まず、人間とは不気味で怖いものである、という感覚に注目しましょう。暗闇に突然、人影が現れるとき、緊張しますね。近くに来て明るいところで見ると、ふつうの人らしい。微笑んだり、会釈してくれたりすると、もっと安心できます。話しかけてくれれば、すっかり安心。怖いとか不気味とかは、まったくなくなります。
話が通じ合う、あるいは、心が通じ合う人間は怖くないし不気味でもない。笑って挨拶してくれる人は怖くない。こちらを向いているのに目が座っていて笑わない人は怖い。白目になっていればもっと怖い。
つまり人間のように見えるけれども心が通じるようには見えない、そういう存在を感じると怖い、という感覚でしょう。もしかしたらこの人は正常な心がないのではないか、人間ではないのかもしれない。こういう場合が一番、怖い。幽霊は、いわばこの類でしょう。
人間そっくりに作られたスーパーリアルな人形やロボットも人間のように見えるけれども、心が通じるようには見えない。「不気味の谷間」というロボット工学の概念がそれでしょう。ロボットは人間に似ているけれども、人間ではないという存在である。だから不気味でもあるし、好奇心をそそるという意味では魅力的でもある。
人間にとって人間は神秘である。しかしなぜ人間にとって人間は神秘なのか?この世に神秘などない(拙稿34章「この世に神秘はない」)と公言している拙稿としては、ぜひこの問題を解明しなくてはならないと思います。
まず、自然は神秘である、というところから自然科学がなりたっていますが、また、人間は神秘である、というところから人文科学が成り立っている。
もし人間が、木石に比べて、何の神秘もないという存在であれば、人文科学の上に立つ文学部や人間学部などは人類学あるいは動物学の一分野に成り下がって理学部の片隅に追いやられてしまうでしょう。
それでは文学部の先生たちは困る。ということよりも膨大な数のいわゆる言論人、知識人、ライター、ジャーナリストの人たちは社会的ステータスを失ってしまいます。そればかりか、町を歩く私たち全員が困ってしまいます。なぜならば、私たち人間は、毎日、人間は神秘的だ、というようなことを暗黙の前提として、お互いに語り合って生きているからです。