哲学の科学

science of philosophy

侵略する人々(11)

2016-06-18 | yy51侵略する人々

イスラム教国のヨーロッパ侵略現象は、この(アラブ・ベルベルによる)イベリア半島の場合も、さらに時代が下った(オスマントルコによる)バルカン半島の場合も、ヨーロッパの歴史家の観点での記述が多く、イスラム教がキリスト教に勝つことの不思議さに集中しています。しかし、そこにみられるヨーロッパ中華思想を取り除いてみれば(拙稿の見解では)武力侵略システムの成功条件がいかに満たされるかの観点から分析することができます。

五世紀から六世紀にかけて、ローマ帝国崩壊の過程で分裂割拠していたライン川下流域のゲルマンの武装勢力は、ローマ帝国のガリア地方傭兵部隊として帝国軍の武装と戦法を引き継いでいたサリアン・フランク族を中心に統合勢力となって周辺部族を侵略して拡大しつつありました。
まずゲルマン式に略奪によって進軍し、その後ローマ式に占領都市に商業市場と教会と司法組織を置いて支配するというゲルマン・ローマのハイブリッド的侵略体制がうまく機能して、この勢力は当時のヨーロッパで最強の軍事システムとなっていました。フランク王国と名乗り、七世紀頃にはローマ帝国の後継者を自認していたようです。
八世紀になってイベリア半島からヨーロッパを侵略したアラブ勢力は、中東やアフリカ北岸の崩壊したローマ帝国の残骸である分裂した武装勢力と戦って各個撃破してきた成功体験から、ヨーロッパ大陸でも、どんどん行けると思っていたのでしょう。
たしかにスペインを支配していた西ゴート王国は三方海に囲まれたイベリア半島で侵略する新しい領域がなく武力発展が飽和状態に達して衰退の過程にありました。アラブはこの弱い西ゴート族を粉砕し敗走する残党を追ってフランスへ入りました。しかしフランス北部のフランク王国は拡大中の侵略勢力でした。正面から衝突してどうなったか?
トゥール・ポアティエ(フランス中央部)の会戦(七三二年)で、アラブの重装騎兵の突撃力は上り坂の林の中に布陣したフランクの密集重装歩兵部隊を突破できなかった、と戦史にあります。しかし、そういう細かい戦術的な問題以前に、異教徒であるアラブの大部隊が侵略進軍する場合、通行路上のヨーロッパ部族、この場合、ガリア人あるいはローマカトリック教徒たちを味方に引き入れることはむずかしかったのではないか、と推測できます。
イスラム帝国の拡大は、ローマ帝国の崩壊した後の中東、エジプト、北アフリカ領土(ローマ帝国の属領)など政治的空白地帯で順調に進みましたが、ビザンチン帝国(当時ギリシア、トルコ、バルカン、地中海諸島を支配)など大勢力が健在な地帯では停滞しています。当時のフランク王国も中央ヨーロッパ随一の大勢力であったので、アラブの略奪侵略システムで制覇するには相手が強すぎたということでしょう。フランク王国の覇権に影響されている南フランスでは、(フランクの武力が怖いので)アラブの進軍に協力する現地勢力は少なかった、と推測できます。









Banner_01

コメント

侵略する人々(10)

2016-06-11 | yy51侵略する人々

実は、八世紀初頭のスペインで何が起こったのか、古文書などによる記録はほとんどありません。七一一年にアフリカからジブラルタル海峡を渡ってきた、大軍というほど大きくない規模(数千騎から一万騎くらい)のアラブ騎兵軍団(イスラム帝国のモロッコ地方ベルベル人部隊)が、当時スペインを支配していた西ゴート王国の軍と会戦して西ゴート王が戦死した、という記事が記録されているくらいです。
後世のヨーロッパの歴史家は、なぜキリスト教徒のヨーロッパ人(西ゴート族)がイスラム教徒のアラブ人(ベルベル族)に簡単に負けてしまったのだろうか、という観点で諸説を展開しています。西ゴート王国は実は内紛が絶えなかった、とか、西ゴート王ロデリックは王位継承問題で怪しいといわれていたので人心を掌握できず部下に裏切られた、とか、ジブラルタル海峡警備の西ゴート族貴族はロデリックに娘さんをレープされた恨みでアラブに船を貸し上陸を先導した、とか。
しかしそういう細かいことよりも、当時のイスラム帝国はマホメットの建国以来、急速膨張している過程にあって、ピンポイントのメッカから始まったビッグバンの爆風のような侵略は百年足らずで地中海から大西洋、インド洋まで広がった、とみるほうが分かりやすいでしょう。
侵略のエネルギーは連鎖的に自己増殖して侵略軍団は東西南北に行けるところまで進軍する、というシステムが成り立っていた、ということです。
この侵略システムは、フン族の場合と似たところがあります。アラブもフンも、ローマ帝国という広大な中央集権国家が崩壊する過程での無政府状態ないし分裂割拠の軍事環境において遊牧民からなる大規模な統率された騎馬軍団を組織できた点が重要でしょう。相手は軍事的に組織化されていない小規模勢力ばかりですぐ逃げる。各個撃破で連戦連勝できる。うまく侵略に参加すれば、略奪、恐喝、拉致、身代金獲得、奴隷売買、土地獲得など大いにメリットがあります。このような侵略システムは、一度大成功すれば、周辺を巻き込んで永続的に拡大増殖します。
アラブイスラム帝国はこうして、アラビア半島から東西南北に拡大しました。アフリカ大陸北岸を西へ進んだ勢力は、モロッコで大西洋に突き当たると、惰性でイベリア半島に侵入するのが自然でしょう。
このアラブの侵略拡散システムは、地形的に、当然スペインからフランスに向かうことになりますが、ここで初めて大規模に組織化された軍事勢力に遭遇しました。フランク王国です。









Banner_01

コメント

侵略する人々(9)

2016-06-04 | yy51侵略する人々

大遠征によって歴史に名を遺した東西ゴート族もヴァンダル族も、その言語は遠征後数世紀を経ずに死語となって消えていきました。文書を残さない文化であったので文化の実態も消えてなくなりました。武力で支配者となっても少数であったので多数の被支配民と混血して子孫を残すこともできなかったようです。武力に優れ侵略に長けたこの人々は、征服地に遺伝子も残さず文化も言語も残すことができずに消えていきました。
勇猛果敢、あるいは残虐非道な謎の民族、と被害者のローマ文化人に形容されたフン族あるいはゲルマン部族ですが、遊牧生活技術が最高に発展した結果、最も効率の良い栄養補給システムが弱体化したローマ文明圏への侵略略奪という形態をとることになっただけでしょう。武力を活用するこのビジネスを効率よく実行するには勇猛果敢かつ残虐非道という風評を流布することが必要だったということです。
ローマ帝国の農耕地に侵略し征服したゲルマン人でしたが、その後、征服した土地で成功している農耕技術を取り入れ、故郷のドイツや東ヨーロッパの農業を改良し農業国に変貌していきます。同時にローマ文化に感化され、ローマ字で自分たちの言語を記述し、多神教からキリスト教に転向していく過程でもあります。
この時代、ゲルマン人によるローマ人の征服という現象は、逆に見れば、ゲルマン人が技術的、文化的にローマ化されていく過程とみることもできます。どちらがどちらを征服したのか、アイロニカルですが、文化的影響という面からは、結果は逆転といえるでしょう。

キリスト教が深く浸透した八世紀の南西ヨーロッパを侵略したアラブ軍団は、二十年という驚異的な短期間のうちにスペインからフランス中部にまで進軍した異教徒軍団です。五世紀に東からヨーロッパを侵略したフン族に比較できますが、リーダーの死によって瓦解したフンの支配体制とは対照的に、アラブは八百年間イベリア半島を支配しました。
イベリア半島の支配体制で、アラブ人はフン人と同じように人口の数パーセントくらいしかいない軍事エリートでした。その下の兵士や官僚、商人など現場の支配システムは、北アフリカで隷属させたベルベル人やユダヤ人を使っていました。多数派の都市市民や農民は現地のイベリア・ガリア人です。中世のスペインでは、このように全然違う民族がピラミッド階層をなして栄養補給システムが出来上がっていました。
少数者が異民族の上に八百年間居座って支配し続けるシステムも珍しいですが、本章冒頭に記したように十六、十七世紀には世界中を侵略したスペイン人が中世にはごく少数のアラブ人に八百年間頭が上がらなかったという歴史的事実は興味を引きます。
それでは、最初の(八世紀初頭の)素早い侵略からして、なぜそれが起こったのか? そしてなぜ(十五世紀末まで)長続きしたのか、知りたくなります。










Banner_01

コメント

文献