拙稿の見解では、お金という概念は、通貨や、価格や、為替、利率、マクロ経済などという現代の経済現象ばかりではなく、ずっと深く人間の身体構造に埋め込まれている機構であると考えます。そこに興味がある。
お金は明らかに価値がある。価値があるからお金として使われている。その価値とは何か、それは言葉では言いにくい。言えないことはないが、言葉にすることで意味が歪んでしまいます。
人類は、通貨が発明されるよりずっと昔から価値というものに敏感だった。むしろ、通貨を知らない人々の方が物事の価値に敏感だったと思われます。狩猟採集の原始時代から、人々は生活の上で何がどれくらい大事か、ということをよく考えていた、よく知っていた、と思われます。そうでなくては厳しい自然環境を生き抜いて子孫を残すことはできません。物事の価値を、正しく、よく分かっていた、ということでしょう。
そのころの人々が感じ取っていた価値という感覚を、現代人が感じ取るお金の価値というものと同じものではないか、つまりある環境での、ある場面に決定できる金額という数値としてよいのではないか、と考えることができそうです。
価値という感覚が人間の身体の機構から生じる重要な機能であれば、お金が発明される前から重要であり毎日の生活で使われていたはずです。貨幣を知らなければ金欲とか財力とかは発生しない、と考えるのはおかしいでしょう。逆にその感覚が人間の身体の深いところから発生しているからこそ、お金が発明されてからこれほど歴史的短期間に貨幣経済、グローバリゼーション、財力、お金の支配、というものが完成したといえます。
貨幣がなかった時代、たとえばA君は熊の毛皮二十枚と石の矢尻二十個をB君に贈る。代わりに、B君は娘を嫁にやる。この場合、A君とB君とは価値の感覚を共有していたと考えることができます。貨幣があれば、たとえば五百万円の取引だということになる。貨幣というものがない時代、A君とB君とは現代人が感じる五百万円という価値を感じ取ることはできなかったでしょうか?たぶん、A君とB君は、現代人よりも鋭い感覚で、今でいう五百万円に相当する価値を感じ取っていたでしょう。
自分にとっての価値をはっきりと感じ取る感覚が人間の身体には備わっている。身体が自然にそれを感じ取る。感じてしまう。その感覚にもとづいて貨幣はその力を働かせることができる。貨幣はその力によって商品の価格を定め、物を動かし、人を動かす。と考えることができるのではないか。
裏返せば、金銭感覚といわれる感覚が人を動かす、ともいえます。
貨幣の力は、物質の重力が質量に比例するように、その額面金額に比例します。重力が質量の和に比例するように、貨幣の力は額面の合計額に比例します。逆に言えば、そうであるから貨幣は交換の対象となっている、といえます。
貨幣の力が物やサービスに及ぼす作用は、このような加算性と交換可能性によって、水が低い方へ流れるように、高い価値がある所にあるものを低い価値の所へ押しやる。つまり水面を平にするように、物の価値を平衡させる力となっています。この平衡法則が市場という場を導くことは古典経済学の基本理論です。