哲学の科学

science of philosophy

人間は真実を知ることができるのか(1)

2013-06-29 | xxx5人間は真実を知ることができるのか

(35 人間は真実を知ることができるのか? begin

35 人間は真実を知ることができるのか?

全知全能の神がいるとすれば、彼は〈あるいは彼女は〉当然ながら、全知全能である。つまりすべてを知っていて、すべてを行うことができる。一方、人間は神ではないから、局知局能である。つまり局部的に知っている部分はあるが、すべてを知っていることはない。また局部的に行える部分はあるが、すべてを行えるわけではない。であるから、人間が知りえないことは多い。

ではあるが、現代科学、現代文明は爆発的な勢いで発展している。この勢いを見れば、そう遠くない日に、人類は全知全能の神の領域に近づいてしまうのではないか?

コンピュータの能力向上及びそれら情報システムが収集する知識やビッグデータの量が指数関数的に積み上がっていく傾向を見ていれば、素朴に、そう思いたくなります。

人間はいつの日か、すべての真実を知ることができるのだろうか? この問題を、拙稿本章では考えてみましょう。

人間は多くの物事を知っている。他の動物が知らない多くのことを知っています。

人間は、たとえば火星を知っています。火星って何のことか、チンプンカンプン、という人も、案外、多いでしょうが、一方また、火星は地球の隣の惑星である、と知っている人は多い。その知っている人たちは、火星について、どう知っているのか?

望遠鏡カメラで火星を撮影してブログに掲載することができる。あるいは、「火星は太陽系の第四惑星です」と人に言うことができる。「最近、NASAが火星探査機を着陸させたよね」と人に言うことができる。あるいはJAXAのプロジェクトマネジャーになって、火星往復宇宙船を建造することができる。などなどのことができる人は火星を知っている、といえます。

人間以外の動物は火星を知らない。これは間違いありません。チンパンジーが火星を知っているはずがない。動物に限らず人間以外に火星を知る者はありません。

火星人は火星を知っているのではないか?

最近のロボット探査機は火星をくまなく探査しましたが、残念ながら、火星人はいませんでした。そのロボット探査機は火星をよく知っているのではないか?百科事典には火星の記述があるから、その事典は火星を知っているのではないか?いや、そういうのは、単に人間が火星に関する知識をロボットのコンピュータや事典に書き込んだだけで、書き込まれたコンピュータや印刷物が火星を知っているとは言えないような気がしますね。

人間だけが物事を知っているとか知らないとか言える。人間以外のものは、そもそも、物事を知る知らないという概念がない。古来の哲学、認識論ではそうなっています。

現代物理学は宇宙の謎を解明した。物理学者は宇宙の生成と発展の法則を数式で描く事が出来ます。この法則から宇宙に存在する物質とエネルギーと時間と空間の構造が分かります。またそれらの科学理論に天体観測の実測値をあてはめて逆算すれば、宇宙は百三十七億年前に生まれたことが分かります。

現代生物学はまた、生命の神秘を解明しました。生命現象は、核酸とたんぱく質からなる精妙な物質サイクルが数百万年の単位で漸進的に進化していく物理化学過程として、生体分子の立体構造の中で原子間結合が変遷する細密な動的過程が分かってきています。

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この世に神秘はない(13)

2013-06-22 | xxx4この世に神秘はない

暗黒物質が発見されようがされまいが、火星に生物が発見されようがされまいが、医学で性転換できようができまいが、クローン人間が何百人生まれようが生まれまいが、寿命二百年が実現しようがしまいが、そんなことで影響されるような人生は、所詮、勘違いの人生だということでしょう。

未来科学が実現すればなくなるような神秘は、はじめから神秘ではない。科学史を語る先生が、昔は現代科学ができていないからしかじかの自然現象が神秘であったといいますが、現代科学で解明されてしまう程度の神秘は、その時代でも重要な神秘ではなかった、といえます。

たとえば地動説が聖書に矛盾しているといっても、宗教者でもないふつうの人は、もともと聖書など問題にしていなかったので、人生の足場が崩れ去るというような事ではありませんでした。その時代のほとんどの人は、むしろ、科学者などは焼き殺されても焼き殺されなくてもどちらでもよいけれども、坊さんたちが自信を失って厳かに冠婚葬祭を取り仕切れなくなっては困る、と思っていたでしょう。

もちろん、十七世紀以降、科学は飛躍的に発展しました。現代の物理学、分子生物学、脳神経科学などの進展は、軍事技術、産業技術、医療技術などの革新的発展を実現することによって、政治、経済から社会構造、個人の人生までを変化させています。これらの変化に伴って、現代の文学、芸術、社会思想、マスコミ表現さらにはモラルまでが、深く影響を受けています。現代人である私たちが享受している(というか、あるいは投げ込まれている)これらの急速な変化を過小評価することはできません。

しかしながら(拙稿が述べるように)神秘の正体は、私たち人間の身体の中に埋め込まれている神経機構が社会に適応する過程で、作られたものです。そうであるとすれば、外から与えられる科学の知識や産業社会のあり様が時代が進むことによって変遷し、その結果、神秘の対象が移り変わっていくとしても、神秘感そのものが私たちの身体の中から作りだされてくる、というその仕組みは変わらないでしょう。つまり、この世にあるといわれるあらゆる神秘は私たちの身体の中で芯が作られ、時代時代の世の中に合わせて対象を選び、それを仲間と語りやすいような理論の衣にくるまれて現れてくる、といえます。昔は墓場から蘇った幽霊が、今は、放射能に冒された廃墟からゾンビとなって現れるという具合でしょう。

神秘といわれる物事は、単に未知であるとか、曖昧、朦朧として見えにくいというだけではありません。そのあり様が私たちの身体に響いてきて恐怖や不安や希望や期待を与える力を持ったものです。ある物事が私たちの身体に深く響くとすれば、それは身体の構成に共鳴しているからといえます。そういう物事は、私たちの外側にあるというよりも、むしろ内側にあるものだ、といえるでしょう。

ここで、神秘は、私たちの外側にあるものではなくて、むしろ私たちの内側にあるものだと言い切ってみましょう。もっと強い言い方を採って、私たちの人生にとって大事な物事は私たちの外側にはない、と言い切ってもよいでしょう。そうであるとすれば、神秘は私たちの外側にはない。つまりこの世というものが完全に私たちの外側にあると思うならば(実際、私たちはふつう、現実のこの世は、私たちの内面とは関係なく、客観的に実在しているものだと思っています)、そこには人生にとって大事なものはない。したがってこの世に神秘はない、といえます。

(34 この世に神秘はない end

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この世に神秘はない(12)

2013-06-15 | xxx4この世に神秘はない

一方、人々の語っていないところに実は本当の神秘がある、この世のどこかにだれにも知ることができない大きな未知がある、あるいはこの世で最も大きな未知を人間は知ることができない、というような考え方(不可知論という)もあります。考え方というよりも、だれもがそう思う、といってよいでしょう。これは、むしろ当たり前の考え方といえます。

 

人間は(拙稿の見解によれば)だれも、自分が知らないことはたくさんあると思っています。その未知のものに、恐れや神秘を感じることは多いでしょう。そうであれば、この考え方が広く語られているのはもっともだと思われます。しかし広く語られているからといって間違いがないとはいえない。世間でよく語られるこのような不可知論もまた(拙稿の見解によれば)、実は間違いです。

 

そもそも未知の未知がある、という言い方はおかしい。そう言いたい気分は何となく分かりますが、よく考えると、この言い方は何も表していません。人間が知り得ない何かがあるはずだ、という言い方は、その言葉の使い方に無理があるからです(拙稿32章「私はなぜ現実に生きているのか?」。「知る」とか「ある」とかの言葉の使い方が間違っています拙稿24章「世界の構造と起源」)。

 

つまり(拙稿の見解によれば)何らかの物事がある、ということは、それを仲間と一緒に見ることができる、それに関して皆が一緒に何らかの働きかけをすることができる、ということです拙稿24章「世界の構造と起源」。そうであれば、だれも知り得ない何かがある、ということが起こるはずはありません。もし、だれも知り得ない何か神秘的なものがある、と思えるような気分になったとしても、それは錯覚あるいは曖昧性というべき事柄でしょう。逆に、神秘といわれているものの多くは、このような錯覚あるいは曖昧性が絡んでいて、仲間が皆いっせいに何事かを見たような気分になっていて、しかもそれが何事かは朦朧として明らかではない、というような場面で起こるようです。

 

こういうように、世間によく言われている神秘(天変地異や幽霊や地獄や輪廻応報やゾンビや運命の女神など)は、実際にあるとはいえないし、だれも知り得ない(不可知論的な)神秘というものも、実はない、ということになると、この世のどこにも神秘はないことになります。昔の賢人はそう考えた、と思われます。

 

 

 

それにしても、悟りすました賢人といえども、だれも語らない全く未知の神秘というようなものがない、ということをなぜ言い切れたのでしょうか?私たち凡人は、とてもそう思えません。現代科学でも暗黒物質や生命の起源は神秘だと言われているではありませんか?昔の人は科学を知らなかったために未知の神秘の存在を知らなかっただけである、ともいえるのではないでしょうか?

 

調べてみると、実は、昔の賢人は未来の科学をかなり的確に予測していたようです。十七世紀に近代哲学を創始した大哲学者は、物理学から医学まであらゆる科学の法則が実験にもとづいて発見され数学を用いて整然と表現されるという現代科学の様相を的確に予見していました(一六三七年 ルネ・デカルト方法序説』既出)。十八紀のガリバー旅行記(一七三五年 ジェナサン・スウィフト「ガリバー旅行記」)には超長寿人種の国が出てきますが、今日の少子高齢化日本を見てきたように描写しています。昔の賢人たちは、ときどきこういう未来科学のことを書いていますが、後世の私たちが想像するほど、彼らは未来の科学によって世界が大変化するとは思わなかったようです。

 

つまり彼らは未来科学が人生観や世界観を一変するなどと思っていない。科学の発展で変わるような人生観や世界観は所詮、錯覚の上に作られている仮想の人生や仮想の世界でしかない、と思っていたのでしょう。コペルニクスの地動説が出て世界が転回したときでも、物事がよく分かっている賢人は、ローマ法王とキリスト教の坊さんたちが困るだろうと思っただけで、人生の現実は何も変わりはしないと知っていたようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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この世に神秘はない(11)

2013-06-09 | xxx4この世に神秘はない

さて、神秘は(拙稿の見解によれば)このような理由でこの世からなくなることはないと思われます。しかしながら拙稿がここに述べるように、あらゆる神秘は、現代科学の知識などを使って冷静にしっかり見つめれば、その実体はすべて消えてしまうものです。これは現代科学の知識が発展したからであると思えますが、実は、そうではありません。そもそもあらゆる神秘は、幽霊のようなもので、冷静に見つめられると、消えてしまうようなものである、といえます。実際、現代科学の知識を使わなくとも、あらゆる神秘が虚妄であることを見破ることはできます。

 

この世とはいったい何であるのか(拙稿24章「世界の構造と起源」 )、という本質的な疑問は昔からありました。昔の賢人は、現代科学を知りませんでしたが、神秘感に惑わされずに、直感だけで世界の存在のあり様を見破っています。

 

 

この世にまことに新しいものなどはない(sub sole nihil novi est.)という古代ローマ人の格言が残されています。論語にも、神秘を語る必要などない(子不語怪力乱神、子は怪力乱神を語らず)、とあります。つまり、昔の賢人は、現代科学は知らなくても、この世に本当は神秘などない、と言い切ることができた、ということでしょう。

 

壇ノ浦に沈む平家の大将が、世界のすべては自分が見たとおりのことでしかない(見るべき程の事は全て見つ。今はただ自害せん」平家物語)というようなことを言って死んだそうです。神秘はそれが神秘と思いたい人には神秘であるが、現実を冷静にながめている人は、現実の中に神秘があろうがなかろうがたいした問題ではない、と考えるのでしょう。

 

昔の賢人は、物理学も生物学も知らなかったのに、なぜ天変地異や幽霊や地獄や輪廻応報やゾンビや運命の女神に神秘を感じなかったのでしょうか? 昔の一般人も知識人も皆そういうものを心から恐れ敬いながら生きていたはずです。

 

おそらく昔の賢人は、まず人間というものをよく見抜いていた、と思われます。人間が未知を恐れ、伝聞に惑わされて、実体のないものから神秘を作り上げてしまう、ということをよく知っていたのでしょう。

 

そうであれば、人々の語る怪力乱神、妖怪異変など神秘のたぐいはみな、それが怖そうで神秘的であればある程、実は実体がない、と思って間違いがないことになる。つまり、逆説的ですが、多くの人々が天変地異や幽霊や地獄や輪廻応報やゾンビや運命の女神に神秘を感じるということが事実であるならば、その事実がまさに、それらの神秘が実は存在しないということを示している、といえます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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この世に神秘はない(10)

2013-06-01 | xxx4この世に神秘はない

人類が社会を作り、狩猟採集社会から農耕牧畜社会を経て(爆発的な生産性を獲得した)現代産業社会に至る各過程で、理論は洗練され、それに伴って、同時に神秘への感受性も洗練されてきました。人類の社会を維持し生産性をさらに向上させるような理論と神秘が、(集団的に文化として)次々に作られ発展し、継承されていきます。

現代人が神秘を感じているここに挙げたような概念(宇宙、命、心、内面、自分、意識、運命)も、狩猟採集時代から近代に至るまでの社会に、少しずつ変化しながら、それぞれぴったりと適応し、それぞれの社会を維持する機能を持っていたに違いありません。

これらの社会維持機能が現代社会でも働いていることを確かめるには、次のような思考実験をしてみるとよいでしょう。

これら(宇宙、命、心、内面、自分、意識、運命)の神秘はすべて否定できるという拙稿の見解が、もし仮に(何かの間違いで)世の中に広く受け入れられてしまった場合、現代社会はきちんと維持できるでしょうか?

まず、宗教は崩壊します。学校教育も何を目標にしたらよいか分からなくなる。たぶん道徳も危うくなる。命を守れ、などという言葉も意味がなくなる。政治活動も何をスローガンにしたらよいか分からなくなります。自分というものがはっきりした存在でないということになると、旺盛な自己顕示や権力欲も所有財産の意味もぐらついてくるので、ビジネスも活気が保てなくなる。科学や学術の神秘性も薄れてきて、献身的な研究意欲は期待できません。

逆に、なんでもあり、ということになるので、芸術やエンターテインメントは活発になる可能性があります。しかし優雅で美しい社会が到来するかどうかは疑問です。ビジネスの衰退に伴って、防犯、防災やサービス業を支える勤労者層の勤労意欲は減退するので、富裕層も安全で快適な生活は難しいでしょう。

こう書いていくと、なにか、中世の暗黒時代のような倦怠に満ちた不活発な社会のイメージが浮かびますね。こうなってもよいのでしょうか?

もし、よくないというならば、神秘はなくすべきではない。現代社会の安全と快適性を維持するために神秘はなくなってはならない、と思えますね。つまり、筆者としては残念ではありますが、拙稿の理論が世の中に広く受け入れられてはならない、という結論が導けます。

現存する社会はたいてい安定しています。安定している人間の社会というものは、生物体と同様に、進化の結果、劣化を避け活性を維持するような機能を持っているはずです。そのような社会を維持する機能は、もともと私たちの身体の構造に埋め込まれている、といってよいでしょう。つまり人類の身体の構造によって維持されている現存社会は、劣化を避け活性を維持するようにできています。したがって人類の身体の構造にもとづいて現存している社会は、あらゆる神秘を否定するような考えをはびこらせることはあり得ないでしょう。

言い換えれば、この世に神秘が存在する理由は(拙稿の見解によれば)、そのような神秘を感じ取る神経機構がすべての人間の身体に埋め込まれていて、それによって人間の社会が維持されているからといえます。

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