問題は、数百万人が享受するエンターテインメント、あるいは作品がたった一人あるいは数十人の個人力で生産されている、というところにあります。昔は、たった一人あるいは数十人の個人力で生産されるエンターテインメントあるいは創作物は、それを享受する人数もせいぜいその十倍か、多くて百倍、つまりたかだか千人くらいだったはずです。
極端に言えば、現代は、ppm、つまり百万分の一の人々がその他の人々が最も必要とするものを生産している。たとえばマイケル・ジャクソンの曲を数億人の人が毎週何時間も聴いています。ビル・ゲイツが発案したウィンドウズ概念を数億人の人が毎日数時間も利用しています。
ジャクソンやゲイツは巨万の富を得て世界の憧憬と尊敬を集め、野心に満ちた若者の成功モデルになっています。彼らの個人力は極度に強い。この類の有名人は、けれども、人口の割合では極端に小さい。その他大勢の現代人は無名人です。つまり個人力は無限に小さい。
個人力の総和は昔から人口に比例しているのではないでしょうか?なぜならば個人力を受ける側は、毎日いろいろな人から受ける個人力によって楽しんだり苦しんだりしていて、一日に他人から受ける個人力の圧力のようなものは平均すればだいたい一定でしょう。一人が受ける個人力の平均に世界人口を掛ければ世界全体の個人力の総和が求められます。
もちろんこの話は、個人力の単位をニュートンなどと決めてあるわけでもなければ、そもそも個人力の測定方法もはっきりしないわけですから、いい加減な話でしかありません。

戦時、軍隊は切実に兵士の個人力を必要としていますから、連戦連勝の場合、兵士は戦友を信頼し充実感を持ち続けられます。マシンガンを持ち仲間の安全を守る自分の個人力を確信することができます。
会社が急成長して連戦連勝している場合、充実した兵士と同じように社員は幸せです。自分の個人力を確信できます。しかし、平和になり兵士が除隊してマシンガンを手放した場合、あるいは会社が低迷しそこでも幹部社員になれず平社員か契約社員として時間を切り売りしている場合、仲間に認められ仲間から必要とされているような個人力が自分にあると感じることはできません。
今世紀が進むにつれて、ますます多くの、ほとんど大多数の人が、自分の個人力を感じることができなくなっているようです。個人力がここまで矮小化された社会は、実は歴史上ほとんどありませんでした。
昔の人は、槍や刀や、鋤や鎌や、ハンマーやのこぎりを持っていました。それらの道具を使いこなすことで仲間に認められ必要とされました。今の人はスマートフォンを持っている。しかしそれで、どれほど仲間に必要とされる働きができるのか?
現代、私たちが必要とする生活物資やインフラや安全システムは、会社や警察や役所によって供給されています。しかしそれらは組織であって個人ではありません。それぞれの組織の内部にはごく少数の個人力の優れたエリートがいるに違いありませんが、それらの人々の割合は、非常に小さい。組織を構成する大部分の人々は、個人力を大きく働かせることはできません。
たとえば息抜き、娯楽、エンターテインメントと呼ばれるものを供給する産業は現代の消費者へ大きな影響力を持っています。昔は、お祭りや大道芸人や芝居小屋がそれを提供していました。現代は、まずテレビ、ビデオ、オンラインソフト、書籍、新聞雑誌。オリジナルデータが何万部、何百万部と複製されて販売されます。
毎日新しく供給されるそれらのイベントや作品は、確かに一人か数人の制作者がいます。またそれぞれ出演者やモデルの身体によって表現される作品もあります。しかしいずれにしろそれぞれの作品は一人か多くても数十人という少人数の個人力によって世の中に存在しています。

マシンガンやスマートフォンのように個人力に貢献する道具が発明されて便利になったとはいえ、現代は、前世紀や前々世紀に比べれば個人力が衰えていく傾向にあります。現代人一人一人は、槍や刀を持った昔の兵士のような個人力はありません。
教育機関やマスコミやインターネットなどを通じて人々の世界観は広がり、商品は世界中から流通してきます。相対的に、近隣の一人一人の存在が矮小化される。毎日会う人々であっても、命を託して共に生きる人々であるとは感じられません。競争相手ではあっても助け合う仲間という気はしません。頼りになりそうな人が、身の周りにはいません。
個人力が高くて、本気で助け合えそうな人は身の周りにはいません。頼れそうな人はテレビや新聞で有名な著名人、セレブ、スターの中には見つけられますが、それらの人と顔を合わせることはできません。政治家や会社の偉い人や超お金持ちは個人力が高い人が多いという気がしますが、そういう人と仲良くなりたいと思っても近づくのはむずかしそうです。
そういう、自分との距離が果てしなく遠い人々だけが個人力を持っている、という現代人の感覚があります。
昔の人は、まず大家族、親族、一族郎党など、血縁、地縁にもとづいたコネクションの中で個人力の高い人に頼ることができました。大地主の伯父さんとか、陸軍隊長の従兄とかでした。現代の都市生活者は遠い親戚などとは疎遠で、おじおば、いとこはおろか、兄弟姉妹もいなかったり、いてもあまり頼りになりません。核家族だけあるいは単身で生活していて、職場の上司も組合の委員もあまり頼りにならない、という実情にある人は多いでしょう。
頼れるものは勤務先あるいは市役所などの公共組織の福利厚生という状況も多い。このような現代社会は、組織力のみが存在していて個人力の存在がきわめて薄い社会である、ということができます。
スマートフォンで連絡を取り合う仲間であっても、命を共有しているというほどの依存関係にあるわけではありません。仲良く付き合いながらも経済力や社会的地位などのわずかな格差を比較しあい、ジェラシーを感じあったり競争心を刺激しあったりする不愉快な面も大きい。戦場で戦友のマシンガンに命を託す兵士の連帯感は、平時の市民生活では経験できません。個人力は戦場で強く、平和な市民生活では希薄です。

(56 マシンガンとスマートフォン begin)
56 マシンガンとスマートフォン 個人力の存在論
古代から中世までどこの国でも、軍隊は歩兵と騎兵だけで編成されていました。大砲とか戦車とか爆撃機とか核ミサイルは近代の産物です。
歩兵や騎兵は一人一本の槍や剣をふるって一人ずつ敵を倒していました。戦争も手作りだったわけです。
こういう状況では、一人一人の兵士の強さが重要ですが、最も重要なファクターは人数です。団結できて統率された動きができる人数が多いほうの軍隊が、ふつう勝ちます。一緒に戦う仲間が逃げないで前に進んでくれることが勝利につながり、自分の命につながります。仲間の一人一人の力が自分の命と同じくらい大事です。
個人が個人に及ぼす影響が大きい。現代人に比べて昔の人々は、ふつうの人個人の影響力が互いに大きい。このような状況を、個人力がある、ということにしましょう。
社員個人の戦力とか、女子力とか、個人の力のようなものを概念化する言葉は受けやすい。あいつは個人力がある、といういま筆者が思いついた言葉がネットで流行してほしいとは思いますが、むりでしょうね。
さて拙稿本章では、拙稿のいうこの個人力なるものがいかに存在し、時代によって、特に現代にいたって、どう変わってきたか、についてすこし調べてみます。
現代の軍隊で歩兵の武器はマシンガン(正しくは自動小銃あるいはassault rifle)です。槍や旧式銃に比べれば効率が良い。短時間で多くの敵を殺せます。仲間の兵士から見ても、サバイバルの成否は共に戦う兵士の数と力量に依存しています。このような場合、一人一人の個人力は高い、といえるでしょう。歩兵隊は町を占領し、守り、住民の治安を維持することができます。混乱する無法地帯では、マシンガンで武装した歩兵が究極の政治力の源泉、といえます。
現代、情報化時代になり、個人が持てる力の象徴は、スマートフォンなど携帯電話端末である、ということもできます。個人が一人一個を身に着けて二十四時間通信することができ、またインターネットを通じて世界中の情報と接触できます。これはまさに現代的政治力の源泉ではないか、ということができそうです。個人が個人に及ぼす影響という点でも非常に大きい。何千人の人々に「国会の前に集まろう」と呼び掛けて大集会を開くこともできます。
いつでも応答してくれる。いつでも大事な情報をくれる。鮮明な画像や動画を送ってくれる。スマートフォンを使いこなしている人は個人力が高い、といえます。
