仕事でも恋愛でもゲームでも全身全霊を打ち込んでする時間は短いほうがよい。理想的には一日一時間以内、週二、三日以内でよいでしょう。あとはなるべく気を抜いてひまを守る。なかなかつらいことですが、守ってみましょう。
世間はふつう、ひまなふうにしている人を許しませんが、ひまなふうにしていなければ許す。そういう状況の中でひまを守ってみましょう。仕事などしているふうでも適当に気を抜いていればよいが、つい注意を集中してしまって本気で夢中になってしまうとひまを守れません。
ひまを守れているときは自分がひまなことを自覚できますが、ひまが守れていないときは自分がひまなことを自覚できないので、注意が必要です。自分がしていること、あるいは観察していることに夢中になってしまって、自分が夢中になってしまっていることを自覚できない、という状態になります。時間がたつこともしっかり自覚することはできません。いつのまにか、たっぷり時間が経過してしまっている。
ひまを守れているときは、時間の経過が遅く感じられる。ひまを守れていないときは、時間の経過は速く感じる、という特徴があります。したがって、ひまをよりよく守るためには、時間がなかなか進まないように感じ取る必要があります。時間経過がゆっくりであると感じる方法には、たとえば、時計をじっと見つめる、あるいは夕日をじっと見つめる、あるいは雲の流れを見つめる、などがあります。このように時間を直接感じ取れれば、ひまは守れます。
お金が時間に連動するシステムなどを使う場合、そのレートによって、ひまが守れたり守れなかったりします。
一時間千円の駐車場に入ってしまったときなど、時間が過ぎるのが速い。無駄に時間を過ごすのは避けよう、と思います。まずひまは守れません。逆に一時間千円のアルバイトで客がまったく来ない駐車場の管理人をしている場合など、時間が過ぎるのが実に遅い。何もする必要はない。というか、何かしてはいけないからですが。まあ、そういう場合、たしかにひまを守れている感じがあります。
一日中、することもなくて、ひまな退屈な時間を過ごしてしまった場合、夜寝るころになって、「ああ、今日は無駄な一日だったな」と思うことはあっても「今日はしっかりひまを守れてよかったな」とは、ふつう思いません。しかし、のんびりしてリラックスできた、とか、休めて体調が回復した、とかうれしい気持ちが少しあることもあります。
いずれにせよ、ひまな時間というものは、何かしようとしてもうまくいかなくて時間が空いてしまった結果、不本意にもしかたなくできてしまうことがほとんどでしょう。積極的に、今日は何もしないで、ひまを守っていこうと計画することはまれです。
ひまを守らなければいけない、などと意識すると、それが心理的プレッシャーになって、時間が経つのがもどかしくいらいらしてきます。これはいけない。ひまを楽しまなくては、などと考えるとさらにどうしてよいか分からず、いらついてきます。やはり、積極的にひまを求めるのは無理がありそうです。いつのまにかひまになっている、というようでなければいけません。
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お客はなかなか来ないけれども、お客さんがきたらすぐに応対しなければならない高級ブティックの店員さんのような態度でいなければなりません。あるいは待機中の消防士や航海中の航海士のようであれ、ということでしょう。そういう状況で、ひまは実につらい。電話がかかってきたりして動かなければならない必要が起きたときは,うれしいくらいです。
まあ、店員や消防士や航海士は勤務中という緊張感があるからまだよい。勤務もなく義務も義理もなにもない場合でも待機している場面はあります。
たとえば道路際で流しのタクシーを待っている場面など。なかなか来ない。この時間ではタクシーは、もしかしたらまったく来ないのかも知れない。待つのは無駄かも知れない。それでもほかの方法は思い当たらない、というような場面で、実はひまがつらい。眼を休めずに、道の向こうを見張っていなければならない。それで見張り以外のことは何もできない。逆に見張っていさえすれば何もしなくてよい。そういう意味で楽です。易しい仕事です。頭も身体もひまです。そういうひまは、しかし、つらい。
さて、勤務もなく義務も義理も損得もタクシー待ちもない場合でも、ここで私たちはひまを守ることにしましょう。一日三十分以上、できれば一時間くらい、ひまを作ってそれを守る。先に述べたように通勤電車の中やベッドの上やトイレの中でその長さの時間を持てれば理想的です。
そうでなくても、機会を見つけるたびに五分、十分と小刻みにひまを守る。そういうささやかなひまを消さない。その間、携帯端末を使用して仕事をするなど何か有意義なことをしてはいけません。
そうして、生活の役に立つこと、人生のためになることに時間を使うことを避ける。必要なことや役に立つことをして時間をすごしてしまえば、それはひまな時間ではなくなってしまいます。ですから何か目的を持って何かをしてはいけません。とくにいけないことは強く目的意識を持って何かをすることです。
何かを目指して懸命に仕事や勉強や練習をしてはいけない。そういうことをしてしまうと、ひまな時間ではなくなってしまい、生活に役立つとか、収入が多くなるとか、出世するとか、能力が向上するとか、してしまうからです。そうなると、ふつうますます、ひまはなくなってしまうからです。
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人類は何もしないでゆうゆうとしていられるという遺伝子を失ったのか?あるいは、いつでもすぐ何か次の行動を起こしたくなるような遺伝子を獲得したのか?あるいはその両方でしょう。
人間はいつも明日を思いわずらう(拙稿28章「私はなぜ明日を語るのか?」)。明日の準備のために今しなければならないことがたくさんある。だからいつも忙しい。明日があるから、何もしないわけにはいかない。そうして、私たちは何もしないことができなくなっている。
人類の身体は明日を予測して明日に備えるようにできています。そうでない身体では繁殖できなかったということでしょう。脳が極端に大きいために特に高い栄養価の食料を常時必要とし成長が極端に遅い人間の子供を育てるには、明日を予測して常時食料を調達し蓄える能力が不可欠だったはずです。
厳しい大自然の中で、手間のかかる子供を養育し栄養源を常時獲得するためには、大家族や仲間集団の連帯が不可欠です。つねに家族や仲間と連絡をとりコミュニケーションネットワークを維持する必要があります。そうであれば、仲間とのやりとりを忘れて何もしないでいるひまはありません。
人とつきあっていれば、ひまは消える。たとえば将棋、あるいは尻取りゲームをすれば、退屈しません。一人でひまな場面がむずかしい。携帯端末でコンピュータ尻取りをする。ためしにしてみると・・・こんぴゅーた、たいは、はかいこうい、い、いかめら、ら、らとはなんだ、だつぜい、いかんがな、なまはんじゃく、くいものかそれは、はした、ただしいしりとりをしよう・・・となったりして、すぐ退屈します。
つまり人がいればひまは消しやすい。人がいなければ、ひまはよみがえってくる。たとえ優秀なコンピュータゲームであろうとも、いつのまにか、退屈なものになります。
現実に生きる私たちは、人と協力し明日に備えるために忙しい。ひまをしているひまはない。
ひまは現れたと思えば、すぐに消える。そういうようなものがひまである、とすれば、逆にひまを消さないためには、まず人と一緒に何かしようと考えることはやめ、明日のことを考えることもやめ、先のことは何も考えないことがよいと思われます。
何も考えないと眠くなってしまう。そうしたら眠ればよい。いずれ目が覚める。寝ても覚めても、何も考えないとすると、どうなるでしょうか?私たちはあまりそうすることがないので、分かりません。時間が来れば予定通りしかるべきところへ出かけたり、人と会ったり電話をかけたりしなければなりません。
健康なのにすることもなく、行くべきところもなく、会うべき人もいない、という状況が長く続くことは、現代社会ではまれにしかありえません。単身で海外への飛行機旅などは退屈との戦いになりますが、十数時間くらいならば座席が窮屈でなければ眠っていればだいたい過ごせる。映画や機内食やキャビンアテンダントに興味がある人はむしろ快適な時間でしょう。あるいは隣席の人が話好きならば退屈はしません。
まったく人の気配がないという状況は、携帯電話をなくして無人島に漂着でもしないと、ない。無人島ではテレビも新聞もない。飽きたら本でも読もうかという気になりますが、本もない。雑誌もない。無線機がないからパソコンで時間をつぶす手立てもないということになります。ふつう漂流者はパソコンを持っていないでしょうけれども。
そういう無人島で、まあ、食糧には困らないと仮定しましょう。そうするとまた眠くなってきます。正真正銘のひまが襲ってきます。
そういう極限状況でしか、現代人は真正のひまに襲われることはない。日常生活に現れる短時間のひまなど、テレビ、新聞、携帯電話、インターネットあるいは居眠り椅子があればすぐに消去できます。
しかし、ひまを守る、という拙稿本章の立場では、それで問題は解決、としてはなりません。
テレビ、新聞、携帯電話、インターネットをしてはいけないということはありませんが、それに夢中になってはいけない。そういうことをしていても同時にいくぶんかは、ひまを感じていなければいけません。退屈の感情を維持しなければいけません。うとうとと居眠りをしてよいが、物音がしたらすぐ眼をぱっちりと開けられなければなりません。
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何もしないで一日が過ぎていく、という経験をほとんどしたことがない若い人は多いでしょう。一日中何もしなくても人間は生きていけます。空気を呼吸して適当に何か食べていればよい。テレビを見なくても携帯端末がなくても、時間は過ぎていく。むしろ、時間というものはそうして過ぎるものではないでしょうか?
努めて何もしない、ということを人間はできるのか? それはとてもむずかしいらしい。
ブレーズ・パスカルが『パンセ(1670)』の中でこう書いています。「人間は生まれながら屋根職人その他どんな仕事もできるが、部屋の中にいることだけはできない。(断章138) 私が発見したことであるが、人間のあらゆる不幸はただひとつの事実から来る。それは自分の部屋におとなしくしていることができないということだ(断章139)」。
パスカルは、たしかに数学者、物理学者、哲学者、宗教家、随筆家、都市バス発明家として三十九歳で死ぬまでに多岐にわたる分野で歴史的な仕事を成し遂げた多才かつ多忙な天才ですが、部屋にこもって何もしないことだけはできなかったようです。それほど、どんな人間にとっても、ひまは手ごわい相手のようです。
人間以外の動物は、むしろ、ひまに強い、というか何もしないのが得意なようです。暑いとき犬は何もしないで、ぐったりと横たわっているし、寒い日に猫は動きもせず、コタツで丸くなります。アリなどは、せっせと働く人間になぞらえられますが、寒くなると巣から出ません。マグロは止まらずに泳ぎ続けないと窒息してしまう(ラム換水呼吸という)ので、不眠不休の例にあげられますが、実は何も考えずに眠りながら自動的に泳いでいるらしい。つまり泳いでいても何もしていない、ひまである、ということでしょう。何もしないことが不得意なのは人類だけの特徴です。
人類はなぜ、何もしないことが不得意な身体を持っているのか?ひまに耐えられないのか?なぜそのように進化したのか?それは、何もしないと生存繁殖においてかなり不利になってしまうような生活形態にあったからでしょう。過去数十万年にわたる人類の生活において、何もしないと置いていかれてしまう、とか、仲間に見放されてしまう、というような状況にあったと推定されます。何もしないで泰然としていられるような遺伝子を持つ子孫を残せなかったということになります。
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