集団的運動共鳴と拙稿が名づけた脳内現象は、現時点では残念ながら、神経生理現象としては同定されていません。拙稿の見解では、集団的運動共鳴は群棲霊長類の群行動から発展した。動物あるいは人間の群行動の研究は、動物行動学、社会生物学、進化心理学などで理論的に研究されている。また、実用目的で、群集行動、経済行動、魚群探知、協調行動ロボット、などの研究がある。いずれも独立した(自己保存などの)目的を追求する個体が自律的に行動する結果、集団として顕著な群行動現象が起こる現象を扱っている。これらの研究は、個体を単位とする集団のメカニズムを対象としていて、ミクロな神経回路のレベルでの研究はなされていません。これは、脳内神経現象を精密に測定する技術がまだまだ未熟で、神経回路の作動を物質現象として観測できないからです。いわば、DNAを知らずに研究していた二十世紀前半ころの生物学にあたるのが、現代の脳神経科学、というところですね。
脳内神経回路の働きに関して、神経細胞間の連結構造(神経ネットワークという。一九四九年 ドナルド・ヘッブ『行動の組織化』既出)が決定的に重要であることは、この半世紀の脳神経科学の発展によって明らかになっています。しかし、認知、記憶,想起、などマクロな認知現象と神経ネットワークのミクロな作動による表現との対応は、残念ながら、いまだに明らかになっていません。物質現象としての運動共鳴の解明は、(かなり先の時代になるであろう)次世代の(ポストヘッブ?)脳科学パラダイムの出現を待つしかないでしょう。
ちなみに最近の神経科学における興味深いテーマとして、神経細胞膜電位の脱分極(発火)の時間変化が認知と深い関係にあるらしいという予想(一九九九年 マイケル・デンハム『学習と記憶の動的過程:神経科学からの知見』)が提唱されている。このような予想が正しいとすれば、拙稿のいう集団的運動共鳴が、視覚聴覚信号の処理による他者の運動認知の表現と体性運動感覚信号の処理による自分の運動制御の表現と、それぞれを表現する神経細胞群の発火の時間的空間的干渉あるいは(周波数その他の発火頻度を媒介とする)制御系共鳴を下敷きにしている、と予想したくなります。
あるいは、単に、集団的運動共鳴は通常の運動制御とまったく同じ神経回路が使われているのかもしれない。このあたりの脳内メカニズムをぜひ知りたいと思いますが、現状の脳活動計測技術は、こういうレベルの現象の検知には、精度がまったく足りない。通常の運動制御メカニズムでさえも、神経ネットワークのミクロな作動のレベルで解明されてはいない。したがって、現時点では運動共鳴などさらに高次の機構に関する仮説は検証の仕様がない。ということで、まあ、こんなことを言ってみたところで筆者の個人的楽しみというだけのことです。
閑話休題、言語問題に戻る。さて、日本語で「リンゴ」と言ったとき、日本語が分かる話し手と日本語が分かる聞き手の脳の状態が、部分的にですが、同じになるはずです。ここで、こういう場合に脳の状態が同じになるということは、物質的にはどうなっているということなのか? まず、それが問題ですが、実は、そこのところは現状の科学ではよく分かっていません。
話し手と聞き手と、二人の脳の内部が細胞単位で目に見えて、しかも二台の同型コンピュータのように、神経ネットワークのつながり方がまったく同じであって、それぞれの神経ネットワークの内部状態が対応できる、とすれば簡単ですが、そうではないようです。脳内では、どうも、密生する多数の神経細胞の個々の活動状態から、多数決とか、合計値ベクトルとか、株価のようなもので決まる、特定の集団的内部状態が、特定の語、たとえば「リンゴ」という言葉のイメージを表しているらしい。「リンゴ」という語の話し手と聞き手で同じになる脳の状態というのは、これにあたるでしょう。そうだとすると、脳のそういう内部状態というものは、コンピュータ理論でいう内部状態というようなしっかりした定義には当てはめられない。デジタルな数値で表されるようなものというよりも、微妙な印象とか、色合いとか、味わいとかいうような感じでしょうか?
いずれにせよ、そういう話も、科学の現状では、たぶんそうであるらしい、というくらいで、はっきり分からない、らしい。現在、世界中の脳神経科学者たちは、これを解明するために懸命な研究を続けていますが、むずかしい。現在あるものよりも、桁違いに精度のよい測定装置が必要だからです。望遠鏡で火星を観察していても岩石の模様は分からない。火星着陸船が必要です。
将来は、神経細胞がネットワークとしてつながる連結部の変化を見分けられるような精密な測定ができる技術が開発されるでしょう。しかし現在の技術では、ネットワークのつながり方が分からない単発の神経細胞の活動電位、あるいは多数の神経細胞集団の統計的な活動が大雑把に観察できるだけです。理論的には、言葉に特有の神経ネットワーク(の集合)が特定の内部状態を持つと想定できますが、その具体的な構造は分からない。もちろん、残念ながら、「リンゴ」という語に対応する神経ネットワークがどれなのか、どういう内部状態を持つのか、それは人によってどの程度違うのか、どこが共通なのか、そういう問題の答はまったく分かっていません。
今している話では、とりあえず、話し手と聞き手の二人の脳のその部分の内部状態を交換してもそれによる変化は起きない、という場合に、それらは同じ状態である、ということにしましょう。交換可能なその内部状態は、実際のリンゴを見たときの経験と、深く関係する脳の状態です。実際のリンゴを見たときの脳の状態(身体運動‐感覚受容シミュレーション)を思い出す、という場合の脳の内部状態です。「リンゴ」という語は、話し手と聞き手の双方の脳をそういう同じような状態に持っていく信号になっているはずですね。リンゴに関する共通の経験、というのは、そういうことでしょう。
この仕組みで、「リンゴ」という語は、話し手と聞き手のどちらにとっても、実際のリンゴの経験に対応がつく。この仕組みがうまく働くためには、話し手と聞き手が、リンゴに関して似たような経験を持っている必要がある。話し手がリンゴをリンゴだと思っているのに、聞き手がナシをリンゴだと思っているとすると、会話はつながりません。
日本語の使い手は、だれもが、本物のリンゴをよく知っていて、その本物のリンゴを本物のリンゴだと思っているから、日本語が使える。つまり、日本人はだれもが、脳の中に、本物のリンゴに関する共通の経験を思い出せるような、「リンゴ」という日本語にぴったり対応するリンゴらしさ、リンゴのイメージ、を表現する身体運動‐感覚受容シミュレーションを持っている、といえる。
ちなみに、拙稿でいう身体運動‐感覚受容シミュレーションが、脳神経系において、どのような物質現象として表現されているかについては、残念ながら、現在の脳神経科学の知識では、はっきり分かりません。一般に、学習と記憶という現象は、先に述べた神経ネットワークの連結構造の可塑性(連結部の物質変化)として物質的に表現されているという予想が神経科学者の間では主流になっています。この予想が正しいとすれば、身体運動‐感覚受容シミュレーションも学習と記憶によって脳内に形成されるので、同じように神経ネットワークの連結構造の可塑性(たぶん冗長性が非常に高い多数のネットワークの統計的特性値)として表現されているのでしょう。
いずれにせよ、リンゴという果物を見たり触ったり食べたりした経験から学習された、リンゴに関する身体運動‐感覚受容シミュレーションは、記憶として脳内に保存される。別の機会に、別のリンゴを見たり、食べたり、思い出したりするときに、そのシミュレーションが記憶から呼び出される。呼び出されたそのシミュレーションは、私たちの筋肉や唾液腺を動かしたり、あるいは動かさずに、脳内で、それらへの運動指令信号の準備だけをしたり、イメージを浮かべたり、関連する物事を連想させたり、する。
私たちが言葉を覚え始める幼児のころに、リンゴという果物を見たり触ったり食べたりするとき、ふつう、その経験を仲間の人間と共有する。自分ひとりだけでリンゴを見たり触ったり食べたりするが、自分以外の他人がリンゴを見たり触ったり食べたりするところを見たことがない、という人は、まずいないでしょう? 幼児が、その物質をリンゴだと思うようになるときは、必ずママとかだれかが一緒にいて、リンゴを一緒に見たり触ったり食べたりしていたはずです。つまり、リンゴに関する経験の身体運動‐感覚受容シミュレーションは、ふつう、人間仲間と、集団的に、リンゴについての運動共鳴を起こす経験を含んでいる。こういう場合には、(拙稿の見解では)言語が形成される条件が整っている。実際、そうして幼児の脳内にリンゴに関する集団的運動共鳴のシミュレーションが作られた後で、ママなど周りの人間がリンゴを一緒に見たり触ったり食べたりするその運動に伴って頻繁に発声する音声「り・ん・ご」が条件反射として連結して、「リンゴ」という語ができる。
言語は、(拙稿の見解では)このように集団的運動共鳴が起こった身体運動‐感覚受容シミュレーションに恣意的な音節列記号が連結することで作られる。「リンゴ」という語は、実際のリンゴに関する経験から学習された身体運動‐感覚受容シミュレーションに、音声発音運動の学習により条件反射として結びついた「り・ん・ご」という音節列が組み合わされた神経ネットワークの内部状態(連結部の可塑性)として脳内に記憶されている。「リンゴ」という発音を聞いたとき、あるいは字を読んだとき、私たちの脳内では、その神経ネットワークの連結構造を、学習時とは逆方向にたぐって引き出されるリンゴの身体運動‐感覚受容シミュレーションが浮かび上がる。そのとき、私たちの身体は、自動的に(条件反射として)、リンゴの形や色のイメージを思い浮かべたり、リンゴを食べたくなったりする。