風は、科学の言葉でいえば、空気のかたまりの移動、というだけです。しかし、科学などない時代(数千年前)にも、風はあった。風という言葉がない時代(数万年前)にも、空気の移動はありました。いや、地球環境がやっと落ち着いた頃(数十億年前)から空気は移動していたに違いありません。
いや、空気などなくても、例えば宇宙空間でも太陽から放出される超高速のプラズマは絶え間なく地球に降り注いでオーロラなどの現象を作り出しています。これは太陽風と呼ばれるように科学の意味でも風の一種ですね。
風はどう存在しているのか?
ようするに、目に見えない、一瞬にしていなくなる。正体がはっきり見極められない、それを見据えてしっかりと対処することができない、そうであるのに、私の身体の近くに、はっきりと存在する。それは気が付かないうちに、はっきりと私たちに影響を与える。その影響によって私たちは、結局は、押し流されていく。そういうものが、風です。■
(71 風の存在論 end)
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風になびく富士の煙の空に消えて ゆくへもしらぬわが思ひかな
西行(1118~1190)七十歳、晩年頃の歌。
風は煙を運んで空に消えてしまう。風はたしかに今存在するのだが、まもなく消えてしまう。現在私が思っているものは、またはかない。
風は風のように来て風のように去っていく。Gone With the Wind
いまはこれほどはっきりとあるものも、結局は風と共に消えていきます。
この風はなぜ存在しているのか?
顔に風が当たると冷たい。
かおがつめたいね、と思う。いや、ふつう、風が冷たいね、と言いますね。
「そうだね。風が冷たいね」と、あなたは答える。そういうとき、その風は存在している。
あなたが宇宙服を着ている場合、「風が冷たいね」と私が言っても、あなたは「いや、この服を着ていると風を感じないんだよ」と答えるでしょう。そうなると、この風は、私だけが感じている。私以外が皆、宇宙服を着ているとすれば、この風が存在しているかどうか、怪しくなってきます。
もしかしたら私は、手についたメントール液を顔につけてしまったのかもしれません。メントールは皮膚の細胞に達するとTRPM8に結合して温度低下と全く同様の生理作用を起こすからです。
風、という字を見ると、風を感じます。俵屋宗達の屏風絵、風神雷神。風が目で見える。
うちわで扇いだり、扇風機を回したりすれば風は作れます。圧縮空気を使えば高速の風が作れる。航空機開発用の風洞で作る風は、たとえば、マッハ10(JAXA 1.27m極超音速風洞)のすごい風を作り出せます。
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風が冷たい。風が顔にあたって顔を冷やしているから冷たく感じるのでしょう。顔の皮膚に低温の風が当たるとその知覚細胞の温度が下がります。
低温を感知する細胞の膜には低温でナトリウム陽イオンを透過させるタンパク質のバルブ(TRPM8:Transient Receptor Potential cation channel subfamily Melastatin member 8)があって摂氏26℃以下になると開通し、細胞を興奮(脱分極)させます。この電気信号(活動電位)が末梢神経系から脳の視床下部を経由して視索前野の体温調節中枢に伝わると、毛細血管が縮小するなど寒冷反射が起こり、冷感が感知されます。
温度計を見ていると、顔に当たる風が、たしかに、摂氏26℃以下になると微妙に涼しいような気がします。裸に近い服装で座っている場合、エアコンの設定温度はこのくらいが気持ちいい、という人が多い。
摂氏20℃以下で風速3メートルにもなると(裸では)寒い。体感温度はかなり低く感じます。体表がいつも低温の空気にさらされれば空気の温度まで体表温度は下がる。いやでも風の存在を意識します。
台風となると、風は絶対に無視できません。風圧を感じるどころではない。身体全体が吹き飛ばされる。身の危険を感じます。気象衛星の写した雲のうずまきをみても、すごい存在感です。
風の存在は体感で感じられるだけではありません。髪が乱れる。帽子が飛ぶ。凧が揚げられる。ハンググライダーで遊べます。昔は帆船が貿易や移民や世界征服を実現しました。風は力である。現在は、風力発電ですね。風は役に立つ。ファンを回して、エアコンやパソコンや自動車エンジンから排熱できる。私達の生活にとって風の存在は大きい。
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顔に受ける風を感じます。皮膚が風圧と冷感を感じます。息を吸う時、吐くとき、鼻孔を通過する風のようなものは空気でしょう。空気は見えないけれども身体の周りじゅうにあるらしい。部屋にも充満している、らしい。それを読む。無意識に、私は。
空気を読む。空気は読める。皆さんの喋り方や表情を観察する。視線の動きを見る。身体の感覚で観察する。そうすれば空気が読めます。
人が何を感じているか、感情や思考は身体の周りの空気に滲み出てくるのでしょうか? よそ者の私が入った瞬間、部屋の空気がひやっと冷たくなった。文学的な表現ですが、実際、そう感じます。空気はそういうものなのでしょうか?
時代の空気を読む。しかし時代とともに空気は入れ替わってきます。新しい風が吹く。空気は読めても風が読めるか?
科学者でさえもそうです。一六八七年までは、アリストテレスやせいぜいコペルニクスを研究していれば科学者をやっていられました。このあと、ニュートン力学の新風がすべてを吹き払う。その後一九一六年まではニュートン力学を規範にすべてを解説していられましたが、そこで突風が吹く。相対論、量子力学を身体で感じ取る必要が出てきました。そういう空気に入れ替わって行きます。そんな空気は読みたくない、と言っても現代物理学の空気は充満しています。ブラックホールがいまや宇宙に充満して来ています。
空気とは何なのか?古代から近代初期まで、空気は、火や水とともに、世の中を作っている物質の素(element元素)のひとつである、とされていました。
啓蒙時代になってようやく、空気の科学が解明されました。
アントワーヌ・ラヴォアジエ(一七四三年ー一七九四年)が、空気が酸素と窒素の混合物であることを示しました。ちなみに、この人は死後だいぶたってから近代化学の元祖といわれるようになりましたが、富豪であり徴税請負人であったためフランス革命でギロチン台に送られて終わりました。この時代のパリ、ブルジョアへの風当たりはひどかった。そういう革命の空気は読めなかったようです。
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(71 風の存在論 begin)
71 風の存在論
風が冷たい。
「かぜがつめたい」とつぶやく。
私はなぜ、「かぜがつめたい」とつぶやいているのか?
それは単に、風が冷たいからでしょう。気温が低くて湿度が低いからでしょう。風速が大きいので、体感温度が低いからと思われます。しかしそればかりではないかもしれない。
そもそも、「かぜがつめたい」などと口に出してつぶやかなくても、さっさとウィンドブレーカーを出して着れば良い。口に出すこと自体、人に聞いてもらいたいとか、自分に聞かせたいとか、言葉の内容以前に、隠された不純な動機がある。それをつぶやくことで私は何をしたいのか?
「世間の風が冷たい。心が冷える」とまで言えば、これは社会の仕打ちに対する怨念を叫んでいるらしい、と分かります。自分が自己中でわがままなのか、社会が自分を不正に差別しているのか、両方混ざっているのか、どれかでしょう。
世間の風が冷たくないはずがないではありませんか?それが冷たいと思う事自体が、もう温かい風を遠ざけている。自分の手を顧みれば、風より冷たくなっている。ほとんど氷のようではありませんか?
閑話休題、風は身の回りの環境です。風速、風向、風力、温度、湿度。環境を冷静に客観的に観察して表現する。これは重要。実務家はそうします。科学者もそうする。まず真実をデータとして知らなければならない。これは正しい、と思われます。
しかし私たちが、実際、「かぜがつめたい」とつぶやくとき、環境を冷静に客観的に観察して表現している場合は少ない。というか、ほとんどありません。
ウィンドブレーカーを携行するのを忘れてしまった悔恨とか、エアコンを強風に設定している管理者の無神経に対する怒りとか、いつの間にか冬が来てしまった、この一年が空しくすぎていくなあ、という詠嘆とか、なにか、感情的な衝動からつぶやきを発している場合がほとんどでしょう。
風が吹けば桶屋が儲かる。つまり、逆に言えば、風が吹くかどうかなどは、たいてい、生活の現実に無関係である、ということでしょう。
しかし風はそれを受ける人間に、微妙に、主観的な感情を引き起こさせる。
Le vent se lève, il faut tenter de vivre.(二〇一三年 宮崎駿『風立ちぬ』原詩ポール・ヴァレリー 風が立つ。生きようと試みなければならない。 訳宮崎駿)
これこそ、真実です。しかし、科学はふつう、こういう真実は無視します。実務家も、たいてい無視する。
かなり特殊な状況の場合、たとえば風を当てることで人を苛立たせてその結果、自分の収入を増やす。昔の喫茶店のクーラーは強めがよくありました。風で人の感情に影響を与えようという場面は特殊ですね。
風は見えない。空気の運動である。空虚であります。気でしかない。風は、しかれども確かに、存在する。私たちにとって、風はなぜ存在しているのでしょうか?
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