哲学の科学

science of philosophy

幽霊はなぜ怖いのか(3)

2014-11-29 | yy42幽霊はなぜ怖いのか
人間にとって人間とは不気味で怖いものである。古代ローマ人は「人間にとって人間は狼である」という箴言を残していますが、実は狼よりずっと怖い不気味な幽霊のようなものである、というほうが当たっているかも知れませんね。人的存在とは霊的存在である、とむずかしく言いたくもなりますが、ようするに幽霊は不気味で怖い、ということでしょう。

まず、人間とは不気味で怖いものである、という感覚に注目しましょう。暗闇に突然、人影が現れるとき、緊張しますね。近くに来て明るいところで見ると、ふつうの人らしい。微笑んだり、会釈してくれたりすると、もっと安心できます。話しかけてくれれば、すっかり安心。怖いとか不気味とかは、まったくなくなります。
話が通じ合う、あるいは、心が通じ合う人間は怖くないし不気味でもない。笑って挨拶してくれる人は怖くない。こちらを向いているのに目が座っていて笑わない人は怖い。白目になっていればもっと怖い。
つまり人間のように見えるけれども心が通じるようには見えない、そういう存在を感じると怖い、という感覚でしょう。もしかしたらこの人は正常な心がないのではないか、人間ではないのかもしれない。こういう場合が一番、怖い。幽霊は、いわばこの類でしょう。
人間そっくりに作られたスーパーリアルな人形やロボットも人間のように見えるけれども、心が通じるようには見えない。「不気味の谷間」というロボット工学の概念がそれでしょう。ロボットは人間に似ているけれども、人間ではないという存在である。だから不気味でもあるし、好奇心をそそるという意味では魅力的でもある。

人間にとって人間は神秘である。しかしなぜ人間にとって人間は神秘なのか?この世に神秘などない(拙稿34章「この世に神秘はない」)と公言している拙稿としては、ぜひこの問題を解明しなくてはならないと思います。

まず、自然は神秘である、というところから自然科学がなりたっていますが、また、人間は神秘である、というところから人文科学が成り立っている。
もし人間が、木石に比べて、何の神秘もないという存在であれば、人文科学の上に立つ文学部や人間学部などは人類学あるいは動物学の一分野に成り下がって理学部の片隅に追いやられてしまうでしょう。
それでは文学部の先生たちは困る。ということよりも膨大な数のいわゆる言論人、知識人、ライター、ジャーナリストの人たちは社会的ステータスを失ってしまいます。そればかりか、町を歩く私たち全員が困ってしまいます。なぜならば、私たち人間は、毎日、人間は神秘的だ、というようなことを暗黙の前提として、お互いに語り合って生きているからです。





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幽霊はなぜ怖いのか(2)

2014-11-22 | yy42幽霊はなぜ怖いのか

まず死んだ人のことはともかく、私たちは生きている人のことを何と思っているのか?生きている人は単なる木石ではない。これは明らかです。では、生きている人は単なる動物であるのか?これも、たぶん違う。生まれたばかりの赤ちゃんや植物状態の瀕死の重病人は、たぶん、ただの動物といってよいでしょう。しかししっかり覚醒している大人の人間は、言葉を話すところからして、もうただの動物とみなすことは無理でしょう。
人間は、ほかの動物と違って意識がある(拙稿9章「意識はなぜあるのか」)とか、心がある(拙稿8章「心はなぜあるのか」)とか私たちは言います。
生きている人間は心がある。魂がある。物質でできている身体の内側に物質ではない魂を持っている、という霊魂信仰があります。
動物のうちで人間だけは、身体の内側に物質とは違う自分というものを持っている(拙稿31章「身体の内側を語る」)。私たちは毎日の生活で、あるいは人々との会話で、こう思っています。あるいはこう思っているかのように会話をします。
つまり、私たちは、自分たち人間を物質だけの存在だとは思っていない。こう言うとたいていの人は、「それはそうだ、当たりまえだ、人間には精神がある。心がある」と言います。しかし少数の人は、主に科学者ですが、「この世に物質以外のものはないから人間も物質だけでできている」と言う。ふつうの人は、科学者の意見は何を言っているのかよく分からないので、無視します。
テレビや新聞に出てくる有識者は、「心は脳の働きなのですね」とか言うが、これも分かったようで何も分からない説明です。

生きている人間というものであっても、このように分かりにくいところがある。そのうえ死んだ人間となると、これはなにものであるのか、きちんと説明することは実はとてもむずかしい。死んだ人間は死体だから単なる物質でしょう、といってもそうは割り切れません(拙稿15章「私はなぜ死ぬのか?」)。単なる物資であれば、なぜ死体を拝んだり葬ったりしなければならないのだろうか?
つまり死んだ人間というものも、実は生きている人間と同じくらい分かりにくいものなのです。そういう分かりにくい死んだ人間が化けて出てくる幽霊というものが、不気味でないはずはありません。

幽霊が怖いということは、結局、人間というものはよく分からなくて怖い、というところからくる感情でしょう。つまりだれであろうとも、人間というものは他人も自分もよく分からない、不気味なところがある、という思い、あるいは神秘感であるといえます。これは人類発祥以来、また幼児が大人になる過程で、他人を意識し自分を意識し、人の死を意識するたびに、必ず感じ取る神秘感です。



 

 

 

 

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幽霊はなぜ怖いのか(1)

2014-11-15 | yy42幽霊はなぜ怖いのか
(42幽霊はなぜ怖いのか? begin)



42 幽霊はなぜ怖いのか? 


 


小学生のころ、多摩川園のお化け屋敷によく行きました。友達、二、三人と入る。先頭を歩くのはいやでしたね、怖いから。暗闇から不気味な人形が飛び出すものが一番怖かったような記憶があります。たいてい腐敗した死体のように作った人形でした。多摩川園は、客が少なくなったためでしょうが、消えてしまいましたが、今でもこういう商業施設はやっていけているのでしょうか?


大人になってからは、子供のお供で何度か似たようなお化け屋敷に入った経験がありますが、子供の反応に興味が行っていたからか、全然怖さは感じませんでした。さらにじゅうぶん年をとった今では、幽霊どころか、ガンも放射能もちっとも怖くありませんが、年齢と関係なく幽霊が怖いという人は多いようです。


この世で一番怖いものは何、と小学生に聞くと、たいていの子は、幽霊、お化け、などと答える。夜暗くてさびしいところは怖い。墓場は怖い。などと言います。ハロウィーンなどは幽霊が怖い子供たちが皆との遊びに変えることで怖さを紛らそうというお祭りでしょう。大学生くらいまでその気分は残っているようで、肝試し会などで暗い墓場に行ってくる、とか、お化け人形とか、ホラー映画とか、怖いから大好きという若い人は多い。


年をとって人生経験豊かになると、とにかく現実世界に忙しくて、夢や幻やおとぎ話や幽霊の話などには興味がなくなります。「この世で一番怖いものはお金のために人をだます人間だ」などと言うようになります。しかし、子供は正直です。正直に幽霊を怖がる。原始人や未開人も幽霊をひどく怖がるようです。


幽霊が怖いということは人類共通の、生まれつきに近い感性ではないでしょうか?


もしそうであるとすれば、動物の中で人類だけが幽霊を怖がるという性質を持っているということでしょう。なぜそうなのか?


なぜ人間は幽霊を怖がるのか? 拙稿本章ではそれを調べてみましょう。


 


幽霊はなぜ怖いのか?


というより、まず、怖くない幽霊などいるのか?


怖いから幽霊がいるのではないか?


漫画のオバQなど幽霊のようだが、怖くない。あれは、妖精のようなもので人間に悪さをしないから怖くない、といわれます。幽霊は死んだ人が恨みを持って出てくるものだから怖い、といわれます。


ところで幽霊は人に害を及ぼすのか?昔の人は、幽霊に取り殺されたりしています。怖いものであるからには、ひどい害を及ぼすものであるはずです。


しかし現代人の感覚では、幽霊は人を殺したり、障害を与えたり、物を壊したりしない。江戸時代くらいから後の幽霊は、「うらめしや」と怖い声で言うだけで、ものを変形したりする物理的運動能力はないようです。


それではなぜ、そんな無能力の幽霊が怖いのか?


見かけが気持ち悪いから?死体みたいな外観をしているから?「うらめしや」と怖い声で言うから?恨む必要がないのに関係ない私たちまで勘違いして恨みそうだから?


昔の人が信じていた幽霊は、やたらに嫉妬深いというか、八つ当たりというか、自分が死んでしまったのにまだ生きているやつはけしからん、と思うのか、見境なく生きている人を殺したりしたようです。吸血鬼やゾンビみたいに生きている健康な人を襲って死なせて仲間に引きずり込む。


そういう迷信を信じていた昔の人たちの不安はよほど強かったようで、葬式や埋葬の習慣はその不安を緩和するためにできてきたといえるようです。


ところで、その人類共通の生得的ともいえる素朴なその感情はどのような仕組みで作られているのでしょうか?


 


幽霊はなぜ怖いのか。一見素朴に見えるこの問いには、人間は人間というものを何と思っているのか、という深遠な存在論の一端が含まれています。






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身体の内側を語る(8)

2014-11-08 | xxxx1身体の内側を語る

人類は仲間と運動共鳴する神経機構を持っている。その機構により、人間は自分の身体を客観的に感じ取ります。そう感じ取ることによって、自分の身体の内側に入っている自分を言語で語ることができる。その仕組みの上に人間の社会は築かれています。そうであるとすれば、社会の中で生きるしかない人類は、逆に必ず、自分の内側に自分があるとしてまず自分に語ることでしか生きていかれない身体になっているはずです。

 

私たちは、自分の内側に自分があり、自分の外側に世界がある、と思っています。それで毎日の生活はうまくいっている。

しかし先に述べたように、残念ながら、言葉を正確に使おうとすると自分の内側に自分がある、とはっきり言うことはできません。残念ながらそうであるので、このことは、あまりしっかり考えてはいけない。しっかり考えてしまうと、拙稿のような、直感にはそぐわない話になってしまいます。■

 

(41 身体の内側を語る  end)

 

 

 

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身体の内側を語る(7)

2014-11-01 | xxxx1身体の内側を語る

幸い、私は私の身体の内側を見ることができない。真暗闇ですから。私の身体のどこがどう変化して私がこうして言葉を語っているのか?まったく分かりません。自覚できません。そうであるから、私の身体の内側に私の内側があって、私がこうして身体を使って言葉を語っているのだ、としてもおかしいとは感じないですむ。

おかしさを感じないですむけれども、おかしくない根拠はない。私の身体の内側に私の内側があるという証拠はまったくありません。今世紀の終わりころ、あるいは来世紀に入って、科学の発展により脳の言語機構は詳細に解明されるでしょう。神経細胞の連結状態は完全に記述できるようになる。それを知れば知るほど、私の内側と思えるものは見つからない、と思われます。私の身体の内部のどこにも、私自身が見つからないことがはっきりするでしょう。

それにもかかわらず、私は私の身体が私だとしか思えないでしょう。しかし、その未来の科学は人間そっくりのスーパーリアルロボットをも実現しているはずです。そのロボットはバーチャルスーパーリアリティを使って遠隔操作できる。操縦している私の目にはロボットのカメラ画像が入ってくる。私の筋肉にはロボットの圧力センサーの測定する抗力が感じられる。ロボットが歩き回れば私自身が歩き回っていると感じられます。

そのロボットにつながれたまま、私は数日を過ごすとしましょう。そういう実験では、私はそのロボットの身体が私の身体だとしか感じられなくなるでしょう。

「私とはこのロボットのことだ」と私は語るに違いありません。人間そっくりのスーパーリアルロボットですから、だれもがロボットの身体を見ながら、それが私として会話してくれます。そのとき、こちらにある私の本当の身体は、いったい何なのか?

 

私たちは、自分が自由に操縦できるメカニズムを自分だと思う。そうであれば、科学がそれほど発展していない現在まで、人間が自由に操縦できる唯一のメカニズムである自分の身体を自分だと思うのは当然でしょう。

そして重要なことは、そうすることによって、私たちは互いに言葉を話すことができる。私は、私は、と言いながら語り合うことができます。これほど便利な言語システムを私たち人類が捨て去るはずはないでしょう。便利であるから、私たちは当然それを使い、それがそうであることが当然であることにする。そうして、自分が自由に操縦できるメカニズムを自分だと思う。そうであると思い込むように私たちの身体は作られてきました。

 

言語システムを使う限り、人間は、自分の身体の内側に自分が入っているとして自分を語り、実際そう思い続ける。生きるためにそれが必要だからです。

 

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