私はこう動く、と思ったときはもう身体はこう動いています。0.1秒くらい前から。それから、私はこう動く、と思う。そのときに自我が自覚できます。身体が動いていても「私はこう動く」と思っていなければ、自我は自覚できない。自分の動きを記憶していません。
過去(と自覚できるような過去の)の記憶は自我意識があるときになされて、それ以外のときにはなされません。過去の出来事と思える記憶はたしかに過去の現実を記録しているといえますが、その現実はかならず自我意識を伴っている。客観的に俯瞰した自分が関わっている現実世界の記録となっているはずです(エピソード記憶という)。
この種の記憶は人類に特有の機構であって人間以外の動物(および言葉を話せない幼児および認知症の老人)にはありません。自我が、(他人の視座から見た)客観的世界の認識を下敷きとする人類特有の神経現象であるため、といえます(拙稿12章「私はなぜあるのか」)。
ちなみに言語もまた人類特有の神経現象ですが、これもまた(拙稿の見解では)人類だけが、他の動物と違って、客観的に俯瞰した現実世界を認識しているためです(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」)。
さきに自我は客観的部分と主観的部分とからなる、と述べましたが、記憶に伴う自我意識が客観的世界の認識を下敷きとするとすれば、それは主観的部分を含まないはずです。たしかに記憶の中の私は、主観的な身体の感覚や感情をしっかり伴っていません。
主観的な感覚や感情がおぼろげに記憶されているとしてもそれは身体が反射運動をした場合の痕跡記憶でしょう。反射運動からさらに客観的な言葉になっていれば記憶は確かになります。独り言のようにつぶやいた内容が感覚や感情の記憶として、はっきりと記憶されているようです。
「恐ろしくて逃げたかった」とか「悲しくて泣きたかった」と思ったことが、その時の周囲状況(コンテキスト)の記憶を伴って、記憶に含まれている場合があります。私たちはこれを感覚や感情の記憶として思い出します。感覚や感情そのものが記憶されている、というより、(「悲しくて泣きたかった」などという場面の)コンテキストに惹起されて感覚や感情が再生成されたとみることができます。
記憶の中からこのような形で過去の感覚や感情を想起できることから、それをもって、記憶が主観的であるということもできます。
これらは、しかし、主観の形を取ってはいても(他人の過去の心理を推測して、それをその人の主観的記憶であるということと同様に)客観的な世界の記録としての記憶から惹起される主観的な感覚ないし感情であり、あるいはまた言語による客観的な自己の観察から引き起こされる感覚感情でしょう。
自分の身体の反射運動を感じてそれをはっきりと記憶することで私たちは自我を意識する。自分がここにいるとか、自分が何かしているとか、いわゆる自我の存在を感じます。
人間だけが自分の行動を長期的に記憶できる。自動運転自動車は自動的にブレーキをかけるが自分のしているブレーキ動作を自覚していませんね。まあ、「何時何分うまくブレーキングできた」などと記憶するようにプログラムを組んでおけば、その限りで自動車は自我の片鱗を持っている、ともいえます。
私にとって私とは何か?私がこう動こうと思ったときにやはりこう動くと予測できる身体が私である、といえるでしょう。
私にとってA君とは何か?A君に見かけがそっくりで、しかもA君がこう動くだろうと思った通りに動く身体がA君である。つまり、私の神経反射ネットワークに働いて作り出す予測の動き方が(私が以前から持っている)A君というテンプレートにマッチすれば、それはA君である。これ以外にA君のパーソナリティというものがあるわけはありません。
私にとっての私、私が私だと思っているところの私、つまり私の自我の客観的な部分、というものも、A君のパーソナリティとだいたい同じことです。A君が私に置き換わっただけ、といえます。
自我の認識が他人の認識と違うところは、その入力信号が視覚や聴力など遠隔情報ばかりでなく、体感、体性感覚などが活用されるので情報量が大きくなることです。それら情報に喚起される反射が自我の自覚体感を作り出しています(拙稿12章「私はなぜあるのか」)。
明るくなると目が覚める。朝になった、と思います。身体が朝を感じたように動くから、朝になったと思う。そういう身体の動きをここでは無意識の反射ということにしましょう。
無意識の反射というものが私たちの認識の根底にあることを忘れがちです。というより、まったく自覚していないから無意識というわけです。
目に向かって黒いものが飛んでくれば目をつぶり顔をそむける。防御反射といいます。人間ばかりでなく、サルでもイヌでもキジでも、石を投げつけられれば飛び退いて逃げる。その反射が予測を作り、現実認識を作っています。
私たちは、動物のこういう反射行動を見ると、石があたって痛い思いをすることが予測できるから逃げる、と理解します。実際は逆ではないでしょうか?身体が逃げるから石が飛んできた事が分かる。それが痛そうだと分かる。そこから石の衝撃が予測できる、という順でしょう。
言葉を持つ人間の場合、さらに次の瞬間に「あたると痛そうだからすぐ逃げよう」と言葉で思う。実はもうすでに身体は退避行動を実行してしまっている。
言葉の前に予測、予測の前に反射、というべき機械的応答です。
反射運動は自動運転車が自動ブレーキをかけるメカニズムと同じです。むしろ動物のほうが自動車より簡単な応答システムでしょう。観測データを揃えて予測計算などしていません。視野に突然出てきた黒い影が急に拡大する映像が入ると、反射として身体が飛び退く。最も単純な予測機能です。
単純な反射がいくつも連携してネットワークとして働くと、複雑な動きに見えます。高等動物が備えているその反射ネットワークのことを(拙稿の見解では)私たちは感情であるとか、欲望であるとか、本能であるとか、言っているわけです。
どの状況でどのような反射が起こるか、それは遺伝と経験で身体に刻み込まれ、行動パターン、行動様式を形成しています。同じような状況では同じような応答がいつも起こる。安定した統一的な行動に見えます。
「石が当たると痛いだろうから、それは嫌だと思って逃げることにして、とっさに逃げた」自分の場合、こう思ったことを記憶しています。他人が飛んでくる石から逃げるのを見ても同じことを考えたはずだ、と思います。
逆に、自分がしたことも他人の目で見るとこう見えるだろう、と思います。
ここまで思った場合、このことはしっかりと記憶できます。
拙稿の見解を要約すれば、自我は他人と共有できる客観的な部分と私だけにしか感じられない主観的な部分との両方を含んだものである、といえます。
私たちが感じている自分というものの主観的部分は、体性感覚や感情や思考や知識などいわゆる身体の中で(腹の中であるとか頭の中であるとか言いますが、ようするに自分の内面で)感じていることですが、すべて脳などの神経活動から来ていることは確かです。つまり現在私の脳神経系が活動している結果の一部であるけれども、実際、神経系のどこがどうなっているのかはさっぱり分かりません。
私は私の存在感をこのように確かに感じているが、これは脳の中の一部分の活動でしょう。しかしそれは小さな一部分なのか、それともかなり大きな一部分なのか、それさえもさっぱり分かりません。
いま私が自分自身だと感じているものは、客観的な部分も主観的な部分も含めて、たぶん、自我意識の表層部分だけであって、その下には膨大な神経反射のネットワークがあるというべきでしょう。その実像は現代科学ではほとんど解明できていない脳神経系の機構です。