哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(11)

2009-12-26 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

シマウマはライオンの身体を持っていないのに、なぜライオンの身体の動きが分かるのか? という疑問がでてきますね。もっともです。シマウマの内部にあるライオンの動きのシミュレーションは、たぶん、本物のライオンの筋肉運動とはちがうでしょう? 

ライオンが動くのを認めるとき、(拙稿の見解では)シマウマの身体が自動的に反応して逃げの姿勢をとる。この姿勢を感知してシマウマはライオンの動きのシミュレーションを作る。

自分と同種の動物ではない身体のちがう運動体の動きのシミュレーションを、哺乳動物は作れるらしい。たとえば、サルは人と肩の構造がちがうのでオーバースローで石ころを投げつけることはできませんが、人が腕を上げて石を投げつける動作を始めると投げる前に逃げようとする(二〇〇九年 ジャスティン・ウッドル、デイヴィッド・グリン、マーク・ハウザー『人類特有の投擲能力は非投擲霊長類から進化した:行為と知覚の分離』)。

たしかにフリスビーを投げられないは、主人が投げたフリスビーをキャッチできますが、猿の場合は、投げる人の目つきだけで自分に石が飛んでくるのを予想できるようです。いくつかの体験によって、犬や猿は、投げる人の動きと飛んでくるものの軌道と、自分がどう動けば身体のどこに投擲物が着弾するかを予測できる。

投擲物の軌道を予測する動物は、その内部に持つ運動予測シミュレーションを使って、(投げる人、あそこを狙っている)という(概念、運動目的イメージ)の二項形式を作っていると考えられます。

ライオンとシマウマの話に戻ります。ライオンがシマウマを追って走っている。遠くからこの場面を人間が見ているとすれば、その人たちも、ライオンとシマウマの運動のイメージとして(ライオン、シマウマを襲う)という形式の運動目的イメージを持っている。ライオンがシマウマを追って走っている光景を遠くから眺めて、人間は、次の瞬間にライオンが跳躍してシマウマの背中にのしかかる場面を思い浮かべます。そのイメージが人間の持っている(ライオン、シマウマを襲う)という形式の運動目的イメージです。

その人は同時に、人間ですから、言葉を使って「ライオンがシマウマを襲う」という意味のことを隣にいる人に向かって、日本語あるいはケニヤ語で、言う。このとき、その人たちはライオンの目的を知っている。ライオンがシマウマを襲う目的を知っているから「ライオンがシマウマを襲う」という意味のことを、日本語あるいはケニヤ語で、言える。

何語で言ったとしても、その裏には、(ライオン、シマウマを襲う)という二項形式の運動目的イメージがある。ここで、「襲う」という言葉を使う話し手もそれを聞き取る聞き手も、両方とも、襲うという行為の目的を知っている、ということに注意してください。

この日本語あるいはケニヤ語の話し手たちは、ライオンの行動を見て、その行動の目的を見て取っています。ここに人間特有の目的行動の鍵がある。言語を話さない動物と違って、人間は、シマウマの後ろを走っているライオンを見て、「襲う」という目的行動を見て取る。

逆に言えば、(拙稿の見解では)こういうように物事を見て、それを、目的を持った行為とみなすことができるから、人間は言語を話せる。

さてここで、「襲う」という行為を表す言葉について、その使われ方を少し詳しく調べて見ましょう。「襲う」という意味の(日本語あるいはケニヤ語の)言葉を使う場合、人間が人間を襲うという場合に使うのが基本でしょう。この言葉に関して、基本の使い方はどうなっているのでしょうか? 

たとえば、ある男がある女を襲う。具体的な固有名詞を使えば、A君という人物がB子という人物を襲う、という話です。その場面を言葉で表現することを考えて見ましょう。

全力で走っているB子が見える。その後ろからA君が全力で走っているのが見える。

この場合、それを見ているC氏という人が「A君がB子を襲う」と言ったとします。このとき、(拙稿の見解では)C氏は、B子を襲うA君の目的を知っている。あるいは少なくともC氏としては、その目的が分かっていると思っている。逆に言えば、C氏が、A君がB子を襲う目的を自分は知らないと思っている場合、「襲う」という言葉を使うことはできない。

たとえば、A君がB子を追って走っているのを見ても、C氏が、A君がB子よりも全然弱くて、どんな場面でもB子に打ち倒されてしまうに違いないと確信している場合、C氏はB子を襲うA君の目的が分からない。たとえば、A君が泥棒でB子が警官であることをC氏が知っている場合、しかもA君の体重がB子のそれの半分に足りないというようなケースですね。

そういう場合、C氏はA君がB子を襲うとは思わないから、「A君がB子を襲う」と言うはずがないのです。そのかわりに、たとえば「A君がB子に追いすがる」などと言うでしょう。

男が女を追いかけているからといって、襲おうとしているとは限らない。だいたい、人間以外の場合、動物のオスはメスを襲ったりしない。メスに害を与えるようなオスは子孫を残せないからですね。害を与える目的で追うのでなければ「襲う」とはいえない。

ある行為を観察してそれを言葉で言い表そうとしている観察者は、その行為を見るとき同時にその行為の目的を見取るから、その行為について言葉で言い表せる。

もっと一般にいうと、Zという人が「XがYをする」と言う場合、Zは、YをするXの目的が分かっている。観察者Zは、YをするXの気持ちが分かっている。ZがYをするXの気持ちになって、XがYをしようとする目的が分かって、だからXはYをするのだと思って「XがYをする」と言うところから(拙稿の見解では)私たち人間の言語はできあがっている。

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私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(10)

2009-12-19 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

比較心理学や発達心理学の実験観察によると、言語能力のない猿や人間の赤ちゃんにも、他人の行動の目的を推測する能力があるらしいという報告がされています(二〇〇八年 ジャスティン・ウッドル、マーク・ハウザー『人類以外の霊長類における行為把握:運動シミュレーションか推測法か』)。人がしている行動を見てその目的を推察する能力は、人間の進化過程でもかなり基礎的なものであるようです。このことから考えると、目的を定めて行動する私たちの身体の仕組みは、他人の行動の目的を推察する仕組みから来たものではないか、というヒントがありそうです。

私たちが使う目的構造は動物の運動目的イメージをまったく別のものに置き換えたというものではなくて、(拙稿の推測によれば)それと階層関係になっている。

運動目的イメージを基底構造としてその上に、いわゆる人間のいう目的概念の形式を階層構造として積み重ねることで目的階層構造が作られる。それぞれの階層は共有される予測シミュレーションによって統合されています。その最下層をなす運動の具体的なイメージは、身体各部の筋肉の制御信号でしょう。そのすぐ上の層は、身体の形の変形と変形速度を表現するシミュレーション。そのまた上層は、身体移動の運動シミュレーションを表現する。

そのまた上層は、それぞれの運動シミュレーションを要素として連鎖的に構成されるマクロな行動のシミュレーションとなっている。これは(X,Y)、つまりXがYをする、という形式のシミュレーションです。XとYが直接目の前にある身体の動きである場合は、人間以外の動物もこの形式を使います。人間も、もちろん、これを使う。人間と動物が共通に使うのは、このあたりまでの予測システムです。

人間は、さらに上の階層として付け加えられた上位の予測ミュレーションを使う。他人の行動の目的を推察する仕組みを使って、自分を含めた人間の行動を上位の目的概念に対応させる。比喩を使い状況の抽象化を使って(自分を含めた)観察対象の行動の結果を予測し、目的概念を使ってその行動意図として表現していく。さらに、抽象概念を組み上げて、上へ上へと大きな目的を目指す階層構造としての目的構造を作っていく。

さてここで、人間の目的行動を論じる準備段階として、哺乳動物が使う目的行動を調べてみましょう。

たとえば、ケニヤの草原でライオンがシマウマを襲う、という場面がある。

ライオンとしては、自分がシマウマに飛びかかっていく運動のシミュレーションを身体の中に持っています。

シマウマを見つける→追う→シマウマの尻が目前に見えるまで追いつく→思いっきり飛びつく→背中に飛び乗る→頚動脈を噛み切る→倒れたシマウマを食べる

ライオンの仕事はざっとこのような流れになる。これらの各プロセスでどの筋肉をどの順序で使うかというシミュレーションがあらかじめライオンの身体の内部にインストールされているはずです。

この運動シミュレーションを、ライオンの運動目的イメージ、ということにしましょう。

ライオンはまた、その内部に、逃げるシマウマの運動目的シミュレーションをも持っている。それはライオンの内部で、シマウマの概念とのペアとなっている。これを(シマウマ、ライオンから逃げる)という形式で書いてみましょう。シマウマはライオンに気づく→逃げる→ライオンが追ってくるのに気づく→全速で逃げる→ライオンが背中に飛び乗ってきたことに気づく→振り落とそうとする→頚動脈を噛み切られたことに気づく→倒れる

こういうシマウマの運動目的イメージのシミュレーションがライオンの内部にありそうです。

ライオンのこの内部状態は、(シマウマ、ライオンから逃げる)というペアの形式で表現できる。これは、(概念、運動目的イメージ)という二項形式です。人間以外の、言語を持たない動物でも、多くの哺乳動物は(拙稿の見解では)こういう(概念、運動目的イメージ)という二項形式を内部に作る機能を持っている。つまり、Xが概念、Yが運動目的イメージであるとすれば、XがYをする、(X,Y)という二項形式です。これは何度か前述したように、人間の言語の基底になっています拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」

さて、シマウマのほうは、自分たちがライオンに追いかけられる運動のシミュレーションを持っているでしょう。

ライオンが来る→逃げる→ライオンが追ってくる→全速で逃げる→ライオンが全速で追ってくる→どんどん逃げる→ライオンが引き離されて追ってこないところまで逃げ切る

これがシマウマとしての仕事の流れです。シマウマは、その身体の中にこういうシミュレーションを持っているに違いない。

シマウマは同時に、またその身体の内部に、ライオンの運動目的イメージをライオンの概念とのペアの二項形式で(ライオン、シマウマを追う)という運動シミュレーションの形式で持っているはずです。それは次のようになる。

ライオンがシマウマに気づく→近づく→シマウマが逃げると追う→シマウマが逃げてもしつこく追う

シマウマの内部にあるこういうライオンのシミュレーションを使って、シマウマは自らの恐怖を駆り立て、全力を振り絞って走り続ける、と推測されます。

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私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(9)

2009-12-12 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

人間でなく、動物の場合はどうか?

人間以外の動物の場合、目的のようなものはあるとしても、それは今すぐしようとしている運動の直接の結果としての運動目的イメージでしかない。それ以外の言葉による抽象的な目的概念はありません。

馬とか象とか猿とかの場合、「口をあけてバナナを食べる」という運動の運動目的イメージは「口をあけてバナナを食べる」という運動シミュレーションのことです。そして、それが行動の目的そのものでしょう。ところが人間の場合だけ違う。人間が「口をあけてバナナを食べる」という運動目的イメージの行動をする場合の目的は、単に「口をあけてバナナを食べる」ことではありません。ふつう言葉でいう抽象的な目的がある。

私たちが(意識的に)口をあけてバナナを食べるときは、「ダイエットによさそうだからそうする」とか、「朝から午後四時ころまで忙しくてランチを食べる暇がないから、まだ十一時だけれど何かを口に入れておいて午後の空腹を避ける」とか、「一緒に食事をする友人がバナナしかいらないというから、もっとちゃんとしたものを食べたいけれどしかたない、ここは付き合ってバナナで我慢することによって良好な人間関係を維持しておく」とかいう抽象的な目的概念を持っています。

このような抽象的な概念としての目的は、人間以外の動物は持っていない。人間以外の動物である馬とか象とか猿とかはバナナを食べるときに口をあけますが、そのとき「口をあけてバナナを食べる」という具体的な運動目的イメージ以外の目的は持っていません。

動物園の象がバナナを食べるとき「大きなバナナの房をペロンと一口で食べて、ぼくを見ている子供たちの賞賛を浴びよう」などと思ってはいませんね。象はそんなむずかしい目的はまったく持っていない。単に口をあけてバナナを食べるだけです。

なぜ人間だけが、抽象的な目的を持って行動するのか? 人間の脳には、抽象的な目的を作り出す特有の仕掛けがあるのでしょうか? しっかりした目的を立てることで宇宙ロケットまでを作り出す人類の能力を考えれば、相当に高度で人類にだけ特有な脳の組織があるような気がしますね。

しかしもし、そういう人類特有の脳組織があるとすれば、それは人類が類人猿から別れて進化をしたこの数百万年くらいの短い時間で作られたはずです。数百万年の間には、ゴリラの手のような足が人間の足のような足になった。そのくらいは進化します。しかし、その足もよく見ると、指や足裏の骨の長さの比率が変わっただけですね。指の数が増えたり減ったりしたわけでもない。組織構造はあまり変化していない。足の構造ではなくて、足の使い方が変わったためにその使い方に適応進化して骨の長さが変わったといえる。

人間は意識を持つから、動物とは質的に違った知的能力をもっている、とよく言われます。しかし本当にそうでしょうか? 拙稿の見解では、意識を持つということは将来の変化を予測することと同じです(拙稿20章『私はなぜ息をするのか(4)』)。このような予測能力は人間以外の動物でも、ある程度は持っている。

チンパンジーやボノボは、餌の量が増えるまで食べるのを我慢することができる(二〇〇七年 ロサティ、スティーヴンス、ヘア、ハウザー『人類の忍耐力の進化的起源:チンパンジー、ボノボおよび成人の時間的選好)。人間が将来の利益のために現在の苦労を我慢するのと同じように、チンパンジーは将来の利益のために二分くらい我慢できる。人間の場合は、将来の利益が十分大きいことが確信できれば、二日でも二年でも我慢できる。いずれにせよ、量的な違いはあっても、将来を期待する意識のようなものは、実はチンパンジーも持つ。数百万年前の類人猿共通の祖先もそれは持っていたといえそうです。

人類の脳も、(拙稿の推測によれば)類人猿の脳から構造的に変わったわけではなく、使い方が変わったということでしょう。使い方の変化に適応進化して神経細胞の密度分布は変わったようですが、脳の組織構造は変わっていない。ここで考察している行動の目的に関しても、それは同じことでしょう。

類人猿共通の祖先から現生人類への進化の過程で、意識能力は大きく発展した。将来を予測し期待する脳の働きは質的には変わっていないが、量的にはずっと強力になったということでしょう。

もっと一般的にいえば、猿など動物の行動を形成する機構に使われている運動目的イメージの使い方をほんの少しだけ変えれば、くるりと転回が起こって、人類が使う抽象的目的概念になっていくものと考えられます。

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私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(8)

2009-12-05 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

哺乳動物の脳の運動形成回路には、(拙稿の使う仮説によれば)運動感覚シミュレーションのための神経機構が付随している。哺乳動物の脳神経系では、目や耳や鼻の感覚器で捉えた遠隔的な情報によって環境にある対象を認知すると同時に、それに関連する適当な運動感覚シミュレーションが活性化されて、運動の予測が起こる。

つまり運動と感覚は一体の神経活動として作動し認知される。このとき、いろいろな運動感覚シミュレーションの予測結果の選択が起こっている。多数の運動感覚シミュレーションが試行錯誤され、感情機構によって評価されて適切な運動が選択される。そのときに選ばれた運動の予測結果が運動目的のイメージを作る。

拙稿の見解によれば、動物が身の回りの環境に何かがあることを認知するということは、それに対応して適切な運動を選択形成しその結果を予測するということだ、といえる。その予測される結果をこれから実際にする運動の運動目的イメージということができる。

拙稿のいう運動目的イメージが、脳のある一部分の、あるいはいくつかの部分の、神経細胞群の微細な物質変化としてどのように表現されているのかは、もちろん、現代の科学では解明できていません。ただ、マクロ的な図式の推測としては、拙稿の見解では、次のように、比較的単純に図式化できます。

まず、無意識のうちに、感覚神経系あるいは運動神経系などの活性化の連鎖反応を受けて運動感覚シミュレーションが活性化されることで脳内に仮想運動が起こる。仮想運動は、また連関する仮想運動を連鎖的に引き起こして、最終的に予測結果のシミュレーションとそれにいたる連鎖運動が感情を伴って選択される。

試行錯誤により種々の仮想運動が評価され選択される。選択されたこの一連の仮想運動の連鎖を運動目的イメージということにすれば、実際に仮想運動を実運動として実行した場合、その運動目的イメージに沿って連鎖運動が引き起こされていくことを観察できます。自分の身体がこのような連鎖運動をするとき、私たちは、その予測結果を目的として自分は行動した、と思う。

たとえば、「インターネットで新大臣の経歴を検索する」という一連の行動の運動目的イメージは「キーボードに向かって新大臣の名をタイプインして検索画面の検索窓に表示させ検索ボタンを押し、画面に現れるハイパーリンクをクリックしていくことで新大臣の経歴が書かれた画面に到達する」という連鎖的運動の仮想運動です。

この仮想運動が感情機構によって実行されるための活性度が閾値を超える程度に強まった場合、(拙稿の見解では)実際に私の指が動いてパソコンを操作する。その結果、大臣の経歴がパソコン画面に表示されます。第三者がこの実際の私の行動を観察すれば、確かにこの場合、私の行動の運動目的イメージは、はっきり分かる。このとき、この第三者が、「目的」という言葉を使って私の行動を説明すれば、「この人は新大臣の経歴を知るという目的を持って行動した」ということになります。

私が私自身の行動を説明する場合も同じような言い方になる。

「あなたは今、何を目的としてパソコンを操作しましたか?」と質問された場合、私は「私は新大臣の経歴を知るという目的を持ってパソコンを操作しました」と答えるでしょう。

実際に身体を動かすときの運動目的イメージは具体的な連鎖的運動の仮想運動であるけれども、言葉でいう場合の目的は、もっと抽象的な理論的概念となっている。「新大臣の経歴を知る」という抽象的な目的概念は、具体的な連鎖的運動の運動目的イメージである「キーボードに向かって新大臣の名をタイプインして検索画面の検索窓に表示させ検索ボタンを押して画面に現れるハイパーリンクをクリックしていくことで新大臣の経歴が書かれた画面に到達する」という長たらしい連鎖運動とは違う。ずっと抽象的で記号化された短い表現になっている。このように、人間の行動を表す場合、言葉をじょうずに使うと「経歴を知る」というような抽象概念を使えるために簡潔な表現になります。

これがふつうに私たちがいう場合の「目的」です。

実際、「経歴を知る」という抽象概念は具体的な運動を表していません。経歴を知るためになされる具体的運動は、パソコン操作だったり、物知りの友人に電話をかけることだったり、図書館に行くことだったりするわけです。運動としては必ずしも共通性はない。最終的に文字か音声で「新大臣の経歴」というしかるべきデータを獲得できた、という状態に達すればよい。このように私たちのいう目的は、ある状態に達することを言っている。つまりその到達すべき状態が目的だ、とされている。

この到達すべき状態は、そこに到達できたかどうかが、だれにでもはっきりとわかるような状態でなければいけません。そうでなければ目的とはいえない。「新大臣の経歴を知る」という目的は、それが達成されたのか、達成されていないのか、すぐにはっきり分かる。

「経歴を知る」という日本語の意味が分かる人はだれでも、これができている状態とそうでない状態との違いははっきりわかります。そうであればこれは立派な目的です。

そこに到達できたかどうかが私ひとりだけにしか分からない、ということではいけません。私の仲間のだれもが、それをはっきりと分からないといけない。それは、実際に仲間がここにいて、分かったという態度をしてくれれば一番はっきりします。しかし仲間がここにいなくても、私がそれと同じように感じればよい。仲間の目で見れば今のこの状態は、目的が達成された状態にあると分かるはずだ、と私が感じられればよい。こういう場合、目的は達成されているわけです。

「新大臣の経歴を知る」という目的概念は、こういう仕組みで私の内部に作られている。この目的状態を達成するために必要な一連の運動を私はつぎつぎと実行していく。この一連の運動は、それぞれの小さな運動目的イメージの連鎖から構成されている、と見ることができます。

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