これは、現代人の脳が、生存繁殖に役立たないほうにずらされてきているということでしょうか? いや、そういうことは、まずないでしょう。人間は、予測する能力を持っているけれども、うまく予測できないときは適当に諦める、という能力も持っている。「分からないことを、いつまでも悩んでいてもしかたないや。くよくよ考えるのは、もうやめだ」と思うわけです。現代哲学の開祖と言われる大哲学者も、「言葉で言えないものはどうしようもない」というようなことを言っています(一九二一年 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』)。ふつうの大人は、もちろん、哲学の問題のようにはっきりした解決がなさそうな物事にいつまでもかかわっていてはいけない、と常識的に考えます。そのバランスで、現実の世界をうまく生きていくのです。
西洋哲学の開祖といわれる古代ギリシアの哲学者ソクラテスは、「知らないということを知ることが大事なことだ」などと言ったと伝えられていて、哲学の教科書には、それが立派な認識(知を愛する、愛知=哲学のこと)なのだ、と書かれています。しかし、筆者に言わせれば、それはあまり立派な認識ではなくて、むしろ、「知らないということを知らないことが大事なことだ」とでも言ったほうがよかったと思います(その場合、教科書には載れませんが)。
世の中の物事は、分らないと言い出せば、実は、だれにも何も分らないことだらけ。そうではあっても、分らないと気づかずに自分は何もかも大体分かっていると思い込んで行動するほうが、たいていはうまくいくものです。とにかく人を説得するには、分かったふうな顔をして分かったふうに語らなくては、だれもついてきてくれません。哲学は不要という哲学を持つ。そのためには、自分に対して理由のない自信を持たなくてはだめです。つまり、自分が知らないことはたいしたことではないのだ、と信じている人のほうが世の中で成功する確率は高いでしょう。
そういうことで大人になった人間は諦めが早いのですが(筆者のような中高年は特に早い)、諦めの能力は青少年ではまだ発達していません。それで実際、他の年代よりも青少年が一番、哲学的疑問にも悩む。しかし、幼稚園のとき、サンタクロースのことで大人には不信感を持たされたし、小学校に入ったころに「ぼくはどうやってお母さんのお腹に入ったの?」と聞いて、ちゃんと答えてもらえなかったりするので、ふつう大人には大事なことを聞かなくなります。それでも、夜中に一人で悩んだりします。「自分は頭がおかしくなっていて、今見ているのはバーチャルな世界で本当の世界じゃないのかもしれない(この問題を偽現実と称してこれを研究テーマにしている若い哲学者がいます)」とか、「私はもうすぐ大人になっちゃうけれど、今ここにいる子供としての自分の命、自分の人生、自分の幸福、とかはどうなるの?このまま消えちゃっていいの?」とか、「自分が死んじゃうのはいやだ。すごくこわい」とか、小学生が深刻に悩んでいたりします。思い切って大人に相談しても、「君らはまだ若いから、人生を知らない」とか言われてすぐ質問は終りにされてしまいます。そうかなあ、大人になればなんでも分かるようになるのかなあ、と思い、少年少女は疑問を先送りにします。
実は、大人は人生の真理を知っているわけではなく、忙しくなってそんなことを考えなくなるだけなのです。中学生も三年生くらいになれば勉強か部活動に忙しくなる。高校生になれば、受験やセックスのことを懸命に考えなければならないので、よけいに忙しい。さらに二十代以上になれば、就職恋愛結婚育児、仲間付き合い、ギャンブル、スポーツ。子供の世界と違って、大人の世界には夢中になれるものが多い。夢中にならなければ幸せになれない。夢中になれば幸せになれます。
大人は、特に、社会的地位の確保、生計の維持、蓄財と自分や子供の出世、そのためのビジネスと人付き合い、情報収集、などなどに熱中して忙しく、他の問題は忘れてしまいます。現代、特に、確実にお金を稼げるビジネスは、どの人間にとっても魅力的になっています。お金を稼ぐという表向きの目的ばかりでなく、実は、仕事といわれるものは、社会的認知を得て自尊心を満たすために必要とされます。さらに、ワーカホリック(仕事中毒)という言葉があるように、ビジネスは、それ自身が麻薬の働きを持っています。脳神経が休みなく刺激されて神経伝達物質を分泌させられるので、継続的に興奮し続けたくなり、仕事というゲームに熱中させられるのです。
育児やビジネスやギャンブルのように、いつも熱中できることがあれば、人間は、ややこしくてわずらわしい問題を忘れることができます。解決不可能な問題はとりあえず放っておいて,手近の雑事をこなす、現実というゲームに集中する、という大人の態度を身につけるわけです。最近の情報戦略論では、「一定時間に解決しない情報探索は中止してしまって、最新で多数の人が検索している情報の検索に集中する」という単純な戦略が実務上成功しやすい、という理論が提起されています(二〇〇〇年 ゲルド・ギゲレンツァ、ペテル・トッド他『かしこい単純発見的方法』』)。
人生において、こういうやり方は悪いことではありません。いつまでも答えが出ない哲学のような難問にこだわるのはやめて、最近流行っていること、多数の人がしていること、に取り組んで毎日がんばればよろしい。逆に言えば、何でもよいから多数の人がしているような、毎日しなければならない仕事のようなものを持つ、ということが、大人になる、ということなのです。
社会で仲間に認められた役割を果たす。社会的安定、経済的成功を目指して努力する。家族を養い育てる。こういう現実のゲームを始めると、毎日忙しくてたまらない。ストレスも多く、苦しいことが多いが、それでも結局は無事に生きていける。その毎日の生活を守るためにがんばる。自分がいま幸福かどうか、などと考えない。実際、人間の本当の幸福はこういうところにあるのでしょう。そういう意味で、大人は子供よりも幸福なのです。
脳が備えているこういう能力、〝現実主義〟が十代後半から三十代にかけて徐々に発達するおかげで、人間は、神秘的な哲学の謎などに悩まされずに、上手に生きていかれるのです。
余談ですが、最近筆者は、アマチュア的興味から各世代の書くブログを拝見していまして、それぞれの世代の特徴を見分けられるようになりました。十代前半くらいの少年少女の日記が生き生きしていておもしろい。二十代の学生、大学院生、職探し、フリーターの人たちのものがまた、おもしろい。三十代の子育て主婦の書くものが実におもしろい。リタイアしたシニアのものもおもしろい。それ以外の高校生、安定したサラリーマンなどはあまり面白いことは書かないようです。精神的に忙しいのでしょう。目の前の仕事、課題と毎日の仲間との付き合いに忙しいように見えます。素人の観察で、いいかげんで偏見が入っているといわれそうですので、これだからどうだとかいう主張はしませんが、個人的には面白いと思いました。社会学者の研究が期待されます。
閑話休題。さて、人生におけるこういう社会的成長の仕組みはうまく働いているようです。もともと人間は、外界の現実、人間関係(社会的関係)に興味を持ち、それを材料にして現実世界の中で何かをしていくようにできている動物なのでしょう。いつまでも自分探しをしたがる哲学少年少女のように、外界を無視して自分の内面だけを見つめても、何も見つからない。肉の存在を無視してひき肉機の存在意義をいくら考えても何も分らないわけです(一九三〇年 バートランド・ラッセル『幸福の達成』)。
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五億六千五百万年前の海を泳いでいた脊椎動物の先祖に当たる脊索動物の中に、頭を海底の岩に接着させて固定生活を始めたものがありました。海底に根付いて流れてくる栄養物を食べるだけで何もせず何も考えず楽に生きていかれるように進化したのです。脳や脊髄になるはずの神経系も退化してなくなり、消化器と生殖器だけが残りました。それが現在のホヤの先祖です(二〇〇四年 リチャード・ドーキンス 『先祖の物語』)。ホヤは幼生期には運動器と脳神経系を持ち海中を遊泳しますが成体ではそれらが消失して固着生活に入ります。海底に根付く能力を獲得しそこなった脊索動物の別の兄弟の子孫は、大人になっても固着できないので、しかたなく一生泳ぎ続けてやむをえず運動器と脳神経系を発達させた。そのうちの一派であるナメクジウオの祖先から魚類に進化するものがあり、その子孫は、両生類になり爬虫類になり、人間を含む脊椎動物全体になった。
人間も成人すると固着して何も考えなくなるという遠い従兄弟(ホヤ)の人生(ホヤ生?)設計をどこかで記憶しているのでしょうか? 遊泳し続けるか、固着生活に入るか。どちらが幸せだったか、ホヤに聞いても分からないでしょうね。
ものを考えない固着成体になるかならないか、人間は小学生の頃に一番悩むわけです。
まあしかし、拙稿としては、ここでは歳若き哲学少年少女(および少数の年長の人々)のように「命、心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義・・・」というようなものにこだわって、それらが何であるか、もう少し考えていきましょう。
筆者は、社会生活も一応は経験して、これから老年に入るところですが、曲がる背中をちょっと延ばして、命や心や自分の問題で頭がいっぱいになっていた少年のころを思い出してみようかと思います。とっくに捨ててしまったその幼いこだわりを、もう一度探し出し拾い上げていくことを、読者の皆さんと一緒に楽しめるかもしれません。
そうすれば、哲学がどこでどう間違えていったのか、そして私たち現代人は、どうすればその間違いから脱出できるのか、分かってくるかもしれませんよ。
なぜ、哲学は間違うのか?
なぜ、人を殺してはいけないのか?
なぜ、全裸で街を歩いてはいけないのか?
そういうことはなぜなのか、どういうことなのか、分かってくるでしょう。
人の命、人の心、欲望、存在、言葉、自分、生きる、死ぬ、愛する、憎む、幸福、不幸、世界、人生、美、正義、全裸・・・。こういう存在感の強い言葉は、いったい何を意味しているのでしょうか? 私たちは、こういうものに囲まれて、それらをどうしようかと考えることで、毎日を生きている。
それなのに、こういうものたちは、科学ではまったく捉えられない。科学者はこれらを説明できないばかりでなく、なぜ説明できないかも説明できません。これが表しているものが物質そのものとして示せないからです。こういうものたちは、人間の脳の中にしかない錯覚なのでしょうか? そういう錯覚がなぜ、こんなに強く人間の感情を揺すぶるのでしょうか?
こういう言葉が表している目に見えないものたちと、それを思い浮かべるときに私たちの中で湧き上がる強い感情は、目に見えるこの物質世界の中にはないとすれば、この物質世界とどういう関係になっているのでしょうか? 拙稿の第二部では、これらの錯覚のようにも思える感覚や感情の作られ方を調べることからはじめます。また同時に、それでは科学の対象であるところの客観的な物質世界とは一体何なのか、という問題をも並行して考えていこうと思います。
(5 哲学する人間を科学する end)
(第一部 哲学はなぜ間違うのか end)