哲学の科学

science of philosophy

目的の起源(2)

2013-09-28 | xxx6目的の起源

目的というものは言語を使って言い表すことができる。これは重要な特徴です。目的概念は、それが達成された状態を言葉で言い表すことができ、かつまた、目的達成のために必要な行動を言葉で言い表すことができます。

言葉を使って、だれに語るのか?私は私の仲間に、その将来の状況において私たちの目的がどのようになるであろうかを言葉で語ることができます。仲間がここにいなくてもひとりごとで私は私にそれを語ることができます。

目的行動が言語化できるということは、その行動は、それを語る私ばかりでなく他の多くの人が語ることができる行動でなくてはならないことになります。逆に言えば、私ばかりでなく私の仲間のだれもが、それを言葉で語ることができる行動だけが目的を持った行動ということができます。

人間が使う目的というものは、それを言葉で言い表すことで目的として使える。つまり、目的という道具は、言語というシステムの上に作られていることが確認できます。

目的は、言葉の上に載っていて、言葉で人にそれを語ることで目的として使うことができる。目的は言葉を介して人と共有されるものである、といえます。

人と会うために時間と場所を決めて落ち合う場合、そこへ向かう行動の目的は、完全に、はっきりしています。時間と場所を言葉で言うことができます。そこへ行く経路も言葉で言うことができます。こういう場合、目的は完全に表現されています。目的というものは、仲間と共有されたとき、そしてその時に限って、完全に表現されている、といえます。

仲間と共有されて完全に表現されている目的は必ず言語化できる。逆に言語で語ることができない目的は、仲間と完全に共有することができずに、目的として不完全にしか使えません。

不完全な目的はしばしば忘れてしまう。行動の途中で気が変ってしまう。ぶらぶら散歩しているようなもので、どこに行きつくか分かりません。言葉をしゃべらない猫や赤ちゃんの行動を観察すると、どうも彼らは完全に表現された目的を持ってはいないようですね。私たち言葉を話すことができる大人だけが、完全に表現された目的を持つことができるのです。

 仲間と目的を共有する。自分のためだけでなく皆と一緒に目的を持って行動する。たとえば仲間とともにある場所へ行く。「あの山の天辺へ行こう!」というとき、私たちは目的を持つ。その目的は「あの山の天辺へ行こう!」ということです。つまり、言語で表現され、仲間と共有される。そのような行動を実行するために、目的は使われます。

協力して行動する仲間の皆で目指すべきゴールを言葉で言ってみる。それが、そもそも原始人類が目的というものを使うようになった起源なのではないでしょうか?

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目的の起源(1)

2013-09-22 | xxx6目的の起源

(36 目的の起源  begin) 

 

 

 

 36 目的の起源

 

 

 

 

 

へぼ将棋、王より飛車をかわいがり。人生もしかり。筆者などは人生においていつも飛車をかわいがって失敗しています。王を守らなければいけないのに、飛車で派手に攻めることばかりしたがるから結局負ける。人生の生き方、その人のだめなところがすぐ出ます。しかしなぜ、人はしばしば飛車のほうをかわいがってしまうのか?

 

将棋というゲームが勝つことを目的とする以上、王将を守ることが最優先であるはずです。それなのに私たちは王の守りを忘れて飛車を生き残らせようとしてしまう。ゲームの目的を忘れてしまうのです。

 

何のためにゲームをしているのか、忘れる。目の前の問題をかたづけることだけに熱中してしまう。オンラインゲームでも、ビジネスでも、株相場でも、戦争でも、人生でも、よくある。よくあるというより、筆者たち凡人はいつもそうです。目の前の勝ち負けにだけこだわってしまう。そうであるから、こういう格言、本末転倒するな、目的を忘れるな、というような戒めの言葉を私たちはよく言い合うのでしょう。

 

なぜ私たちはしばしば、目的を忘れて間違った行動をしてしまうのか?目先の小さな勝負に夢中になってしまうのか?

 

たいていは損をしてしまいます。たまに間違った行動が結果的には目的達成に役立ってしまうということも、人生にはありますが、だいたい損をする。人生というゲームにおいても、長期的な大きな目的をしっかり意識して日々努力を積み重ねる人が成功します。いや、筆者が成功したわけではなく、人が成功した話を聞くとそうである、ということのようです。

 

 

 

つまり人間は正しい目的をまずしっかりと決めて、そこに到達するために最適な行動を積み重ねていくべきだ、ということになります。目的志向、目的追求という行動形態です。人生のあらゆる重要場面で、目的追求の行動形態があらわれます。

 

勉強にしてもスポーツ練習にしても、その目的をしっかり立てなければ成果が上がらない、と先生たちは言います。会社経営にしても、社内出世競争にしても、オンラインゲームでも、目的をしっかり意識しないと無駄な間違った努力をしてしまう、と先輩たちは教えてくれます。

 

目的をしっかり意識することが重要です。ということは、私たち人間は、しっかりしないと、すぐに目的を忘れてだめな行動をしてしまう、ということでしょう。

 

ではなぜ、私たちはしばしば、目的を意識しないで行動してしまうのか?それは、疲れるとすぐ休んでしまうとか、おなかが減るとすぐつまみ食いしてしまうとか、怖い顔をする人にはつい言うべきことが言えないで追従笑いをしてしまうとか、なさけないけれども反射というか衝動的な行動をとってしまうからです。自分の考えというものをしっかり持たないから、つい身体が動きやすいほうへ行ってしまうのです。

 

犬や猫と同じですね。赤ちゃんや幼児もまったくその通りの行動をとるので、お母さんに叱られています。大人のしっかりした人間だけが、目的をしっかり持つことによって、人にも尊敬されるし自分でも満足のいける行動をとることができる。

 

 

 

さて、その目的追求という行動ですが、これはどうも人類という動物種に顕著に観察される行動形態のようです。人間以外の動物はほとんど、こういう行動はしません。

 

人間以外の動物の場合、目的のようなものはあるとしても、それは今実行しようとしている運動の(数分後あるいは数十分後の)直接の結果を予測することでしかない。それ以外の言葉による抽象的な目的概念はありません。

 

馬とか象とか猿とかの場合、「口をあけてバナナを食べる」という運動の運動目的イメージは「口をあけてバナナを食べる」という運動シミュレーションのことです。そして、それが行動の目的そのものでしょう。ところが人間の場合だけ違う。人間が「口をあけてバナナを食べる」という運動目的イメージの行動をする場合の目的は、単に「口をあけてバナナを食べる」ことではありません。ふつう言葉でいえるような抽象的な目的がある。

 

私たちが(意識的に)口をあけてバナナを食べるときは、「ダイエットによさそうだからそうする」とか、「朝から午後四時ころまで忙しくてランチを食べる暇がないから、まだ十一時だけれど何かを口に入れておいて午後の空腹を避ける」とか、「一緒に食事をする友人がバナナしかいらないというから、もっとちゃんとしたものを食べたいけれどしかたない、ここは付き合ってバナナで我慢することによって良好な人間関係を維持しておく」とかいう抽象的な目的概念を持っています(拙稿21章「私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(9 )。

 

このような人間の目的概念は、ふつう数日後、数ヵ月後、あるいは数年後に予測される自分の状況を望ましいある状態にまで持っていくために現在必要な行動を実行する、という形で表現できます。つまりかなり長期的な将来の予測が伴う。現在の状況から将来の状況にいたる変遷の過程を予測できる。その状況の中で自分はどう動いて、どういう状況におかれるかが予測できる、ということです。

 

 

 

 

 

 

 

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人間は真実を知ることができるのか(12)

2013-09-14 | xxx5人間は真実を知ることができるのか

拙稿のいうように、だれもが真実と思うのならばそれが真実である、と決めつけてしまえば、人間は(そのような意味での)真実を知ることができる、という答えに導かれざるを得ないでしょう。したがって拙稿の結論としては、人間は真実を知ることができる、と肯定的に言い切ってよい。しかし単純に、大声でこの結論だけを叫ぶことは遠慮します。なぜならば(拙稿本章でくどくどと述べたように)真実を知るということ自体が、私たち人間の身体が仲間の行動と共鳴する身体のつくりから来ているとすれば、真実を知ることはその身体の限界のうちでできることであって、限界を超えることはできない、という注釈が必要だからです。

その限界はどのようなものであるか?宇宙の果てが限界なのか?宇宙の始まりが限界なのか?電子顕微鏡の解像度が限界なのか?素粒子の加速エネルギーが限界なのか?生命の起源が限界なのか?人間の寿命が限界なのか?

それとも、生死、善悪、愛憎、幸不幸、自分の運命や人類の未来を知ることが限界なのか?私たちはそれを知ることができるのか? そういう疑問が出てきますね。しかし残念ながら、私たちがこの身体を持っている限り、その身体がつくる限界そのものを私たちが知ることはできません。

私たちの身体が仲間の行動と共鳴する部分については、私たちは真実を知ることができる。身体が共鳴しない部分については、私たちは真実を知ることができない。そこに限界があることもほとんど知ることはできない。直感で感じ取ることはできません。

私たちはいずれ遠くない将来、自分たちがほとんどすべての真実を知っていると思うようになるでしょうが、それはそういう限界のうちで知っていることでしかありません。

いずれにせよ、私たちは私たちの身体が(仲間の行動と)共鳴しない部分については何も知ることはできません。それらを知ることができないことも(直感としては)私たちは知ることができないでしょう。

35 人間は真実を知ることができるのか? end

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人間は真実を知ることができるのか(11)

2013-09-07 | xxx5人間は真実を知ることができるのか

ガリレオの時代の多数決では、地球は回っていないということが真実。現代の多数決では、地球は回っているということが真実。そういうものが真実です。実際、ガリレオの時代の人々は身体でそう感じていたし、現代の私たちは身体でこう感じているのです。

そういうものが真実ということであるならば、人間は、当然、真実を知ることができる。多数派にとっては、すでに知っていることが真実であるからして、当然、真実を知っているわけです。そして少数派は、その数が減っていき、20%から10%、5%、2%と減っていって、ついには多数派に呑み込まれてしまう。そういうことになれば、多数派の真実が本当の真実になります。そのとき私たち全員にとって、その真実はもともと真実であった、と身体で感じられます。

昔は、地球が回っていると思わない人々がいた、という話は、それはそうだったろうなと思うけれども、それだからといって現代人の私たちが、もともとから地球は回っているのだ、と思うことには変わりがありません。それは真実であるからです。それは、つまり、私たち現代人の皆がそう思うからといえます。

グローバリゼーションが進むにつれ、生活のあらゆる面が、国境を越えて、均質化してきています。特に、科学や経済、あるいは工業、農業などの生産技術や軍事、情報、金融、医学など実務技術さらにそれらに伴ってエンターテインメントや社会習慣、社会常識、社会構造までも国境、民族を超えて均質化していきそうです。そうであるとすれば、世界的規模でますます多数派の知る真実というものの量は大きくなるでしょう。

科学が急速に真実の知識を蓄積しているように、科学ばかりでなく、いずれの人間活動においても、真実の知識は広く深くなっていきます。そうであれば、人間は時代が進むにつれ急速に真実の知識を積み重ねていき、そう遠くない将来、私たちの後輩は、あらゆる問題に関して真実を解明してしまうだろう、という気がします。

地球の表面積は有限であり、人類の数はいくら増加するとしてもやはり有限でしょうから、グローバリゼーションに見られるように、その人々がすべて均質的に同じ文化同じ文明に収束してくるとすれば、同じ問題に関しては同じような行動をとる仲間ばかりとなります。その数十億人、あるいは百数十億人が同じような行動をとることで真実は一つに収束してくる。皆が同じものを真実と思うようになる。現代文明の趨勢、グローバリゼーションはなぜ進むか、それはどうしても進むしかなさそうです。

そうであれば真実は加速度的に解明されていく。その結果、人間はだれもが、自分たちはあらゆることに関して真実を知ることができる、あるいはもう知っている、と思うようになると思われます。

さて人間は、本当に、真実を知ることができるのか? 

この設問に関しての答えが出てきたようです。

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