哲学の科学

science of philosophy

現代を生きる人々(15)

2020-12-26 | yy75現代を生きる人々


クールに見える現代人も、実はそこに、胸の中に旗を持っているらしい。あまり自覚はなさそうですけれども。

代り映えのしないルーティンな毎日の仕事は退屈であるけれども、それが社会の骨組みを支えていることは働く人間の誇りです。
生まれていつの間にかそこにいてそこで働いている毎日。親の世代からなのかあるいはさらにずっと遠い昔からなのか、綿々と現代にまで続いてきたらしい世の中の仕組み。その中で働く。働かせてもらう。あるいは働いてあげる。そこでいつのまにかこうして毎日働いていることには、退屈もあるけれども納得しているところがある。

毎日は変わらないけれどもわずかに、すこしずつ未来がやってくる。歴史が進むのは政権交代や革命や戦争ばかりではない。それらがなくとも進む。歴史は終わらない。
人々が働いている限り経済も医学も科学も芸術も、スマホもエンターテインメントも、グローバリゼーションも、間断なく進んでいるようです。それはエッセンシャルワーカーやサラリーマンの毎日の仕事が作りだす社会の骨格構造に支えられているからでしょう。
毎日のストレスと退屈の交代、仕事とレジャーの往来の間に人々がいつの間にか蓄えるものが永久に増え続けるからです。部分の構造が増え続ければ全体はいつか姿を変える。まったく新しい時代がきます。その未来をひそかに夢見て、それを支える自分の仕事の誇りを胸の底に保ちながら毎日の退屈に耐える。小さな平和を楽しむ。そうであれば、現代人の毎日はそれほどむなしいものではない、といえます。■

(yy75現代を生きる人々 end)








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現代を生きる人々(14)

2020-12-19 | yy75現代を生きる人々


革命・戦争といっても旗はどうする?椎名林檎は日章旗を振っていますが、これはどうか?国旗を振っても大丈夫そうなのはオリンピックやスポーツの世界大会くらいでしょうか。
一九九一年のスーパーボール(アメリカンフットボール全米大会)でホィットニー・ヒューストンが歌った米国国歌(Star Spangled Banner 星条旗)は伝説となっていますが、湾岸戦争の高揚に沸いていた時代でした。それから三〇年、アメリカも変わりましたね。 

ローカルな暴力や武力行使は絶えない。しかしもはや世界戦争はない。デモやクーデターはよく起こるけれども全国民の蜂起はない。欧米、日本などいわゆる先進国は、どの国も覇気を失っています。リーダーはいない。エリートは旗を持っていない。国旗を高くひるがえす機会などない。
豊かになった国では全力で国旗を振る必要がありません。しかし国旗のほかにどの旗をひるがえせばよいのでしょうか? 

前世紀にはマルキシズムの赤旗が美しくひるがえった時代もありました。いまやたしかに、ひるがえしたければ国旗しかない。懸命にそれを振りたい気になることはあまりないが、ほかの旗を振りたい気にはなりません。
会社の旗も組合の旗も振る気にならない。国連旗あるいは(ヨーロッパ人であっても)欧州連合旗ではナショナルアイデンティティが共鳴しない。なぜかプライドが鬱屈するようです。

エッセンシャルワーカーもエリートもふつうのサラリーマンも、休暇を楽しむ快楽主義者としてだけで一生を終わりたくない、自分の仕事に誇りを持ちたい。その仕事が支えている自分の国にプライドを持ちたい、未来に伸びる国の発展を夢みたい、とひそかに思っています。








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現代を生きる人々(13)

2020-12-12 | yy75現代を生きる人々


鎖国で閉鎖された江戸期の日本で興隆した趣味芸術は世界最高の域に達した、といわれます。
歌舞伎、人形浄瑠璃、三味線、俳諧、浮世絵、庭園、盆栽、書道、どれも奥が深い。明治を経て現代に続くこれらの趣味人口は多い。これらもまた、いかにも現代的といえるようになったわけです。
スマホの時代になってまた次々と新たな趣味人たち、つまり多種多様なオタクのカテゴリーが立ち上がってきました。古くからある小説や漫画のフアンは想像力の拡張を求めてアニメとゲームの多様なジャンルに細分化されていく(二〇一九年パトリック・ガルブレイス「オタクと想像力の追求Otaku and the Struggle for Imagination in Japan」)。各ジャンルはSNSのコミュニティとして数百、数千の極小細胞に分かれていきます。

趣味も極めればプロの域に達する。
現代日本語でプロとは、趣味をつきつめて職業にまで達した人のことです。
スポーツや芸能界のスターのように憧憬と尊敬を集めてカリスマのように君臨することに優越願望を求めるべきなのか?
イチローやマイケルジャクソンは神である。半分ジョークであると同時に半分は真実でしょう。

スポーツや音楽にはカタルシスがあります。ゲーム・パフォーマンスにすべてを注ぎ込むことができます。
「今日までのハレとケの往来に/蓄えた財産をさあ使うとき(二〇一四年 椎名林檎『NIPPON  サッカーW杯NHK放送テーマソング』)」好不況に一喜一憂する毎日の退屈が戦争によって吹き払われるように、国際イベントは盛り上がります。
 現代の戦争は悲惨な結果を招く大失政となりますからそれはやめて、オリンピックなどスポーツの大国際ゲームを次々に開催するのはどうでしょうか?退屈を克服できるでしょうか?それとも戦争のような大事件が起こらないと日常からの脱却は無理なのか?格差を解決するためには革命が必要なのでしょうか?







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現代を生きる人々(12)

2020-12-05 | yy75現代を生きる人々


分相応に悟って生きる。ある意味、宗教的、あるいは逆に宗教の敵といわれる快楽主義。これもエピクロスがいうように崇高なものを求めずひたすら現在の心の平安を求める。
出家はしないまま脱俗、という感じでしょうか。現代人としても、それは分かるような気がします。
その身分のままで人に認められればよし。自分で楽しく暮らせればよし、となってきます。

十八世紀の京都で煎茶を飲ませる喫茶店を開いた売茶翁と呼ばれた老人がいました。還俗禅僧でした。「茶銭は黄金百鎰より半文銭までくれしだい。 ただにて飲むも勝手なり。ただよりほかはまけ申さず」と看板を掲げたそうです。
抑圧的権威主義の江戸文化における知的自由人の象徴のような人物だったようです。伊藤若冲(一七一六年―一八〇〇年)など画人文人がこの禅風に惹かれて当時発明されたばかりの煎茶を楽しみに来店していました。(二〇〇八年 ノーマン・ワデル「売茶翁の生涯 The Old Tea Seller: Life and Zen Poetry in 18th Century Kyoto」)
煎茶の発明者と友達だったそうですから、一緒に特許を取って会社を作れば大富豪になれたでしょうに欲がない。人々と仲良く談笑して茶を飲みかわしたいだけ、と言っていたようです。まあ、究極の禅僧ですね。

趣味を突き詰める生き方はどうか?例えば素人離れのレベルにまで趣味を徹底する。糊口の本業はあってもそれはそれ。マニア、オタクというか、アマチュアアーティストというか。それでわずかでも副収入になればすばらしい。自分自身、ちょっとしたものだ、と思える。同好の仲間と認めあえます。
それが現代人の優越願望(megalothymia)かもしれません。microthymiaと呼ぶべきかもしれませんが。







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現代を生きる人々(11)

2020-11-28 | yy75現代を生きる人々


「売り家と唐様で書く三代目」といわれるように世代が交代すれば上層の子や孫は落ちてきます。その分、知恵と勇気と運を持つ者が上がっていきます。現代は、どの国でも親の世代に比べれば階層間流動性は高くなっています。
ただし最近を見ると、日本など先進国では、上昇意欲が急速に停滞してきているようにみえます。一つの理由は、教育による上昇という夢への幻滅。もう一つの理由は、上級階層であることが幸福につながるとの思い込みへの幻滅、でしょう。
そうであれば階級格差など、現代では、問題にする必要がない。肩書や収入がどうであろうと、すでに今や人間みな平等である、ということになります。
地位や富を求めて格闘する必要はない。平等願望(isothymia)は、すでに満足されてしまってドライビングフォースにならないのでしょうか?それとも上昇志向は苦しそうだからやめる、面倒だからあきらめる、ということなのでしょうか?

階層をよじのぼることをあきらめるとすると、これは江戸時代の身分制のようになります。その時代の人々は階層をのぼることなど夢想せずに、自分の階層の中でしっかり生活することに懸命でした。そうするほうが幸福になれたのでしょう。







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現代を生きる人々(10)

2020-11-21 | yy75現代を生きる人々


変身はどうでしょうか?
貧富の格差がますます広がってくる、と言われているので、この格差が作る階層を上へよじのぼることを目的に人生を積み上げて行ってみましょうか?

職業が現代の階級階層を決定しているようなので、それをしっかり意識してみましょう。
収入が高そうな(または偉そうな)順に並べてざっと人口比をみる。

超富豪投資家 500ppb(人口の千万分の五)
テレビに出るような有名人 5ppm(百万分の五)
医者科学者設計者などエリート専門職 2%
会社経営者 3%
大企業サラリーマン・官僚 5%
個人事業者・公務員 20%
エッセンシャルワーカー(農林水産・製造・サービス・福祉医療)30%
パート・フリーター・遊び人・零細投資家 20%
無職者・高齢者・病人・ニート 20%

とんがったピラミッドのように上にいくと極端に狭い。この格差を深刻にみると上層に上るのは大変そうです。コツコツとお金を貯めるだけでは間に合いそうもありません。
なによりも、社会を支えるエッセンシャルワーカーの収入と社会的地位は上がりそうにありません。
では、一つ上、あるいは二つ上を狙って努力してみましょうか?それには大学入試や公務員試験をクリアしなければならないようです。逆に、よい大学に合格しなければ下に落ちてしまうかもしれない。勉強が嫌いな人にはハードルが高い(拙稿72章「勉強が嫌いな人々」)。
ピラミッドの最上層あるいはその下くらいに挑戦するには全国的なコンペティションやオーディションあるいは国家試験、国際コンクールなどに入賞しなければなりません。それか、エリートコースで大出世。または会社を受け継ぐ。あるいは買収する。大株主になる。起業する。アルフレッド・ノーベルやビル・ゲイツのように革命的技術革新を発明する。いずれにしてもまあふつう、不可能に近そうですね。
上昇は難しいが下降は簡単。自分の代はあきらめて子弟の教育に賭ける人も多くいます。しかし昨今、景気低迷は長引き、大学(/院)は出たけれどドライバーや店員などになるしかない人が多い。大学(/院)は増えていてもそれを目指すメリットは減ってきています。







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現代を生きる人々(9)

2020-11-14 | yy75現代を生きる人々


現代人はさらにシニカルに、かつニヒルになっています。金銭欲出世欲に駆られた競争生活はむなしい。かといってひたすら安全を求め延命医療にすがって長生きすることの意義も分からない。

快楽に生きることも趣味に生きることも、どこか嘘くさい。セックスもギャンブルもドラッグも、さらに虚しい。結局は逃げようがない退屈だけが残る。
「したがって、人間であることはつらい。人間であるとは退屈に向き合って生きることを意味するから。(二〇一一年 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』)」
こうして、戦うことをやめさせられた人間は死んだ人間になるしかない(一九六九年 アレクサンドル・コジェーヴ「ヘーゲル読解入門Introduction to the Reading of Hegel」)との見解も現代人の心象風景をよく表している、といえます。
「何よりもはっきりしているのは・・・新しい物に目を向けようとしなくなったことだ。人類全体の性向がそうなっている。わしのように古い記録をあさっていると昔の人と現代人の違いにがく然とすることがある。(一九七八年 藤子不二雄『老年期の終わり』)」銀河系の開拓に飽きた人類は辺境の星を捨て、大挙して地球へ戻っていきます。一組の若い男女だけが銀河連邦政府に反抗して逆向きに宇宙へ旅立っていきます。

銀河系の開拓はさておき、当分地球上で暮らすしかない現代人としては、これからどうすればよいでしょうか?

どうするといっても、大雑把に言えば、次の四つくらいでしょうか?
1. 現状を維持(けっこうきつい)
2. 成長(家財を蓄積/収益力を増加)
3. 変身(階層上昇・脱俗・革命・戦争)
4. 終息(がんばらない・引き籠り・隠居・死去)
今までがんばってきた現状維持や成長は結局、退屈に陥ってしまうとすれば、あとは変身か終息しかありませんね。









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現代を生きる人々(8)

2020-11-07 | yy75現代を生きる人々


「羊飼いはいない。いるのは羊の群れだけである。(一八八五年 フリードリヒ・ニーチェ『ツァラトゥストラはこう語った』)」

鄧小平の座右の銘とされている、耐冷耐苦耐煩耐閑不激不躁不競不随以成事(王陽明の四耐四不の辞 一五〇七年頃)では耐閑、つまりひまに耐えることが一番むずかしい、と言われます(拙稿43章 「ひまを守る」)。開発独裁を進めても血沸き肉躍る戦いにはなりません。高度成長期が終わるにつれ夢が消え大義が見えなくなります。日常的ビジネスの退屈に耐えることが、大国のエリート層の資質になってきます。

こうして現代の平和は続きます。その巨大な退屈からどう抜け出せばよいのか?

マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや(一九五七年 寺山修司「われに五月を」)
失われた大きな物語を背後に感じられる世代は、まだ退屈は少なかったでしょう。現代人はかつてそのようなものがあったことさえ思い出せません。
宗教が消え、ナショナリズムが消え、マルキシズムが消え、さらに政治組織であろうと地下組織であろうとゲリラであろうと、献身を求めるコミュニティはどれもが消えかかっています。
世界を征服したアレキサンダー大王(紀元前三五六年―三二三年)の死後に興隆したエピクロスの庭(哲学の道場 紀元前三〇七年)は心の平安(αταραξία:ataraxia)を最高価値としましたが、神秘的あるいは崇高なものをすべて否定する哲学です。宗教の敵ですね。
なにか現代人の心情に似ています。ディオゲネス(紀元前四一二年―三二三年)のシニカル哲学もこのころできました。 








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現代を生きる人々(7)

2020-10-31 | yy75現代を生きる人々


大きな物語を強力に敷衍して軍隊と警察の内部を洗脳しようとしても、短期決戦ならばともかく、現代世界の空気にさらされた兵士は自国防衛に専心する敵国の軍と対峙する膠着戦線での大きな活躍は期待できません。
問答無用の軍事侵略を実行しようとしても、自国内の軍事機構と兵站のための産業を恣意的に再編成して実戦に使えるシステムに置換することからして無理があるでしょう。政治組織、軍事警察機構および公私企業とのバランスでようやく平衡を保っている現在の権力構造を急激に改変しようとすれば、その隙に政権が崩壊してしまいます。
そうであるから軍事侵略ではなく経済侵略という語が使われます。つまり営利目的を持つ私企業が国家エリートと密接に協力して他国内で開発を進める形がとられます。
重商主義を目指した初期のオランダ東インド会社がそうであったように、この国の対外進出に資本的経済的野心以上の大義はなく、横溢する資本の国外への拡大システムの一環というべきでしょう。
そうであるとすれば国旗が高くひるがえることはない。大義に殉ずるほどの国民の熱狂はありません。語られているその大きな物語は、営利目的の日常の継続でしかありません。

強大国の大権力者といえども現代では安易に優越願望を満たすことはできません。つまりあからさまな侵略や支配はできない。昔のような武力侵攻はできません。
歴史の流れは終わった。あるいは少なくとも大きく変わった。だれもが恐れしたがう大権力者はどこにもいません。








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現代を生きる人々(6)

2020-10-24 | yy75現代を生きる人々


かつての全体主義政府のようにナショナリズムイデオロギーで染めあげた秘密警察など国家暴力システムを使って言論を恐怖で封殺できれば政治もマスコミも操縦できるかもしれません。現代の民主主義国ではまず、その暴力システムが維持できません。
アマゾン社が各地のサーバーや物流網を防護するために武装警備員を配置していてもその武力を背景に政治を支配するのは、ちょっと無理でしょう。
アマゾンの小売業支配に反対して大規模デモが組織されることはないし、反対言論を発表する人たちが警棒で殴られて拘置所に入れられることもなさそうです。
ちなみに世界最初の株式会社である一八世紀のオランダ東インド会社はアジア各地港湾に置いた支社(要塞)と貿易海路を防衛する目的で軍隊と砲艦を持っていました。
結局この武力がインドネシアを植民地化するために使われた、といえます。英国によるインドの植民地化も同様な経過をたどっています。つまりヨーロッパとアジアの出会いの場で、武力を背景として、資本主義と帝国主義が同時期に双子のように発生し、現代世界にいたっている歴史をみることができます。

さて現代、唯一、世界的野望を持つかのように言われている中国の指導者は、かつてのナポレオンのように自らの政治理念を振りかざして他国の政権に干渉し戦争によってでもそれを押し付けようとするでしょうか?
たしかにこの国は大国でありその世界戦略(一帯一路構想)は米国に対抗しているとみることもできます。しかし現代、国がある程度大きい場合、世界情勢の空気を完全に遮断することは不可能です。国家の行動もまた内外のウォッチャーから監視されています。むやみにナショナリズムを煽ろうとしても人々は外国の雰囲気が分かるので違和感あるいは嘘くささを感じるでしょう。







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