに乗り移って、視線を動かしたり走ったり飛んだりしたらどんな感じか、想像できる。その想像の(仮想の仲間の群運動と共鳴する)仮想運動が動物の存在感を作る。こういう物も、一目見るだけで、無意識のうちに、身体でその存在を感じ取れます。

近所の奥さんとか、日本の総理大臣とか、アメリカの大統領とか、人間。こういうものには、自然に乗り移ってその気持ちが分かる。すぐ憑依できる。というか、実物や映像を見た瞬間、私たちは無意識に憑依している。うわさを聞いたり、新聞に書かれた記事を読んだりするだけで、その人物に憑依できる。その人物がその身体をどんな気持ちで動かすか、その視線をどう動かして何を見るか、その口をどう動かしてどんな言葉を吐き出すか、これからどこへ行こうとしているか、その(仮想の仲間の群運動と共鳴するその人物内部の)仮想運動がよく分かる。私たちは、無意識のうちに自分自身の身体がそれに反応することで、それを感じ取っているからです。

それから、最も身近なものとして、自分の身体がある。これはもちろん、物質です。手や足が見える。鏡に映せば、顔が見える。大きな鏡なら全身が見える。あれ、ちょっと太ったかな、と思っても、それは間違いなく自分だと思える。写真やビデオでも、自分の身体が見える。自分がしゃべっている声が聞こえる。録音した声はちょっとおかしく聞こえるけれども、人に言わせれば、それが本当の私の声だ、という。たしかに、自分のこの人体は、一人の人物であり、動物であり、生物であり、物質の塊だということがよく分かる。私たちは、こういう場合もまた、仲間の集団運動の対象(視線の対象など)として、自分自身の身体を客観的に感じ取っている。つまり、(拙稿の見解によれば)私たちは、自分の身体であっても、(実在の、あるいは仮想の)仲間の集団運動との運動共鳴によって、その存在感を感知する、そして、それによって自分の存在を認知しています。

私たちは、(拙稿の見解によれば)こういうふうに、客観的物質世界の中で感じられるいろいろの物を、それにひきつけられて無意識のうちに反射的に動き出す私たちの脳の仮想運動機構、あるいは、仲間との運動共鳴機構を使って、その存在感を無意識に感じ取っている。「世界ははっきりとここにある」と思う私たちの感じ方は、このような仕組みでできている。

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私はここにいる(5)

2008-12-20 | x9私はここにいる

劇などでは、よく主人公が死ぬ。主人公が死ぬと、もちろん、劇は終わりになる。「ハムレット(一五九九年 ウィリアム・シェイクスピアハムレット』)」など主人公が死ぬ場面が一番感動的です。この劇も、主人公が死ぬと、しばらくして幕が下ります。ハムレットが死ぬと同時に、ノルウェイ皇太子フォーティンブラスが登場して、短い弔辞を述べる。四人の隊長がハムレットの遺体を盾に載せて担ぎ上げる。そこで幕。

まあ、その主人公のいなくなった世界の耐えられない虚しさが、劇のクライマックスとして大事なのですね。

観客は、もう、すっかりハムレットになりきっている。ハムレットが死ぬのは、自分が死ぬより悲しい。こわい。かわいそう。がっかりする。この場面で観客は自分の死を疑似体験する。自分が死んだ直後の世界を疑似的に体験できます。ハムレットが死んだ直後の人々の動きを、観客は見る。死んだ後の世界の動きを、ハムレットになった気持ちで感じることができる。ハムレットの遺言によってデンマーク王位を継いだフォーティンブラスが現れて、ハムレットの遺体を葬る。観客は、死んだ人の感覚で、自分がいなくなった後のこの世を体験するわけです。

私たちは、ペットが死ぬときも似たような感情を経験する。いやむしろ、(拙稿の見解によると)話は逆です。慈しんだものがいなくなることを悲しむ感情が、私たちにはもともと備わっているから、そこから自分の死が悲しいという感情が作られてくる。そもそも、私たちが思っている自分というものは、感情移入した物語(あるいはテレビゲーム)の主人公のようなものでもあるし、ひいきのサッカーチームのようなものであるし、かわいがっているペットのようなものでもあるからです。

そういう私が、まもなくこの世界からいなくなる。私がいなくなった後、私がいない世界、というものがある、ということになる。しかし、自分がいない世界というものはどういうものなのか? まあ、なんとなく、分かるような気はする。自分の席に誰か別の人が座るようになるのだろうな、とか、自分が毎朝、水をやっている植木鉢にはだれも気づいてくれないだろうから、すぐに枯れてしまうだろう、とか、想像できます。自分がいなくなった後の数日か数週間くらいのことは、まあ、こうして想像できる。けれども、数年後となると、もうさっぱり分からない。

自分がいなくなって十年後のことは、さっぱり思い浮かばない。そのときでも、もちろん世界は変わらずにあるはずだ。そうはいっても、うまくイメージが浮かばない。理屈では世界がなくなる理由はないからそのときもあるはずだろう、と思うだけで実感も持てない。さらに百年後、千年後、一万年後のこととなると、理論上地球はなくならないだろう、と思うくらいで実感はない。理論上の話に限っても、巨大隕石が衝突して地球も壊れているかもしれない。ますます実感はないわけです。

いずれにしても、私がいなくなった後の世界には私はいないのですから、私はその世界を見ることはできない。見ようとしても見ることはできない。ドラマや小説の場合は、主人公が死んでしまっても、作者も読者も死んでしまうわけではないので、主人公が死んだ後の世界の光景を延々と叙述してもおかしくありません。しかし、現実世界で自分が死んでしまうと、自分を見ている観客としての自分も、世界を観察する自分も、いなくなるわけですから、後の世界を見ることはできない。その見ることができない世界があるのかないのか、確信が持てないまま、私たちは、それをあると思うしかない。いわゆる常識は、このあたりから破けてくる。

話し手と聞き手のどちらかが分かっていないもの、それを見ようとしても見ることができないものについて、私たちの言葉は(拙稿の見解によれば)、正確に語ることはできない(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」)。話し手と聞き手、両方が、それをきちんと見ることができるもの、あるいは見ると同じくらいはっきりと分かっているもの、そういうものだけを、私たちの言葉は正確に語ることができる。よく分かっていないものについては、比喩や想像力を使って、あいまいにイメージのようなものを語ることはできるが、目の前にある物質についてのように正確に語ることは不可能です。正確に語ろうとすればするほど、おかしな話を語ることになってしまう。

私が、私がいなくなった後の世界について語ることは、あいまいになるか、あるいはおかしくなってしまうか、どちらかになる。あるいは、両方になる。

死にそうな人が「私はここではないどこかに行ってしまう」というとき、その人がどこかに行くという場面を自分自身は見ることができない、と思っている。話し手が、それを見ることができないものについて語っている場合、その言葉は正確なことを伝えられない。そうであるならば、「私はここではないどこかに行ってしまう」という言葉は、私がそれを見ることができないことを語っているわけですから、あいまいな言葉であるか、あるいは、おかしな言葉であることになる。同じように、「私はまもなくここにはいなくなってしまうだろう」という言葉もおかしい。そうすると、「私はまもなくここにはいなくなってしまうだろう」ということを下敷きにして発言される「私はここにいる」という言葉もおかしいことになる。つまり、「私はここにいない」という言葉もおかしいし、「私はここにいる」という言葉もおかしい。論理は破けている。私がこの世界にいるとか、いなくなる、とかいう考えは、どこかおかしい。

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私はここにいる(4)

2008-12-13 | x9私はここにいる

どこかに行くといっても、天国も地獄も信じられなくて、死んだらどこに行くというのでしょうか? ラーセン氏に聞いてみても、分からない、というだけでしょう。とにかく、この世界ではない、どこかに行ってしまう。消えてしまうだけかもしれないが、いずれにしろ、この世界から自分はいなくなる。とラーセンは思っているらしい。ということは、つまり、小説家が、そう思っているということでしょう。

死んだら、人間は、この世からいなくなってしまう。これは、当時の常識だった。当時というよりも、これは今でも常識だろう、と読者はお思いになるでしょう。まあ、確かに今でも常識は、だいたいそうなのでしょう。筆者は否定しません。しかし、常識というものは、時代が変わると、いつか、常識でなくなる。死に関するこの常識についても、拙稿の見解では、もうすぐ常識ではなくなる。現代がその過渡期だと思うのですが、いかがでしょうか?

死んだら、その人はこの世からいなくなってしまう。これは、私たちの毎日の会話では、当たり前のことのように言われている。自分のことをいう場合でも、「私が死んでこの世からいなくなってしまったら」などと簡単にいう。聞くほうも、素直に、それはそうだ、と思って聞く。筆者も世間話をするときは、何の疑問も感じないでそういうことを言い合っています。しかし、拙稿を書くときは、ちょっと待てよ、と考える。世間話と同じ調子で書いてもつまらない。というより拙稿の論調では書くことがなくなってしまいます。議論をおもしろく展開するために、拙稿としてはここで、本当にそうなのか、と考えてみましょう。 それで、話がどういうふうに展開できるか、筆者も興味があります。 

ここで、拙稿の見解としては、この世から自分がいなくなったりいなくならなかったりすると思うのは、錯覚である、とします(拙稿15章 私はなぜ死ぬのか?)。人は死んだらこの世からいなくなる。たしかに、これは錯覚だとすれば実に便利な錯覚であって、私たちの社会を維持するために大いに役立っている。しかし、結局、それは、実体のない錯覚でしかないのではないか。ここのところをよく調べれば、世界とか自分とかいうものの関係のあいまいさ、というか、いかがわしさ、のようなところが分かってくる。

世界は、はっきりとここにあるし、私は、はっきりとその中にいるじゃないか、と私たちは思う。はっきり存在しているこの世界の中にいる自分が死ぬと、自分ははっきりと、この世界からいなくなってしまう。自分がそうだということは、他の人もみなそうだということだ。実に当たり前のことだと思う。しかし拙稿の見解では、私たちは、ここでもう間違っている。

まず、世界にしろ、自分にしろ、「○○が、はっきりとここにある」と思う感じ方が問題です。「○○が、はっきりとここにある」と言うとき、その言葉は、はっきりとした意味があるのか?

何かがここにある、と私たちが思うとき、そう思う仕組みが私たちの中にある。○○がある、と私たちが思うとき、(拙稿の見解では)私たちの脳内で、仲間の動きに共鳴する群行動の運動形成神経回路が働いている(拙稿13章 存在はなぜ存在するのか?)。この働きは、意識できない。

私たちが人の視線やしぐさを見るとき、無意識のうちに、その人が○○に注目していることが分かる。注目している人の内部には○○というものの存在感がある、と私たちには感じられる。その人の中にある○○の存在感そのものは、目に見えません。しかし私たちは、無意識のうちに、それを感じとれる。その人の動作や表情や音声で、それは分かる。その人が、○○の存在を感じ取って、それに対して動いたり表情や声色を変えたり緊張したり弛緩したりしていることが見てとれるからです。

それは無意識に分かる。私たちは自然にそれが分かってしまう。無意識にそれが分かってしまうということは、私たちの身体がいつの間にか、それに反応して動いている、ということです。自分の自律神経が作動して、心臓血管系の活性が変わる。いつの間にか、顔や手が暖かくなったり、冷たくなったりする。内分泌や外分泌が起こり、汗が出たりのどが渇いたりする。いつの間にかいろいろな筋肉が緊張したり弛緩したりする。自分の身体のこのような反応を感じて、私たちは○○の存在感を感じとる。他人の身体が感じている○○の存在感を、それに共鳴する自分の身体の反応を通じて感知するこのような私たちの脳の機能は(拙稿の見解では)、人類に生得的な群行動用の神経回路の働きです。

その運動共鳴神経回路が働くとき、(拙稿の見解では)私たちにはその働きは意識できないで、ただ単に、そこに○○がある、と感じる。私たちがものの存在感を感じるときは、周りにだれもいない場合でも、群棲動物の集団共鳴に使われるものと同じ神経回路が働く。いわゆる人の目、つまり、不特定のだれかの視線と身体に成り代わって、私たちは、自分の身体を使って、○○を見る。そのとき、実際は自分一人しかいなくても、仲間との共鳴神経回路が働いて、私たちは○○の存在を感じる。

逆に言えば、私たちが○○を見る、そこに○○があると感じる、そのときは、仲間との群行動用の共鳴神経回路が働いている。つまり、それが「○○がある」ということだといえる。私たちが、ここに世界があると感じるのは、(拙稿の見解では)その集団的な共鳴神経回路が働いているからです。

ここに○○がある。

ここに世界がある。

ここにA君がいる。

ここに私がいる。

これらの文の構造は同じです。ただし「ある」と「いる」は日本語では違うが、英語などでは同じだったり(is,are,be)、違っていたり(am)している(文法では存在動詞という)ので、人類共通ではありません。各国語の違いもおもしろいのですが、そういう細かいところは、ここでは区別しません。

○○には何を代入してもよい。○○に「世界」と入れてもよいし、「私」と入れてもよい。「富士山」でも「東京タワー」でもよい。「一万円札」でもよいし、「日本の総理大臣」でも「近所の奥さん」でもよい。○○が何であろうとも、(拙稿の見解では)私たちは、同じ仕組みでその存在を感じ取る。それらの存在感をはっきり感じとれるように、私たちの脳は作られています。逆に言えば、そういう機能が私たちの脳に備わっているから、存在という言葉や「ある」とか「be」とかいうような存在動詞がある。

ふつう、ある時ある所で、○○が私たちの目の前に現れて、その後消えていく、ということはよくあります(○○には「一万円札」か「日本の総理大臣」か「近所の奥さん」を代入してください)。川の表面に泡があらわれて、しばらくすると消える。花が咲いて散る。人が生まれて死ぬ。日本の総理大臣が次々に交代していく。私の一万円札が財布からすぐ消えていく。この世界にあるものはみな、遅かれ早かれ、結局は消えていく。あるときに現れては、いつか消えていく。

今ここにいる私というものも、いつか消えるのだろう、と思えます。私というものも、ここにある客観的なものであれば、人の視線を受けることで、ここにある。特に、自分自身という他人の視線を受けて自分はある。それは目に見えるすべての○○と同じように、現れたり消えたりするのは当然です。だれか知らない人が死んでこの世界から消えていくのはよく分かる。自分が知っている人が死んで消えていくこともよく分かる。一方、この世界全体は消えるはずがない。消える理由がありません。自分の経験でも人の話でも科学の理論でも、それは消えるわけがない。人はみな死んで消えていき、世界は変わらずに残る。自分もいつか死んで消えていく。それと関係なくこの世界は残る。そうとしか思えませんね。

それで自分が死んだ後も世界はあるだろう、と思える。自分が死ぬということは、この世界から自分だけが消える、ということだ、ということになる。これは、私たちだれもが持っている常識であり、一種の人類普遍の現実認識、つまり、ありふれた理論です。あたりまえすぎて、だれもそれの根拠を疑わない。天動説のようなものです。そういうものは、ある時代には当然の真理であり、別の時代には、幼稚な錯誤だったといわれる。

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私はここにいる(3)

2008-12-06 | x9私はここにいる

たとえば話し手が、携帯電話で「今、迎賓館前が交通止めなの。胡錦濤主席がここにいるからなのね。しかたないから遠回りしていくわ。十分くらい遅れると思うけど」と言っている場面。この話し手は、四谷の迎賓館の前でタクシーの窓から整列した機動隊を見ているが、中国国家主席本人の姿を直接見ているわけではない。それどころか、新聞でその国家元首の顔写真を見たような記憶もあるが、それさえも確かではないくらい、その人物を知らない。それでも、彼女は主席がここにいる、と思っている。携帯電話の聞き手のほうは、新橋駅前で待ち合わせていて、もちろん、今迎賓館の中にいる中国国家主席の姿は見えるはずはない。それでも、この会話をすることで、聞き手の脳内では、話し手との仮想運動の共鳴が起こり、「胡錦濤主席がそこにいる」という集団運動を、はっきりと仮想体験している。

ちなみに言語を使う場合、運動共鳴を起こす群集団といっても、通常、話し手と聞き手の二人だけで構成される。仮想運動の共鳴を起こす神経機構は(拙稿の見解では)群棲霊長類の群運動に由来するところから、拙稿ではこのような二人の人間どうしの会話の場合も集団運動と呼ぶことにする。(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」)。

「○○はここにいる」と言う場合、(拙稿の見解では)話し手と聞き手とは、集団運動の共鳴によって、ともに、○○を仮想的に見る(日本語ではそれが人物や動物であれば、「いる」、無生物であれば「ある」という)。○○は、実際に二人の目に見えるか、あるいは、仮想的に見える。ここで仮想的に見える、とは、見える光景を想像する、あるいは現地に行くとか、だれかに撮ってもらう写真、テレビ、望遠鏡、顕微鏡など何らかの手段を使うか、あるいは誰かの目を借りれば、見ようとすれば見ることができる、あるいは少なくとも、それが見えるかのごとく感じられる、と感じられることです。

それが見えるかのごとく感じられる、と感じられるという感じは、理論的に考えて分かることではなくて、無意識に、身体がそう反応してしまうことです。机の上にリンゴがあると、私たちはついそれを触りたくなる。顔を回転させて、そのリンゴを目玉の正面で見つめたくなる。だれにともなく、「リンゴがある」と言いたくなる。自分だけでなく、だれもが、そう感じているに違いないと確信できる。そういうふうに、無意識に、私たちの身体が動いていきます。それがリンゴの存在感です。それを感じるとき、「リンゴがある」と言う。つまり、リンゴが、だれにでも、本当にそこに見えるはずだ、と感じることで、身体が自然に動いていく。「○○がここにある」という言葉はこういうことを表している(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」)。

この○○が私である場合が、本章での問題です。話し手が「私はここにいる」と言うときは、話し手と聞き手の二人がともに、話し手を現実に見ることができる。あるいは、見ようとすれば見ることができる、と思っている。これは当たり前のことですが、話し手と聞き手の二人がともに、話し手は現実にこの世界の一部分だと思っているわけです。つまり(拙稿の見解では)、「私はここにいる」という文は、話し手と聞き手で作る二人の集団が共有するこの現実の客観的世界の一部分としての話し手そのものを認めて、それを話題にしている。話し手と聞き手のそれぞれの脳の運動形成神経回路が集団的運動共鳴を起こしている。話し手も、聞き手も、その話題の対象(この場合は話し手)を、集団的な視線を使って見ることができると感じる、それは自分だけではなく二人で作る集団全体として共感する、と感じる。この言葉(「私はここにいる」)は、そういう集団的仮想運動を表している。

この例のように、操作の主体が自分自身を対象とする操作を行う場合、自己再帰的とか、自己遡及的とかいいますが、ちょっとややこしい構造を表わすことになります。私たちが使う自然言語は、自分自身を客観的に言い表そうとするので、どうしても自己再帰的な構造を持ってしまう。この構造をきちんと調べるためには、主体とか操作とかいう概念の内部構造にまで、かなり注意を払いながらすすめる必要があります。

ここで、先の小説のエピソードに戻ります。悪人ラーセンは、自分の肉体が麻痺して死んでいくのを知っている。いずれ意識もなくなるに違いない、と思っている。それでも今のところ、意識はますますはっきりしている。それで、「私はまだここにいる」という言葉を発する。これを詳しく言い換えると、「私は、まもなくここにはいなくなってしまうだろうけれども、今はまだここにいる」と言っているわけですね。前半を省略して、聞き手とのその暗黙の了解の上に、後半の「私はまだここにいる」という言葉を発言しています。

さて、問題は、実際は発言されない暗黙の部分であるセンテンスの前半部分、「私はまもなくここにはいなくなってしまうだろう」という部分ですね。これは、ふつう、自分は死んでしまうだろう、ということです。死んでしまうだろう、と簡単に言ってしまってよいならば、もう問題はなくなってしまう。

「自分はまもなく死んでしまうだろう」と思っている人が、「自分はまもなく死んでしまうだろう」と言う。これは、当たり前のことです。分かりにくいところは何もない。ふつうの会話では、それでまったく問題ありません。しかし、拙稿のような話を進めているときには、死についてそう簡単に分かりきったものとして常識的に決め付けると、議論が先に進まなくなってしまう。それはよろしくない。拙稿としては、おもしろくありません。

そういう行き止まりを認めてしまうと、もう変な方向へ曲がって進むしかなくなる。方向が変だということに気づかないでどんどん進んでしまうと、ついには間違った哲学におちいる。拙稿は、なるべくそういう道は避けたい。まずは、死などというあいまいな、あやしげな言葉を、安易に使わないように気をつけます(拙稿15章 私はなぜ死ぬのか?)。したがって、拙稿の議論においては、ニヒリストのラーセン船長もそう簡単に死ぬわけにはいかない。

私たちの話が行き止まりにならないようにするためには、ラーセン氏はもうすぐ死んでしまうから終わり、と簡単に考えないで、「私はここにいる」とか「ここにいない」とか、こういう言葉の形にこだわったまま先に進むほうがよいでしょう。

ラーセン氏は「私はまもなくここにはいなくなってしまうだろう」と思っている。だから「私はまだここにいる」と発言する。そうだとすると、ラーセンは、「近い将来、自分はここにいない、という状態になる」と思っている。「将来、自分はここにいない」とは、どういう状態なのか? 

今私はここにいる、そして未来においては、私は今私がいるところからいなくなる。そういう意味に、「自分はここにいない」という言葉をうけとることができる。これは、「私はここではないどこかに行ってしまう」ということでしょう。

この小説一九〇四年 ジャック・ロンドンシー・ウルフ海の狼)』の人物設定によると、おもしろいことは、ラーセンがニヒリストだということです。ラーセン氏がキリスト教徒ならば、「ここではないどこか」というのはパラダイスに決まっている。もし罪を自覚しているなら地獄に行くと思うかもしれませんが、まあ、いずれにせよ、あの世のことでしょう。

しかし、小説では、彼は徹底的なニヒリストということになっているから、あの世など信じていない。それなのに、死に際して、「私はここではないどこかに行ってしまう」と思っている。そういうところが、おかしい、というか、ラーセンというこの人物像の魅力的なところです。なにか、自分ではニヒリズムに徹しているつもりらしいけれども、肝心なところが抜けている。人間的ですね。ニヒリストにしては、かわいらしいところが出てしまう。実際の人間は、ニヒリストといっても、こんなものかもしれない。人間はだれも、ニヒリストにはなりきれない、と思えてきます。

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