記号列としてのゲノムを見て何が分かるのか?そのゲノムは生物であるかどうか分かるのか?残念ながら現在の解析技術ではDNA配列を読み取るだけでは表現型に直接変換することはできません。
似ているゲノムの生物が見つかれば、その記号列は生物らしいとまではいえるが、それ以外の解析方法ではむずかしいでしょう。
数十年後にはゲノムから生物の身体や運動の三次元詳細画像に直接変換できるAIが実現するかもしれません。
科学としてみる生物の概念は変遷していきます。それに対して、人間が、それを生きていると思うかどうかという感性は、変わらないでしょう。
今の時代でも、また五十年後でも、横山大観が生きていれば、悠然と流れる川の流れを描いたに違いありません。大観は、生きているということの本質を描きたいと思っているからです。■
(91 川は生きているか end)
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生物を研究する科学、生物学、ライフサイエンス、バイオテクノロジー、ゲノム工学。前世紀の終わりごろから今日にかけて大きな産業にもなり、大発展はとまりません。
筆者は高校生のとき生物部に属してショウジョウバエの飼育をしていました。ショウジョウバエの突然変異種をすりつぶしてクロマトグラフィーで成分たんぱく質の分離など、あのころはかなり最先端の真似事をしていたんだなあ、と思い出します。校庭で拾った銀杏を焼いて食べることも熱心にしていました。
閑話休題。私たちが知っている生物は、地球の生物しかありません。しかも地球表面は三八億年前から継続して生物の生育環境を保っているので現在の生物はすべて同一の祖先(LUCAと呼ぶ)をもっています。この同一のシステムは多様多種に分岐しながら超長期間の進化競争にさらされて複雑かつ完全なシステムに進化してしまっています。(拙稿58章「生物学の中心教義について」)
では、地球以外の天体表面など隔絶した環境で生きているようなシステムはあるのか?あるとすればどのような形態なのか?現代の科学で未解決の大問題です。
しかし、もうひとつ未解決の大問題が、生物に関して残っています。それは認知の問題です。生きているか生きていないか、なぜ一目で分かるのか、という問題。これは、生と死の問題、ともいえます。
道端の芋虫を幼稚園児が小枝でつついて「生きているかな?」「ほら、生きているよ」と会話しています。生きている、という言葉の根源でしょう。遺伝子どころか、生物という言葉も知らない幼稚園児は生きるという言葉を正確に使えます。
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生きている、とはどういうことですか?と科学者に聞くと「生物として活動していることです」と答えてくれます。では生物とは何か、と聞くと「生きているもののことです」となる。なんだか、これだから科学はだめだ、という思う人は多い。
生きているということは、生きているように見えることだ、と言うほうが納得できます。直感でそう見える、という話ですね。
だれもが、目の前のそれが生きていることを感じる。その場合、それは生きている、と言うことにすればよさそうです。
「あれは生きているよね」「そうだね」と会話できれば、それで言語ゲームは成り立ちます。遺伝子を持つ生物であるかないか、という生物学の概念でグラウンディングしなくても生きているものはたくさんある、ということになります。
大観(一八六八年―一九五八年)の時代にはDNAの概念はありませんでした。二〇世紀の後半が始まる頃になってワトソン、クリック、フランクリンにより遺伝子の二重らせん分子構造が発見され、分子生物学の大発展がはじまります。
このころから生物の概念、生命、いのち、生きている物、という言葉がDNAや電子移動など物理、化学の言葉で置き換えられるようになりました。現代科学の勝利、とも言われます。
生物学におけるコペルニクス展開です。(一九九七年 エルンスト・マイア 「This is Biology: The Science of the Living World」)
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川の水量を一定に保つためのダムや水門は科学で改良できます。しかしインフラ計画は政治で決まります。そもそも水量は一定であることが良いことなのか?科学が予測しても政治はなかなか動かない。
メディアが強い。農業保護が強かったり自然保護が強かったり、科学が信頼されなかったりします。
そもそも平和に生きているものは保全すべきなのか?コントロールして安全に閉じ込めれば見なくても済む。河川はコンクリートで護岸しさらに暗渠にして見えなくすればよいのか?都市の下に流れる暗渠は完全にコントロールできますからめんどうがなく忘れていられます。
「万物は流転する」 古代ギリシア哲学(イオニア派)の源流と言われるヘラクレイトス(紀元前五四〇年頃 - 紀元前四八〇年頃)の言葉とされます。水は変化するから川は存在しないのか?とか、いや川は個々の水滴とは別のものとして存在する、とかいう議論をしていたようです。日本は弥生時代ですから想像しにくい昔です。存在論の源流ですね。
個々の素粒子はいろいろ運動しているので世界はつねに変化していくが、それらの運動の物理法則は不変である、とか、宇宙は可能性の一つにすぎない、とか、現代科学の基礎論はもう始まっていたようです。
川は生きているか?という問いは、では人間は生きているのか?私は生きているのか?と問い返されるおそれがあります。
人間とは何か?私とは何か?人間は人間をなぜ生きていると思っているのか?という問いにつながっています。これらは簡単には解けない。簡単に問うてはいけないことを問うからでしょう。
自己遡及的設問といってメタフィジカルな哲学になってしまいます。素人には無理なようです。むしろしばしば職業的言論人のレトリックに利用されます。ヘラクレイトスやカント(一七二四年―一八〇四年)のような専門家に任せるべきでしょう。
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現代人はあらためて川を祭ることはありませんが、地球環境をまもろう、とか、環境悪化はあってほしくない、とか拝んだりテレビに語らせたりはします。
地球環境をまもるためには生活コストや産業コストが増えますが仕方ないでしょう。平和に生きていくためにはインプットもアウトプットも一定の範囲でコントロールしていく必要があります。
川や地球は適当にコントロールしていかなければ人間の平和な生活環境が維持できない、と私たちは思っています。つまり生きているものはコントロールしていかなければいけない。生き物である人間も、もちろん、コントロールしていきます。自分をコントロールする。自己規制です。
昔は、川を治めるために大変な苦労をしたようです。一国の政治経済の最大課題でした。自然をコントロールする科学が発展しました。地球環境も近い将来、制御可能でしょう。残るは人間の制御。
これはまた難しい。科学が発達しても簡単にいきません。科学はあまり役に立たない。むしろ昔からの知恵。人文科学、文学。教育、暴力、プロパガンダ、飴と鞭、報奨金と罰金、などが多用されます。
たとえば少子化対策。子供が多いほど収入が増えるシステムにするしかないでしょう。そのためのコントロールができるか?科学よりも政治力。しかしむずかしい。
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生きているらしいものを拝む。それが多神教。時代が進むと、理論が発展し、循環する現象そういうものはすべて、一番偉い一神が作ったという理論(一神教)が出てきます。
一神がすべてを作ったとすると循環しているように見える人生とか社会とかの存在意義がよくわからない。川の存在意義も分かりません。なぜ循環しているのか?循環してどうなるのか?
「私たちはどこから来るか?何なのか?どこへ行くか?(D'où venons-nous? Que sommes-nous? Où allons-nous?)」という文字をタヒチの楽園の絵(ボストン美術館)にポール・ゴーギャン(一八四八年―一九〇三年)は書き込んでいます。画家の(自殺未遂に際して書き残した)遺書だといわれています(拙稿15章(6)「私はなぜ死ぬのか?」)。
生きている私たち人間は何なのか?という問いと、生きているように見える川とは何なのか?という問いは似ている。似ている、というより、実質、同じ問いでしょう。
生きている、ということは何を言っているのか?人間のようだ、と言うことなのか?あるいは川のようだ、と言っているのかもしれない。大観の川はそれを描いているのかもしれません。いつまでも循環する。そういうものは、一瞬立ち止まってあらためて拝んでみたいような気もします。
川の流れは絶えない。しかももとの水にあらず。この形を、生きている、と言ってみると、どこかおかしがたい壊してはいけないような気がする。
昔の人がこれを祭るときの気持ちは、命の尊厳というようなものになっていたでしょう。
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川は生きている、という言い方も日常的にされますが、これは緩慢運動をする生物の比喩だろう、と私たちは思っています。マンガでは、山や川や電車や飛行機が目のついた顔を持っていてよくしゃべります。これは戯画化とか擬人化とかいって人間でないものに人格を持たせる表現手法と思われています。
生きている、という言い方は生物のことであるから無生物に使う場合は比喩にすぎない、と現代人のわたしたちは思っています。小学校の国語で習います。
しかしこの言い方、昔の人はどう思っていたのでしょうか?
川岸に社を立てて拝んだりします。昔は、川は神だったのでしょうか?
中世でも、川は世界の真理を表現する、と思われていました。
鴨長明(一一五五年―一二一六年)方丈記(一二一二年)「行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたかは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし」
この文脈でいえば世の中は川のごとく生きている。町も生きている。会社も生きている。社会も生きている。
逆に言えば、そのように推移している物が生きている、と言われることになっています。
龍(積乱雲?)になって天に上った水蒸気は、風に乗って山の上空に至り、雨になって地上に戻ります。水流は集まって再び川になる。つまり再生し繁殖する。生物のようです。
太陽も冬至から夏至に再生し強大になります。時間的に循環する。こういうものは拝んでおくべきでしょう。多神教になります。
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(91 川は生きているか begin)
91 川は生きているか?
横山大観(一八六八年―一九五八年)の日本画「生々流転(一九二三年)」を初めて見たのは小学生のころだった記憶があります。現在は国立近代美術館にありますが、そのころは細川家所蔵だったとのことなので、デパートなどの特別展覧会があって親に連れられて行ったのでしょう。
横四〇メートルの絵巻物です。右から左へ流れる川が海にいたるまで水墨で描かれています。
雨が集まって川になり橋をくぐり船を運ぶ。岩肌や木々いろいろな景色を作って、最後は海に注ぎ龍になって雲に戻ります。川の周りでは動物や植物が生まれて死に次の世代を残します。川は生きている、と言ってよいでしょう。
地球も生きている、と言える。台風も地震も地球の生きるさまです。人間にとって災害でも四十億年変化しながら生きてきた地球の日常でしょう。むしろ歴史時代になって人間のする土木工事、資源採掘、廃棄物が地球にとって急激な変化です。
人間は生きているから物を作ったり捨てたりするのは仕方がありません。人間は自分たちが変化せず快適な毎日を繰り返すために地球を変化させている。それは生物の在り方であるから仕方がないでしょう。
川も長い間には、谷を削り、石を運び、蛇行して平野を作ります。
地質も生物も常時変化し同じような過程を繰り返す。これを生きているというならば、川は生きている。ただゆっくり変化する。見た目が違ってみえる時間単位が長い。
人間は一年くらいの変化しか体感できない。老人は、数十年の人生をかけて変化を経験しますが、過去の体験は、実は、リアルな体感としてはしっかり記憶できていません。
つまり人間はエピソードとして過去を記憶しているが、体感としてはいつも今の一瞬を生きている。結局、動物ですね。
山や川は非常に緩慢に生きている。動物は瞬間に生きる。特に恒温動物は動作が俊敏で数秒間の運動で逃避あるいは捕食を完了できる種が多い。まさに生き生きしている存在のように見えます。
ふつう生きているという場合、まず、瞬間的に捕食や逃走のために躍動する哺乳動物や鳥類あるいは爬虫類など脊椎動物、あるいは飛び回る昆虫類、跳躍する甲殻類など加速運動が得意な動物を目撃する経験をいいます。そこから類推してみると、加速ができなくて緩慢に動いてる物体も、生きているのだろうという気がします。
植物も、緩慢に生きている、といえます。
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