目的というものは言語を使って言い表すことができる。これは重要な特徴です。目的概念は、それが達成された状態を言葉で言い表すことができ、かつまた、目的達成のために必要な行動を言葉で言い表すことができます。
言葉を使って、だれに語るのか?私は私の仲間に、その将来の状況において私たちの目的がどのようになるであろうかを言葉で語ることができます。仲間がここにいなくてもひとりごとで私は私にそれを語ることができます。
目的行動が言語化できるということは、その行動は、それを語る私ばかりでなく他の多くの人が語ることができる行動でなくてはならないことになります。逆に言えば、私ばかりでなく私の仲間のだれもが、それを言葉で語ることができる行動だけが目的を持った行動ということができます。
人間が使う目的というものは、それを言葉で言い表すことで目的として使える。つまり、目的という道具は、言語というシステムの上に作られていることが確認できます。
目的は、言葉の上に載っていて、言葉で人にそれを語ることで目的として使うことができる。目的は言葉を介して人と共有されるものである、といえます。
人と会うために時間と場所を決めて落ち合う場合、そこへ向かう行動の目的は、完全に、はっきりしています。時間と場所を言葉で言うことができます。そこへ行く経路も言葉で言うことができます。こういう場合、目的は完全に表現されています。目的というものは、仲間と共有されたとき、そしてその時に限って、完全に表現されている、といえます。
仲間と共有されて完全に表現されている目的は必ず言語化できる。逆に言語で語ることができない目的は、仲間と完全に共有することができずに、目的として不完全にしか使えません。
不完全な目的はしばしば忘れてしまう。行動の途中で気が変ってしまう。ぶらぶら散歩しているようなもので、どこに行きつくか分かりません。言葉をしゃべらない猫や赤ちゃんの行動を観察すると、どうも彼らは完全に表現された目的を持ってはいないようですね。私たち言葉を話すことができる大人だけが、完全に表現された目的を持つことができるのです。
仲間と目的を共有する。自分のためだけでなく皆と一緒に目的を持って行動する。たとえば仲間とともにある場所へ行く。「あの山の天辺へ行こう!」というとき、私たちは目的を持つ。その目的は「あの山の天辺へ行こう!」ということです。つまり、言語で表現され、仲間と共有される。そのような行動を実行するために、目的は使われます。
協力して行動する仲間の皆で目指すべきゴールを言葉で言ってみる。それが、そもそも原始人類が目的というものを使うようになった起源なのではないでしょうか?